十三峠におまけが七つ

2022年5月4日

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7:30 本日も昨日と同じ恵那駅前のコインパーキングに車を停めて出発します。朝は少し薄曇りですが晴れてくる予報です。今日のルートは途中から自動販売機などが一切ありません。西行硯水の手前にある自動販売機が最後で、その次は大湫宿に入るまでなかったと思います。時期によりますが、飲み物は多めにもっていったほうがいいですね。特に真夏は気をつけないと。

恵那駅前の県道を中山道へ向かいます。中山道筋を少し越えて左手に「津島神社」が祀られ、そばに銅像があります。

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浅見与一右衛門顕彰碑

1843年(天保14)岩村町生まれ、庄屋、戸長、郡会議員、県会議員、衆議院議員を歴任、多治見第四十六銀行を設立、名古屋街道に接する岩村街道の開削を発起、1906年(明治39)には私財を投じて岩村・大井間に岩村電気軌道を開通させました。岩村城址公園に銅像も建てられています。

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津島神社

1918年(大正7)大井町中心部で疫病が流行したため、津島神社総本社分霊を駅前の高台の地に祀ったとされます。ここは高台ではないので移設されたのでしょうか。

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古屋慶隆銅像

大井町出身の政治家で、1933年(昭和8)国鉄明知線(現明知鉄道)の大井〜明知間の鉄道敷設を実現し、衆議院議員として恵那地域の発展に貢献した人物です。
中山道大井宿広場を通り中山道へ入り、大湫宿へ向けて進んでいきます。昔の面影は全く無い商店が立ち並ぶ中山道を抜け、500mほど進むと左手に旧家が残っています。

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中野村庄屋の家

屋号を「本酒屋」といい、庄屋を務めた家です。門構えも立派ですが、庭園・奥座敷も立派だとされます。

代官切りつけ事件

1861年(文久元)の皇女和宮降嫁の際、大湫宿の助郷、野井村は岩村代官よりと伝馬の人足の外に食事の支度に30人出せと強制されました。中野村負担分を全て野井村に押し付けたようです。不満に思った野井村百姓代、熊崎新三郎は和宮通行後に本酒屋に滞在していた岩村藩代官吉田泰蔵を切りつけました。賄役の負担が慣例となることを恐れた野井村は岩村藩を訴え、最終的には野井村の勝訴となり代官は罷免され、村に金25両が下付されました。

本酒屋の先に「浸水防止壁」があり、その先中野観音堂手前に高札場跡があります。

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浸水防止壁と中野村高札場跡

田違川は長島橋の近くで永田川に直角に流れ込んでいたため、洪水のたびに田違川が永田川を堰き止め、水が道路に溢れ人家も浸水しました。浸水を防ぐために道路の両側に石柱を建て、中央の溝に板をはめて水を防いでいました。昭和10年に田違川は付け替えられています。

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中野観音堂

観音堂の建物がいつ建てられたのかは不明ですが、中山道分間延絵図には記されているため、少なくともそれ以前だと思われます。秋葉大権現の常夜灯は1796年(寛政8)の銘があります。

中野観音堂の前、永田川にかかる橋は「洗橋」後に「中野橋」となり、現在は「長島橋」です。長島橋を渡り少し行くと大きな通りへでて左へ曲がります。緩やかな上り坂になり、歩道橋のある五叉路に至ります。この辺りは丘が削られたようで、元の中山道の面影はありません。

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旧道へ向かうため、歩道橋を上ると旧道の坂の上に繋がっています。旧道へぶつかり右手へ曲がるとすぐ左手にたくさんの五輪塔があり、豊玉稲荷の参道があります。
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五輪塔群

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豊玉稲荷大明社

だいぶ上りますが社殿前は広い広場となっており、舞台もありました。創建などの詳しいことは不明ですが、中山道分間延絵図に記載はありませんでした。

豊玉稲荷大明社を過ぎると旧道はすぐに終わり、県道へ合流してしまいます。県道を進むと右手に「中山道水戸屋」というカフェがあります。

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中山道水戸屋

こちらのお店はこの先、十三峠の槙ケ根立場にあった水戸屋の末裔が営んでいるそうです。
さらに県道を進み、左手へ少し入ると「上町観音堂」があります。

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上町観音堂

可愛らしいお堂があります。詳細は不明ですが、こちらも中山道分間延絵図に記載はありません。
上町観音堂のすぐ先左手に「西行硯水」、その先に神明神社の参道があります。西行硯水の手前にある自動販売機が大湫宿までの最後の自動販売機です。飲物を仕入れ十三峠へ向かいます。

