山が見えない「六国見」と武蔵国一宮から大都市へ

2018年10月6日

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14:15 次の大宮宿へ向けて頑張りましょう。今日は大宮までの予定です。

あれ?こんなところに踏切が

鉄道模型屋さんでした!

浦和一里塚はこのあたりだったようですが、現在は塚はもちろん案内もなく、不明です。

笹岡神社

東北本線を渡り、線路の脇に「笹岡神社」があります。ここにも大きなケヤキがありました。

レディア像

浦和レッズのマスコット。公式サイトには『1992年、当時のチーム名「三菱浦和フットボールクラブ」のアルファベットの頭文字「MUFC」を縦に並べ開発された架空の動物。頭脳は知性、ハートは勇敢、体力はエネルギッシュ。力強く精悍なイメージが特徴』とありますが、「MUFC」を縦に並べ・・の意味が全くわかりません。

廓信寺

1609年、浦和郷の代官中村弥右衛門尉吉照が岩槻藩主・高力清長の追福を目的とし創建しました。境内には、浦和塾の儒者小泉蘭斎の墓や、最後の敵討となった針ヶ谷の「一本杉の仇討」で討たれた河西祐之介(丸亀藩)の墓がります。また、さつまいも・紅赤の発祥地として案内が掲げられています。

紅赤の発祥地

江戸時代以来、関東でサツマイモといえば「アカヅル」「アオヅル」という品種が主でした。1898年(明治31)、山田いちは、「八ツ房」という品種のサツマイモを作っていたところ、突然変異した鮮やかな赤色の芋を見つけ、甥の吉岡三喜が「紅赤」(俗称 金時)と命名します。「紅赤」は、たちまち関東一円に普及、「サツマイモの女王」といわれるようになりました。 廓信寺は二人の菩提寺であることから、ここへ案内が設置されているようです。

針ヶ谷庚申塔

元々は、北西100mほどの落合境にあったものが移設されたそうです。狭苦しく可哀想な感じです。

青面金剛像と三猿が彫られており、1714年(正徳4)の建立と書かれています。

六国見

中山道と赤山道が交差するこのあたりには立場茶屋があり、関東六国の山々を見渡せる見晴らしの良い名所として知られていたそうです。「英泉 大宮宿 富士遠景」はこのあたりからの景色です。

一本杉の仇討跡

1860年(万延元)、水戸藩士宮本佐一朗と丸亀藩の浪人、河西祐之助が口論により宮本が切られてしまいます。河西はこの斬り合いで負傷したものを同年に起こった桜田門外の変の逃亡者と疑われ取り調べを受ける羽目になり、居所を宮本の息子慶太郎に知られることになってしまいます。そして慶太郎はこの針ヶ谷の一本杉で待ち伏せ、父の仇をとりました。

杉は、樹高18m、幹周3mといわれ、松並木でもひときわ目立つ大木だったそうですが、昭和18年の落雷により焼失してしまいました。

与野半里塚のケヤキ

浦和宿と大宮宿の中間にあり、「半里塚」と呼ばれていました。推定樹齢は300年とも500年以上ともいわれ、樹高30m、幹周6m、平成22年に倒木の危険があるということで伐採。切株が与野駅に展示されているそうです。現在は、すっきりとした道路となりました。昔の写真を見るとケヤキの大木が道路の中央にどーんと居座っていました。これだけの存在感がなくなるのは寂しいですね。

さいたま新都心に近づいてきました。ビル群にびっくりです。

さいたま新都心は、東京都区部以外で首都を補完し、地域の中心となるべき都市として国鉄大宮操作場跡地の有効活用として再開発が進められているそうです。

日本郵政グループさいたまビル

随分と変わったデザインですね。

高沼用水の水門を噴水として整備したのでしょうか。

女郎地蔵尊・火の玉不動尊

お女郎地蔵尊のいわれ

親に捨てられ、宿の人に拾われて育てられた千鳥と都鳥という姉妹。借金のため柳屋という旅籠の飯盛女として働きます。千鳥は、材木屋の若旦那と恋仲になり、末は夫婦にと誓い合っていましたが、悪名高い盗賊、徳次郎は千鳥を見初め、何が何でも身請けすると言い出し、柳屋の主人が渋ると宿に火をつけると脅しました。千鳥は主人に迷惑をかけられないと、高台橋から身を投げてしまいました。その頃から高台橋あたりに千鳥の人魂が飛ぶようになり、哀れに思った近くの人々によって霊魂を慰めるため、「お女郎地蔵」を建てたといわれています。

