茶屋本陣、だるま工房、達磨寺へ参拝し、大海老天ざるを食す!

2018年12月16日

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12:00 君が代橋を渡り、板鼻宿へ西へ向かいます。天気があまり良くありません。どんよりと曇っています。

浅間山

君が代橋で烏川を渡ります。右手に浅間山、左手に観音山の白衣大観音が小さく見えました。

万日堂

昭和56年に君ヶ代橋の改良工事のため、中山道南にあった堂を北側へ移動しました。本尊は「みかえり阿弥陀像」で、こうした形態の阿弥陀像は数少なく、珍しいそうです。

下豊岡の石神社

石を神として崇拝する石神信仰のひとつです。昔は神殿にしゃもじを寄進して家内安全を祈願したそうです。道祖神には、「明和元年社宮司村」と刻まれています。

道標

「右はるなみち くさつみち」と彫られています。国道整備によってここへ移されました。

八坂神社

大きな道標は「下豊岡の道しるべ」で、正面に「草津温泉、かわらゆ温泉」など温泉地への案内、左面に「中山道 安中、松井田、横川」と彫られています。一旦は先ほどの道標と同じ場所に移設されましたが、後に本来の場所へ戻されました。

徐々にだるま工房が多く見られるようになってきました

若宮八幡宮

平安末期の1051年(永承6)、源頼義・義家父子が奥州の安倍氏鎮圧のため豊岡に仮陣屋を設け、戦勝を祈願するために建立したと伝えられています。境内には義家の腰掛石があるそうですが・・見当たりません・・というか、いろいろな石がゴロゴロあってどれかわかりませんね。また、豊岡には「土用寒村」「十八日村」などの伝説があるそうですが、どのような伝説か、詳しくはわかりません。

隋身門

隋身とは護衛の官人のことで、守護神像を左右に安置した門です。

土俵でしょうか・・奉納相撲とかあるのでしょうかね。

群馬県達磨製造協同組合

中にはだるまさんがたくさん並んでいました。

石仏群

道路竣工紀念碑、三猿が彫られた文字庚申塔、二十三夜塔などが道路の一角に集められています。

忠霊塔

大きな慰霊塔です。日清、日露、大東亜戦争(太平洋戦争)と3つの戦争の慰霊塔でした。

常安寺・上野豊岡藩陣屋跡

1570年(元亀元)、豊岡藩主(祢津公)が死亡後に供養をしてもらうために、生前中に藩の陣屋を寺としたと伝わるそうです。祢津公は、武田氏の家臣として豊岡村(現常安寺)に陣を構え、藩主となり、 武田氏滅亡後は真田氏に属します。

神明社

小さな社です。鳥居も壊れかけています。

庚申塔

寛政元年と彫られている文字庚申塔、上部に月輪と日輪も彫られています。

まつもとだるま工房

製作途中のだるまが乾かしてあります。

上豊岡の茶屋本陣

18世紀頃に築造された居住用の主屋に19世紀はじめに離れ座敷として増築されたものです。代々、飯野家が所有しており平成10年(?)13年(?)頃までお住まいになっていたそうです。

上豊岡の茶屋本陣内部

『左上』 奥の襖絵は、銀箔が使用されていたそうで、贅沢なつくりです。時がたち、酸化して黒くなってしまったようですね。

『左下』 奥が上段の間で、手前が次の間になります。上段の間は、書院造ですが、一段高くはなっていません。釘隠しには、ひょうたんや桃?のデザインがなされていました。

『右上』 小さなお庭ですが、四季折々の樹木が植えられ、美しいですね。

主屋一階には、飯野家が所有していた様々な文書なども展示されています。主屋茶の間、壁の端から端までが神棚となっています。黒々とした神棚でしたのでなぜ黒いのか聞いてみると、囲炉裏のススが付着して黒くなるとのことでした。ほんとうに漆黒・・・いかに長い年月ススにさらされたか・・長い時間の流れを感じます。