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西行硯水・奚花坊歌碑

この場所は西行が3年間過ごしたと言われている「竹林庵」の跡でその際に硯に使った水が西行硯水と言われています。西行の庵はこのほか恵那市長島町の「梅露庵」、恵那市三郷町の「松林庵」なども居住伝説があります。恵那市周辺の西行に関する伝説は1559年(永禄2)に長国寺の義正が記録したものを1614年(慶長19)同寺の怒元が写したとされます。西行が亡くなったのは1190年とされますから最初に書かれたのは亡くなってから370年も経ってからです・・・・まぁ、伝説は伝説ですね。

歌碑には「陽炎や こゝもふし見つえの跡 八十八翁 奚花坊」と刻んであります。奚花坊は本名を青木寿石といい、美濃派俳諧の以哉派11世宗匠で、流門の振興をはかってしばしば東濃一円を巡杖しています。この句は1813年(天保14)馬籠新茶屋の芭蕉句碑建立会に来訪した際にここで詠み地元の弟子に与えものです。

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神明神社

正慶年間(1332〜 1333)に祀られました。1794年(寛政6)社殿が焼失し再建されました。中山道分間延絵図には鳥居が描かれています。
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神明神社

神明神社入口から130m、右手に「西行公園」があり、「西行塚」と彫られた大きな道標を右手へ入っていきます。その先、中央本線線路際に「妙見大菩薩」と彫られた石碑があります。

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西行塚への道標と妙見大菩薩碑

「西行塚西十三丁」と彫られています。

中央本線を踏切で渡るとすぐ左手へ入っていきます。周囲は田畑が広がり、一気に旧道の雰囲気が出てきます。その先、中央高速道路の手前の川は「田違川」といい、「田違橋」で川を渡ります。昔は今の橋の少し上流に架かっており、橋が斜めに架かっていたので「筋違橋」といいました。 筋違橋から西行坂までの中山道、約150mは中央高速道路の建設によって消滅しています。

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十三峠入口

ここから「十三峠」が始まります。十三峠碑の下には「ここから御嶽宿までの30km食堂、商店、宿泊所はありません」と注意書きがされています。
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十三峠の概念図

大まかな概念図を作成してみました。大井宿と大湫宿の間の3里半(13.5km)は起伏に飛んだ尾根道です。「十三峠におまけが七つ」と言われ、20余りの山坂が続く中山道の難所でした。

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馬頭観音と巡礼供養塔

十三峠入口往還右手に馬頭観音2基、巡礼供養塔、西行塚の道標があり、ここから右手へ上り西行塚へ向かいます。

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西行塚

西行は竹林庵に3年暮らした後の1198年(建久9)、西へ向かって合掌し立ったまま入寂(僧が死ぬこと)したとされ、村人らは長国寺の住職に頼み中野坂に埋葬したという伝説がこの地方には残りますが、西行の墓は大阪が定説です。この付近は「西行根(さいかね)」と呼ばれているそうです。この五輪塔は室町時代のものとされ、西行の供養塔と言われています。

西行終焉の地

西行は裕福な北面武士(院を警護する武士)で妻子もありましたが、全てを投げ捨てて僧となり諸国を行脚し数々の歌を詠みました。新古今和歌集には94首もの歌が入る随一の歌人でした。定説では諸国を行脚した西行は晩年、河内国(大坂)弘川寺に身を寄せ、1190年(文治6)に亡くなったとされます。しかし、全国には西行終焉の地として10以上の名が上がっており、恵那もその一つです。

西行塚からもう少し展望台の方へ入ると「町野浦二良歌碑」があります。

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町野浦二良歌碑

「朴の葉にさよりを包みさげて帰る 恵那山白き日のくれの街」

1891年(明治24)恵那郡三郷村深瀬生まれの町野浦二良は歯科医師として長島町に開業の傍ら、短歌を趣味としていましたが、大正末期に北原白秋に師事、その後白秋主宰の「多磨」に入会、第二次大戦後は地元で後継者の指導に務める傍ら、西行大井終焉説を提唱しその研究に没頭しました。1959年(昭和34)亡くなり、碑が建立されたのは1991年(平成3)です。
西行塚から上ってきた道とは逆のほうへ下りていくと途中に「西行歌碑」「芭蕉句碑」があり、トイレ前に下りてきます。

