焼米坂をのぼり、ウサギが神使の調神社を経て大都市へ

2018年10月6日

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11:40 浦和宿へ向けて進んでいきます。

宝蔵寺

宝蔵寺は日蓮宗のお寺で、日祐(鎌倉・南北朝時代)が開山となり創建したとされます。

一六橋

この橋は、見沼代用水の分流、通称一六用水に架かっており、「一六」という名称は、南北朝〜戦国時代にこのあたりで一と六のつく日に「市」が開かれていたことによると 伝えられています。江戸時代には既に一六橋の名が見られ、明治初年に書かれた「武蔵国郡村誌」には長さ5尺幅5尺(1.5m四方)の石造りと記載があります。

境橋

蕨宿と辻村との境を流れる見沼代用水分流の笹目用水に架かっており、江戸時代の中ごろまでは木製でしたが、1797年(寛政9)に蕨宿の池上氏が中心となり、石製の橋を完成させました。「武蔵国郡村誌」には、長さ1間半、幅2間半(2.7m×4.5m)と記載が見られます。

見沼代用水は、東京の葛西用水路、愛知県の明治用水と並んで日本三大農業用水とされているそうです。しかし、既に周辺に田はなく、水路に蓋がされています。

辻一里塚の跡

辻一里塚公園内に、弁財天とともに一里塚の跡の石碑が建立されていますが、塚はなくなってしまいました。

このあたりが、英泉が書いた「支蘇路ノ駅 浦和宿 浅間山遠望」のあたりだそうです。この浮世絵に描かれているのも先ほど見た「見沼代用水」です。山口土橋は暗渠に変わり、六辻水辺公園として整備されています。

辻の新田

徳川8代将軍吉宗は幕府財政建て直しのため、新田開発を進め、その一つが浦和市東部に広がる見沼の開発でした。1629年(寛永6)、見沼溜井が造られましたが恒常的な水不足に悩み、吉宗は土木技師―井沢弥惣平為承に命じ利根川から水を引き、見沼代用水を築造しました。完成は1728年(享保13)でした。当時の辻村や根岸村は見沼溜池の時代からその用水も利用していたと思われますが、見沼代用水により江戸時代中期には新たな新田開発も進み、辻の耕地は潤いました。この用水は当時の笹目領内谷村で荒川に落ちていました。昭和に入り現在の笹目川(旧中央排水路)が浦和の排水路として完成し、この川に流れ込んでおり、現在の水辺公園の水路が旧用水路です。しかし戦後、特に昭和35年頃より都市化の波により、昭和39年以降この辻の田園一帯は土地改良を施行し、新田は住宅地となってしまいました。南区辻4丁目7-27付近に説明板があります。

六辻町道路元標

焼米坂(やきごめさか)

荒川低地から大宮台地へと登る坂に焼米を売る店がありました。焼米とは籾を焼いて臼の中でつき、籾殻を除いたもので、袋に入れて売っていたそうです。

焼米は今も西日本の山間地域で作られているそうです。

鎮魂碑も建立されています。

関元屋とお助け井戸

現在の建物は大正5年頃の建築で、材木商、よろず商い、近年は米穀を商い、店先の井戸は関東大震災や東京大空襲で逃げ延びた人々の喉を潤したそうで、「お助け井戸」と言われています。

日蓮上人駒繋ぎのケヤキ

佐渡へ流される途中の日蓮が駒を止め、難産の女性を助けたとされます。日蓮佐渡流罪ルートは鎌倉街道上ツ道(東村山の立川家に泊まった)とされているため(15kmも東)、ここを通ったというのは疑念もあるようです。

調神社(つきじんじゃ)

創建は奈良時代以前と伝わります。調神社の「調」は租庸調の「調」で、租は米、庸は労務、調は織物。御調物(みつぎもの)を集めた場所に宮を建てたことから、調の宮と言われたようです。御調物の搬入、搬出の邪魔になるということで、鳥居もないのです。

調が月や槻(ケヤキ)に通じることからウサギを神使としているそうです。

浦和宿内へ入ってきました。

浦和町の道路原標

さくら草通り、歩行者専用通路のところにあります。大正11年設置され、昭和57年に復元されたものです。

さくら草通り

浦和一女発祥の地と行在所(あんざいしょ)記念之碑

明治33年、埼玉県高等女学院がこの地に誕生します。女学院の洋風建築校舎が明治天皇巡幸の行在所(宿)となりました。建物は三条実美により「鳳翔閣」と名付けられます。明治43年、女学院は分離して浦和市岸町へ移転し、現在の浦和第一女子高等学校の前身となりました。鳳翔閣はさいたま市立博物館として緑区三室に移築され、浦和レッズのエンブレムにもデザイン化されているそうです。

玉蔵院 地蔵

玉蔵院は、平安時代頃に弘法大師により創建されたとつたわる古刹です。

玉蔵院 地蔵堂

地蔵堂は1780年(安永9)建立。

玉蔵院 山門

本堂横の樹齢100年を超えるしだれ桜の名所です。

13:30 ここで昼食のため休憩。カフェでランチです。色々なお店があり、浦和はランチには不自由しないですね。

浦和宿本陣跡

現在は「仲町公園」となっていました。江戸時代の浦和宿には、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠15軒、商家200軒余りがありました。本陣は、代々星野権兵衛家が務めており、加賀前田家や皇女和宮も休憩したと伝わります。

明治天皇行在所

明治元年、および明治3年の大宮氷川神社行幸の際の行在所となりました。

野菜売りをしている銅像-1

サツマイモをもち、床にはカボチャが・・

野菜売りをしている銅像-2

先ほど見たものと一瞬同じ、とも思うけれど・・よく見ると違います。こちらのおばさんは、大根を持ち、床には白菜が置かれています。

浦和御殿跡

徳川家康や秀忠が鷹狩りの際に休憩所として使用していた御殿跡です。1611年(慶長16)に廃止され、御殿は取り壊され、明治26年に浦和裁判所が建設されました。この赤れんがはこの時のもの だそうです。1975年(昭和48)に裁判所は移転し、現在は「常盤公園」となっています。

浦和宿二・七市場跡

浦和の市場は、戦国時代に開設されたものとされます。市は月6回開かれる「六斎市」と呼ばれるもので、毎月二と七のつく日に開かれていたため「二・七市場」とも呼ばれました。

浦和宿までの道のりは国道ではなく、旧道がほとんどでした。多少の拡幅がなされているとは思いますが、国道よりも車も少なく比較的静かでした。浦和宿内はさすがに大きな町で近年再整備されたのか、歩道なども綺麗に整備されており、ケヤキをシンボルとしていました。ケヤキは埼玉県の「県の木」であり、県民に親しまれているようですね。
14:15 次の大宮宿へ向けて足を進めていきます。