2021年7月23日

「ツール」⇒「作図・ファイル」⇒「アイコンのラベル表示」にチェックを入れると名称が表示されます。 KMLファイルに変換することでgoogle mapへのインポートもできます。

13:15 上松宿をあとに須原宿へ向けて進んでいきます。

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中沢

かなり高い場所に橋がかかっています。橋の名前はわかりませんが、分間延絵図では「中沢板橋」で、江戸時代は板橋が架かっていたようです。中沢を過ぎると「見帰集落」に入ります。

三帰の翁

昔、ある翁が晩年になってこの地へ移り住み、以後3度他の土地に移りましたが、この地が忘れられず、3度とも帰ってきたといいます。寝覚の床に翁がつり糸を垂れて楽しんだというので、寝覚の床の浦島伝説は三帰の翁の話から発生したものとも考えられています。

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常夜灯

600mほどで左手に常夜灯があります。この場所には以前は常夜灯と石仏がたくさんあったようですが、造成されており、常夜灯は少し移動しています。石仏はなくなったようです。

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石仏群

常夜灯を過ぎるとすぐに左手に石仏が並んでいます。さらに200mほど進むと「寝覚立場」です。
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寝覚立場本陣(多勢屋)

手前が上段の間がある茶屋本陣「多勢屋」、平成17年まで民宿をしていました。奥が「越前屋」です。共に蕎麦屋を兼ねていました。

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越前屋

多勢屋から道を挟んだ角にあるのが「越前屋」です。浦島太郎の長寿にちなんだ「寿命そば」が名物でした。「続膝栗毛」の弥次さん、喜多さんが味わったそば切りの名所でした。現在の建物は大正元年に建築されたものだそうで、確かに大正期のモダンな感じがあります。

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木曽街道中膝栗毛と続膝栗毛に描かれた越前屋

「寝覚の床」へ寄るため、多勢屋と越前屋の間の道を右へ曲がっていきます。

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寿命そば「越前屋」

寝覚立場の「越前屋」が国道へ場所を移して、現在も営業をしています。

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臨川寺

1864年(元治元)焼失し、現在の建物はその後の再建です。また、16世紀の中頃、京都の医師、河越見帰がこの地で晩年を過ごし、百歳を超える長寿だったとされ、浦島太郎が使用したという釣り竿が保管されています。
「寝覚の床」へは臨川寺から下りる道がありますが、利用料金200円が必要です。境内にはたくさんの石碑や句碑もあります。

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明治天皇寝覚御小休所碑と御前水碑

1880年(明治13)8月の巡幸の際に臨川寺で小休されました。

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芭蕉句碑

『昼顔に昼寝せふもの床の山』

松尾芭蕉が「更科紀行」に記した旅へ出たのは1688年(貞享5)でした。岐阜より名月を見る旅として信州更科へ向かいました。 明和7年建立。

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山頭火句碑

『おべんたうを食べて洗って寝覚の床で』

種田山頭火が木曽路を訪れたのは1939年(昭和14)、「旅日記」にその行程が記載されています。
横井也有の句碑、貝原益軒歌碑もあるらしいのですが・・・どこにあったのかわかりませんでした。

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正岡子規句碑

『白雲や青葉若葉の三十里 子規』

昭和11年、子規の35回忌年に北原痴山の揮毫で建立されました。痴山は明治31年、「飯田松声会」を発足し、子規の指導を受けています。

子規が木曽路を旅したのは明治24年、まだ学生の頃でした。馬籠峠でこの句を詠んだとされます。
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浦島太郎姿見の池

玉手箱を開けて老人になってしまった浦島太郎がその変わり果てた姿を写して見たという言い伝えが残っています。

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弁財天堂

1711年(正コ元)この地に立ち寄った尾張藩主4代、徳川吉通が母堂の長寿を祈願し、弁財天堂を建立するよう命じ、翌年に完成したものです。大工は名古屋の岩崎治兵衛ほか4名、石工は高遠より3名が来ています。
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臨川寺から望む「寝覚の床」

謡曲と寝覚の床

寝覚の床は昔、修験者が修行を行った地で、不老長寿の霊薬が採れたとの伝承から浦島太郎や三帰の翁の不老長寿の伝説が生まれました。

謡曲「寝覚」では、長寿の薬を三度飲んで、三度若返り、千年生きたという三帰の翁の名は都まで伝わり、醍醐天皇は霊薬を欲しがり、勅使が三帰の翁に会いにやってきました。三帰の翁は実は医王仏の仮の姿といい、寝覚の床で天女と舞を踊ると竜神が現れ、霊薬を授かり喜んで醍醐天皇に捧げました。