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西行歌碑と芭蕉句碑

西行歌碑『待たれつる入相のかねの音す也 あすもやあらばさかむとす覧』

芭蕉句碑『西行のわらじもかかれ松の露』

歌碑や句碑が並ぶこの場所は「西行苑」として整備されています。

TOO001 西行坂の先は旧道の面影が色濃く残る緩い上り坂の山道を450m、「槙ケ根一里塚」があります。

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槙ケ根一里塚

両怩ニも残っています。塚上には榎が植えられていたといいますが、今はありません。

さらに100mほど進むと「西行の森 桜百選の園」と彫られた石碑があり、南側は散策路が整備され右手には休憩所やトイレもあります。このあたりは尾根道で景色が良いです。

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西行の森・七本松の駕籠立場

中山道分間延絵図には「七本松の駕籠立場」と書かれています。建物は描かれていませんので、恐らくこのあたりに駕籠を止め、景色を眺める場所だったのでしょう。

しばらく進むと車道に突き当たり左へ折れるとすぐ往還右手に「茶屋槙本屋跡」の標識、さらに車道を140m往還左手に「茶屋水戸屋跡」の標識があります。

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茶屋槙本屋跡・茶屋水戸屋跡

このあたりから竹折村となり、「槙ケ根立場」に入ります。幕末には他に東国屋、中野屋、伊勢屋などがあり、後に武並へ移住したそうです。水戸屋は先ほど通ってきた「西行硯水」の近くに移住しています。

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槙ヶ根石仏群標柱

ここにあった石仏は、一時国道へ移され後に神社前へ移されています。
左手には大規模なソーラー発電所があり、右手アスファルト工場から車道と別れて未舗装の旧中山道へ入っていきますが、その前にこの先にある「槙ヶ根追分」にあった常夜灯を見に行きます。アスファルト工場前から左へ曲がり南下していきます。中央高速道路の下をくぐり国道19号線へ出て右折、19号線を250m左手の協和ダンボール入口に移設されています。

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移設された常夜灯

槙ヶ根道追分には道標を兼ねた常夜灯が2基建っていましたが、今は国道19号線沿いにある協和ダンボール前に建っています。1749年(寛延2)建立で、「いせ道 京海道」と刻まれています。伊勢道は下街道のことです。
中山道まで戻ります。往復1.6kmほどもあるのですが、アスファルト工場まで戻り槙ケ根立場であった中山道を西へ向かいます。

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茶屋松本屋跡

アスファルトの道と別れてすぐ往還右手に「茶屋松本屋跡」の標柱があります。

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槙ヶ根立場

下街道との追分手前の建物があったあたりです。
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中山道分間延絵図

槙ヶ根立場、下街道、そして追分にある常夜灯2基も描かれています。追分には「伊勢神宮遥拝所」があり、伊勢までの旅費や時間がない人はここで手を合わせて遥拝しました。

立場跡には井戸や排水溝の跡などもありました。

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道標と下街道

「右 西京大坂 左 伊勢名古屋道」と彫られている道標は1875年(明治8)の建立です。追分より左手へ折れ、南へ下る道が下街道(伊勢道)です。

下街道

竹折・釜戸・荻之島・大島・町屋・中切・公文垣内・大岩・名滝・鶴城・木暮・清水・一日(ひと)市場・水ノ木・戸狩・山野内を経て土岐川を渡り、飛刎坂を登って肥田・高山・池田から内津峠を越して名古屋へ通ずる道です。十三峠を行く中山道が整備されても牛荷物や伊勢参りの人々は中山道より19km短く、また山坂が少ないため下街道を通行することが多く、幕府は宿場保護のため商人等の通行を禁止、尾張藩も厳しく取り締まり、何度も訴訟になっていますが、下街道を通行する人々は減らず、この先大湫宿より先は寂れてしまいました。

中山道整備当初は、この追分から南西へ下り竹折〜釜戸を経て御嶽宿へとでました。翌年、西へ真っ直ぐ行く道が改修され1604年(慶長9)、十三峠を越す道が完成し、大湫宿が設置されました。細久手宿は1606年(慶長11)に設置されました。

旧道らしい中山道を550m、左手に少し大きめの馬頭観音があり、馬頭観音から50m右手から分かれる祝坂を上ると「姫御殿跡」があります。

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馬頭観音

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祝坂と姫御殿跡

右手の祝坂を上ると祝峠へでます。この場所は見晴らしもよく、姫様通行の行列がよく休んだ場所で、和宮降嫁の際には漆塗りの御殿が建てられたと伝えられています。

祝峠から中山道へ下り50mほど右手に「子持松跡」の標柱、その先60m左手に「下座切場跡」、さらに20mほど左手奥に「首なし地蔵」がありました。

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子持松跡

松かさ(松の子)が多くつくため「子持松」と言われました。この松の根元より馬籠宿(孫目)が良く見えることから「子持ちから孫が見える」として縁起が良いと言われました。今は樹木が多いからなのか、馬籠宿は全く見えないですね・・・

