鎌倉街道上道へあたる佐野への寄り道もいとおかし。城下町高崎へ

2018年12月15日

「ツール」⇒「作図・ファイル」⇒「アイコンのラベル表示」にチェックを入れると名称が表示されます。 KMLファイルに変換することでgoogle mapへのインポートもできます。
12:15 倉賀野宿をあとに高崎宿に向けて歩き始めます。

左側通行碑

正六付近は昭和になっても杉と松の並木が残っていました。交通量の増加に伴い、並木南に新しい道路が作られ、並木左右の道を一方通行にするため、1932年(昭和7)に上下線に1基づつ設置されました。しかし、その後行方不明となり、後に石碑は新町で発見され平成30年にここへ戻されました。

高崎側のものは修復不可能なほど破損しているそうです。当時は暗くて車が激突したりしたそうで、こちらの石碑も欠けたりしています。

浅間山古墳

全長171.5mの前方後円墳、周囲は盾形の内堀が巡り、外周には葺石(斜面に敷石)を持つ中提が築かれ、その外側に外堀が巡らされています。

上空から見ると内堀や中提がよくわかりますね。

たかべん

高崎駅で売っている「だるま弁当」はたかべんのだるま弁当です。ここで作っているのですね。

たかべん食堂

たかべんの向かいには、「たかべん食堂」があります。ここではラーメンやカレー、定食もあるようですが、だるま弁当も食べられるそうです。さっき、この先ランチ食べるところなさそう、とマックでランチにしてしまいました。たかべんで食べたかったです。失敗しました。

粕沢立場

江戸中期に粕沢橋の倉賀野寄りに設けられ、三軒ほどの茶屋があり、茶屋の北側に粕沢の滝が望める景勝地として知られていました。茶屋の主人、花岡義旭は池を作り、池には蓮の花が咲き鯉が泳いでいたといいます。

石碑は護岸の改修記念碑や災害復旧記念碑、五貫堀海雌雄記念碑などです。

絵図には滝があります。現在の状況からは創造もできません・・・

粕沢川に架かる粕沢橋

江戸時代、粕沢橋は幕府により高崎藩が管理した重要な橋でした。1803年(享和3)、太鼓橋と同じ年に石橋へと架け替えられました。元は現在より北側のやや低い場所にあり、明治以降の中山道の改修に伴い現在地へ移動しています。
ここから佐野のほうへ向かうため、一旦中山道を外れます。

佐野堰水路

この「佐野堰水路」も長野堰幹線水路の支線です。

放光寺・放光明神跡

山上碑にある放光寺がこの佐野にあったとして堂を建てたようですが、現在は、前橋市総社町の山王廃寺から「放光寺」の文字を刻んだ瓦が出土しており、そちらが正解のようですね。まぁ、決定打がないのに先走って堂を建ててしまった・・?ようですね。

山上碑は、681年に建てられた日本最古の石碑で、ここから北に3kmほどの高崎市山名に保存されています。

定家神社

鎌倉時代初期に活躍した歌人、藤原定家を祀った神社です。定家は「新古今和歌集」「新勅撰和歌集」の選者を務めるなど当時を代表する歌人でした。

万葉歌碑

「佐野山に 打つや斧音の 遠かども 寝もとか児ろが面に見えつる」

佐野山に打つ斧の音のように遠いけれど、寝ている子供にあなたの面影が見えました・・って感じでしょうか・・

常世神社

説明版には、佐野源左衛門常世が自領を一族に奪われた後に住み着いた「常世屋敷跡」を神社としている、とありますが、そもそも常世は、架空人物とされています。

謡曲「鉢の木」の物語

旅僧(北条時頼)が信濃国から鎌倉へ向かう途中、上野国佐野の渡りに着いたところ、大雪となりこの地へ建つあばら家に泊めてもらいました。貧しい生活を送っていた常世ですが、暖を取るために大切に育てていた鉢植えの「梅・松・桜」を囲炉裏にくべてもてなしました。佐野源左衛門常世は佐野荘の領主でしたが、今は一族に領地を奪われ落ちぶれていますが、いざ鎌倉に大事があった時は真っ先に馳せ参ずる覚悟を時頼に語ります。ほどなくして常世は鎌倉幕府より参集があり、時頼より「梅・松・桜荘」を与えられます。

「いざ鎌倉」という言葉は、この謡曲「鉢の木」から始まりました。

佐野橋

佐野の渡しがあったとされる近くに架かる木製の橋。橋脚はH鋼ですが、舟橋の面影を漂わせています。人道橋ですが、周辺の方の生活道路です。実際に通行している人がいましたね。