湯沢のお地蔵様

地蔵は1753年(宝暦3)、茶屋本陣の飯野家により建立され、風雨で損傷したため、1856年(安政3)に再建されたものです。戦争へ出征するこの土地の人々はこのお地蔵様へお参りし、全員無事に 戻ってこれたそうで、今でも縁日が行われているそうです。如意輪観音は、女人講として造立し、二十二夜塔は、月待信仰のもので、8月22日に縁日が行われているそうです。

金ケ崎不動尊

茶屋本陣飯野家が鬼門となる金ヶ崎に方位除けとして祀ったものですが、明治43年の大水害で流されて、現在地へ再建されたものです。現在でも縁日が行われているそうです。

高窓のある立派な旧家

養蚕は、この地域の農家を支える重要な産業でした。蚕を飼育する2階の通気をよくするために高窓が設けられた家が多いのです。高窓がある家は、養蚕を行っていたということでしょう。今はもう養蚕を行ってはいないと思いますが。

馬頭観音

藤原一里塚跡(北塚)・浅間神社富士山

北塚は、道路拡幅のため移設されて、現在は神社となっています。

藤原一里塚(北塚)

南塚は往時の姿をよくとどめ、ムクノキは樹齢200年を超えるそうです。塚として残っている一里塚に久しぶりに出会えました。

だるまのふる里 大門屋

高崎だるまや振り子などの展示販売、絵付け体験などが出来るそうです。

碓井川を渡る鼻高橋の親柱にはだるまのモニュメント

碓井川

少林山達磨寺

碓井川のほとりに観音堂があり、大洪水のあとに香気のある古木を見つけました。これを霊木としてお堂へ納めますと1680年頃、行者がこの霊木で達磨大師の座禅像を彫り、お堂へ祀りました。1697年(元禄10)、僧を招き開創しました。前橋藩を守護する寺院であり、高崎名物「縁起だるま」で知られています。

少林山達磨寺マップ

洗心亭

ドイツ人の世界的建築家ブルー・タウトが昭和初期に2年間居住した家です。庭には「私は日本の文化を愛する」とドイツ語で彫られた記念碑があります。

清水寥人句碑

『冬麗の街ひき寄せて 赤城聳つ』1920年、松井田町生まれ。国鉄の職員として機関士の業務に従事しながら創作活動を行っていました。

達磨堂

寺の宝物や達磨コレクション、寄贈の品々など古今東西の「だるまさん」を祀っています。

本堂(霊符堂)

北斗星を神格化した北辰鎮宅霊符尊と初祖達磨大師、開山心越禅師を祀っているお堂です。

観音堂

十一面観音菩薩を本尊として祀っています。子受け、安産、厄除けに霊験があるといわれ、信仰されています。

鐘楼「招福の鐘」

レンズ雲(吊るし雲)

上空の風が強いときに、山を越えた風が波を打つことで発生し、天候が下り坂のサインだそうです。この日は結構たくさん出ていてネットニュースにもなっていました。私も始めて見て、UFOかと思いました〜

5:00 八幡庵さんへ寄るためにランチはここまで我慢してきました。お腹ペコペコです。

八幡庵 天ざるそば 1,750円

天ざると天せいろの違いはのりがのっているかどうかと天ざるのほうが天ぷらが大きいとのこと。てんぷらが大きいほうがいいので、「天ざるそば」を注文です。海老は大きくて、ぷりぷり。太目のおそばも美味しいです。天丼は、蓋から海老がはみ出してました。天丼も食べたかったな。