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下座切場跡

村役人が長袴で土下座して幕府や藩の役人を迎えた場所だそうです。

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首なし地蔵

1756年(宝暦6)武並町美濃の人々が道中安全を祈願して建立したものです。

首なし地蔵のいわれ

昔、二人の中間(ちゅうげん、江戸時代の職制の一つ)がここを通りかかり、夏で汗だくだったため木陰で休み、いつの間にか眠ってしまいました。しばらくして目を覚ますともう一人は首を切られて死んでいました。辺りを見回しても犯人らしき人影は見当たらず、怒った中間は「黙ってみているとは何事だ!!」と腰の刀で地蔵の首を切り落としてしまいました。それ以来、首をつけようとしましたがどうしてもつかなかったといいます。

首なし地蔵からは緩い下り坂となり、徐々に勾配は増し急傾斜の下り坂となり石畳の道となります。ここを「乱れ坂」といい、坂を下りきると「乱れ橋」を渡ります。

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乱れ坂

大変急な坂で大名行列は乱れ、旅人の息は切れ、女性の裾も乱れるほどの坂でした。「みたらし坂」「祝い上げ坂」ともいいました。 幸い、京都へ向かう側は下り坂で楽々です。

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乱れ橋

乱れ川に架かる橋です。乱れ川は石も流れるほど急峻であったとされ、ここに飛脚たちが出資して宝暦年間に土橋が架けられました。中山道分間延絵図では「祝橋」となっており、荷駄(荷物を積んだ馬)1頭につき2文徴収する有料橋の時代もありました。

乱れ橋から旧久須見村へ入ります。この先はアスファルトの平坦な道となり、畑やちらほら住宅も見えてきました。乱れ橋から300mほど進むと旧久須見村の集落に入ってきて右手の坂道を上ります。とても急な坂道を160mほど上ると右手に「秋葉神社」、さらに少し上り左手に地元の人には石州さまと呼ばれる「石州銀山大國村利兵衛の墓」があります。 TOO001

秋葉神社と石州さま

秋葉神社の由緒などはわかりませんが、綺麗に整備されています。

石州さまは、「石州銀山大國村利兵衛の墓」で1810年(文化7)の銘があります。「恵那街道歩記」というパンフレットに場所が記してあったのですが、いわれなどは全く触れられておらず・・・

急な坂を下り中山道へ戻りさらに140m、四ツ谷集会所手前左手に「うつ木原坂」の標柱があります。

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うつ木原坂

緩い上り坂です。田んぼの間の中山道を進むと左手の田んぼと民家の間に「竹折村高札場跡」の標柱があり、そのすぐ先、民家と民家の間に「殿様街道跡」の標柱があります。

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殿様街道跡(大名街道・岩村道)分岐点

岩村藩主は参勤交代時、できるだけ自領を通行したかったようでわざわざ進路を逆向きにとり迂回し、最終的には岡崎から東海道へでていました。他の大名に頭を下げたくなかったとか威張りたいなどともいわれていますが、藩内の巡回という意味もあったのでしょうか。
200mほどで四ツ谷集落の家並みが途切れた辺りで左へ曲がり、再び未舗装の道へ入っていきます。

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かくれ神坂(塞ノ神坂)

ほとんど平坦な道のりですが、「かくれ神坂」という名がついています。江戸時代はもっと勾配があったのかな。

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塞の神

右カーブを曲がってすぐ右手、往還より10mほど奥に小さな祠があります。
ほぼ平坦な道を200m「平六坂」と書かれていますが、このあたりもさほど勾配はなく、平坦な道のりです。平六坂には平六茶屋があったとされますが、今は何もありません。

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平六坂と平六茶屋跡

往事は駄菓子琵琶湯糖(びゃいとう)などを売っていたとされます。琵琶湯糖は恐らく「枇杷葉湯(びわようとう)」と同一のものだと思われ、枇杷の葉に肉桂や甘茶などを加えて煎じた飲み物で、江戸時代には夏の暑気払に盛んに飲まれていたといいます。

1800年(寛政12)頃に描かれた中山道分間延絵図に「平六茶屋」は描かれていませんでした。

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平坦な気持ちのいい道を進んでいきます。300mほど進むと「紅坂一里塚」があります。紅坂一里塚の手前あたりから旧藤村に入ります。
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紅坂一里塚