古代、たくさんの船を連ねた上に板を載せた船橋が両岸を結んでいたという伝説が残っています。葛飾北斎も万葉集を題材として文政末期に江戸の風景に置き換えて「佐野舟橋之古図」を描いています。
信州電鉄がのんびり走っていきます。新幹線のような絵が描かれています。

佐野のわたし駅

信州電鉄の駅です。無人ですがとても綺麗なピッカピカの新しい駅でした。駅名は子供たちからの応募で決まったようですね。

佐野の船橋歌碑

『上毛野佐野の船橋取り放し、親はさくれど吾はさかるがへ』万葉集、親は船橋をバラバラにして私たちの仲を裂こうとするけれど、そうはさせません。というような訳になるそうです。 文政10年建立。

船橋にまつわる伝説

烏川を挟んで対岸の村の長者の息子と娘が恋仲となり、夜に船橋を渡り、人目を忍んで逢っていました。それを知った親がある夜、船橋を外し逢わせないようにしました。それを知らない二人は船橋を渡ろうとして川に落ち、死んでしまいます。謡曲「船橋」の素材となっているそうです。佐野道は鎌倉街道上道にあたります。

西光寺

1597年(慶長2)、庵を結んだのが始まりとされます。高崎五万石騒動の舞台の一つです。百姓総代が役人に叱責を受け、大根1本から大騒動になったお寺です。

高崎五万石騒動

1869年(明治2)に起きた高崎藩五万石の領地で田に73%の税がかけられることに反対し、4000人の農民が高崎城に集結し年貢軽減を訴えた一揆です。農民代表3名が責任を取らされて1870年に処刑されます。廃藩置県後に農民の要求が認められました。

池もある立派なお寺ですが、現在工事中のようです。大変な過去があったことは今はもう感じられません

高崎五万石騒動の歌碑

『寒椿 赤し一揆の 血を享けて 関口ふさの』 建立は平成14年とまだ新しいものです。関口ふさのさんは平成15年には高崎市の文化賞を受賞されています。西光寺は菩提寺だそうで、お寺の改修を機に句碑を建てることになったようです。関口さんの祖父が高崎五万石騒動の時、旗頭だったとのことです。確かに関口姓の方が何名かいらっしゃいますね。

とってもジンとくる句ですね。悲惨さとでも弔う心がこもっているというか・・周囲にカンツバキ植えてあげるともっといいですね。

今平神社

グーグルマップには、「今平神社」となっています。子育て地蔵堂です。お地蔵様の左に「秩父三拾四ヶ所巡礼」と彫られた道標があります。道標になっていて、口コミによれば元々は、大通りに出た県道17号線の交差点にあったようです。右の道は、「琴平参道」で、琴平神社へ向かう道。石鳥居があったようですが、台座のみ残して上部は撤去されたようですね。

新田立場

心泉堂さんのあたりに「新田立場」があったようです。

高崎アリーナ

日本製粉工場跡地に建設され、2017年開館した高崎市のスポーツの拠点として高崎市民に親しまれています。ひときわ目立つ建築物で新しく、ピッカピカです。

中山道名物 宿場まんじゅうわらじ ちょっと買って食べて見ようかな〜とお店の前まで行きましたが、どうやら閉店してしまったようです。本店は安中にあるようですので、安中にたどり着いたら食べようと思います。

旧井上房一郎邸

1952年、建築家アンドニン・レーモンドの麻布笄町の自邸とほぼ同じものを同意を得て高崎の地に建てたものです。高崎市美術館に入らないとみられません。100円ですので入ろうかと思いましたが・・閉館時間が迫っており、入りませんでした。

旅籠 豊田屋

1884年(明治17)、高崎駅の開業と同時期に開業しました。現在の建物は1932年(昭和7)に建築されましたが、2001年(平成13)区画整理のため本館のみ曳家で移動させ、改築、増築を行ったそうです。このとき部屋数が少なくなってしまったのもあってか、宿泊よりも会席中心にしたそうですが、現在でも宿泊できるようです。

あら町 諏訪神社

1599年(慶長4)、箕輪城下の下ノ社を勘定したことに始まりました。本殿は土蔵のような外観をもつ総漆喰の塗籠の珍しい造りで、火災から守るためだと考えられています。見事な漆喰彫刻が見られます。中山道脇にありましたが、現在は40mほど西へ移動しています。

