安政遠足で走り抜けた杉並木をいく。からっ風には「かしぐね」

2019年3月31日

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9:30 ホテルを出発します。

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道祖神

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安政遠足(あんせいのとおあし)

タンクに「安政遠足」のイラストが描かれています。1855年(安政2)、安中藩主板倉勝明が藩士の鍛錬のため、藩士96人が安中城門から碓氷峠の熊野権現神社までの28.3kmを走りました。昭和50年より「安政遠足侍マラソン」として毎年行われ、仮装して走る楽しいマラソンです。

安政遠足の実施

城内が空にならないよう6月上旬から下旬の16日間に分割して96名が走りました。明六つ(朝5時頃)の太鼓でスタートし、早い人は辰ノ上刻(7時台前半)に到着したそうです。平坦な道ではないですから大変だったと思いますが、意外と早いですね。遅い人でも巳の刻(9時過ぎ)で、28人だけでした。熊野神社へ到着すると御初穂(奉納金)を捧げ、神主から力餅、切り干し大根、うりもみなどの接待がありました。安中藩での長距離走は安政2年の一回行われただけでした。
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安中杉並木

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原市村戸長役場跡

原市村の戸長役場があった場所です。戸長役場とは、明治時代初期に戸長が戸籍事務などを行った役所のことをいい、現在の町村役場の前身にあたります。

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屋根と壁に隙間があります。屋根との間に空間を設け、屋根が燃えても土蔵の主屋を守る構造になっています。

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原市高札場跡

原市村の高札場があった場所のようです。

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茶屋本陣

明治11年の明治天皇北陸東海巡幸の際、小休所となりました。

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真光寺の鐘

鐘には「天明元年」「鋳工信州小縣郡上田住 小嶋大治郎紀弘行」と刻まれています。真光寺の鐘は、原市の仁井与惣衛門が真光寺に寄進した鐘で、安中藩第12代藩主 板倉勝暁の代に「時の鐘」として許可され、鋳直(いなお)して鐘楼を建て直し、天明元年(1781年)7月2日に撞き始めが行われました。真光寺は天保3年(1832年)に本堂、鐘楼が焼失しましたが、その後も時の鐘として、男二人を雇い昼夜怠らず時を知らせ続けました。このような由緒から第二次世界大戦においても供出を免れることができ、安中市ではこの鐘と、板鼻の称名寺の鐘、下秋間の桂昌寺の鐘の3つが供出を免れています。真光寺の鐘(時の鐘)は、現在、お堂の傍らに建っていますが、かつては中山道からの入口すぐ東側にありました。

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書家仁井楽圃の碑

安中の俳人で、安政年間に「俳家手鏡集」という句集を出版したということくらいしかわかりませんでした。

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原市町道路元標

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絹笠神社

明治26年に碓氷郡を襲った大霜害は、一晩で桑を全滅させました。農家は泣く泣く蚕を川に流し、あるいは地面に埋めました。人々は蚕の慰霊と養蚕繁栄の願いを込めて、翌年の明治27年碓氷社の一角に絹笠神社を建立しました。養蚕が衰退した現在でも小正月の鳥追い祭には、絹笠神社の縁起物が配られています。

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附霜災懲之碑

霜害の恐ろしさを後世に伝えるため、警鐘の碑として建立されました。

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旧碓氷社本社事務所

1905年(明治38)に建築された木造瓦葺入母屋造り、2階建てで、基本的には和風ですが、小屋組、軸組には洋風の構造を持ち、窓ガラスはフランス製と思われる板ガラスを用いています。ほぼ創建当時の姿を保持しています。組合製糸会社の事務所として使用されていました。

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原市英学校跡

文字の色が抜けて薄いのですが、「原市英学校跡」とあります。が、どういったいわれがあるのか全くわかりませんでした。

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簗瀬城跡(やなせじょう)

このあたりが虎口で、周囲には土塁が残っています。歴史的には誰が築城したのかなど解っていないらしいです。南側の道へ出ると碓氷川が崖下に見え、段丘上に築かれていたことがよくわかります。

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城山稲荷神社

境内の裏側にも土塁が残されています。この場所が本丸だったと思われます。狛犬のデザインが少し変わっています。
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芭蕉句碑

