2021年4月3日

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10:50 木曽平沢の集落をあとに奈良井宿へ向かって進んでいきます。

奈良井川に沿って進んでいきますと幅1mほどの名もなき小さな人道橋があります。この橋で奈良井川を渡り、「橋戸一里塚跡」へ向かいます。

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橋戸一里塚跡

「中山道分間延絵図」には「此辺り古往還一里塚」と記されています。当初の中山道は奈良井川左岸を通り、時期は不明ですが現在の右岸側に変更したことがわかります。
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木曽楢川小学校

木目が美しい素敵な校舎でした。

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奈良井宿入口の馬頭観音

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奈良井駅

奈良井は戦国時代に武田氏の定めた宿駅であり、集落の成立はさらに古いと考えられています。1602年(慶長7)には幕府により伝馬制度が設けられ、奈良井宿も宿場の一つになりました。北から下町・中町・上町の3つに別れています。本陣・脇本陣・問屋は中央の中町に設けられていました。

駅前の坂道を登り「八幡宮」へ向かいます。

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杉並木

杉並木の間の道は初期の中山道でした。木曽平沢南端から奈良井川左岸を通り、橋戸一里塚を経てこの杉並木へつながっていたようです。

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二百地蔵尊

地蔵堂の前には聖観音をはじめ、千手観音、如意輪観音などの観音像が200体近く祀られています。明治期の国道開削、鉄道敷設の折に奈良井宿周辺から集められました。

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八幡宮

現在は向かって右が本殿、左が舞台となっていますが、元はその上の旧国道より上に本殿があり、現在の本殿の位置に舞台があったそうです。現在の本殿は江戸末期に建立されたといいます。奈良井義高の館の北東に当たり、鬼門除けとして崇敬されていました。

奈良井駅へ戻り、少し先を左の道へ入り、地下道を通り線路を越えます。線路を越えられる場所があまりないのでここで渡り、木曽の大橋へ向かいます。

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木曽の大橋

美しい総桧造りの太鼓橋は橋脚を持たない橋としては日本有数の大きさだそうですが、観光用に造られたもので、岩国の錦帯橋を模しているそうです。

通ってきた道を戻り、中山道へ戻ります。

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専念寺・唸り石

1532年(天文元)木曽義在により建立されました。本堂裏手には、本願寺の門跡(もんぜき)の方などが休まれた部屋である「御殿」があり、復元された当時のかわやや風呂も見ることができます。

「専念寺」の石碑下の石垣は、枡形の名残です。

唸り石の伝説

昔、夜な夜な唸り声をあげて住職を困らせていたそうです。この石は元々ここへあったものではなく、ある晩に大きな音とともにどこからか飛んできて専念寺に落ちたといいます。撫でたり叩いたり杭を打ったり、経を読んだりしましたが一向に治まりません。ある晩、石が喋りだし自身の来歴を話し始めました。元々は僧として修行に励んでいましたが、酒が好きで天狗の背に乗っては奈良井宿へ行き酒を飲み、帰りには様々な悪行を行ったため、とうとう山の神様の怒りにふれ、金輪際酒を止めれば許すと言われ、我慢しましたが10日ほどで我慢できなくなり、大酒を飲んでいるところを山神に見つかり石にされ、坊主岳からここまで飛ばされてきましたといいます。酒をかけてくださればきっと唸り声も止まります。これを聞いた住職は酒を持ってきて石にかけると唸ることはなくなりました。

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奈良井の町並み

山間を縫うようにして流れる奈良井川に面した街道には家々が連なっています。

法然寺

栂尾名恵上人の開山で、はじめは「光厳寺」といい、浄土沢にありましたが、水害により上町の鎮守社の下の沢に移転しましたが、再び水害にあいます。木残上人を中興とし現在地へ移転、このときに「法然寺」と改名しました。関ケ原の合戦時、徳川秀忠はここへ陣屋を置いたとされます。明治45年の大火で焼失し現在の建物は大正3年の再建です。

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大宝寺

1582年(天正10)奈良井義高が建立し、はじめは「広伝寺」といいました。明暦年間に玉州禅師が中興、1658年(万治元)福島代官、山村良豊が本堂を修理、同時に「大宝寺」と名称を改めました。奈良井氏の居館跡でもあり、裏山が奈良井城跡です。

大宝寺の裏庭は享和年間(1801〜1804)に夢窓国師の流れを汲む作庭によって造られたという名園があるということでしたが、現在はあまり手入れがされていないようで、荒れていました。

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マリア地蔵

昭和7年、付近の森から発掘されたもので、頭部が欠けていますが、子供の持つ蓮の花が十字架になってます。

大宝寺の裏山には「奈良井治部少輔義高の墓」もあります。

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相模屋

お腹が空きましたので、『相模屋漆器店』という看板のあるお蕎麦屋さんへ入りました。元は漆器店だったようですね。建物は江戸時代の建築だそうです。中も江戸時代さながらですが、テーブルは現代的です。
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山菜そばととろろ飯セット・五平餅

