鴻巣雛で知られる人形町、「ひなの里」は一見の価値あり

2018年10月27日

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10:30 桶川宿をあとにして、鴻巣宿へ向かいます。

英泉 岐阻街道 桶川宿 広原之景

加納天神道の分岐点あたりで描かれたようです。それにしても英泉は「岐阻街道」、「木曾街道」、「木曾海道」など・・街道名をいろいろ使っています。なぜなのでしょうか。

本宿案内板と石碑

「もとじゅく」と読みます。江戸幕府による宿駅整備以前の1602年(慶応7)まではこのあたりの本宿付近が宿駅で、宿駅が鴻巣へ移ると「元鴻巣村」と呼ばれ、1688年〜1704年ころになると元々の宿場という意味で「本宿村」と変化していったそうです。本宿には下茶屋と三軒茶屋の2ヶ所の立場が設けられました。

観音堂

十三佛

十王を元にして江戸時代になって日本で考えられたものです。冥界の審理に関わる十三の仏として、また、十三回の追善供養(初七日〜33回忌)を司る仏様です。新しいものですが、不動明王や地蔵菩薩、大日如来などがずらーっと並んでいます。

多聞寺

1661年(万治4)開山。県指定天然記念物のムクロジは、樹齢200年。6月下旬淡い緑色の花が咲きます。果皮にはサポニンという泡立ち成分を多量に含んでいて、昔は洗剤として使われていました。種は羽子板の球にされました。門の後ろのひときわ大きい樹木がムクロジです。

本宿天神社

御祭神は学問の神様、菅原道真です。受験シーズンになると多くの学生が訪れるそうです。天神社は大型の「算額」を保有し、北本市の有形民族文化財となっています。「算額」とは、和算家が問題と解法を記して神社仏閣に奉納した絵馬や額のことです。天神社に保管されているものの内容は平面幾何の問題でした。算学研究が盛んであったことを示す資料です。

北本駅前のポケットパーク

本宿村となったかつての宿場は、明治に入り同一郡内に本宿村がもうひとつ存在したため、「北本宿村」と改め、現在の北本市となったそうです。

東間の富士塚(東間浅間神社)

いつ創建されたのかは、諸説ありはっきりとわかっていないそうです。ただ、塚の中腹には1723年(享保8)の銘が入った「石段供養塔」が建てられていることから少なくとも江戸中期には築造されたようです。

毎年6月30日、7月1日にはこの1年に生まれた赤ちゃんの成長を祈願して初山行事が行われています。

浅間神社の庚申塔

青面金剛像、三猿が彫られています。手の部分が土台よりはみ出しているのはあまり見かけないパターンですね。

東西37m、南北27m、高さ6mの人工の塚です。参道と社殿が直線で結ばれ、さらに延長線上が富士山となります。江戸時代に盛んであった「富士講」以前の古い富士信仰であり、類が少なく貴重なものだそうです。

女坂改修記念碑

塚がだいぶ崩壊してきているようです。周囲をコンクリートで固められてしまいました。男坂もあるのでしょうか・・正面の階段が男坂でしょうか・・

東間浅間神社から次の一里塚へ向かうためには高崎線を越えければなりません。踏切がある場所が少ないので、少し戻り、高崎線を越えます。

原馬室一里塚

江戸時代初期の古中山道は本宿天神社前から原馬室一里塚を通って鴻巣宿本町南に通じていたため、一里塚は街道を大きく反れているようです。西側の塚で、東側は1883年(明治16)高崎線の工事で取り壊されました。

鴻巣宿加宿碑

上谷村新田として開発されると、やがて家並みが宿へ続き、茶屋や髪結いなどが現れ、鴻巣宿の加宿として発展しました。加宿とは、人馬を出しにくい小規模な宿駅で近隣の村を宿場として加えることです。

人形町へ入ってきました。

江戸時代の前期、京都の仏師が鴻巣に移り住み土雛を作り始めたとされます。江戸時代末期には関東三大ひな市にあげられ、安価で良質な鴻巣雛は人気を集めました。

八幡神社

元々は浅間社・天王社・稲荷社と共に金剛院の地内に祀られていましたが、明治の神仏分離で別れました。海栄により勧請され、1592年(文禄元)の創建とされています。

広田屋さんと太刀屋さん、どちらも人形屋さんです。太刀屋さんは、創業は天保5年。「鴻巣宿商人講中連名帳」の上谷新田の部に人形商として「太刀屋」の名が記されているそうです。落ち着いた高級なお人形が並んでいました。