『このあたり めにみゆるものは みなすずし 芭蕉』1688年(貞享5)「笈の小文」の旅の帰路、岐阜の油商賀島善右衛門の別邸に招かれて詠んだ句です。

近年の歌碑

『粗玉の年と畏み大前に 柏手打ちてこころ静もる 古を語るが如く太き松 赤き鳥居に垂れかかれり』昭和60年 歌小板橋 書真下 、恐らく地元の方が詠んだ歌なのでしょう。この城山稲荷神社での参拝風景が歌われているようです。

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簗瀬二子山古墳

古墳時代後期の6世紀初頭頃の築造と推定されています。碓氷川の中流・上流域では唯一の前方後円墳であり、築造当時としては群馬県で最大級の規模でした。関東地方では最古の横穴式石室に位置づけられる点で重要視されています。

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瀬八幡平の首塚

昭和6年墓参りに来た小学生によって偶然発見された150人分の頭蓋骨が埋めてあった首塚です。調査の結果、中世の日本人の特徴を持ち、下顎や四肢骨が発見されないこと、天明3年の火山灰で覆われていたことから、戦国時代の落城の際の犠牲者を埋葬したものを江戸時代に発見し、この場所に移したと考えられています。

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八幡平陣城跡

1561年(元禄4)武田信玄がこのあたりに陣を築き、安中城と松井田城の間を分断しました。当時の松井田城主・安中忠政、安中城主・安中忠成親子は箕輪城主・長野氏に属し武田信玄と戦いを交えていました。
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石仏・八本木公園の忠魂碑

馬頭観音でしょうか。何が彫られていたかもわからないほど削れてしまいました。八本木公園の忠魂碑は柵が巡らされ、厳重にされています。八本木公園にはトイレもあります。

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八本木立場茶屋跡

「千戌紀行」によれば、藤棚とツツジ、ボタンが咲き乱れていたると記されています。裏庭には築山とツツジがあります。

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延命地蔵尊

延命地蔵菩薩像は、1525年(大永5)、松井田城主・安中忠清が原市村に榎下城を築き、移り住むときに故郷、越後の近戸明神、米山薬師と共に城の守護仏として勧請したものと伝わります。高崎城主・酒井家次は夢のお告げにより、御堂を改築、秘仏の前立ち地蔵尊像を寄進しました。また、参勤交代往来の諸大名も下乗下馬して参拝したそうです。
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聖徳太子像・庚申石祠

太子像は、天保6年、信州伊那石工講中、満福寺現住俊澄代と彫られています。庚申石祠は、1625年(寛永2)の建立で安中最古の庚申石祠です。石祠の屋根に鬼面の刻まれるものは特に古いとされています。

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浅間山にはまだまだ雪が多く残っています。

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八本木戸長役場跡

原市村の戸長役場があった場所です。戸長役場とは、明治時代初期に戸長が戸籍事務などを行った役所のことをいい、現在の町村役場の前身にあたります。
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日枝神社

創建の年代は不詳ですが、現在の社殿は明治44年の再建です。向拝殿は、1720年(享保5)の掲額、社務所東の1対の庚申塔は1680年(延宝8)、参道奥の石製鳥居は1736年(元文元)、氏子寄進の銘があります。

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百番供養塔・道祖神

百番供養塔は江戸時代に西国三十三ヶ所・坂東三十三ヶ所・秩父三十四ヶ所を巡礼してきた人達が記念に建てたものです。巡礼ができない人でもこうした塔を供養することでその功徳を受けられると考えられていたようです。
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かしぐね

群馬県では高生垣の屋敷林を「かしぐね」と呼ぶそうです。からっ風の強いこの地方では、屋敷を風から守る工夫です。

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正面に妙義山が見えてきました。

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郷原高札場跡

郷原村にあった高札場の跡地です。

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郷倉跡

年貢米の保管庫、飢饉に備えた貯蔵庫として利用されていました。現在は何も残っていません。

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郷原一里塚跡

現在は民家となり、案内も標識もありませんが、民家の庭に古い祠が残っています。記録に寄ると塚には樫と桜が植えられていたとあり、また別の記録によれば、北塚には栗の木が、南塚には樫が植えられていたとされます。

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妙義道常夜灯

「是より妙義道」と彫られ、1808年(文化5)、妙義講の人々が建立しました。元々は東へ50m、中山道から妙義道への入口にありました。広重、安中の浮世絵はこの常夜灯から逢坂山方面を描いたものです。