こんな時間なのに次から次へお客さんが入ってきます。地元でも大変評判のお蕎麦屋さんです。

上野国一社八幡宮鳥居

500mほど北に本殿があります。

杉並木を偲ぶ碑

八幡宮参道には、鎌倉時代から杉並木がありましたが、昭和43年には枯れてしまい伐採されてしまいました。常夜灯や鳥居奉納碑などと一緒に並んでいます。

上野国一社八幡宮

957年(天徳元)、源頼信が京都の石清水八幡宮の分霊を勧請したのが始まりとされています。主に源氏から庇護され、足利氏、武田氏も崇敬し、江戸時代に入ると徳川家から庇護されて朱印地100石を賜っています。算額や灯篭などの文化財が数多く保存されています。
群馬八幡駅へ向かう道には道祖神などの石碑がたくさんありました。

群馬八幡駅

16:00 群馬八幡駅に到着。今日はこれにて帰宅します。 来年、暖かくなるまでお休みします。

2019年3月30日

前泊で高崎へやってきました。「ドーミーイン高崎」へ宿泊し、朝はドーミーインの向かいのバス停「あら町銀行前」から11:06発の安中市役所行きのバスに乗り、前回のゴール付近のバス停「八幡大門前」で下車し、スタートです。このバスは、日曜・祝日は運行していないようなので注意が必要です。信越本線、群馬八幡駅を使用しても良いのですが、少し歩く距離が長くなるため、バスを選択しました。

11:50 八幡大門前のバス停を板鼻宿へ向けて出発します。

かねつ橋供養塔

板鼻宿の念仏講中が1732年(享保17)に石橋を改修しましたが、年月を重ね破損したため、1802年(享和2)に板橋宿の木嶋左衛門が堅固な石橋に改修し、旅の安全を祈願して傍らに供養塔を建てました。

板鼻堰用水路

なぜか水が流れていないのですが、板鼻堰用水路のようです。

異人館

このあたりではひときわ目を引く、洋風な建物「異人館」から旧道に入ります。このお店はハンバーグやカレーなどの洋食が美味しいようです。

金井万平顕彰碑

板鼻土地改良記念碑と共に建てられています。明治41年に板鼻町に生まれた金井万平は、昭和22年に板鼻堰普通水利組合管理者に就任し、土地改良区理事長となります。以来40年の長きに渡り施設の維持管理を行い、また板鼻町長、群馬県議会議員など地方自治に貢献したことにより顕彰碑が建てられているようです。

双体道祖神

1792年(寛政4)建立の祝言形(夫婦和合)の双体道祖神です。台座には「当駅より京へ107里3丁、江戸へ21里半丁、日光へ37里、善光寺へ37里、榛名山へ5里、妙義山へ4里半、加州金沢へ92里半」と旅程が刻まれています。

やはた道標

文政13年に建立された榛名道への道標です。正面に「やはたみち」と彫られ、左横には「はるな・くさつ・いかほ」と建立年が彫られています。

焼餅

前橋・伊香保方面への脇往還の付近に名物谷津川の焼餅を売る茶店があったそうです。粗目に挽いた米粉をこねて赤豆の黒糖餡を入れて蒸し、ほうろくで焼き薄く平たい形をしています。生産量も少なく、大人気で予約しないと買えなかったということです。
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(左)閻魔堂跡の地蔵・(右)榛名道道標と双体道祖神

閻魔堂跡の地蔵は、享保7年の建立、野口次右衛門大和屋伝兵衛と刻まれています。南側には「するが屋」という立場茶屋があり、板鼻名物の藺田(い草を作る田)の根芹(せり)のおひたしやごまあえを出していたそうです。湿地の清水が湧き出る場所にいぐさが生い茂り、その根に良質の芹が密生していました。

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称名寺

957年(天徳元)に開山し、天台修験道場でした。

称名寺の門

板鼻陣屋門(搦め手門)が称名寺に移築されています。門は2つありますが、東側の門が移築門です。板鼻陣屋は板鼻藩の藩庁として築かれた陣屋ですが、1590年(天正18)の徳川家康の関東入封にともない、里見義成が立藩しましましたが、その嫡男・義高(忠重)が勤務怠慢を理由に改易となり、一時期廃藩となりました。その後、1625年(寛永2)に老中、酒井忠世の長男、酒井忠行が板鼻に所領を与えられ板鼻藩を再立藩しました。1636年(寛永13)に忠行は父の死去により前橋藩を継ぎ、板鼻前橋藩に吸収され廃藩となりました。