広田屋さんは朱塗りの橋があり、ショーウィンドウには弁慶などが飾ってあり、ド派手なイメージでした。創業は明治43年。

ひなの里

鴻巣の歴史や人形の展示、地域の特産物の販売などをしています。

ひなの里には明治時代に建てられた蔵が残ります。綺麗に修繕されていて美しいです。

ひなの里の休憩所

トイレの使用もひな人形の見学も無料で使用でできます。
人形の顔を作る過程なども展示されていて勉強になりました。人形は、江戸時代から年代別に展示されていました。江戸時代から明治時代の鴻巣雛の女雛は、手を出さないものが多いそうです。こちらの女雛も手を衣に隠しています。

鴻巣の赤物

桐のおがくずに正麩のりを加えて練った生地を型へ入れて成型し、赤く着色した玩具などをいいます。赤色は、恐れられていた疱瘡(天然痘)よけ、魔除けの色で子供を守ると信じられていました。 (正麩・・小麦粉から出るでんぷん)

鴻巣雛

鴻巣雛は、着物の着付けでは関東一と大評判でした。余りにも鴻巣雛が評判となったため、江戸のひな問屋との間で職人の引き抜きトラブルが発生し、南町奉行所で争われたエピソードもあるそうです。明治になると益々盛んになり、人形業者31軒、職人300人を超えていたそうです。

ひなの里で「川幅せんべい」とちりめんで出来た招福ネコを購入しました。川幅せんべい、あとで頂いたのですがかなり美味しかったです。

川幅日本一

鴻巣と吉見町の境を流れる荒川の最大幅は、2537m。実際の水が流れている幅は30mほどですが、国交省では川幅は、堤防と堤防の間とすることになっており、この鴻巣が日本一となっています。 ちょうど今、荒川の河川敷でコスモスが一面綺麗なようです。寄り道としてはちょっと遠いので寄らなかったのですが、見てみたいですね。

「是より鴻巣宿」の石碑

鴻巣宿は、慶長7年に本宿(現北本市)から移動して成立しました。天保14年には人口2274人、戸数566軒の内、本陣1、脇本陣1、旅籠56軒との記録があります。

丹後国田辺城主 牧野家累代の墓

16世紀末、清厳上人によって中興された「勝願寺(しょうがんじ)」境内にあります。1590年(天正18)牧野康成は石戸領54石を領しました。三男の信成は加増により1万石となり、大名に昇進し石戸藩の祖となりました。墓所への門は閉じられ、中にはは入れませんでした。(中興・・衰えていたものを再び繁栄させること)
猫がたくさんいて、かわいく、癒やされました。

仁王門

結城城から移築された仁王門は明治15年の火災により焼失し、1920年(大正9)に再建されたものです。焼失前の仁王は鎌倉期の仏師運慶の作でした。

現在の仁王は、再建時に秩父の三峰神社から送られたもの。鴻巣のパンフレットには足を切断したとありますが、その形跡は全くわかりません。恐らく、高さが入らなくて足の付け根あたりを切ったと思われます。要するに足が短くなって短足になってしまったということでしょうね。

芭蕉千句塚

塚には、芭蕉の句「けふはかり人も年よれ初時雨」と彫られています。1716年(享保元)鴻巣宿に生まれた俳人横田柳几が芭蕉70年忌にあたり一日千句をつくり、1787年(天明7)その千句を壷に収めこの碑を建てたそうです。
左から

仙石秀久、信重室、真田信重、小松姫の墓

千石秀久は豊臣秀吉の家臣で、1590年(天正18)小田原征伐の功にて小諸を得ます。その後は家康に仕え、江戸出府の帰路、鴻巣で病没します。本廟は長野県上田市にありますが、こちらに分骨されています。石川五右衛門を捕縛したという伝説も残っています。

真田信重の家系図

小松姫は様々な逸話から戦国時代においての「女傑」の一人にあげられ「小松がいれば真田家は安泰だ」とまで評される良妻賢母の誉れ高き女性です。

三ツ葉葵紋

鷹狩りの際に勝願寺を訪れた徳川家康は、中興二世住職円誉不残上人に深く感銘し三十石の朱印地を与え、三ツ葉葵紋の使用を許可しました。

勝願寺のエピソードをひとつ

加賀前田家が参勤交代のために鴻巣宿に宿泊する際に、家臣が寺の前に立つ下馬札を見落としてしまい、勝願寺の僧は「下馬するのが礼儀だ」と当日の宿泊を許さなかったといいます。それほど力を持っていたお寺ということです。

権八地蔵

「延宝元年久下村」と刻まれています。権八地蔵は、この後もあと2つ存在しますよ。こちらは1672年(延宝元)建立。平井権八処刑の史実と矛盾はしていないようです。さーて、3つの中のどれが本物でしょうか。最後にはわかりますかね?