あら町諏訪神社 山車蔵

大正6年の山車が納められているそうです。

高崎宿には高崎城があったため、諸大名は城下での宿泊は遠慮し、本陣、脇本陣は設けられませんでした。
15:45 ホテルの前まできてしまいましたので、本日はここまでにします。今日の宿泊は「ドーミーイン高崎」です。

2018年12月16日

  10:00 ホテルを出発します。もう少し高崎宿内を散策します。

高崎市道路元標

南銀座通り

高崎駅から西の高崎城までは大手前どおり、南銀座通りなどいくつかの通りがありますが、かなり綺麗に整備されています。イベントなども多いようですね。

日本茶喫茶(奥)

百年以上前に建てられた商家の蔵を活かした日本茶専門の喫茶ギャラリー。蔵座敷をそのまま利用しており、インテリアや茶器などもそのまま使用しているそうです。ゆったりとした時間がすごせそうですね。

高崎城 飛龍松之記

石積みの上の大きな松の木前に「飛龍松之記」と彫られた石碑があります。詳しい説明が無いので漢字のみで書かれた碑文を無理やり読むと・・「明治26年高崎近郊の近衛師団小機動演習を行い、明治天皇が訓練をご覧になったことを記念してこの地に松を植え「飛龍の松」として大事に世話をする」・・というようなことでしょうか。

高崎城の周辺はたくさんのイルミネーションがありました。夜に見られないのが残念です。

歩兵第十五連帯跡

1873年(明治6)廃城令により、高崎城の大部分は売却して移築されたり壊されたり・・・敷地の大部分は歩兵第十五連帯の駐屯地として使用されました。

宮部万女の和歌

「岩戸明けし その神代より出づる日の おなじ光に春や立つらん」

宮部万女

宮部万女は、生年不詳、1788年(天明8)没。高崎藩士浅井直方の娘で、宮部義正と結婚しました。夫と共に冷泉為村に学び、子の義直も歌人となります。1785年(天明5)、父母子共作の和歌集「三藻類聚」を出版しました。物語作家としても活躍しています。

高崎城乾櫓、東門

乾櫓は隅櫓の一つで西北にありましたが、現在地より西に300mほどの場所でした。高崎城には、石垣がほとんどなく、土塁で囲まれており、その上部にあり、安藤重長が城主であったころの建築と推定されています。

1633年(寛永10)、徳川忠長は、実兄である三代将軍家光の命により高崎城に幽閉されていました。

群馬音楽センター

アントニン・レーモンドにより設計された音楽ホールで、1961年開館。高崎は、1990年から始まった高崎音楽際・高崎マーチングフェンスティバルなどを催して「音楽のあるまち」理念が根付いているといいます。

そういえば街中に音符やストリートミュージシャンを見かけたり、通りで音楽をかけてイベント的なこともしていましたね。

大信寺

二代将軍秀忠の第三子、徳川忠長(幼名国松)のお墓があるお寺ですが、門が閉ざされていて中に入って見学することはできませんでした。お墓は亡くなってから43年後に建てられ、鎖で繋がれて 「鎖のお霊屋(たまや)」と呼ばれていたそうです。

忠長は、兄の家光が三代将軍になると、55万石の大名として駿河城へ入城しますが、問題行動ばかり起こし寛永9年に高崎城へ幽閉され、翌年28歳で自刃しました。
忠長が起こした数々の問題行動の原因はなんでしょうね。お江与vs春日局の幼少の頃からのものでしょうか。余りにも周囲に配慮が足りなく、良かれと思って行ったことも的外れですし。 母親に溺愛され過ぎたからなんでしょうか・・

絹市場

高崎は蚕繭・生糸・絹織物などの集散地として繁栄し、市が立ちました。売買取引の統制をするために、明治27年に絹市場が設けられました。現在は蔵を模した建物が建てられ、居酒屋や和食屋さんなどが並んでいます

オリタの焼きまんじゅう

グンマーのB級グルメ「焼きまんじゅう」。お米と小麦に麹を練り合わせたものを発酵させて蒸して作ったまんじゅうです。その配合はお店ごとに違うらしいです。ですから食感もお店によって違うようです。

たっぷりのたれがかけられてきます。餡入りは2個。普通のは4個。まんじゅうだからお餅のようなものだと思ってこんなに食べられないと思い、1本お願いしましたが、2本からだそうです。餡入りと普通の1本づつ注文しました。

まんじゅうというよりは、パンのような食感ですね。確かに軽くて1本ぺろりと食べられます。漫画「孤独のグルメ」、ちいさんぽも来たようですし、最近は、フジテレビに行ってスタジオで焼き、勝俣さんに食べてもらったと言ってました。私は普通のお饅頭のほうが好きですね。

