深谷レンガとミニ東京駅、漬物と深谷ネギを食べよう!

2018年11月23日

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9:30 本日はここ、八木橋百貨店をでたところから出発です。

今日はとっても天気がいいです。快晴です。

ほとんど中山道の面影はありませんが、ちょっと古めのおうちがあると嬉しいですね。建具屋さんと美容院のようです。

八坂神社

ここ石原地区の地元の方々は、熊谷うちわ祭りのさいには、この石原地区の鎮守であるこの八坂神社へ参拝してから参加するそうです。

秩父道道標

室町時代に始まった秩父札所巡りは、江戸時代には盛んになりました。札所第一番四万部寺への距離が彫られおり、ここから東へ50mのところにあったそうです。1766年(明和3)建立。大山詣と同じく、江戸時代に最盛期となったのは2、3日で行ける観光地の一つと捉えられてのことだと思います。

新島一里塚

樹齢300年のケヤキ、平成22年の落雷により被害をうけ、上部を伐採してしまいました。1756年(宝暦6)の「道中絵図」によると、熊谷地区には久下新田・柳原・新島に一里塚が描かれ、「榎二本づつきづく」とありますが、不思議なことに現存する大木はケヤキです。

魔多利神

植木村の周囲に流行病が蔓延して困っていたところ、お坊さんか通りかかり、『この村には「吃意摩多利神」がいらっしゃるので大丈夫ですよ』と言い、立ち去ったといいます。いつのころかここへ祀られるようになったということです。

摩多利神

摩多利神は、あまり聞いたことがなかったのですが、伝染病、特に日本においては赤痢やチフスの神様とされているそうで、利根川流域に多く祀られているようです。 このあたりはちょうど荒川流域と利根川流域の境あたりだと思われます。

大雷神社幟(のぼり)立石

東500mほどの大雷神社の幟立石のようです。幟はお祭りのときなどに神様の目印になるように立てるものだそうです。

忍領界石

「従是南忍領」と彫られています。一里塚の南北2箇所にあったとされますが、南の石は行方不明です。忍領界石は16箇所にありました。初めは木材でしたが、1780年(安永9)に石標となります。 明治維新の際に一度撤去されましたが、昭和14年に元の位置に再建されました。

蔵や古い家がちらほら見られます。農地も増えてきました。

玉井堰幹用水路(柿沼堀)

慶長年間に関東郡代の伊奈忠次によって、農業用水路として開削されました。寄居付近の6堰から取水する大里用水の支線です。

熊谷市玉井町の道祖神

明治29年建立と彫られています。

筋交橋

江戸時代には「玉井窪川越場」と呼ばれ、7つもの川が交錯していました。現在は改良されてバス停の名称のみが名残です。

「藤波の記」には『石原の里をでれば、小川ここかしこに流れて田面はるかに水をたゝえり』とあり、いかに川が交錯し、水が豊かであったか想像できます。

熊谷市玉井町の不動尊

 

とっても長い塀が続いていました。かなり大きなお屋敷です。

下茶屋集会所

茶屋があったのでしょうか・・

熊谷市玉井町の馬頭観音 

文字も彫られていますが、薄くて読めません。

地蔵堂の中のお地蔵様

のっぺりとしたお顔でした。

玉井村道路元標

熊谷市玉井南の子育て地蔵尊

熊谷市玉井の観音堂

庚申塔や馬頭観音、五重塔や句碑など様々な石仏がこの一角にあります。

奈良堰幹用水路と市右衛門橋

18世紀後半、奈良村の慈善家吉田市右衛門は、多くの私財を投じ用水路の整備を行いました。まず、荒川から引水する水利の格差を無くすために奈良堰、大麻生堰などの整備を行い、その後に用水路の再整備を行いました。農民は感謝の意を込めて、用水に架かる橋に「市右衛門橋」と名づけたそうです。
籠原駅の近くまできました。ここから先、食事する場所がなさそうなので、ここで国道17号へでて、やよい軒でランチにしました。

稲荷大明神(熊谷市新堀)

ふっかちゃん

深谷市が誇る「ふっかちゃん」の自動販売機。深谷市内にはいっぱい見かけられました。

明治天皇小休所跡

明治天皇は、明治11年に北陸・東海巡幸の際に熊谷本陣に一泊、朝7時に熊谷を出発してこの籠原で休憩されました。佐渡奉行、川路聖謨も立ち寄っているそうです。

籠原立場

ここは、籠原立場でした。志がらき茶屋では、白飯に牛蒡が添えられており、この牛蒡でご飯を2膳も食べられるほど美味しかったそうです。どんな味付けの牛蒡なんでしょうか。きんぴら牛蒡みたいなものでしょうか。

東方一里塚跡

このケヤキが植わっている場所とはちょっとずれているようですが、場所が特定されていません・・目印として、このあたりとしておきましょう。

馬頭観音(深谷市東方)