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山中貞輔の碑

『月の入る 西の都を さし行ば 帰らぬ旅に 迷路もなし』

中後閑より郷原の山中氏へ養子に来て十二代目をつぐ剣撃の師範山中秀次郎の父、板鼻の山中三郎の祖先です。 この碑は、寺子屋の弟子たちが師を偲んで建てた碑です。
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逢坂の神明

逢坂は江戸から最初にある本格的な坂として知られていましたが、現在は国道工事により平坦化され、旧道はなくなり、面影はありません。

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西南の役碑

このあたりは「琵琶ノ窪」とも呼ばれています。明治6年に徴兵令が布告されると、誰もが戦に行かなくてはならなくなりました。西南戦争は明治10年に勃発します。徴兵令が始まりわずか4年後です。安中・富岡地域からも官軍として徴兵され、群馬県内で127人の戦死者があったとされます。

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石仏群

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下木戸跡・ももんが堀

下木戸から上木戸までは全長677m、木戸内は両側に掘割が造られていました。現在は暗渠となった「ももんが堀」は、掘割の用水を集めて南の碓氷川へ放流していました。

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松井田宿脇本陣

徳右衛門屋敷跡で、松井田宿明細帳には「凡建坪73坪玄関門構無御座候」と記されています。
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金井本陣

金井藤右ヱ門が務めていました。建坪171坪、玄関・門構を有し、明治天皇巡幸の際にも宿泊されました。松井田宿は、現在商店街となっています。

ういろうや

金井本陣斜向かいの山城屋酒店は、北条氏の勢力下となった際に、元から帰化した小田原の陳外郎(ういろう)の分家が松井田へ移り住み、旅人の万能薬、「透頂香(とうちんこう)」を売っていました。外郎について詳しくは、『東海道・大磯〜小田原』で記載しています。

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松井田町道路元標

松井田宿は、1852年(嘉永5)の記録では本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠25軒ありましたが、碓氷峠を控え少しでも近づきたいということから松井田宿は避けられ、坂本宿までいく旅人が多かったということです。

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松本本陣

松本駒之亟が務めました。建坪174坪、玄関・門を構え、部屋数23室、表門両端から東側へ10軒の店舗が配されていました。裏門は非常之節御開所となり、不動寺への通路、当時の名残を留める土蔵、庭園、井戸が残っていますが、私有地ですので見られません。外側から土蔵が少し見えました。

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みなとや

江戸時代以前からの旅籠で、昭和後期まで港屋旅館がありました。現在は無料のお休み処のようですが、日曜日の今日は開いてないようでした。

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不動寺

1243年(寛元元)、下野国国司にして「留興長老」の号を賜った慈猛上人によって開山されました。戦国時代の元亀、天正年間には武田信玄より寺領を賜り、徳川幕府となってからは三代将軍家光公の帰依が篤かったため、朱印89石余を拝領し、往時は成就院、正法寺など脇寺9ヶ寺、末寺8ヶ寺の計17ヶ寺を有する大寺でした。仁王門は修繕中で幕が掛けられていました。

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石塔婆

三基並ぶ異形板碑、安山岩の自然石で板碑様式の仏種子や文字を刻んだもので、一石に2つか3つの別の様式を刻んでいます。文字は1352年(観応3)円観、見性、敬白等があり、北朝年号(南北朝時代)を刻んでいます。

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仁王像

不動寺には、「不動明王像」があり、鎌倉時代初期、中央仏師の作と推定されています。26cm小さいものですが、秀作といわれ、迫力があります。

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上町の山車

大正9年、高崎市の棟梁佐藤鷲七の作で欅材に漆塗りを施したもので、高山や京都の山車と同様の構造です。また神功皇后の人形がからくり装置を使って上下でき、優雅なものです。別名を「鉾山車」ともいいます。

神功皇后

神功皇后は日本書紀に仲哀天皇の皇后として登場します。古代日本の摂政として、史書では女帝とされる伝説上の人物です。

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松井田八幡宮

創建年等の詳細は不詳ですが、鎌倉時代初期の1197年(建久8)に源頼朝が参拝に訪れたとの記録がある古社です。江戸時代には幕府からは庇護を受け、1648年(慶安元)には三代将軍徳川家光により朱印地を賜っています。古くは神仏混合の形態であった事から境内には仏教色の強い六角堂が建ち当時の名残が見られます。
13:00 松井田宿をあとに坂本宿へ向かいます。