謡曲「飛雲」では、羽黒山の山伏が木曽路を旅して老いに疲れた老人に逢います。夜が更けると老人は鬼神と化し、盤石を砕いて襲いかかり、山伏は必死に経を読み、役の行者に祈って鬼神を退けます。

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それではいよいよ「寝覚めの床」へ下りて行きます。

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寝覚の床美術公園

高さ3mの日時計など、浦島太郎伝説にちなみ「時」をテーマとした彫刻などが展示されています。
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寝覚の床

木曽川の激流が花崗岩の岩盤を長い年月に渡って侵食して出来たもので、方状節理甌穴が発達し、様々な奇岩には名称がつけられています。国の天然記念物にも指定されています。 しかし、木曽川の水は水力発電に利用されているため、水量が乏しくなり昔よりも豪壮さを失ったといいます。

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浦島堂

浦島太郎を祀る小さなお堂です。竜宮城から戻った浦島太郎は諸国を旅して回り、途中で立ち寄った寝覚の里の美しさにひかれ、ここに住むようになりました。ある日、昔を思い出して岩の上で玉手箱を開けてみたところ、三百歳の老人になったといいます。
寝覚の床から臨川寺へ戻るのがちょっと大変。標高差は55mほどで、結構登ります。

臨川寺をあとに本日の宿泊地「ねざめホテル」に向かいます。臨川寺からはほんの200m、15:00ちょうどくらいに到着しました。

2021年7月24日

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9:30 宿泊したホテルを出発し東へ130m、寝覚簡易郵便局あたりから中山道へ入ります。 右手に案内板、左手には南無阿弥陀佛などの石仏があります。上松中学校を左手に見て進むと滑川の段丘を下りる石畳の道になります。
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上松の石畳

旗本、飯塚正重による「藤波の記」によればこの付近「松原」に赤松の大木があったそうです。松はなくなってしまいましたが、石畳は補修して綺麗になっています。

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滑川橋

木曽の桟、伊奈川橋と並び、木曽の三大橋と呼ばれていました。

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滑川

木曽駒ケ岳を源とする木曽川の支流です。ここから1kmほどで木曽川に合流します。
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馬頭観音

橋を渡った左側20mほど先の左手にあります。

1804年(文化元)、尾張藩が滑川橋を大改修した時に馬頭観音上の岸壁に摩崖銘文「石垣 文化元甲子年八月出来」が刻まれているそうですが、ほとんど読めません。かすかに右側に文字のような凸凹があるような・・ないような・・

道なりに500mほど進み、JRに沿うように更に350mでJR高架下をくぐります。くぐった先に民家があり、この民家の前を入って行くのですが・・・道なのか、民家の敷地なのか・・不明瞭で入っていく勇気がなく、そのままアスファルトの道を進み、国道19号へでて「小野の滝」方面へ。

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小野の滝の手前はこのような草つけ道となっており、ここが先程の民家とつながっているようです。
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小野の滝

木曽八景の一つに数えられ、落差30mほどありそうです。明治42年には鉄橋が架けられ往時の面影はなくなりましたが、水量は豊富で迫力はありました。かつてここを旅した細川幽斎は、布引や箕面の滝にも劣らないと誉めています。また、信濃の国の浅井烈も句を残しています。

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木曽名所図会の小野の滝

寛文の頃(1661〜1672)までは谷の両側に鉄鎖(鎖場)が懸かっていたという記録もあります。

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小野の滝の石仏

不動尊の小堂と明治5年建立の石碑、文政4年の銘がある常夜灯が滝のたもとにあります。御嶽道者らが立ち寄り、水行を行った名残とされます。
小野の滝から700mほど国道を進み、左手の脇道へ入ると「荻原集落」です。国道から入るとすぐに「荻原一里塚跡」があります。

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荻原一里塚跡

荻原集落入口にありました。塚はありませんが、往時は左右とも榎が植えられており、高札場があったとされます。
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荻原集落と二十三夜塔と題目碑

荻原集落は北にある鹿島神社が氏神です。鹿島神社西側にあった観音堂の観音像は、荻原公民館内へ安置されているそうです。

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風越山の湧水

昭和30年頃より飲用として、また生活用水として利用されてきました。水質検査もされていますので、安心して飲むことができます。浄財を入れると音楽が鳴る楽しい仕掛けがされていました。

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荻原の地蔵

荻原公民館の裏にぽつんと地蔵が佇んでいました。
荻原集落を過ぎると再び国道が中山道となります。400mほど国道を進み、左手のJRの高架下をくぐり旧道へ入り、「串ケ下集落」、「宮戸集落」と続きます。

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緩い坂道を登っていきます。このあたりが宮戸集落だと思われます。

