遠丸石の源義盛伝説と新島襄の史実、福祉対策の漆は失敗した!

2019年3月30日

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14:00 鷹巣橋を渡り、安中宿へ向かいます。

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仲宿一里塚跡

平成初期には土蔵横に標柱があったそうですが、現在は見当たりません。恐らくこのあたりと思われます。

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庚申塔道標

「従是一宮、大日街道」「仲宿村講中 高龍書 世話人木下左衛門」と彫られ、享和2年に建立されています。上野国一宮はここから南西に3里(12km)ほど行ったところになります。

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仲宿糸操灯籠人形展示館

仲宿に伝わる糸操灯籠人形は、明暦2、3年頃より仲宿に伝わる農民芸能です。人形を制作するときだけ空いているようです。灯籠人形は北陸新幹線安中榛名駅、ふるさと学習館などに展示されているようです。

糸操灯籠人形

人形は竹骨で胴体を作り、紙製の衣装を着せて胴の中に点火したカンテラを入れて、人形を糸で吊ります。1906年(明治39)より途絶えていたものを昭和28年に復活、昭和31年には実演させ、昭和40年には3度も公演されています。

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道祖神

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寒念仏供養塔

寛政10年建立の寒念仏供養塔です。

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久芳橋 再び碓氷川を渡ります。久芳橋も鷹巣橋と同じように同時期から仮土橋が架かっていました。

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遠丸石

源義盛の伝説の「遠丸石」です。以前よりも少し西に移動し新しい立派な案内板も設置されました。

遠丸石の伝説

昔、伊勢の三郎は毎夜このあたりを通る人々を脅しては金品を奪う追い剥ぎのようなことをしておりました。長鳴鶏(唐丸)の声を聞くと家路につくようにしていました。唐丸とは、ニワトリの品種で長く鳴くように改良した鶏です。ある時、声を合図にいつものように引き上げましたが、なかなか夜が明けません。そこで声のしたあたりを探しますと、2つの大石があるだけでした。伊勢の三郎はきっと神様のお叱りだと思い、悪いことを悔い改め、伊勢義盛と名を変え、源義経の家来となり四天王として勇名を残しました。その後このあたりの地名が「遠丸」となりました。

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東光院

東光院の創建年は不明ですが、慈覚大師円仁の開祖だそうです。安中草三郎の妻、歌のものと伝わるお墓があるようです。(安中草三郎は草三之碑で書きます)

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熊野神社

1559年(元禄2)、に安中越前守忠政が安中城を築城した際に熊野三社を勧請して安中城の鬼門の守護神としたことが始まりとされます。高麗門は安中城から移築されたもので、拝殿の3頭の絵馬は和宮の無事降嫁を祝い、安中宿が奉納しました。

熊野神社本殿

切妻造妻入、桁行三間、梁間二間の大きさで、前面に千鳥破風をつけ、そこから向拝に流れ屋根をかけた春日造りになっています。鳳凰を中心に梅、楓などの樹木や霞雲を配した彫刻を施してあります。
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大欅

安中藩主、板倉勝明が編集した「安中誌」の熊野神社の項に「大榎(欅の誤り)社地にあり、中ろうにして近郷に珍しき大木なり」とあります。元々は野後の諏訪神社の御神木で樹齢は1000年と言われます。現在は落雷により2/3が崩れてしまい、傾いています。

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安中宿の旅籠は17軒でしたが、当初は城下町であった安中宿は飯盛女を置くことを禁止していましたが、宿場では毎年赤字がでることから藩に何度か許可を願い出ていました。享保6年にようやく許可がおり、多くの旅籠が飯盛女を置きましたが、風紀が乱れ宿場の財政は良くならなかったそうです。

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安中宿本陣

代々須藤家が務め、問屋も兼ねていました。建物は大正10年に焼失し、土蔵だけが残りました。

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大泉寺

創建は室町時代の文安年間(1444〜1449年)、圓茂大和尚により開かれたのが始まりされ、蟻結上人が再興し境内を整備したと伝えられています。境内には井伊直政の正室で安中藩初代藩主井伊直勝の母親の墓碑(五輪塔)と西隣には直勝の妻の墓碑(五輪塔)があります。

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大泉寺のチャンコロリン石

昔、夜な夜な丸い石が「チャンコロリン チャンコロリン」と奇怪な音を立てて転がり回ったといいます。安中藩の侍が刀で切りつけても、鉄砲を撃っても止まりません。大泉寺の十三代住職が念仏を唱えるとその法力で台座の上に封じ込められました。

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碓氷郡役所

1878年(明治11)、郡区町村編成法が公布されると碓氷郡役所は、安中宿の本陣に置かれましたが、明治21年には新たに「碓氷郡役所」が建築されました。明治43年に火災で焼け、翌明治44年に新たに建て直したものが現在の建物です。大正10年には郡制が廃止され、その後は様々な事務所として使用された後、保存されています。

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安中教会・新島襄記念会堂

新島襄がアメリカから帰国し安中へ滞在した際、彼の説教に感銘した人々の中から湯浅治郎をはじめとするキリスト教信者が生まれ、安中教会を設立しました。新島襄記念会堂は、大正8年、新島襄召天(没後)30周年を記念して建てられたものです。