五平餅がむちゃくちゃ美味しかったです。丸型の五平餅は初めてでしたが、今まで食べた五平餅で一番美味しかったです。焼き立てですし、周りがカリカリに香ばしく焼けていて中はもっちりと。黒ごまとくるみの優しい味がお米の甘みを引き出しています。

五平餅

五平餅はご飯を押しつぶし割木に強く張り付け、軍配型に作られたのでその形が神に捧げる御幣に似ていることから「御幣」の名が生まれたと言われます。五平餅にはわらじ型団子型の二種類があるそうで、わらじ型をよく見ますが、奈良井では団子型でした。

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脇本陣徳利屋

1675年(延宝3)創業、建物は天保期(1829〜1843)に飛騨の大工が建てたそうです。昭和初期まで旅籠を営んでいました。

旅籠時代には島崎藤村、幸田露伴、泉鏡花、坪内逍遥、正岡子規、伊藤左千夫なども宿泊したといいます。

屋号『徳利屋』

江戸時代初期、先祖が村の鎮守へ元旦のお参りに行ったところ、徳利が天から降ってきたように口を下に向けて雪に突き刺さり、その脇には縁起の良いものとされているネギとごぼうも突き刺さっていました。周囲の雪には人の足跡もなく・・・まさに天からの授かりものと持ち帰り、家宝にしたといいます。屋号はそれまで「隆昌屋」でしたが、このとき「徳利屋」とあらためたとされます。

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奈良井宿本陣跡

亀子家本陣がありましたが、今は駐車場になっています。左隣の神明宮は、「中山道分間延絵図」の本陣奥に描かれています。本陣門は長泉寺に現存しています。

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下問屋伊勢屋

1818年(文政元)創業、以後明治まで代々下問屋を勤め、脇本陣も兼ねていました.現在も旅籠として営業しています。

『奈良井千軒』

奈良井宿は中山道最大の難所と言われた鳥居峠を控え、旅人が多く「奈良井千軒」と呼ばれるほどの賑わいを見せていました。往時は石置き屋根でしたが、現在は鉄板葺きにかわりましたが、それでも往時の姿をよく残した建物が両側にびっしりと並んでいます。

1843年(天保14)の記録では本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠5軒があったとされます。

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上問屋・明治天皇奈良井行在所

上問屋と庄屋を努めた手塚家の家屋は、天保3年の火災で焼失しましたが、現在の建物は天保11年に再建されたものです。昭和48年までは郵便局としても利用されました。現在は、「上問屋資料館」として一般公開されています。

明治13年、明治天皇が山梨・三重・京都の各県を巡幸の際、上問屋の上段の間で昼食をとっています。

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長泉寺・本陣門

1366年(貞治5)元章希山和尚の創立、元亀年間(1570〜1573)に藤田能登守信吉が伽藍を再興しますが、1577年(天正5)鳥居峠で木曽氏と武田氏が戦った際に焼失、また1874年(天保4)の大火でも焼失し、1866年(慶応2)の再建です。

山門は亀子家本陣の門を移築したものです。

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長泉寺龍の天井絵

天井絵は明治期に飛騨の匠・山口権之上(ごんのかみ)が描いたものです。長さ20m、幅3.5m。当初は「鳴龍」でしたが、現在は建物の老朽化のためか聞こえなくなったそうです。

長泉寺とお茶壺道中

江戸時代、幕府が将軍御用の京都宇治茶を茶壺に詰め、江戸城に運ぶ行列をお茶壺道中、あるいは宇治茶壺道中といい、1633年(寛永10)、3代将軍家光の時代に制度化され、幕末まで続けられました。

お茶壺道中のルートは、江戸時代初期は中山道、後に垂井からは美濃路へ入り東海道を利用していたようで、時代によって変化しています。

宇治を出発した一行は中山道を通り、奈良井宿では長泉寺を宿泊所としていました。道中では田畑の仕事も禁止され、煮炊きの煙も許されませんでした。その様子は童謡「ずいずいずっころばし」に表現される通り、お茶壺道中が来たら戸をピシャッと閉めて家に閉じこもりました。大名行列であってもお茶壺道中に出逢えば道の端に控えたといいます。

長泉寺には江戸時代に運ばれたお茶壺の実物が現存しており、奈良井宿場祭りの最終日にはお茶壺道中を再現した行列が長泉寺より出発し、奈良井を一巡します。

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藤田能登守重信(信吉)の墓

当初は北条氏に仕えた沼田城代でしたが、1580年(天正8)真田氏に攻められ武田氏に仕え、武田家滅亡後は上杉氏に仕え越後国長島城主となります。後に会津大森城主となり、関ヶ原後は徳川家康に仕え、下野国西方藩主となりますが、1615年(慶長20)大阪夏の陣の失敗により改易され、翌年長泉寺で急死しています。死因は不明ですが、自害とも言われています。西方の実相寺にもお墓があります。

