十三峠におまけが七つ

2022年5月4日

「ツール」⇒「作図・ファイル」⇒「アイコンのラベル表示」にチェックを入れると名称が表示されます。 KMLファイルに変換することでgoogle mapへのインポートもできます。

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十三峠の概念図

大まかな概念図を作成してみました。大井宿と大湫宿の間の3里半(13.5km)は起伏に飛んだ尾根道です。「十三峠におまけが七つ」と言われ、20余りの山坂が続く中山道の難所でした。

11:00 深萱立場まで進みました。大井宿より大湫宿までの半分程を進んできました。

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西坂

深萱立場を過ぎると上り坂となります。西坂はかなり急勾配の上り坂です。
西坂を上り右手に住宅、左手に倉庫が見えてきます。左手の倉庫横から奥へ入り左手の丘へ入っていくと墓地になっており、千部供養塔前に「ちんちん石」がありました。

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ちんちん石

大きな石がちんちん石で、その前に置いてある小さな石で叩くと確かにチンチンと高い音がします。高い音がする石はサヌカイト(カンカン石)が有名ですが、これもその一種なのでしょうか・・・

中山道へ戻りすぐ先左手に「馬茶屋跡」、さらに西坂を上っていくと左手に古井戸がありました。

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馬茶屋跡と古井戸

その先、太い道を越えて中山道を進み、さらに「みちじろ坂」を上っていきます。太い道を越えて200m、「みちじろ峠」の標柱と「ばばが茶屋跡」の石碑があります。

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みちじろ峠とばばが茶屋跡

中山道分間延絵図には「姥ケ茶屋」と記され、6軒ほどの民家が描かれています。

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茶屋坂

みちじろ峠を越えると道は下り坂となります。さらにカーブして急勾配な下り坂、「茶屋坂」へ進みます。
その先大きなアスファルトの道へ出る手前、右手に「下座切場跡」の標柱があり、アスファルトの道へでます。

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下座切場跡

先ほどもあった「下座切場跡」は村役人が長袴で土下座して幕府や藩の役人を迎えた場所だそうです。
アスファルトの道へ出て50m、右手に「中山道碑」があります。

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市境の中山道碑

この中山道碑が市境となっており、恵那市から瑞浪市、旧釜戸村へ入っていきます。
アスファルトの道を道なりに120m、Y字路は右手へ入り100m、「大久後の向茶屋跡」の標柱、さらに200mで未舗装の中山道へ入っていき、「大久後観音坂」を上ります。アスファルトの道は急坂の観音坂を避けるために江戸時代後半に開かれた道です。中山道分間延絵図にはこの新道が描かれています。 このあたりは中山道の案内板も多く、道を間違える心配はありません。

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大久後の向茶屋跡と大久後観音坂

茶屋跡付近の平坦地は「茶屋ヵ原」と呼ばれていました。ここを過ぎると未舗装の大久後観音坂へ入っていきます。観音坂は割と急勾配の坂道です。観音坂を上り馬頭観音の案内板から少し奥へ入っていくと大きな岩の上に馬頭観音が祀ってあります。

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観音坂の馬頭様

銘は確認できませんが、天明年間(1781〜1788)の造立とされます。

そのすぐ先右手に「霊場巡拝碑」があり、向かいの細道を入っていくと「大久後休憩所」があります。

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四霊場巡拝祈念碑

1841年(天保2)建立、「四国西国板東秩父」と彫られています。
100mほどでアスファルトの新道へでて、さらに100m左手に「灰くべ餅の出茶屋跡」の標柱がありそのすぐ先「大久後立場」へ至ります。

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灰くべ餅の出茶屋跡

直焼きの「灰くべ餅」が名物であったと伝わります。

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大久後立場

森林からでてパッと明るくなりました。斜面に沿って農地が広がり往還両側に数件の民家があります。壬戌紀行によると人家3.4軒ありと記されています。
民家を抜けると右手に「観音堂」があります。

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大久後の観音堂跡と弘法堂

観音堂の建物は無くなり、弘法様が祀られています。弘法大師像の台石には「養蚕大師」「蚕神 昭和二年」とあります。

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権現坂

観音堂跡を過ぎると権現坂を上り、続いて鞍骨坂を上っていきます。上り続けて・・いよいよ疲れてきました。
鞍骨坂を上り切ると右手に「刈安神社参道入口」があります。頂上までは標高差100mありますが上ってみます。

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刈安神社参道入口

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道祖神と灯籠

参道の左手にある道祖神祠は中山道文間延絵図に描かれている「道祖神」です。灯籠には1771年(明和8)の銘があります。

TOO001 途中、古い石積みや大きな蛇のような岩があったり・・・かなり上ってへとへと・・・

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金毘羅石祠と稲荷大明神石祠

頂上へもう一息・・というあたり、細い道が右手にあり、入っていくと石祠が2つありました。

頂上の刈安神社まで約20分、へとへとになりながらようやく到着〜!!