高崎一里塚跡

九蔵町に一里塚稲荷の祠があったとの記録があるそうですが、中山道からも古中山道からも離れていて、よくわかっていないそうです。このあたりだと思いますが。

金澤屋

1836年(天保7)創業。創業180年にもなるそうです。現在も寝具を商っているそうです。

山田家(旧山源漆器店)

店舗と主屋からなり、明治15年建造とされています。外壁が黒々としていて重厚感があります。

茶舗 水村園

1857年(安政4)、創業。茶業一筋に営んでいるそうです。

昭和34年旧中山道の拡幅工事で旧店舗と中庭が取り壊されましたが、店舗裏のレンガ塀や土蔵は当時のままだそうです。道路付けがないのであんまり見えないです。

蔵カフェもぎたて完熟屋

釣堀も経営していて、地元産にじます料理が自慢だそうです。入ってみたい・・でもまだおなかいっぱいです。

三国街道分岐点

右が「三国街道」、群馬みなかみの三国峠を越えて新潟長岡、寺泊までの街道です。三国街道もいつか歩いてみたいですね。

恵徳寺

天正年間に井伊直政が祖母の菩提の為に箕輪日向峰に創建しました。1598年(慶長3)、城北榎森に移し、1604〜1606年頃に現在地「赤坂」に移りました。

高崎の由来

ある時、井伊直政が恵徳寺の和尚に「和田の名を松崎と変えたいが」との問いに「松は枯れるが高さには限りがないので高崎ではどうか」と進言したところ直政は喜び、「高崎」と命名したそうです。

長松寺

当初は広町北部に開かれましたが、1624年(寛永元)に赤坂の現在地に移りました。本堂は1726年(享保11)に焼失、1789年(寛政元)に再建、現在に至ります。

高崎城内の「忠長自刃の間」が移築されて現在も客間として使用されているそうです。室内のみの移築のため、案内していただかないと見ることはできないそうです。

高崎高等学校発祥の地

明治30年、高等中学校は長松寺で開学し、翌年上和田の新校舎に移転するまで本堂が校長室、職員室兼用の高等中学校の教室でもありました。

明治36年には寺内に「私立樹徳子守学校」を設立し、貧困のために奉公に出された不就学児童のための学校でした。

大間天井絵

1791年(寛政3)、狩野探雲の作品。向拝天井絵(寛政元)、涅槃画像(文化2)が残されています。

狩野探雲

狩野派の探林に学び、江戸幕府画所に仕え、江戸城西の丸の画作を行います。後に七日市藩の御用絵師となり、「上野の探雲」と呼ばれました。

番所跡

元は長松寺入口の西隣に建てられていましたが、1707年(宝永4)に反対側の山車蔵と公民館のあたりに移されました。案内板の挿絵を見ると、当時は中山道まで段丘崖が迫っていたみたいですね。 今歩いていると家が立ち並んだためか、河岸段丘だとはわかりずらいですね。

岡醤油醸造

1787年(天明7)現みどり市大間々に創業した岡直三郎商店の支店として、1897年(明治30)に開業しました。平成に入り、この地での醤油製造はされていませんが、店舗や煙突は当時のままです。

山田文庫

昭和49年、山田勝次郎・とく御夫妻によって創設されました。子供のなかった夫妻は私財を投じ群馬県下の学校の児童に図書購入費を寄付してきました。この場所は夫妻が創立した私設図書館です。ご夫婦ともに高崎の発展に貢献された実業家であり、奥様は日ソ親善協会常任理事を務めるなど国際的にもご活躍されたご夫妻です。

高窓をもつレンガ造りの倉庫がありました。恐らく、美峰酒類の倉庫だと思われます。このあたりには古い建物が残っていますね。

天守閣!?

小さいけれど立派な天守閣ですが、なんと個人のお宅みたいです。すごいですね。かなりの建築費がかかったと思います。

紋平稲荷

由緒などはまったくわかりませんが、右側の玉垣には「安永9年得官」と彫られています。「紋平」とはどういう意味でしょうか。調べても「渋柿の品種」以外、出てこなかったです。渋柿は関係ないでしょうね。

君ケ代橋親柱

明治11年、明治天皇が北陸東海行幸をされたとき、馬車で木橋を渡ったことを記念して命名しています。昭和6年に鋼橋に架け替えられました。昭和52年より三層のICが作られ、君ケ代橋も架け替えられこの地へ親柱のみ移設されました。

君ケ代橋を渡ると高崎宿ともお別れです。

12:00 板鼻宿へ向かってさらに進んでいきます。