戦国の世を生き残るため、次々と主君を替えて生き延びましたが、太平の世となる直前に亡くなり、悲運の人でした。

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重伝建周遊バス

奈良井宿と木曽平沢をつなぐ無料バスなのだそうです。レトロでとってもかわいいバスですね。

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荒沢不動尊

奈良井の町並みは、2011年のNHK連続小説「おひさま」のロケ地となり、昭和初期の安曇野として登場しています。

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鍵の手

中町と上町の境にある枡形です。「鍵の手水場」があり、向かいに荒沢不動尊があります。
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櫛問屋中村邸

塗櫛の創始者、中村恵吉の分家にあたる中村利兵衛の櫛問屋です。建物は1837年(天保8)の奈良井の大火後の1837年〜1843年(天保8〜14)に再建されたものです。現在は公開されており、入場料300円で中を見学しました。

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中村邸の1階

建物は間口が狭く、奥行きの長い「うなぎの寝床」状になっています。

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中村邸の2階

塗櫛の創始者、中村恵吉は寛保・延享の頃(1741〜1748)伊那清内路村から櫛挽きの技術を習得して帰り、製造販売をはじめました。当時、奈良井は漆器製造地であったため、試しに木櫛に漆を塗り「塗櫛」として販売したところ街道を旅する人々にとって手軽な土産品として全国に知れ渡りました。
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塗櫛(中村邸)

とても素敵な塗櫛が展示されています。漆を塗ったものだけではなく、銀細工などが施されたものもありますね。

塗櫛は当時、手軽な土産品として江戸・京都・大阪を始め全国的に需要が拡大し、大繁盛したそうです。

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花櫛(中村邸)

塗櫛に薄い絹で作ったピンク、青、黄緑などの造花が施されている可愛らしい櫛です。

大正時代に入ると奈良井で木地、塗りを施し、東京でツマミ細工をして仕上げた花櫛が造られました。これが島崎藤村の「初恋」に登場する花櫛ですが、大正時代末期には姿を消したといいます。

『まだあげ初めし前髪の林檎のもとに見えしとき前にさしたる花櫛の花ある君と思ひけり』

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婦人の心得帳(中村邸)

文政年間に発行された女性の心得や教訓などが書かれている本です。髪型がたくさん描かれ、現代のヘアカタログですね。江戸時代からこのような雑誌があったとは驚きです。櫛、笄(こうがい)、かんざしなどの使い方が書かれています。笄は写真下の棒状のもので髪をまとめてくくるものです。

『木曽の奈良井(習い)か藪原流か 麦もとらずに飯をたく』

このような俗謡があったそうです。狭い木曽谷では耕作地は少なく、田んぼはほとんど見られません。この歌は「麦さえろくに作れない土地であるのに藪原と奈良井は白米を食べている」とうらやむ歌ですが、なぜ奈良井と藪原は豊かだったのか・・漆工芸、曲物、塗櫛で充分豊かに生活できたということです。

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会津屋のおせんべい

焼きたての香ばしいおせんべいが食べられます。ついつい買ってしまいます!

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奈良井宿高札場

高札場は明治のはじめ頃まで使われていましたが、街道の廃止に伴い撤廃されました。現在の高札場は当時の絵図に基づいて昭和48年に復元されたものです。

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宮の沢水場

奈良井宿最後の水場ですが・・・今日は泥水がでていますね。水源に土砂が入ってしまったようです。宮の沢水場は、石置屋根が再現されています。

奈良井宿の水場

水場は生活用水として、また火災発生時のため沢水や湧き水を利用して設けられました。奈良井宿には現在6箇所の水場が設けられています。贄川側から「下町」「下城」「横水」「池の沢」「鍵の手」「宮の沢」となっています。

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鎮神社

寿永から文治(12世紀後期)に、中原兼遠(なかはらのかねとお)が鳥居峠に建立したと言われます。その後、天正年間(1573〜1592)に至り、奈良井氏が現在地に移したと伝えられます。また、1618年(元和4)に疾病流行を鎮めるために下総国(しもうさのくに)香取神社を勧請しました。本殿は1664年(寛文4)の建築です。

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楢川歴史民俗資料館前の石碑群

楢川歴史民俗資料館前に石碑が集められています。1802年(享和2)の庚申塔をはじめ1794年(寛政6)の観音、地蔵尊など23基、石像3体が祀られています。

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山口青邨句碑

『お六櫛 つくる夜なべや 月もよく 青邨』

月夜の晩に櫛つくりの夜業を見て詠んだという句が刻まれています。山口青邨(1892〜1988年)は本名、山口吉朗、俳人であり、鉱山学者でもありました。
13:15 奈良井宿をあとに鳥居峠へ登っていきます。