「近郷無類の荒川」千曲川を渡り、五郎兵衛新田を行く

2019年5月1日

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12:50 塩名田宿を抜け、八幡宿へ向かいます。八幡宿までは中山道で一番短い僅かに2.6kmです。

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御馬寄(みまよせ)村

平安時代に朝廷に献上する馬を集めていた場所からこの名がついたとされます。御馬寄村の大圓寺境内の百万遍供養塔は、寛政4年の建立です。
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題目塔

旧道が残っていますので、右の細い道に入ります。小さな「南無阿弥陀仏」の題目塔が建てられています。

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虚空蔵堂跡

虚空蔵堂跡に石仏がたくさんあります。智拳印を結んだ素朴な顔の大日如来像もあります。その後ろも大日如来像だと思います。少し古いでしょうか。馬頭観音、道祖神、供養塔などがずらりと並びます。

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大日塚

大日塚は道路拡張のためこの地へ移されました。鼻筋が通り微笑む大日如来像は、地元の人には「おでんじさま」と呼ばれているそうです。
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芭蕉句碑・供養塔

大日如来の横には芭蕉句碑があります。「涼しさや 直ぐに野松の 枝の形」枝の剪定をせずに自然な樹形の松は一層涼しく思える、というようなことです。

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御馬寄一里塚

南塚は教習所になっています。北側も塚はなくなり大きな石碑が建っていると思いましたら、この石碑は一里塚の石碑ではなく、「信風遠州流家元 信守斎一宇先生碑」と彫られています。遠州流は、近江小室藩主で茶道家の小堀遠州を流祖とする一派です。その流れを汲む家元なのでしょう。

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御井大神(みいしん)・道祖神

御井神は木俣神の別名だそうです。「井戸」を表す、水神の一種のようです。この御井大神と彫られた石碑のすぐ後ろは五郎兵衛新田の用水路となっており、ここから飲水を利用しました。そのため、水神である御井大神を祀ったのでしょう。
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五郎兵衛新田・五郎兵衛用水

市川五郎兵衛真親によって開発された新田です。先祖は武田信玄に属する戦国武士でしたが、武田氏滅亡により佐久郡へ移り高瀬村三河で用水の開発、岩村田の常木用水開墾などを行います。1626年(寛永3)小諸藩より開発の許可をとり、佐久の牧場であった矢島原一帯の開発に着手し、寛永8年に最初の新田が出来ました。これが五郎兵衛新田です。1766年(明和3)に村民により真親神社が建立されています。この地方には五郎兵衛新田のように戦国士豪によって開発された御影新田、八重原新田、塩沢新田などがあります。
TOO001 彫り抜かれた祝言型道祖神、六地蔵石幢、いずれもあまり見ない形で面白いです。

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伊勢宮神社

鳥居右横に双体道祖神と丸石道祖神があり、鳥居下の中央には新しい石碑がありますが、一応?示石のようで、東が伊勢宮神社、西が〇〇さん(個人)とあります。要するに神社の左は個人の土地だよ、という明示のようです。英霊碑もありますが、これは個人の敷地にある、ということのようですね。

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御馬寄村、五郎兵衛新田の集落を過ぎ緩い坂道を下り八幡宿へと近づいていきます。
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生井大神・文字観音菩薩

生井大神は、先程の「御井大神」と同じく、水や井戸、水神様です。このあたりも五郎兵衛用水から飲用水を得ていたのかもしれません。南へ200mくらいの場所にも「生井大神」の石碑があります。 TOO001

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常泉寺

常泉寺のある蓬田村、八幡村、桑山村の三ヶ村の人々が移住し、八幡宿が形成されました。中山道が成立した慶長7年頃にはまだ八幡宿は成立していませんでした。横の石碑には「一家三兵士」と彫られています。父母の名の横に、長男、次男、三男と名前があり「日露勇士」とあります。3人兄弟ともに日露戦争に徴兵されたのでしょう。戦争で亡くなってしまったのでしょうか。
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八幡神社前バス停

バス停は、八幡宿の東側枡形に建てられています。バス停の中には昭和のものと思われる懐かしい感じの看板が一面に貼られていました。

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八幡神社

伝承では、859年(貞観元)滋野貞秀により創建されたと伝わり、望月三郎が鬼門除けの神として信仰していたとされます。『吾妻鏡』に「佐久八幡宮御前二十騎」と記されておりこの頃からの古刹と思われます。本殿と拝殿は、江戸時代中期の建造です。

高良社

高良社は、1491年(延徳3)に建てられ、三間社流造りこけら葺、庇門手狭、木鼻の絵模様、その他優れた室町時代の特徴が随所に見られます。重要文化財に指定されています。

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随神門の随神

門の両側の間には衣冠束帯に剣と弓矢を持った武官神像の随神が置かれています。門は1843年(天保14)、小諸藩主牧野遠江守康哉が大願主となり、川西地方の村々から材木の寄進を受けて造られました。額は明治時代に奉納されたものです。

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古い町並みが残る八幡宿へ入ってきました。江戸時代より、穀倉地帯となったこの地域は、周辺の米の集散地として慶長年間に整備されました。

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小松本陣跡

八幡宿は本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠3軒がありました。本陣建物は、建坪120坪、門構え・玄関を有してしいました。現存する小松本陣の建物は、1804年(文化元)の建造で多少の改築を行い現在に至っているそうです。1861年(文久元)、中山道を下ってきた皇女和宮の一行は、11月6日に和田宿に宿泊し、翌7日に芦田宿で昼休みをし、八幡宿本陣へ宿泊しています。小松家には、和宮から下賜された折り紙なども伝えられています。

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南御牧道路元標

南御牧村は、1889年(明治22) 町村制の施行により、八幡村・蓬田村・桑山村・矢島村が合併して発足した村です。

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脇本陣・問屋

交差点手前左手が脇本陣、問屋のようですが、案内もなくよくわかりません。恐らく交差点手前左手が問屋も努めていた「依田脇本陣」、さらにその手前が屋号大坂屋の松沢脇本陣だったと思われます。松沢脇本陣の建物は現存しており、元禄の頃のものだといいます。脇本陣の建坪は100坪〜70坪ほどでいずれも門構えのみでした。

与田陸翁

八幡宿脇本陣、依田太郎兵衛直親の次男として生まれ家督を継ぎ、名主・問屋・脇本陣を務めますが、病のため子に譲り、国学・歌道に取り組みます。中山道通行の文人と交流し、1854年(嘉永7)に伊勢松坂の藤垣内翁(本居大平、本居宣長養子)の門人となります。

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鉄平石屋根

諏訪から佐久地方を中心に明治から昭和初期までは、瓦の代わりに鉄平石を屋根材とする「鉄平石屋根」が広く使われていました。もともと板葺き屋根の押さえ石として使われていた鉄平石が鉄平石葺きへと変化したといいます。佐久鉄平石の産地は、南西に12kmほどの八丁地川でした。時代と共に失われつつありますが、八丁川の集落では今でも佐久鉄平石の屋根を見ることができるようです。
13:00 本日の最終目的地、望月を目指して進みます。