2021年4月3日

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7:13 贄川駅を出発します。贄川駅付近は旧道が一部廃止となっていますので、国道20号を進み関所前の関所橋を渡り『贄川関所』へ向かいます。

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関所橋

橋にはレリーフがはめ込まれ、「木曽節」の歌詩が書かれています。橋の下の中央線トンネルもレンガ造りでかなり古いもののようです。
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贄川関所

木曽路の北の防衛拠点として1334年(建武2)に関所が設けられ、木曽福島関所の副関として当時、重要な役割を果たしていました。関所の階段下には「木曽考古館」があります。

豊臣秀吉の時代、石川備前守光吉が木曽代官として支配していた当時には口留番所が設けられていました。関ヶ原合戦の後、木曽氏の旧臣であった山村氏が木曽代官となり、1614年(慶長19)大阪冬の陣の際には幕府は山村良安に福島と贄川の関を守らせました。

関所前の道をさらに下り、旧道の名残を見に行きます。

TOO001 贄川関所見学用の駐車場横から未舗装の坂道を下っていき、ちょうど真ん中くらいまで下りて行くと左に道のような法面を切った時の小段がありそこを進んでいくと『雀の宮』と呼ばれる石碑群があります。

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雀の宮(鎮の宮)

「秘况口」と刻まれた大きな石碑や髭題目塔など13基の石仏があり、この前が旧道でした。しばらくは道がありますが、一部廃道となっており、現在は国道20号線を通ってくるしかありません。地元では「スズメッチョ」と呼ばれているそうです。
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中山道分間延絵図

女改や白木改(材木)を特に厳しく取り締まっていました。贄川関所は資料や絵図を参考に昭和51年に復元されたものですが、元は今とは反対側にあったようです。

関所を過ぎると木曽十一宿、最北端の『贄川宿』に入っていきます。

宿の成立は天文年間(1532〜1555)と言われています。北から下町、中町、上町の3つに区分けされていました。 「木曽名所図会」には『熱川温泉は木曽谷・奈川・黒川の山中にあり、泉甚だ温ならず味甘酸、酒の味に似たり、其土赭(あか)色これ朱砂の泉なり』とあり、この地に温泉があったことから「贄川」という地名となったとされます。

1724年(享保9)の記録では旅籠35軒、1843年(天保14)の記録では大18軒、中6軒、小11軒の25軒がありました。

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贄川宿本陣跡

千村家が代々、本陣・問屋・庄屋を兼務していました。本陣建物は残っていません。1829年(文政12)には渡辺崋山の師、儒者の松崎慊堂(こうどう)が贄川宿本陣に宿泊しています。

千村氏

千村氏は、木曽讃岐守家村の五子五郎家重を祖とし、家重は足利尊氏より上野国千村庄を賜ったことにより、1342年(康永元)に千村と改名しました。家重より10代目、木曽義康・義昌に仕え贄川に居を構え奈良井義高と共に贄川砦の守備に当たり戦功をあげています。1590年(天正18)義昌が下総国網戸へ所替えになると浪人し、蟄居していましたが、のちの子孫は江戸時代には口留番所を任せられ、代官も努めていました。1724年(享保9)代官職が廃止されたため、本陣・庄屋・問屋のみを務めるようになりました。

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レターポスト

贄川郵便局前にあるポストは、通常「POST」と記されている場所に、「LETTER」と書かれています。現役で活躍している「レターポスト」は日本に3つしかないそうです。激レアポストですね!1949年(昭和24)に誕生した丸型ポストの試作品のようです。

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津島神社

津島神社と水場の間が観音寺への参道になります。水場の隣あたりが脇本陣だったようです。
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「木曽名所図会」贄川

「木曽路は獣類の皮を商ふ店多し 別して贄川より本山までの間多し 往来の人に熊胆(くまのい)をうらんとして すすめる者多し 油断すべからず」と注意書きがなされています。「油断すべからず」がなんだか可笑しいですね。

贄川宿の昼通り

贄川宿も他の宿場と同じように客引きが盛んで、夕方となれば一層激しかったといいます。旅人は陽の高いうちに贄川宿を通過し、少しでも客引きから逃れようとしたとされます。すると「藪原までは峠三里の道、危ないからお泊りなんし」と奈良井宿のことを伏せ、嘘をついても客の足を引き止めたといいます。

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観音寺山門

806年(大同元)坂上田村麻呂の創建と言われますが定かではないようです。坂上田村麻呂は平安初期の武将で律令国家の東北地方を発展させた人物として知られます。後に衰退し、1616年(元和2)に千村氏により再建されました。山門は1790年(寛政2)の再建。
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麻衣廼(あさぎぬの)神社