人形塚

毎年11月14日勝願寺で行われる「人形供養」、全国から役目を終えた人形が集められ、供養と御焚き上げが行われています。

なんじゃもんじゃの木

ヒトツバタゴの木です。5月初旬に真っ白な花を咲かせ、散ったものが地面に落ちると雪のように綺麗です。。

なんじゃもんじゃの木の由来

@見慣れない木だから・・クスノキ、ボダイジュ、イヌザクラ、タブノキなども「なんじゃもんじゃ」と呼ばれる地域があるそうです。

A「何の木だ?」から「なんじゃもんじゃ」になったという説

B水戸黄門(水戸光圀)が将軍に「あの木の名は?」と聞かれ、わからないので「なんじゃもんじゃ」と答えたとされます。

他にもいろいろあるみたいです。

そろそろランチを、ということで「久木屋」さんへ入りました。
「川幅御三家うどん」を注文しました。ちくわは1本丸々入っていて、うどんは食べずらいですが、もちもちで美味しいです。

鴻巣御殿

鷹狩り用の別荘として1601年(慶長6)頃に家康が建築したものとされます。当時の鷹狩りの真の目的は各地の情勢を探るものだったようです。

家康・秀忠・家光と3代に渡って使用されましたが、1657年(明暦3)の明暦の大火後、解体して江戸城に運ばれ、再建の建材として使用されました。御殿跡には東照宮が設けられ現在も小さいながら残っています。

鴻巣宿本陣跡

小池家が代々世襲し、脇本陣は当初は2軒ありましたが、幕末は瀬山家1軒が務めていました。

中山道鴻巣観光案内板

ベンチの支柱が鴻巣宿のシンボル、お雛様になってました。

木村屋製菓

明治時代創業の和菓子屋さんです。鴻巣の銘菓「いがまんじゅう」を買いに入りましたが、今日はもう売り切れだとか・・・残念でした。いがまんじゅうは、饅頭をさらにお赤飯で包んだもので、美味しそうだったので食べたかったです。

田沼家の蔵

明治時代の建造です。

鴻神社

1873年(明治6)に雷電社・熊野社・氷川社を合祀して鴻三社とし、その後1902年(明治35)頃、東照宮など多くの社を合祀して「鴻神社」となりました。

こうのとり伝説

この地に大木があり、人々は「神様の木」として大切にしていましたが、お供えをしないと災いを起こすので、人々は困っていました。ある時、こうのとりがやってきてこの大木に巣を作り卵を産みました。すると大蛇が現れ卵を飲み込もうとしましたが、こうのとりは矢のように舞い戻り大蛇と戦い、追い払いました。その後、災いもなくなり、平和な日々が続いたので、その下に宮をつくり「鴻の宮」と名付け、土地の守神としました。そしていつの頃からかこうのとりが巣をかけた所として「鴻巣」と呼ばれるようになったということです。

池元院の題目塔

池元院には「蘭渓堂碑」があります。蘭渓堂如水は書道を長年教えていました。明治14年、門弟たちによって筆塚が建立され、郷土の指定教育に生涯を捧げた如水の功績を称えて、碑が作られました。

鴻巣宿周辺は、平成の道標があちこちにあるので、道がわかりやすいです。

箕田一里塚跡

アパートのちょっと先、自動車板金塗装店あたりのようですが、塚はもちろんありませんが、案内板等もないです。

箕田白山神社

風土記によると、文明年間(1469〜1486)創建。頼義の駒繋ぎの杉があったとされます。源頼義だと思われますが頼義は988年〜1075年、神社創建前の逸話でしょうか。現在、杉は1本も見当たらないため、もうないのでしょう。

馬頭観音

明治28年、宮前の荒井さん建立のようです。

箕田観音堂

源経基が兜に付けていた馬頭観音を本尊としているそうです。箕田は、源氏の伝説や逸話がたくさんあるところです。

嵯峨天皇の流れをくむ源仕(みなもとのつこう)は、平安時代に武蔵国に赴任したのち足立郡箕田郷に土着して箕田源氏の祖となりました。

観音堂の対面は「観音前立場」となっていました。

龍昌寺

1097年(永長2)開山。1591年(天正19)には寺領五石の御朱印を拝領しており、末寺三十六ヶ寺を擁していたといいます。

糟田河岸地蔵道標

このあたりの路地に「糟田河岸地蔵道標」があるはずだけれど見当たりません。恐らく、新しい建売住宅のところだったのでしょう。開発に当たりどこかへ移設したと思われますが・・ 自宅へ戻ってから鴻巣市の文化財課へ聞いてみました。4日後、調べていただきお電話を頂けました。やはり新しい家を建築したときに道路査定をされて、そのときはあったそうです。 その後、住宅業者の着手時には既になくなっていたそうで、元の地権者さんがどこかへもっていったか、なぞの人物が処分したか・・結局は行方不明だそうです。