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材木集積場

木曽川の奥に材木の集積場が見えました。上松は秋田、青森と並ぶ日本三大美林の一つがあり、木曽五木の集散地として発展した町です。

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木曽古道入口の石仏群

713年(和銅6)に美濃守が開いた吉蘇路(きそのみち)は池の尻、東野、吉野を通っていました。中部北陸自然歩道として指定されています。
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往時を偲ばせる旧家

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くるみ坂

くるみ坂を下りきるとこの先は廃道になっていますので、右手のJRのガードをくぐり、国道へ出ると左手すぐあるのが神明神社の鳥居です。

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神明神社

神社へ入っていくと・・・あれ?本殿はJRの向こうに・・神明神社本殿へは先ほど下ったくるみ坂の先にあったようです。そう言えば真っ直ぐには階段があったのでそれを登ればよかったのですね。失敗しました。
国道からすぐに左手の道に入っていきます。JR沿いを道なりに進むと再び国道と交差し、国道を歩道橋でわたります。歩道橋を下りた所に「明治天皇立町御小休所碑」がありました。

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明治天皇立町御小休所碑

明治13年、明治天皇が中山道を通られた折、ここで御小休されたのを記念して建てられたものです。
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立町立場跡(立町集落)

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立町の水場

3箇所の水場がありました。

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諸原吊橋

対岸の諸原へ行くための吊橋です。

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諸原吊橋から木曽川を望む

立町を過ぎると国道へ合流し、暫くは国道を進みます。倉本駅から左手の山へ登っていきます。その前に倉本駅の駅舎で一休み。無人駅ですし電車は2時間に1本程度ですので、誰もいません。炎天下の中、駅舎は屋根があってありがたい休憩場所です。

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倉本駅開駅記念碑

駅舎の北側、草に埋もれるように碑がありました。開駅20周年を記念して、昭和43年に建立、当時国務大臣であった増田甲子七の書となっています。

倉本駅開駅物語

中央線建設当初は駅は設けられていませんでしたが、大正時代に入り輸送力増強のため、上松〜須原の中間の立町に信号場を設けることになりました。しかし地元の同意が得られなかったため倉本の住民と交渉しました。倉本は集落中心地から外れていたため、同意が得られ、信号場は倉本に設置されました。この信号場は桃山発電所の建設時には大いに貢献したそうです。乗客の乗降はできませんでしたが、住民の強い希望により負担金を条件に駅へ格上げされました。しかし村にとっては負担金は容易ではなく、駅舎建設の木材は町有林の檜を伐採、運搬・整地・建築などは住民で行われ、負担金に充当したとされます。こうした住民の努力により、1948年に倉本駅が開業しました。
倉本駅を出ると、道はヘアピンカーブの上り坂となります。

TOO001 倉本のあたりは木曽川が迫っていたようで、木曽川の段丘を登った倉本集落を通行していたようです。分間延絵図でもクネクネした道が描かれています。

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倉本の石仏群

石仏の中央部にある庚申塔は、「除三尸之罪(のぞくさんしのつみ)」と彫られています。人間の身体には誰でも三尸九虫が宿っており、人が寝ている間に天へ登り天帝へ人の罪を告げ、これが五百になると死ぬと言われていました。そこで庚申の日に虫が天へ登らないように夜通し起きているそうです。1727年(享保12)上松町では一番古いものです。

右手にある徳本名号碑も木曽では大変めずらしいものです。

TOO001 道かな・・?庭かな・・というようなところを入っています。よく見ると木製の案内板に「中山道」と書いてありますね。葉っぱに覆われていて一瞬、気づかなかったです。未舗装の坂道を下りると玉石積みの坂道から大沢沿いのアスファルトの道へ出ます。150m程度で国道19号へ合流し国道を進みます。

国道を400m進むと右手に「倉本一里塚跡」の石碑がありました。

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倉本一里塚跡

石碑より南に20mほどの場所にあったそうですが鉄道の拡張で壊されました。「今でもこの民家は屋号を一里塚と呼ばれています」と案内板にありますが、南20mには竹やぶで民家は無いように見えます。
倉本一里塚跡から100mほど進むと右手から旧道へ入っていきます。

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桃山発電所

1923年(大正12年)に運転を開始した水力発電所です。発電所の名前は当時の大同電力社長であり、「電力王」と呼ばれた福澤桃介の名前にちなむそうです。戦後は関西電力に引き継がれています。

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アスファルトの道をしばらく進むと未舗装の道になり、閉店したお店と国道の間を進むと国道へ合流します。ここから「上郷本村立場」へ繋がっていた道は廃道となっており、国道を進むしかありません。
「上郷本村立場」にはJRの線路を越えなければなりませんので寄りませんでした。生活用踏切があるとの資料もありましたが、雑草に覆われており、かなり先へ進まないと行く道はなさそうです。