天慶年間(938〜947)に諏訪坂東(権現岩の上)に創立、1582年(天正10)木曽義昌と武田勝頼の戦が鳥居峠であり、武田氏敗退の際に社殿焼失、文禄年間(1592〜1595)に再建、1866年(慶応2)に改築し、中に古社殿を奉納し、朱塗りの建物となっています。諏訪大明神が祀られていますので、御柱の祭礼もあるようです。『麻衣廼』は木曽の枕詞です。

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贄川宿脇本陣

観音寺への参道からすぐの右手が脇本陣で、酒店だったようですが、現在は営業していないようでした。
この脇本陣で生まれ育った「贄川勝己」という歌人がいました。1744年(寛保4)生まれ、通称喜助、後に勝房と改め、その後剃髪して勝己法師と称して、「逢松庵」と名付けた庵を建立、和歌を胡桃沢夢宅に学び、香川景樹とも親しく、71歳の時に京に上って景樹の門人となり、木曽宮ノ越宿の都築吉容、藪原宿の岡田忠保とともに木曽谷桂園派的な存在であったといいます。1823年(文政4)没。

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秋葉社・津島神社・水場

贄川宿は昭和6年の大火により宿場の殆どが焼失し、江戸時代の宿場町の面影は薄くなりましたが、往時の様子をうかがい知る建物が何軒か残っています。
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深澤家住宅

屋号を「加納屋」と称し、行商を中心とする商家を営み、文化年間には京・大阪などにも販路を伸ばし、幕末には苗字を許されるなど贄川宿屈指の商人でした。現在残っている母屋は1851年(嘉永4)の大火後に再建されたものです。

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水場の水神様

贄川宿の西外れで右に曲がります。ここが枡形になるのでしょうか。すぐに水場があり、今は使われていないようで、水は出ていませんでしたが水神様が祀ってあります。
更にすぐ左へ曲がると中央本線の線路へぶつかります。跨線橋で線路を渡り、ここからは国道19号線が中山道にあたりますが、往時はもっとくねくねしていたようです。

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贄川のトチ

樹齢1000年と推定され根元周りは18m以上もあります。長野県内に現存するトチノキとしては最大です。根元に祀られているのは「ウエンジン様」と呼ばれています。これだけ大きな栃からは、とち餅がたくさん作れますね。
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桜宮跡

中山道分間延絵図には街道から少し離れた場所に「山神」の記載がありますが・・これが「桜宮」なのでしょうか・・いずれにしても神社の跡ということでしょうね。

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木曽路民芸館

漆器を中心とした民芸品などが売られている中村漆器産業さんのお店です。
TOO001 民芸館の前をそのまま進むと、擁壁の上を歩けるように仮設の歩道が伸びていますので、ここをそのまま進みます。

TOO001 仮設の歩道の突き当りは階段になっています。ここを超えると旧道が残っています。

TOO001 左手の崖下を覗くと中央本線トンネル跡がちらりと見え、右手には文政の馬頭観音が祀ってあります。下っていくと桃岡の集落に入ります。

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桃岡集落と押込沢

塩尻ではが満開でしたが、木曽ではが満開でした。それほど離れた場所ではないのに随分と季節が違うものですね。桃源郷のようでした。現在の「桃岡地区」は、江戸時代は「押込村」に属していましたが、明治初期に押込から桃岡に名称が変更されました。

近年に置かれた「中山道碑」を過ぎ、押込沢橋を渡ると右手に津島牛頭天王社がありました。 TOO001

津島牛頭天王社

津島牛頭天王社の祠とその横に球形の石が置かれていました。これは蚕玉様で養蚕、機織りの神が祀られています。他に1822年(文政5)の馬頭観音や歌碑などの石碑があります。

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押込一里塚跡

現在公園となっている場所の塚は明治42年に鉄道工事によって取り壊されましたが、現在は線路の位置が変わり、公園になりました。

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奈良井川

奈良井川を渡ります。400mほど国道を進み、左手の旧道へ再び入っていきます。

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長瀬の薬屋跡

このあたりは昔、長瀬河原と呼ばれ、「岐蘇路安見絵図」には「長瀬村家1軒あり。医者也、品々の合薬有」と薬を調合する家が1軒だけあったと記されていますが、実際どのあたりだったのかはわかりません。
長瀬の水場を過ぎると再び国道となり、500mほどで「道の駅木曽ならかわ」へ到着します。

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長野オリンピックメダル

道の駅 木曽ならさわの中に「木曾くらしの工芸館」があります。中には様々な漆器や民芸品が並んでいる中に長野オリンピックメダルが展示してありました。木曽漆器の技術を活かし、外枠に金、銀、銅を組み合わせています。素敵なメダルです。

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江戸の町!?

「木曽漆器家具製作所」という看板がかかっていますが・・・江戸の町が再現されています。しかもかなり大掛かりです。なぜここに江戸なのでしょうか・・・?