文字のみが彫られています。かなり傷んでいますが、一番左は「弘化4年」(1847年)と読めます。

鬼林稲荷神社

庚申塔 (深谷市東方町)

青面金剛像と三猿が彫られていますが、右側はかなり痛みが激しいです。

中瀬河岸道道標

中瀬河岸は江戸時代、武蔵国と上野国を結ぶ利根川の船着場として栄えました。物資や人の中継地として大いに賑わったそうです。7kmほど北が中瀬河岸です。

熊野神社

社記によると創建は927年(延長5)、この地に小さな祠を建てたとあるそうです。現在の本殿は、上野台の領主、萩元但馬守景朝、その子、秋元越中守長朝が館の東北にあたることから城の守り神として崇敬し、天正年間に社殿を寄進したものです。「郷社」の部分がモルタルで埋められています。社格制度が廃止されたときに消されたのでしょうね。

ネギの畑が多くなってきました。深谷ネギでしようね。

庚申塔 (深谷市原郷)

青面金剛像と三猿が彫られています。

普寛、一心行座像

普寛行者は秩父の大滝村で生まれ、各地で修行を行った後に木曽の御嶽山を開山しました。故郷の大滝村にちなんでその口を「王滝口」と名づけました。一心行者は普寛行者の最後の弟子です。写真が「普寛行者像」、左手に「一心行者像」があります。

愛宕神社

創建は不明ですが、1698年(元禄11)に氏子の記載があるため、それ以前のようです。江戸時代までは、八町八反の広大な土地を有し、「愛宕林」と呼ばれていました。村民は薪をとったり、建築材としたり生活に密着した森でした。明治初年に大半の五町歩を強制的に国有林に編入されてしまいました。そして兵器工場ができたり、学校ができたり・・・

芭蕉の句碑があります。「冬枯れや 世は一色の 風の音」

庁鼻和城址(国済寺)

「こばなわじょうし」とよみます。関東管領、上杉憲顕は、13世紀末に新田氏を抑えるため、息子の憲英にこの地に館を築かせました。1390年(康応2)に僧を招いて禅寺として国済寺を開きます。国済寺には上杉氏歴代のお墓もあります。
また、国済寺は熊谷直実が娘の玉鶴姫が剃髪したお寺でもあります。

玉鶴姫の伝説

源平合戦一ノ谷合戦で平敦盛を討ちとったのち、この世の無常を知った熊谷直実『蓮生』と名乗り出家。残された妻は悲しみのあまり幼い玉鶴姫を残して亡くなりました。

母を弔うため、また旅の途中で父にも会えるかも・・と考えた10歳の幼い玉鶴姫は侍女一人を連れ善光寺参詣へと旅立ったのでした。深谷では国済寺に宿を求め、住職は尼として旅を続けたほうが安心だとして、二人とも尼となりました。途中、玉鶴姫は病に冒されますが、なんとか犀川の丹波島渡しまでたどり着きました。

川は荒れ、綱を手繰り舟で渡りますが、玉鶴姫の意識は遠のき・・・気がついた時、犀川の先の粗末な小屋に寝かされていました。そこには侍女のほかに一人の僧、蓮生がいました。蓮生は唱えますが、玉鶴姫は安らかな表情で亡くなりました。父の声とわかったのか・・わからなかったのか・・

水村五十周年記念碑

旧深谷市市長(1963〜1975年) 木村一郎の筆のようですが、深谷市誕生前の旧町名を見ても「水村」が出てこないですね。この辺りは元々は「原郷村」、あるいは「原之郷村」でした。「水村」が 全くわかりません。戦後までは湧水が豊富だったので、別名かとも思いますが・・しかし合併した年度から見ても時代が合わないです。

ふるさとの並木道

江戸末期の安政年間には、深谷宿の外れに松・杉合わせて400本ほどがあったと言われています。現在の並木は中山道の拡張工事の際、イチョウ・クロマツ・ケヤキを植栽して復元したものです。

みかえりの松

見返りの松は平成18年に枯れたため伐採し、現在2代目だそうです。熊谷宿には飯盛女が置かれなかったため、深谷宿では飯盛女を置く旅籠が盛況でした。旅籠に泊まった江戸へ向かう旅人と飯盛女が別れを惜しんだ場所です。
深谷宿へ入ってきました。

深谷宿 東の常夜灯

明治初頭に冨士講の人々によって建立されたそうです。江戸時代にはなかったということなのでしょうか。

旧日本煉瓦製造株式会社 上敷免工場専用鉄道線跡

専用鉄道線は、常夜灯のすぐ脇を通っていました。レンガを運ぶための専用鉄道です。昭和50年に廃線となった後、歩行者自転車専用道路として整備されています。

昭和29年頃の写真

右手に常夜灯、踏み切りが写っています。

レンガ製造に適した原料の良質粘土が深谷上敷免付近に大量に存在したため日本煉瓦製造株式会社 上敷免工場がこの地にできました。

大谷家の洋館(お助け普請の洋館)