とっても残念です・・このような形でいろいろなものが行方不明になってしまうのでしょうか・・市役所の方には、お忙しい中いろいろ調べて頂き、ほんとうにありがとうございました。

英霊塔と宝持寺の入口

英霊塔は戦死者を祀るものですね。宝持寺渡辺綱が祖父と父を弔って建立したと伝えられ、「渡辺姓発祥の地」といわれ、境内には全国渡辺会が建立した顕彰碑があり、多くの渡辺さんが訪れるそうです。

氷川八幡神社

八幡宮と氷川八幡神社は共に10世紀ころに箕田源氏が創建しました。明治元年に合祀したものが、現在の「氷川八幡神社」です。(パンフレットには明治6年、案内板には明治元年となっている。本当は? 源仕が箕田源氏の祖、その子供が源宛、宛の子が渡辺綱、三代はこの地を拠点として歴史に名を残す活躍をしたのです。

氷川八幡神社 絵図

境内には渡辺社や箕田碑も描かれています。

箕田碑

武蔵武士発祥の地として後世に伝えるため、江戸時代中期(1759年、宝暦9)に建立されました。渡辺綱の辞世の句や芭蕉の句も刻まれています。

源仕を初めとする源氏三代の館は氷川八幡神社の北側にあったと伝えられます。現在も周辺は殿山と呼ばれていますが、当時を偲ぶものは何もありません。

馬頭観音

裏に建立の年代などがあるのでしょうが、見ることができません・・ですが、このような文字だけのものは比較的新しいものでしょうね。文字もまだくっきりしてますし、明治時代頃のものでしょうか。

石碑の残骸か?箕田の追分にあった道標? もう字も読めないですし、折れていますし・・なんだか分かりません。案内板を設置してほしいですね。

箕田追分地蔵

中山道と忍館林道への分岐点で、かつては立場もありました。お地蔵様が道行く人を見守っているのは、今も昔も変わりません。

箕田の追分案内板と平成道標

案内板には、箕田源氏三代の歴史や功績、中山道箕田追分の説明などが記載されています。

箕田の追分の描写

根本山(群馬県桐生市)に参詣する人のために発行された旅行案内の一部です。箕田と館林道の道標、富士屋という立場、地蔵菩薩などが描かれています。 この絵の箕田追分地蔵がかなり巨大に描かれています。人間の2.5倍くらいありますね。それほど大きく見えたのか、誇張したのか・・

六地蔵石塔

横に3体の2段づみになっています。このような六地蔵はあまり見たことがありませんでした。

べったら塚古墳

直径23m、高さ2m、埴輪片、土器片が出土しているそうです。

「中山道分間延絵図」の箕田の追分の先に祠らしきものと塚のようなものが書かれていますがこの古墳と六地蔵でしょうか・・ 「べったら」とはどういうことなのでしょうか。ひらべったいとか?

鐘馗様

個人宅のお社ですが、屋根に鐘馗様をのせていました。

英泉 鴻巣吹上富士遠望の碑

英泉の描いた鴻巣は、人家の途絶えた寂しい道の風景でした。旅の商人や僧が行きかう背後に雪をかぶった富士山が描かれています。関東平野の向こうに裾野まで見える雄大な富士が描かれています。しかしここは吹上村ではなく、富士山の方向と共に矛盾点も指摘されています。

前砂一里塚跡

六地蔵も一里塚横にありましたが、現在はすぐ南の龍昌寺に移設されています。榎が植えられた一里塚でしたが、現在は両塚とも残っていません。

中山道分間延絵図に見られる「前砂一里塚」

16:30 今日はここで終了です。 ここからあと10分ほど歩いて今日宿泊する「ルートイン鴻巣」へ向かいます。

三ツ木堰公園の句碑

二つとも後に信濃芭蕉と言われた加舎白雄の作品でした。何度も吹上を訪れ、多くの俳人を育てたということです。

馬ほこり 縄も忘れし ひと間哉

この中に わかきはたれ 屠蘇(とそ)の酒

1780年(安永9)、正月の宴に加舎白雄を招いたのは前砂村の薬師で俳人、細谷一羽でした。もともとは吹上高校入口に設置していたものがここへ移されたらしいです。

三ツ木堰

江戸時代の新田開発に伴い、農業用水確保のために設置されました。明治35年にレンガ作りに改築され、現在の堰は平成5年から平成15年にかけて改修したものです。

元荒川

しらさぎが5、6羽、反対側にはかもの群れ。