火の玉不動のいわれ

その頃、高台橋の付近をふわふわ飛ぶ火の玉を千鳥の霊魂だという者もいれば、傍にあった不動明王の仕業という噂もありました。正体を見極めようと思った男は火の玉を切りつけました。火の玉は「キャー」というと消え、すごい形相の男が現れ「俺は不動明王だ!」というと消えてしまったといいます。それからこの不動明王を「火の玉不動」と呼ばれるようなったとされます。 数々の悪行を重ねた徳次郎は、1789年(寛政元)、高台橋そばの下原刑場で処刑されたそうです。

高台橋

享保の改革の一環として行われた高沼(鴻沼)用水と中山道との交差点に架けられた橋です。高沼用水は見沼代用水から取水する農業用水。江戸時代の橋は土橋でしたが、明治22年頃にレンガ造りになったようです。千鳥はここから投身したとされます。

写真は中山道側から写しましたが、橋はフェンスの下で直接の撮影は難しいです。さいたま新都心駅の1番ホームからしか見えないそうです。

下原刑場

江戸時代、高台橋の周辺は原っぱだったそうです。現在のさいたま新都心駅の東側、商業施設コクーンシティのあたりに刑場があったようです。

ムクドリは葉の多い樹木が好きなようで、特にケヤキは好みます。人間が暮らすごちゃごちゃしているところのほうが安心して暮らせるようです。私の住む町でもムクドリが多く、特にケヤキは住民からうるさい、糞が迷惑と苦情が多く、常に丸裸です。夏の緑陰にもなりません。ここでは、衝撃音をムクドリが集まる夕方から夜にかけて流していてかなりの効果を上げているそうです。

ケヤキが多いですからね。

氷川神社の一の鳥居

大正期は石の鳥居でしたが、関東大震災で破損してしまいました。1940年(昭和15)に三の鳥居をここへ移築しました。大宮一里塚もこのあたりにあったようですが、案内がないため、わかりません。

武蔵国一宮碑

1722年(享保7)築造。参道の石碑の中では最も古い石碑です。江戸中期の書家佐々木文山の書です。明治の廃仏毀釈により、下部の「本地正観音」が削られ、裏面の「官幣大社」は、戦後にモルタルにより塗りつぶされています。時代に翻弄された石碑ですね。

一の鳥居広場

なぜか井戸がありました。新しい公園です。

15:30 この広場で少し休憩します。

安藤橋碑

1775年(安永4)、北澤家の失火により、大宮宿85軒が消失(北澤大火)。勘定奉行・道中奉行であった安藤弾正(安藤惟要・これとし)は、被災者に御用米と御用金を使い、焼け出された人を救いました。しかし独断による措置だったため、切腹する事になってしまいます。死を悼む人々は徳を称え、「安藤橋」と呼ぶようになったとされます。

小さな石のため、見逃さないように気を付けましょう。

塩地蔵尊と三体子育地蔵尊

奥が塩地蔵尊、手前が三体子育地蔵尊です。明治までは吉敷町4丁目の線路敷に祀られていましたが、道路拡張のため1921年(大正10)にここへ移設されました。

塩地蔵尊への案内板

モザイクタイルでお地蔵様が描かれていて、とってもセンスがいいです。

塩地蔵尊の由来

妻に先立たれ、二人の娘を連れた浪人が大宮宿で病に倒れると、夢枕に地蔵様が現れ、二人の娘に塩断ちをするよう告げて消えました。娘は塩断ちをし、近くの地蔵様に祈ったところ、父が全快しました。この言い伝えにより、塩を供えるようになったそうです。