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楢川村道路元標

楢川村道路元標を過ぎると木曽平沢の中心地に入っていきます。

木曽平沢

1665年(寛文5)から1729年(享保14)までは御免荷物を取り締まるための「平沢番所」が置かれ、日本有数の漆器生産地として栄えていました。

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芭蕉句碑

右側面に句が彫られています。

『送られつをくりつはては木曽の秋』

1761年(宝暦11)、山村甚兵衛の建立です。山村甚兵衛は、木曽福島関所代官、山村家十代主、良喬(たかてる)のことです。

芭蕉句碑前を通り、未舗装の道が旧中山道です。これを登ると「平沢諏訪神社」があります。

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平沢諏訪神社

創建は不明ですが、治承年間(1177〜1180)には、木曽義仲の祈願所となっていました。1582年(天正10)木曽義昌は武田勝頼と鳥居峠において戦い、ここを本営にしていましたが、敗走する際に社殿を放火したとされます。現在の社殿は、1637年(寛永14)に再建されたものです。木曽平沢の社らしく、朱と墨の漆塗りの立派な社殿です。

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胡桃沢勘内歌碑

『えまや路の木曽の平澤軒並めて 塗師屋が住める店の格子戸』

松本出身の民俗学者であり歌人でもあった胡桃沢勘内の短歌です。「友男著」とあるのは胡桃沢友男、勘内の長男であり、日本放送協会に勤務するかたわら父、勘内が研究していた柳田國男の研究を引き継ぎ著書に記しています。
平沢諏訪神社から道路を挟んだ反対側の山の上にもなにかの石碑が・・登って確認してみました。

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拓友之碑

戦時中、満州へ渡り開拓を行った人々が戦争のない平和な世界を願って建立したもののようです。この木曽平沢からも多くの人が満州へ渡ったようですね。
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平沢諏訪神社参道と二十三夜塔

『神に願かけ 叶はぬならば 二十三夜さまお立ち待ち』という民謡があるように、月の出を待ち拝む風習がありました。「お立ち待ち」と言って月が出るまで立ち続けて願をかけることもあり、立っているだけでは苦痛なので踊って紛らわせたりしていたそうです。1810年(文化7)、宮原六蔵らによって建立されたものです。

中山道は二十三夜塔から説明板の後ろあたりを通って鳥居の前へ通じていたといいます。

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木曽平沢駅開駅記念碑

1909年(明治42)鉄道開通時には平沢には停車場は設けられませんでしたが、漆器産業の発展のためにも駅が必要と昭和2年頃から運動が起こり、1930年(昭和5)許可されました。当初はこの石碑付近に駅が設けられましたが、ここは単線であったため、輸送力増強のため1959年(昭和34)複線となる現在地へ新駅が設けられ、石碑だけが取り残されました。書は陳情を重ねていた頃の大蔵大臣・三土忠造で、後に逓信大臣、鉄道大臣を歴任した人物です。

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漆器の町木曽平沢の町並み

木曽五木(ヒノキ・サワラ・コウヤマキ・ヒバ(あすなろ)・ネズコ)の産地近くで、良質の材料に恵まれている上に、多湿で空気清澄なことが漆器の生産に適し、また付近の山より下地の材料になる「さび土」という粘土が産出するため漆器づくりが発展しました。
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鎮大明神諏訪大明神禰宜巣山日向の家

中山道分間延絵図には「鎮大明神諏訪大明神禰宜巣山日向」という記載があります。諏訪神社の神主、巣山氏宅ということでしたが、平沢で記載の位置を確認すると今でも注連縄がかけられ、伝統を維持している様子です。 TOO001 『巣山日向の家』から少し奈良井側へ進むと左手に『雲松寺』がありました。

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雲松寺は廃寺となったようで見当たりませんが1980年(昭和55)発刊の資料には「雲松寺跡に葷酒不許の碑と石仏」としてこの写真が紹介されていました。場所的には恐らく、2017年に開園した「うるしの里駅前水辺公園」が雲松寺跡だと思われます。しかし、その付近を探してみましたが、「葷酒不許」の石碑は見つけられませんでした。

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雲松寺跡の石碑の一つ?

この公園にあった句碑「眉山」とあるのですが、これが写真の一番奥の石碑と酷似しています。やはり「うるしの里駅前水辺公園」が雲松寺跡であると思われます。「葷酒不許」の石碑と石仏は公園内を探しましたが、見つかりませんでした。
「うるしの里駅前水辺公園」には綺麗なトイレもありますし、四阿もあり休憩にはぴったりです。公園のすぐ上が「木曽平沢駅」になります。

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津島神社

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高札場跡

高札場には木曽平沢の案内が掲げられています。
10:50 木曽平沢の集落をあとに奈良井宿へ向かって進んでいきます。