2019年11月2日

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下諏訪へは前日の夜に車でやってきました。諏訪湖畔の駐車場で車中泊し、朝5時に起きて支度を済ませ、前回寄り道できなかった万治の石仏にやってきました。

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岡本太郎の石碑

「峡の田に 座して石佛のどかなり 正人」

岡本太郎は万治の石仏を気に入り何度も下諏訪を訪れています。この石碑の文字は岡本太郎の揮毫です。

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万治の石仏

石仏の周囲を願い事を心で唱えながら時計回りに三周すると願いが叶うといいます。万治の石仏は1660年(万治3)の建立。「万(よろず)のことが治まる(おさまる)」とされ、万治を「ばんじ」とよみ、物事をばんじまるく治めて願いを聞いてくれるありがたい石仏として広く信仰されています。

万治の石仏の伝説

諏訪大社下社(春宮)に石の大鳥居を造るとき、この石を材料にしようとノミを入れたところ傷口より血が流れ出したため石工達は恐れをし仕事をやめてしまいました。ノミの跡が今でも残っているそうです。その後石工の夢枕に上原山(茅野市)に良材を見つけることができ、鳥居は無事に完成したとされます。石工たちはこの石に阿弥陀如来を彫り祀りました。この辺りは古くから石仏にちなみ、「下諏訪町字石仏」となっています。

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浮島橋と小林一茶の句碑

一番に乙鳥(つばめ)のくゞるちのわ哉 

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浮島社

浮島は戸川の中洲にあたりますので、大雨が降ると流されそうですが、どんなに大水が出ても流されない島として「下社の七不思議」に数えられています。現在は石垣で囲まれ、浮島というイメージは無くなってしまいました。

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諏訪大社 下社春宮

全国の諏訪神社の総本社である諏訪大社は諏訪湖を挟み、南の上社(本宮)、前宮、北の下社(秋宮・春宮)の4ヶ所に鎮座しています。左右片手拝殿(写真の左右)は、1781年(安永9)地元の大工、柴宮(伊藤)長左衛門により造営されたものです。幣拝殿(中央部)は二重楼門造りで、全体に見事な彫刻が施されています。1780年(安永8)に完成しこちらも長左衛門により造営されたものです。

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下馬橋

昔、春宮参拝の折にはここで下乗、下馬しなくてはならず、殿様でも籠や馬から下りなければなりませんでした。下には御手洗川が流れていましたが、今は暗渠となっているようです。記録によれば1736〜1740年(天文年間)の改修とみられ、諏訪大社の中でも最も古い建築物で宮大工、三井伝左衛門の作とされます。

7:30、車を下諏訪駅より100mほど東の「リパーク下諏訪駅前」へ駐車し、本日の街道歩きをスタートします。この駐車場、24時間まで400円と格安です。

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梶原塚と金刺盛澄

案内板の裏側に石碑があります。

1183年(寿永2)の夏、下社大祝金刺盛澄は弟の手塚太郎光盛と共に木曽義仲を助け、平家追討中に下社御射山神事の為、帰国した義仲は平家を追い落とし京へ入り威権を振るいました。これを知った頼朝は兵を派遣し義仲を攻め、義仲・光盛は粟津において討死しました。義仲に最後まで従った盛澄は、頼朝より関東へ出向くよう命を受けますが、ためらったため怒りを買い頼朝の重臣、梶原景時に預けられました。景時は、盛澄の流鏑馬(やぶさめ)の技を惜しみ、処刑を先延ばしにしていました。1187年(文治3)鶴岡八幡宮での放生会の折り、景時は頼朝にその技を見ることを強く進言しました。盛澄はくせ馬を充てがわれますが、景時の助言により乗りこなし、見事に全ての的を射落とします。頼朝は「これぞ神技の故なり」と感嘆し、盛澄と部下は許され帰国することができました。1200年(正治2)景時の死後、盛澄は景時の徳を尊び恩義に報いるため諏訪下宮の上座堂の地に塚を建て五三の桐の太刀を納めました。ここより南西100mほどのところにありましたが、鉄道開通の際に移転されました。

梶原景時と聞くと、「悪人」というイメージでしたが、いい人の面もあったのですね。

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魁塚

赤報隊の相楽総三など8名が処刑され、明治3年に同志が塚を建立し、追分戦争の戦死者4名も加えられました。

赤報隊

幕末に結成された相楽総三率いる新政府の一部隊でした。新政府は倒幕を実現するために農民の支持を得ようと、倒幕に成功すれば”年貢半減”を公約としました。これを農民に周知するために組織されたのが「赤報隊」でした。赤報隊は公約を全国の農民に伝え歩き、結果農民の支持を得た新政府は有利に倒幕を進めることができました。しかし新政府は財政難により年貢半減は赤報隊が勝手に触れ回った偽官軍だとして処刑すると言い出し、相楽総三を含め8人が処刑されてしまいました。