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刈安神社

刈安城跡ともされる刈安神社は権現山の頂上に祀られています。以前は樹木も少なく、遠くまで見渡せたそうですが、現在は眺望がよくないです。遠くが見渡せません・・・社殿の裏にあるのは烏帽子岩と呼ばれる巨岩です。

刈安城

戦国時代初期、この地を支配していた土岐氏が刈安城(砦)を築きました。この砦はやがて落とされて、元亀年間(1570〜1573年)に再建、戦国末期には織田軍が東濃に十八の砦を作り、その一つが刈安城です。尾張小牧の武将西尾道永が守っていましたが、武田軍に敗退し道永は現在の肥田まで逃れますが、「我が霊は永久に我が軍の武運を守るであろう」と言い残し戦死してしまいました。江戸時代になり、土地の人々が道永を偲び、刈安権現として祀ったのが刈安神社で、戦勝祈願の神様と崇められることになりました。棟札によると1677年(延宝5)の建立と思われます。
刈安神社から中山道へ下りていきますが、下りも急坂、滑りやすくなかなか大変でした。

中山道分間延絵図では大久後立場と炭焼立場のちょうど中間あたり、往還右手少し山の上に「役ノ行者堂」があったようですが、今はないですね。参道左手の2つの大きな石碑が「役ノ行者堂跡」かもしれないです。逆に「刈安神社」が描かれていないです。

刈安神社参道を過ぎるとすぐに「炭焼立場」で、左手は眺望が良いです。

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炭焼立場跡

小さな遊水池は旅人や馬の喉を潤したとされます。1802 (享和2)に記された太田南畝の「壬戌紀行」には「俗に炭焼きの五郎坂を下れば炭焼立場あり、左に近くみゆる山は権現の山なり」とあります。大田南畝は中山道を西から東へ向かっています。

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十返舎一九「十三峠」

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炭焼立場を過ぎると平坦な道を進み、吾郎坂を上り再び平坦な道となり左手は畑、明るい道を進むとぽつんとバイオトイレがありました。
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樫ノ木坂と樫の木坂石畳

徐々に道は上り坂となり勾配もきつくなり、石畳の道になります。ここを「樫の木坂石畳」といい、しばらくすると「権現山一里塚」が見えてきます。

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権現山一里塚

木立はありませんが、両塚とも残っています。樫の木坂石畳は一里塚あたりで終わっていますが、まだまだ上っています。

このあたりは「中山道ゴルフ倶楽部」の中央を突き抜ける形で中山道が通り、プレーを楽しむ人が樹木の間からチラチラ見えます。街道にはゴルフボールもたくさん落ちています。しばらく進むと往還右手に「順礼水碑」があります。

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順礼水碑と馬頭観音

「お助け清水」ともいわれ、この上には1757年(宝暦7)の馬頭観音が祀られています。 昔、旅の母娘の巡礼がここで病気になりましたが、念仏により眼の前の岩から水が湧き出し、命が助かったと言い伝えられています。僅かな清水ですが、8月1に枯れることはないといいます。 ゴルフボールがたくさん供えてありますね。

道は平坦になり、「順礼水碑」から300mで下りの「びあいと坂」となります。

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石畳とびあいと坂

恐らく南のコースから北のコースへ行くためのゴルフ場のカートが通るからでしょう、一部が石畳になっています。

「びあいとう」というを売っている所があったといい、それが「びあいと坂」となったのでしょう。

先にも書きましたが「びあいと」は、琵琶湯糖(びゃいとう)と思われ、「枇杷葉湯(びわようとう)」と同一のものでしょう。枇杷の葉に肉桂や甘茶などを加えて煎じた飲み物で、江戸時代には夏の暑気払に盛んに飲まれていたといいます。

びあいと坂を下り300m、さらに曽根松坂を下っていきます。

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曽根松坂

このあたりは松並木だったとされますが、現在松はパラパラと数本見られますが、杉や檜の針葉樹林になっています。

きつねの話

曽根松坂から少し進んだところで往還に動物が!!こちらをじっと見たのちきびすを返して樹林地へ走っていってしまいましたが、あのフサフサの尻尾はまぎれもなく、キツネでした!写真を撮る時間的余裕がなく、残念でしたが、本州でキツネを見たのは初めてでびっくりしました。両側がゴルフ場のこんな場所にいるなんて・・・ ほとんど絶滅しているのではないかと思っていたのですが、インターネットで目撃情報を調べると瑞浪市では数件の目撃情報がありました。きつねに出会えて嬉しかったです!!