称名寺の鐘

称名寺の鐘は、1708年(宝永5)郷土鋳物師の金井兵部重久の代表作品として、金井藤兵衛が奉納したものです。太平洋戦争中、供出の対象となりましたが、文化的価値、美術的価値を有していることから供出を免れました。安中市の指定文化財です。元々は称名寺の境内寺院の泉徳寺の鐘でしたが、明治時代初期に泉徳寺が廃寺となり、称名寺に移されたものです。

逆さモミジの伝説

休憩所になっている場所の前にあるモミジが伝説のモミジのようです。現在のモミジは当時のものではありません。葉がない時期で残念です。

逆さモミジの伝説

鎌倉時代の御家人、謡曲「鉢の木」で知られる佐野源左衛門常世が馬を操るムチを境内の地面に突き刺して、忘れていたところそこからモミジの木が生えてきたという逸話があります。

板鼻館

群馬のB級グルメ「タルタルカツ丼」で有名なお店です。2005年にお客様からマヨネーズが欲しいといわれたことがきっかけで誕生したそうです。

タルタルカツ丼

御飯の上に甘辛に煮たたまねぎ、その上にやはり甘辛いタレにくぐらせたとんかつがのっています。混ぜ合わせたタルタルをかけていただきます。最初はそのまま一口。甘辛い味が美味しく、次にタルタルをかけて一口。これはかなり絶品でした。甘辛さにマヨネーズの酸味が爽やかで卵のコクもあり、ぺろっと完食しました。

板鼻宿の脇本陣

案内がでていないのではっきりわかりませんが、恐らく板鼻館の斜向いあたりにあったと思われます。福田家が務めていました。福田家は源頼義の子、福田希義の末裔と伝えられています。
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板鼻町道路元標・石仏群・上之山簡易水道

伊勢殿跡碑・伊勢神宮の祠

伊勢三郎義盛の館跡です。伊勢三郎義盛は、平安時代末期の武将で源義経の家来です。義盛は板鼻で旅人を自分の屋敷に泊めては殺して金品を奪うという悪事を働いていました。この頃、源義経と出会い契を結んだとされています。義盛の館には「朝みず橋」が架かり、この橋を渡って義盛の屋敷に泊まった者は朝姿をミない、と言われた橋がありました。ここから南に取勝神社跡にあったようです。

鏡が池跡

板鼻七不思議の一つです。伊勢三郎義盛の妻は、毎朝この池の水面に姿を映し、髪や身だしなみを整え、決して乱れた姿を人に見せなかったと言われます。後の人々が「鏡が池」と呼びました。また、この地に生える葦が片葉であるのですが、源義経が義盛の家に宿泊した折、義盛は義経の家来になることを懇願します。義経は「義盛の忠誠心が変わらず、また自らの志が遂げられるならこの葦は片側ばかり葉を付けるであろう」と祈ったと言われ、その後この葦は皆片葉になったと言われています。

片葉の葦

「片葉の葦」の伝説は日本のあちこちに存在しています。地勢や水流などの自然条件で片方の葉しか茂らない葦。その奇形の由来を説明するために様々な伝説が語られています。葦のほかにもススキや笹、松なども片葉のものがあるそうです。

板鼻七不思議

@片葉の葦 A朝見ず橋 B姥が池 C味噌なめ石 D逆さもみじ E釜鳴屋の釜 F御腰かけの石

山崎稲荷

聞名寺

鎌倉時代の1280年(弘安3)、時宗の宗祖一遍上人が開き、弟子の念称を留めたと伝わる寺です。中世には「板鼻道場」とも呼ばれて時宗の拠点の1つにもなったとされます。一遍上人の笈(おい)が県指定の重要文化財として保存されています。時宗とは、一遍上人が開祖した仏教の宗派の一つです。