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上郷本村立場へ行くのは諦めて、国道を600mで右手に旧道が残っていますが、400mほどで再び国道へ合流します。さらに国道を900m進むと左手、JRの高架をくぐり「神明神社」へ向かいます。

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神明神社

大きな杉に囲まれるように小さな社殿があります。杉は「村指定天然記念物」に指定されています。

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神明神社の五輪塔

室町時代のものと書かれていますが、詳しいことはわかりません。「村有形文化財」に指定されています。
再び国道へ戻り、須原宿を目指して進みます。

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林道 松渕沢線開設記念碑

いつ頃開通したのでしょうか・・資料がなく、詳細がわかりません。
TOO001 やがて国道から左手へ入る歩道がありますが、ここが旧中山道ではありません。ここからJRの線路を越えたあたりまで登って高巻きに須原へ向かっていました。鉄塔のあたりを通り「えげ坂」という坂を経て須原宿へ通じていました。線路開通のため廃道になっていますので、この歩道を進みます。

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須原宿 一里塚跡

駅へあがる坂の右手に碑がありますが、本来は「判行坂」に一里塚と高札場があったそうです。駅前の道は明治に出来た道です。

まずは明治道を通り、須原駅方面へ向かいます。右手に「大和屋」がありました。

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大和屋

元は中山道沿いにありましたが、大正初期に現在の須原駅前へ移転しました。往時は茶屋であり梅・桜・茶・菊・ハッカなどの花を塩漬けにした四季の花漬を商っていました。
現在も販売しているとのことで、お店に入り聞いてみましたが、購入できませんでした。大和屋さんのものではないですが、桜の塩漬けは普通のスーパーでも購入できます。現在も結納などのおめでたい席では「桜茶」やお料理に添えてあったりしますね。

駅前の左手には「幸田露伴文学碑」があります。

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幸田露伴文学碑

文豪、幸田露伴は明治22年の冬、木曽路を旅して須原に宿泊しました。この旅をもとに「風流佛」を著しました。石碑には文中の一説が刻まれています。幸田露伴は小説のみならず、紀行、戯曲、さらには史伝など数々の名作を生み出しています。

風流佛

修行のため旅をしていた彫刻家は、木曽の花漬売お辰と出会い恋をし、結婚の約束をします。しかし突然、伯爵の執事という男がお辰を連れて行ってしまいます。悲しみにくれる彫刻家はお辰への想いを彫刻へ込めて一身不乱に彫り続けるのでした。激しく純粋な愛情と名匠気質を浪漫的に描いた物語です。

登ってきた明治道を下り須原宿 一里塚跡の石碑まで戻り、旧中山道を進みます。

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判行坂

写真左手のガードレールがある坂を登ります。少し草がありますがなんとか歩けます。少し上がると写真右のような状況です。

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判行坂

さらに登ると路地になり、道らしくなってきました。右手には立派な旧家も。一里塚、高札場の案内はなかったですね。

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須原宿

本陣、脇本陣は1軒ずつ、旅籠は天保14年の記録では24軒ありました。

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脇本陣西尾酒店

脇本陣、問屋、庄屋も兼ね、西尾家が努めていました。西尾家の祖は菅原氏であり、江戸時代からは酒造業、山元締もしていました。

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清水医院跡

島崎藤村の「ある女の生涯」の舞台となった清水(蜂谷)医院跡です。建物は明治村(愛媛県犬山市)に移築保存されています。

行灯のようなものは、ボタンを押すと「須原ばねそ」の「よいこれ」が聞けます。
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正岡子規歌碑と水舟

『寝ぬ夜半を いかにあかさん 山里は 月出づほどの空だにもなし』

子規が木曽路を歩いたのは明治24年、「かけはしの記」が残されています。またこの旅をもとに翌年、漢詩「岐蘇雑詩三十首」を著しています。

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水舟の里 須原

須原宿には多くの水舟や井戸があります。

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本陣跡(案内板のみ)

本陣は問屋も兼ね、木村氏が務めました。問屋は上問屋、下問屋と呼ばれ、半月交代で行っていました。須原に宿泊した伊能忠敬は本陣で北極星の観測を行い、浅草の暦局とおよそ同緯度とした記録が残ってるそうです。

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常夜灯と鹿島神宮仮宮

鹿島明神へ寄るのを忘れてしまいました。
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須原宿の町並みと水舟

須原宿は最初は現在地より下流の川岸にありましたが、1715年(正徳5)の洪水でほとんどが流出したため、「富岡」と呼ばれていた現在地へ移転しました。そのため計画的な町並みが作られたということです。

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民宿すはら

14:45 本日は「民宿すはら」に宿泊します。一軒丸々借りることができます。

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子供神輿が置かれていました。今日はお祭りだったそうですが、お昼過ぎには終わってしまったそうです。残念!