曽根松坂から100mほど右手に「阿波屋茶屋跡」があり、その奥に「阿波屋観音」があります。

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阿波屋茶屋跡

現在もテーブルやベンチがおかれ、休憩所となっています。
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阿波屋観音

石窟の中に多くの石仏が祀られています。 1840年(天保11)道中安全を祈願して、大湫宿の伝馬連中15人をはじめ、この道を利用する大手飛脚業者の定飛脚嶋屋、京屋、甲州屋を始め奥州・越後の飛脚才領、松本や伊那の中馬連中が建立したものです。

石窟前には多くのゴルフボールが置いてあります。中山道を歩いた人たちが拾ったボールを置いていったのでしょう。このあたりでゴルフ場に挟まれた中山道は終わります。阿波屋観音から緩い坂を下って150m進むと左手にお地蔵様があります。

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尻冷し地蔵

道中大切な清水に感謝して、1711年(宝永8)に建立された地蔵です。 地蔵の裏手から湧水が出ているので「尻冷し」と言われているようですが、残念ながら現在ほとんど湧水がでていません。

幅の広いアスファルト車道を横切り、車道に沿って上る側道を上っていきます。大きく右カーブを曲がると左手に「しゃれこ坂碑と八丁坂の観音碑」があります。

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しゃれこ坂碑と八丁坂の観音碑

高さ1mほどの観音碑が建っており、「右ハざいみち」と道標になっています。観音碑からは南に下る山道があり、助郷道であったとされます。中山道分間延絵図では「牛ケ洞坂」と書かれています。
しゃれこ坂周辺は右手は針葉樹林ですが、左手は広葉樹林で明るい道です。

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山之神坂と童子ケ根

しゃれこ坂に続いて山之神坂を上り、上りきった所「童子ケ根」と彫られた石碑、地名でしょうか。

童子ケ根からはゆるい坂道を下り、急に勾配がキツくなる下り坂が「寺坂」です。寺坂を下っていくと右手に石仏が並んでいます。その先宗昌寺の入口に「十三峠の碑」があり、ここで十三峠が終了します。のぼったり下りたり・・長いようなあっという間だったような・・楽しい道のりでした。

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寺坂

中山道分間延絵図では「前坂峠」と記されています。

ようやく大湫宿が見えてきました。長い山道は終わります。宿場が見えてくるとホッとしますね。江戸時代の旅人も同じような気持ちだったのでしょうか。

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寺坂の石仏群

1713年(正徳3)の南無阿弥陀仏の名号碑や1751年(寛延4)の馬頭観音など念仏講中が建立した石仏が並んでいます。

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宗昌寺

大久手宿を開いた保々市左衛門宗昌が小庵を改めて1600年(慶長5)に寺を建立したと伝わり、開山は智仙宗恵とされます。大湫は何度も大火で焼けていますが、宗昌寺は難を逃れ、控え本陣としても使用されていました。

宗昌寺境内には「女人講碑」や「鈴木喜義顕彰碑」、「宝篋印塔」などがありました。

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女人講碑

女人講碑は1814年(文化11)建立、奥の宝篋印塔は四面に薬師像が刻まれ、台石には宝暦年間の建立の銘。

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鈴木喜義顕彰碑

1912年(明治45)、大湫に生まれ名古屋電気学校で技術を習得し、後に「トンネル窯」の開発に成功した人物だそうです。トンネル窯とは窯をトンネル状に造り、焼成される品物を台車に乗せ、トンネル内を移動する間に予熱、焼成、冷却が順次行われ、反対側にある出口から送り出され、これにより飛躍的に作業効率が良くなるものだそうです。

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大湫宿枡形

宗昌寺をでると道は平坦となり、60mほどで「枡形」となり左へ曲がり、宿内へと入っていきますが、その前に枡形を通り過ぎ、次の路地を右へ、50mほど左手に「尾州白木改番所跡」があります。

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尾州白木改番所跡

1694年(元禄7)尾州藩川並奉行所として設置され、奉行以下多くの藩役人、足軽などが常駐していました。天明年間に白木番所に縮小され明治初年まで中津川以西の八百津までの尾州藩木曽御領林の管理や木曽川流木の監視、中山道筋の白木改めなどにあたりました。
枡形へ戻り大湫宿へ入っていきます。すぐ左手にあるのが「森川訓行家住宅(丸森)」です。その向かいが「大久手宿本陣跡」、さらに40m先右手に「白山神社参道」その角が「問屋跡」と続きます。

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森川訓行家住宅(丸森)

旅籠の他に尾州藩の許可を得て塩の専売を行っていた商家で繁盛したといいます。建物は江戸時代末期の建築と推定され、修復工事が行われ観光案内所・無料休憩所として使用されています。

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大湫宿と大久手宿

宿場を示す場合は「大久手」、村を示す場合は「大湫」と書くそうですが、資料によりばらばらです。また、現地案内板なども「大湫宿」とされていますが、中山道分間延絵図では「大久手」となっています。最近は『大湫宿』で統一されているようです。