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三社神社・草三之碑

落語や講談に登場する侠客安中草三郎は安中の生まれです。「榛名の梅吉」、「あんもの草三」、上州伊香保の福田屋竜造という親分から聞いた話を加え、作り上げたものだといいます。草三郎は美男子で、安中に幕末頃実在した饅頭売りであったそうです。

後開榛名梅香

草三郎は幼い頃両親と別れ、武士恒川半三郎に入門し、剣術の腕をみがきました。ところが、主人恒川の危難を救うために窃盗をし、罪をかぶります。のちには牢破りをし、上州下秋間村 にて仲間の両親に出会い、子供として仕え、饅頭を売り歩きました。再び恒川のために盗みをはたらき、上州榛名にて飯炊き梅吉となって隠れ住み、恒川の娘を救ったり、実母と妹に再会したりしますが、最後には捕縛されます。

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石川忠房生祠

道中奉行石川忠房は、安中宿の常備人馬を中山道各宿の半分にするよう制度改革を行い、安中宿の負担を軽減したことから生神として祀られました。1834年(天保5)安中藩主、板倉勝明は生神の碑を建てて、その恩に報いました。現在の祠は昭和30年に復元されたものです。

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安中城跡

安中の地名は、戦国時代にこの地を治めた安中越守忠政が古くから野尻(野後)と呼ばれていたこの地に1559年(永禄2)に城を築き、地名を安中と改めました。江戸時代になると家康は、徳川四天王の一人、井伊直政を西上州に配し、碓氷の関所を守らせました。1615年(元和元)、直政の長男、直勝が安中藩初代藩主となり、安中城へ入りました。

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大名小路

安中城址南側の通りは「大名小路」と呼ばれた通りで、上級武士が住んでいた武家長屋が公開されています。

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安中藩郡奉行役宅(猪狩家)

郡奉行とは民政を司る役職で、三人の郡奉行と4人の代官がいて、年貢の割当から徴収、お触れの通達、領内の治安、裁判などの仕事をしていました。

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安中藩武家長屋

藩士の大部分は、このような長屋に住んでおり、独立した家屋に住めるのは一部の上級武士だけでした。この武家屋敷は、一般的な規模のもので、中位の身分の者が住んでいました。修理・復元し公開されています。

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連久寺仁王門

明応年間(1492〜1501年)日敬上人の開山。開基は安中忠親の母・法昌院だそうです。

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便覧舎跡

1872年(明治5)有田屋三代目当主の湯浅治郎が日本で初めて設立した私設図書館です。蔵書は和・洋・漢にわたり3000冊、誰でも自由に無料で閲覧できました。1887年(明治20)の大火で建物は焼失し、現在は碑が残るだけです。

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有田屋

1832年(天保3)に味噌醤油醸造元として創業しました。かつては安中藩の御用達を務め、味噌醤油の醸造の他、穀物・油脂・肥料・塩等を扱う商家としても営業していました。現在も天然醸造法で醤油を作っています。

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しょうゆロールケーキ

お店の中には、お醤油のほか醤油を使ったスイーツなども販売しており、「しょうゆロールケーキ」を買いました。しばらくリックの中でしたので、少し形が崩れましたが、ホテルで食べました。甘い中に少ししょっぱい味、くどくなく、不思議に美味しいものでした。

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安中大木戸跡

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愛宕神社

階段下の石灯籠は、元禄5年(1692)の建立。

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新島襄旧宅入口・湯浅半月詩碑入口

ここから中山道を外れ、南に300mほどの新島襄旧宅に寄ります。
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新島襄旧宅

現存の建物は、安中藩士であった両親の住んでいた家です。明治7年新島襄が帰国し、この家で10年ぶりに家族と再開を果たしました。

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新島襄

新島襄は1843年(天保14)、安中藩士新島民治の長男として安中藩江戸上屋敷で生まれました。襄の幼名は七五三太(しめた)といいました。秀才であったため13才で藩主に蘭学修行を命じられ、その際に神の存在を知り、1865年(元治元)に国禁を破り函館から密航してアメリカへ渡ります。1872年(明治5)には岩倉使節団の通訳をします。クラークの生徒でもあったことからクラークが日本へ来るきっかけにもなりました。1874年(明治7)に日本へ戻り同志社英学校(現在の同志社大学)を開設しました。

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漆園の記碑

安中藩主、板倉勝明は領民に漆の栽培を推奨し、1856年(安政3)百万株の漆の苗木を植えさせました。この石碑はその利益の配分を定めた記録です。利益は4等分し地主、材料費、藩、そして窮困する者と福祉的にも利用しようとしていたようです。しかし、翌年、板倉勝明が亡くなり洪水などで苗木が失われ、漆にかぶれる被害もあり、成功しなかったそうです。
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十二の石塚・新島襄の碑

十二の石塚は、湯浅半月が明治18年、同志社卒業式に朗読した自作の新体詩「十二の石塚」のうち、諸言十句を刻んだものです。新島襄の碑は、新島襄の功績を刻んだ碑です。

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安中杉並木碑

天保15年には732本の杉があったそうですが、昭和30年には335本、現在は僅かに残るだけです。

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一里山一里塚跡

このあたりだと思いますが、前は標識があったそうですが現在は案内もなくよくわかりません。
16:40 今日宿泊する『ルートイン安中』に到着しました。