聞名寺の笈

笈とは、修験者や行脚僧が仏具、衣類、食器などを入れて背負う箱です。一遍上人が聞名寺開祖の際に持蓮華(蓮の花に持ち手がついた仏具)、数珠、袈裟、仏子とともに置いた五品の一つです。上、下、台座の三段に分かれ麻布を張った上に黒塗りで仕上げてあります。

木島本陣跡

現在は、板鼻公民館となっています。木島家は問屋も兼ねており、1843年(天保14)には建坪167坪で門と玄関を備えていました。湯殿4か所、便所が10か所あり昭和10年代までは建物が残っていたようです。木島家の先祖は奥州平泉の豪族藤原秀衡の末裔と伝えられ、尚板鼻への土着は慶長の頃であると推定されるようです。

上段の間 書院

書院は本陣に付属した建物で、寛永年間、あるいは寛政年間の建築と言われています。幕末に皇女和宮が家茂へと輿入れのため江戸へ下向途次、1861年に一泊しました。本陣が公民館となる際に書院のみここへ曳移転されました。和宮資料館は、土日祝日は休館です。見学したい場合は公民館へ申し出るような形になっています。

今日は入ることができませんが、中はこのような感じだそうです。畳の下ある小さな隠れ場所に忍者二人が徹夜で警護したそうです。また、和宮が履いた朱の草履2足、白の草履1足や料理に使ったまな板などが保存されています。

月の宮

石祠は、「月の宮」と呼ばれ、和宮の初潮を埋めたと伝えられています。
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八坂神社跡の双体道祖神

昔、この場所には元々「八坂神社」がありました。双体道祖神などの石碑は牛宿前にあったものが移設されています。この双体道祖神は祝言形(夫婦和合)です。子宝祈願、安産祈願の碑で、男は盃、女は徳利を持ち仲睦まじく肩を寄せ合っています。また、この場所が高札場でもありました。

牛宿

八坂神社跡向かいの板鼻公園のあたりには「牛宿」がありました。平常時は牛馬の宿泊や助郷馬の休憩所として利用され、非常時には軍用牛馬屯集施設として利用されるそうです。1753年(宝暦3)に「十一屋(といちや)」という造り酒屋になりました。屋号は「日野屋」でしたが、今は酒屋もなくなり、公園になっています。

巨大庚申塔

大乗院の下にある巨大庚申塔は、寛政9年に建立されたものです。

南窓寺

南窓寺は、鷹ノ巣山の麓、一段高い丘の上にあります。県道からは急な坂道と階段を登った先になります。

小野栄重の墓

1763年(宝暦13)碓氷郡中野谷村に生まれ、江戸で関流算学者藤田貞資の門下で算学を学び、更に伊能忠敬について天文学を学び41歳のときに59歳の伊能について第4次測量隊に同行し、東北北陸地方の海岸線の測量にも参加しました。また、天文、暦術、算術に関する図書の編纂も行い、後に郷土である板鼻に和算塾を開きます。関流六伝の家元として日本和算数学界の中心人物でした。

板鼻堰用水路

約400年前に作れた板鼻地区から始まる全長15kmの農業用水路です。鷹巣山の麓の堰口から碓氷、九十九両川の水を取り入れ、安中市、板鼻、高崎市八幡町、剣崎町、藤塚町、上豊岡町、中豊岡町、下豊岡町を経て烏川へ流れています。築造時期は慶長年間中期〜後期(1604年〜1614)と考えられています。

板鼻の宿場の町中をとおる板鼻堰は現在でも情緒溢れる風景をみせてくれます。また、かつてはこの用水を利用した鯉の養殖が盛んで、その名残をいまにみることもできます。宿の民家裏に養殖池が7つほど残されています。