一里塚に植えられていた樹木は無くなっていますが、両塚とも残っています。

紅坂一里塚から少しづつ上り坂になってきました。160mほど行くと左手に「うばケ出茶屋跡」の標柱、すぐ先、足元に「ぼたん岩」が数メートル見られます。

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うばケ出茶屋跡

標柱は左手にありますが、中山道分間延絵図によると茶屋は右手にあったようです。3.4軒の家屋が描かれています。
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ぼたん岩

足元の岩の模様がぼたんの花に見えます。江戸時代から有名で、学術的には花崗岩の「タマネギ剥離(オニオンクラック)」の標本として貴重なもののようです。

ぼたん岩の先は石畳の下り坂になり、かつて「紅坂土橋」と呼ばれた小さな橋を渡るとアスファルトの道となり旧藤村集落に入ってきます。右手最初の建物が「馬茶屋跡」、馬茶屋跡の西側に「ふじ道道標」があります。

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紅坂茶屋跡(馬茶屋跡)

現在は建て直されて面影はありませんが、江戸時代は軒の深い馬が休める建物だったといいます。

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ふじ道道標

「ふじ道」と彫られた石の道標が建っていており、北へぬける小径が竹やぶの中に消えています。中山道分間延絵図では「村道」と記されています。「深萱立場(藤村)」へ行く道だったという資料もあり、それで「ふじみち」なのでしょうか・・・ですが、中山道を通って行ったほうが早いような・・
紅坂茶屋跡を過ぎると住宅が途切れ、くろすくも坂と呼ばれる下り坂となります。250mほど下ると分岐点があり、右手に「三社灯籠」があり、右に曲がっていくと「神明神社」があります。

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くろすくも坂(念仏坂)と三社灯籠

「太秋金三社」と刻まれ、1854年(嘉永7)建立。菊の紋章を印したとありますが、菊がどこにあるのかわかりませんでした。

三社灯籠の右手に入っていくと、正面に「神明神社」があります。

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神明神社の芭蕉句碑

「山路来て何やらゆかしすみれ草 芭蕉」

藤村には明和の頃(1764〜)俳諧に親しむ人がおり幕末には美濃派の俳諧結社が存在し、道統に認められた俳諧宗匠もいました。宗匠一世「木口仙」は上之洞クロモトに住む漢方医だったとされます。明治3年没。
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神明神社の句碑群と石仏群

深萱立場、茶屋本陣加納家の当主であった加納三右衛門(四世桂吾)の句碑、また先程の往還にあった三社灯籠を奉納した加納左衛門(道艸・みちくさ)の句碑など多くの句碑が並んでいます。

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神明神社

神明神社より三社灯籠まで戻り、灯籠の向いの祠の左手に佐倉宗五郎大明神と彫られた石碑、右手に「洞中安全」と彫られた二十二夜塔、手前に奉四国西国巡拝供養塔があります。

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佐倉宗五郎大明神

岩村藩では幕府公定の京枡よりも2%増しの讃岐枡で米を計量するようになり大増税となりました。竹折村の庄屋田中与市郎は百姓一揆を思いとどまらせ、単身江戸へ向かい、将軍綱吉へ直訴しました。その結果、1702年(元禄15)藩主丹羽和泉守氏音は越後へ国替えとなりましたが、与市郎は岩村で磔となってしまいました。後年、祠を建立し「田中神社」としましたが、田中の名で祀ると咎を受ける恐れがあることから、同じような運命であった下総国の義民、佐倉宗五郎(惣五郎)の名で建立したとされます。

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よごれ茶屋跡

佐倉宗五郎大明神のすぐ下に茶屋を営んでいた建物がありましたが、今は建て直されています。写真左手の作業場のような場所です。
真っ直ぐ進み、藤川を「深萱土橋」と呼ばれていた橋で渡り、国道へ出ると向かいに高札場が復元されています。

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藤村高札場

当時の大きさで復元されているそうです。中山道分間延絵図では高札場は深萱土橋を渡った袂に描かれています。
国道を50mほど右手に大きく立派な旧家、加納家がありここを右へ入っていきます。立場跡にはトイレも備えた休憩所が設けられています。

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深萱立場本陣(加納家)

往時、加納家は大名の休憩所になっており、岩村藩の援助で家や庭の修繕を行い、隣家は馬茶屋を営んでいました。和宮も休憩しています。

深萱立場

茶屋本陣加納家のほかに、茶屋や馬茶屋など10戸以上の人家があり、餅や栗おこわが名物でした。馬茶屋は馬を休ませる茶屋で、軒を深くし雨や日光が馬に当たらないよう工夫されていました。

11:00 深萱立場 大井宿より大湫宿までの半分程を進んできました。『十三峠』の街道歩きはこの上なく楽しいです。

後半へ続きます。