「中山道宿村大概帳」によると旅籠は30軒あり、美濃十六宿で最も多かったとされます。

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大湫宿本陣跡

代々、保々市郎兵衛(中西家)が務め、領主 千村方の庄屋・問屋を兼任し、屋号を「添屋」といいました。1731年(享保16)には比ノ宮、1741年(寛保元)には眞ノ宮、1749年(寛延2)には五十ノ宮、1831年(天保2)には登美ノ宮、有姫、1858年(安政5)には鋭姫、1861年(文久元)に和宮と多くの姫様が泊まられています。和宮が宿泊した部屋は、土岐市の個人宅へ移築されているそうです。
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和宮歌碑

「遠ざかる都と知れば旅衣一夜の宿も立ちうかりけり」

「思いきや雲井の袂ぬぎかえてうき旅衣袖しぼるとは」

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大湫小学校跡

40m×27mの広大な旧小学校校庭が本陣の屋敷跡地です。部屋数23、総畳数は212畳もありました。

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白山神社参道と問屋跡

写真左手角が問屋跡です。
白山神社を過ぎると左手にニ階窓が特徴的な「村瀬家」、その奥が「商家江戸屋」、その向かいに「大湫宿脇本陣」があります。

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旧村瀬家

元は村瀬家の建物で、村瀬家は大久手宿の庄屋兼村役人で、「大久手は潰れても村瀬は潰れず」と詠われるほどの羽振りであったといいます。

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大湫宿脇本陣

代々、保々長左衛門(南家)が務め、領主山村方の庄屋・問屋も兼ねていました。19部屋、153畳、別棟6という本陣に劣らない広大な建物でした。現在は取り壊され半分ほどになっています。
脇本陣の数軒先、左手に「森川善章家」、その向かいに「大湫神明神社」、さらに100mほど進んだ右手坂を上ると「大湫宿観音堂」があります。

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森川善章家

問屋を務めた森川氏の住宅で、森川一族の中でも新しい分家であったために「新森」と呼ばれ、旅籠としても使用されました。建物は1893年(明治26)の建築ですが、宿場の面影を残していることから綺麗にリフォームされ現在はカフェとして利用されています。
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大湫神明神社

1608年(慶長13)の棟札から大湫宿が開かれた直後に勧請されたと思われます。

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神明神社の大杉

樹齢1300年とも言われており、宿場のシンボルとして太田南畝の「壬戌紀行」にも「駅の中なる左の方に大きなる杉の木ありその元に神明の宮を建つ」と記されていましたが、令和2年の豪雨で根元から倒れてしまいました。その後住民の熱意により再生工事が行われ保存されています。
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神明之泉

大杉の根元から湧き出ている泉水でした。江戸時代から宿場の人々や旅人たちに利用されてきた泉です。

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大湫宿

1604年(慶長9)大井から御嶽までの距離が長かったため、幕府が大久保長安に十三峠の改修とともに造らせた新しい宿場です。
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大湫宿観音堂と笠懸仏

正しくは「円通閣妙智庵大湫観音堂」といい、本尊は最澄作と伝わり慶長年中以来神明神社境内に祀られていました。1721年(享保6)現在地に堂を建て祀られ、1824年(文政7)大湫宿の大火の際には堂は焼けましたが、住民が必死に本尊を守り抜き、その後の1847年(弘化4)に堂を再建しました。

観音堂の絵天井は恵那郡付知村出身の三尾静(暁峰)の作で花鳥草木を題材に60枚が描かれています。

下半身、特に足腰の病にご利益があるそうで十三峠を越えてきて足腰にガタが来ている私達にはもってこい!ここで足腰の疲れが取れるよう、明日も元気に歩けるよう、しっかり祈っていきます。

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大湫宿観音堂の芭蕉句碑

「花ざかり 山は日ごろの あさぼらけ」

1795年(寛政7)大湫宿の俳人が芭蕉100回忌に建立したものです。この句は1688年(元禄元)吉野で詠んだ句です。
観音堂をでるとすぐ右手に大きな高札場があります。

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大湫宿高札場

往時の姿が再現されています。実際の高札は公民館で見ることができるそうです。
14:30  今日はここまでで終了します。一番近い釜戸駅でもここから4km近くありますので、平和タクシーさんに電話して迎えに来ていただきました。釜戸駅までは1700円ほどで到着しました。釜戸駅からJRで恵那駅まで戻り車をピックアップし本日は『ルートイン恵那』に宿泊します。

十三峠は上り下りが激しく、まさに「十三峠におまけが七つ」以上に山坂ばかりで大変でしたが、それ以上に楽しい、楽しい道のりでした。木曽路ハイライトの馬籠峠越えも楽しい道のりでしたが、十三峠も負けず劣らず楽しい中山道歩きでした。