空家が歩道に食い込んでいますね。最近話題の『空家問題』

インターネットで検索すると意外な事実が・・結構有名な話だったようです。この空家が最後に登記されたのは1897年(明治30)、相続登記されないまま120年以上経つそうです。代替わりすることに相続人が増え、6世代、数十名になるようです。さいたま市が動いたけれど、一部の親族の協力が得られないままどうにもならないそうです。危険防止のため、市がフェンスだけは作ったようです。 今後、このような問題が多くなっていくのでしょうね。

涙橋

正式な名前は「中之橋」といいます。。高台橋付近にあった下原刑場へ連行される罪人を親族が見送った橋です。昭和42年に第四銀行建設時の造成工事にて橋桁の枠石が出土し石碑としています。「涙橋」は東海道品川宿にもありましたね。あちらは鈴ヶ森刑場に連行される場所でした。

大宮高島屋(北澤稲荷)

北澤家は徳川家の鷹場本陣(鷹狩時の宿)と宿駅の脇本陣を兼ねていましたが、先にも出てきましたが、北澤大火の出火元となってしまいました。現在は、高島屋となり屋上の片隅に「北澤稲荷」が残っているそうです。(屋上へは行きませんでした)

臼倉本陣跡

大宮宿の本陣は、この場所にあった「臼倉本陣」です。脇本陣は北澤家を含めて9軒もあったようです。旅籠は25件。脇本陣の数と旅籠の数がとってもアンバランスですね。つくばいの流水は当時からの井戸水だそうですが、流れていませんでした。

大宮駅

JR東日本、東武鉄道、埼玉新都市交通が通り、14路線が乗り入れる巨大ターミナル駅。鉄道博物館などの鉄道施設が数多く立地し、大宮は「鉄道の街」として知られます。鉄道博物館は、日本橋を出発して万世橋のところにありました。埼玉に移転したと書きましたが、ここに来ていたのですね。

本陣稲荷

すずらん通り奥に本陣稲荷だけが残っています。本陣は文政年間に山崎家へ移りました。

すずらん通り

狭いアーケード商店街でが、人がいっぱいで活気があります。大阪のアーケード街と似ています。

栗原家の持仏堂

大宮宿で脇本陣を3つも営んでいた栗原家代々の座像を安置しているそうです。栗原家は大宮に土地を多数所有し、尖閣諸島の南小島、北小島も所有し2012年(平成24)に国に売却しました。

JAの豊穣の鐘

音楽とともに鐘から人形が出てきて、収穫の喜びをカリヨン演奏で表現していたようですが・・今は鳴らないようです。ご近所から苦情でもあったのでしょうか。

土手町のシイノキ

旅人の目印として2本のシイノキが植えられたそうです。今も道路にはみ出していますが、江戸時代にも中山道にはみ出していて、大名行列は枝葉をよけて通行したそうです。

氷川神社裏参道碑

「官幣大社 氷川神社」と刻まれています。古中山道は、氷川神社の参道を通っていたため、関東代官伊那忠治により1628年(寛永5)、一の宮鳥居前から裏参道に通じる現ルートへ変更されました。

大山道道標

1860年(安政7)建立の道標。「大山 御嶽山 よの 引又 かわ越街道」と刻まれています。与野・引又・川越から奥多摩の御岳山や相模国の大山詣の道を示しています。 ですが、ここに道はないのです・・廃道となったのでしょうか。或いは移設されたものでしょうか。
16:50 今日はここまでにして、ここから本日の宿「おふろcafe」まであと1.5kmほど歩いていきます。

大宮までの道のりは・・江戸時代の中山道の面影はほぼゼロでした。特にさいたま新都心付近はたくさんの歴史があったようですが、その面影は道路脇にちょこんと残る「お女郎地蔵尊・火の玉不動尊」だけでした。遺構はあまりないですが、人々の活気だけは当時と変わらないかも知れませんね。大宮駅前は宿場町らしい活気がありました。