板鼻宿は、静かで落ち着いた雰囲気の街でした。往時は大きな宿場でかなりの人で賑わったようですが、今では人通りもなく寂しい町です。

中世の街道と江戸時代の街道

板鼻宿は、中世は、信濃から上野に入り、下野、陸奥に向う東山道(あずま道)、信濃、上野、武蔵を経て鎌倉に向う鎌倉街道が通っていました。江戸時代になり、1604年(慶長9)北側の山沿いを通っていた中世の道を南側の現在の場所に移され宿場が整備されました。

鷹巣神社入口遺構

鷹巣神社は、鷹巣山の崖の上に鎮座する板鼻の総鎮守です。明治後期に板鼻地区のほとんどの神社を合祀しました。ここには門や石橋灯籠が現存しています。地元の人の話では往時はここから鷹巣山にある鷹巣神社へ石段の参道があったそうです。県道ができたときに遮られ、入口のみ取り残されました。

板鼻町簡易水道・灌漑興農

水道施設のようですが、現在は使われているようには見えません。「灌漑興農」と彫られている碑には、板鼻堰災害復興記念碑、昭和27年建立とも彫られています。昭和22年といえばカスリーン台風で大規模な被害が各所にでました。碓氷川流域では浸水家屋が610戸もでたそうですから、農地や灌漑用水に多大な被害がでたのでしょう。この時の復興記念碑と思われます。

茶屋「伊勢路」

文政時代は鷹ノ巣茶屋でした。碓氷川が増水した際には川止めされた旅人で大変賑わったところです。
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碓氷の渡し場跡

江戸時代初期には、架橋を制限していたため、渡船による渡し場もありませんでした。このため旅人は、人足の肩車か蓮台による徒(かち)渡りで川越えをしていました。この付近は、碓氷川と九十九川が合流しており、流れは急で水かさも多く、少しでも増水すれば川止めとなりました。

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鷹ノ巣山

以前はチョウゲンボウの繁殖地であったようです。古い案内板がありました。しかし現在のようにコンクリートで固められた崖では巣穴は作れません。また隣にクレー射撃場もできたようで、恐らく現在はチョウゲンボウは見られなくなってしまったのではないかと思います。

チョウゲンボウ

チョウゲンボウは、ハヤブサの仲間です。大きさは30cm〜40cmで繁殖が確認されているのは日本では本州だけです。細い翼を速くはばたき、体を斜めにしてホバリングという空中の一点に静止する飛び方を交えながら、ひらひらした感じで直線的に飛び、急降下して昆虫やネズミなどの小動物を捕らえます。秋や冬は平地の農耕地や草原で見られます。断崖に巣をつくりますが、最近は都市部のビルや橋足といった人工工作物に営巣する例が記録されています。

東邦亜鉛 安中製錬所

鷹ノ巣山から碓氷川を挟んだ向かいの山にものものしい工場があります。1937年から1986年まで安中公害事件として訴訟となっていた原因企業です。原因物質はカドミウム。付近の田畑で稲や桑の立ち枯れ、カイコの生育不良、碓氷川の魚の大量死などが主な被害でありましたが、50年も国や県に放置されていました。

旧鷹巣橋のレンガの橋台

徒渡りで川越えをしていた後、1747年には冬季間のみ仮土橋を架けるようになり、1765年(宝暦2)には通年で仮土橋が架けられるようになりました。更に1883年(明治16)に本格的な木橋が碓氷川に架けられました。この時の橋台がこのレンガの橋台だと思われます。現在の鷹巣橋より50mほど上流に架かっていたようです。

碓氷川

これから向かう碓氷峠を源流に、安中市を流れ高崎市で烏川に合流する利根川水系の一級河川です。
14:00 鷹巣橋を渡り、安中宿へ向かいます。