1931年建築。昭和恐慌のさい、深谷町の長、大谷藤豊は仕事を作るために大谷邸を建築しました。

和洋折衷な感じがとても素敵ですね。

大政の米蔵を過ぎて一旦、中山道を外れて北方向へ向かいます。

菊図坊祖英塚

東源寺の門前に碑があります。「死ぬ事を 知って死ぬ日や としのくれ」 菊図坊、菊図坊は加賀の俳人です。江戸時代の中ごろ、杉田脇本陣に4、5年滞在し、深谷宿近隣の俳人を指導しました。

二層楼

1922年(大正11)、木造洋風建築で、校舎として建築されました。修復され、とても綺麗です。深谷商業高等学校で現在も部活動などで使用されているようです。毎週日曜日には、一般に公開されているそうですが、残念ながら今日は入れません。

こんな素敵な校舎の学校の生徒さん。卒業しても母校が誇りでしようね。

唐沢川

両側にサクラが植えられています。春は見事なことでしょう。

深谷城址公園

石垣などは、後の公園工事の際に整備されたものですが、本丸跡とは関係なく行われたもので、位置などは全く違うとのことです。

深谷城

上杉氏は、3代までは先ほど行った「庁鼻和城」を居城としており、4代房顕となった1456年(康正2)に深谷城を築いて居城としました。1590年(天正18)、秀吉の小田原征伐で明け渡し、家康が江戸へ入ると家康の七男・松千代、六男・忠輝、松平忠重、酒井忠勝など城主が変わります。1627年(寛永4)、深谷藩は廃藩となり、1634年(寛永11)に廃城となり、1644年(寛永20)に取り壊されました。

別名は「木瓜(ぼけ)城」

木瓜の花に似ているということかららしいですが・・雄しべ、めしべの部分が本丸、それを取り囲むように花びら状に二の丸や曲輪が取り囲んでいる様子を指しているのでしょうか。

富士浅間神社

深谷城内に鎮守として祀られた五社のうちの一つで、1440年(永享12)の勧請。城の外濠遺構が東側に残るとありますが、玉石が敷いてあり、とても浅い水路っぽいものがありますが、水も流れていないし、これが外濠なのでしょうか。

行人橋碑

元々は土橋でしたが、江戸時代後期に旅人や通行人に寄付を募って、石橋に架け替えられました。その後、明治31年にレンガ橋となり、この時に建てた改修碑が建てられています。現在の橋はコンクリート製のようです。

きん籐旅館

創業180年。懐石料理、トロン温泉が自慢の老舗旅館です。

塚本商店(武州近江屋つかもと燃料)

天保元年創業。建物は、1912年(大正元年)に建てられました。レンガの「うだつ」をもつ珍しい建築物です。板橋宿にも似たような建物がありました。塚本商店は日本煉瓦製造に燃料の石炭を納めていたそうです。

店蔵(見世蔵)

土蔵に店舗や住居を兼ねたものを「店蔵(見世蔵)」と言われます。

宿場へ入ると「うなぎの寝床」といわれる間口が小さく、奥行きが長い建物が多いと思いませんか。これは伝馬役に関係していて、表間口6間につき馬1頭、3間につき人足1人と いうように人馬を間口を基準に割り当てていたためです。節税対策だったのです。

明治天皇小休所跡

明治11年の巡幸の際、先程通った籠原立場で休憩された後、この地で休憩されました。西南の役(明治10)後、世の中が安定しておらず、人心を一つにまとめるための巡幸でした。

深谷市道路元標

ふっかちゃん横丁

居酒屋などの屋台が並ぶ、深谷市の新名所のようです。中にはフレンチやジンギスカンなどもあり、10店舗が営業しているようです。今の時間は閉店しています。18時からみたいですね。
なぜジンギスカンなのでしょうか。あまり魅力がないですよね。深谷ネギの専門店でもあれば行きたいですけど。今日の夕飯は、深谷ネギを食べに別の串焼きやさんへ行くつもりです。

深谷駅

高崎線の駅で、関東の駅百選でもあります。現在の駅舎は東京駅の赤レンガ駅舎をモチーフにしたデザインで「ミニ東京駅」と言われているそうです。大正時代に建築した東京駅のレンガは深谷にあった日本煉瓦製造で作られたものを鉄道輸送して使われたことに起因しているそうです。

15:20 深谷宿到着。本日はここまで、宿へ向かいます。今日のお泊りは「ABホテル深谷」です。

写真を撮り忘れましたが、ホテルの横はがりがりくんでおなじみの「赤城乳業」の本社でした。南極?氷の世界のような素敵な建物でした。