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大灯籠

1829年(文政12)建立。この灯籠から春宮・秋宮を結ぶ中山道を一辺とした三角形を「三角八丁」と呼ばれています。灯籠から春宮までが約八丁の距離です。灯籠の奥に「春宮大門」が見えています。伊勢湾台風まではサワラ並木があったとされます。サワラはヒノキに似た針葉樹です。

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道祖神

街かどの道祖神ですが、小さな御柱に囲まれ、しめ縄がなされとても大切にされています。
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旧道

建物の隙間に幅1mほどの旧道が残っていました。往時はもっと幅が広かったと思われます。この旧道を進むと砥川に突き当たり、江戸時代には橋が架かっていたようです。現在は橋がありませんので北へ迂回し橋を渡ります。

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街かど博物館 蔵

原酒店さんの古くからある蔵を利用し、店主さんのコレクションが展示されているそうです。蝶の標本やカメラ、江戸時代中期から後期の古伊万里などが飾られているようです。

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初期中山道分岐点

初期の中山道はここより小野峠を通り、更に牛首峠を抜けて木曽桜沢へ通じる「小野新道」が開かれました。時の勘定奉行大久保長安が江戸の街づくりのため多くの用材を必要とし、木曽の森林より木材を運搬する目的で開いた道といいます。大久保長安が病死すると長安の不正が発覚し(大久保長安事件)死後1年経った1614年(慶長19)、洗馬宿・塩尻宿を新設し、元の塩尻峠越えの道へと変更されました。

大久保長安事件

元々は武田信玄お抱えの猿楽師(現在の能) でしたが、勉強家だったようで治水技術や鉱山開発に活躍します。武田家が滅びると駿河の大久保忠隣に見込まれ、大久保姓を名乗り、徳川家へ仕えるようになります。家康が関東へ移封されると土地台帳の作成ののち直轄地の管理を任されるようになります。また元武田の家臣を中心とした八王子千人同心も管轄しました。八王子に陣屋を置き宿場の発展や堤防工事、甲州街道の整備などを行い、直轄地の佐渡金山石見銀山の管理も任されるようになりました。長安の才覚により幕府財政はは潤ったといいます。長安の死後、金山を隠れ蓑に不正蓄財を行ったということで長安の息子7名を処刑、親戚などは改易させられました。
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旧渡辺家住宅と顕彰碑

渡辺家は代々諏訪高島藩に仕えた散居武士(城下町ではなく在郷の村々に住んだ藩士)の家でした。この家の建築年代は文書に残されていませんが18世紀中頃と考えられています。その後1841年(天保12)から1854年(嘉永年間)頃にかけて改修工事がされています。この一家から3人の大臣が輩出されています。宮内大臣渡辺千秋(1843〜1902)、大蔵大臣の国武(1846〜1919)の2人は兄弟でこの住宅で育ち、司法大臣の千冬(1876〜1940)は千秋の三男で国武の養嗣子(跡継ぎのための養子、)となっています。内部の見学は320円ですが、朝早かったためまだ開いていませんでした。

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平福寺の日限地蔵

平福寺の開祖は不明ですが、中興は諏訪大社下神宮寺の憲明阿闍(〜1396年)とされます。戦国時代に戦乱と洪水により荒廃し、慶長年間に現在の中山道沿いに移転しました。明治の廃仏毀釈により諏訪大社の別当寺が廃寺となり、下社の神宮寺、三精寺、観照寺の仏像などが平福寺へ引き継がれました。本尊の大日如来像は1716年(享保元)京都の仏師により作られてものです。

日限地蔵は、「おひぎりさま」の通称で親しまれている地蔵尊です。日を限って(決めて)一心に願うと聞き届けて下さることで知られています。かつては関東を中心に広く信仰され、江戸末期に三島より勧請されました。

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東堀正八幡宮(柴宮)

創建はわかりませんが、拝殿建立は1766年(明和3)、舞屋(神楽殿)は1772〜1780年の安永期頃と考えられています。拝殿は棟梁、山田清五良信金、彫刻師伊藤儀左衛門(大隅流)によるものです。

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東堀正八幡宮にはたくさんの石仏や碑がありますが、御柱がところせましと建てられています。

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伊那街道道標

江戸時代、中山道より分岐する脇往還、「伊那街道」との追分道標です。三河、遠江へ通じる脇往還で、信濃では三州街道、三河方面では伊那街道と呼ばれています。伊那谷に沿って小野、上伊那平出を経て飯田へ通ずる道で、中馬による物資輸送に欠くことのできない重要路線でした。伊那街道は中馬発祥地とも言われています。道標は1791年(寛政3)の建立。「右中仙道、左いなミち」とあり、中山道の漢字が統一される前の「中仙道」、反対側には「百万遍供養塔」と彫られています。

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雀おどりの家

緑の多い中山道を進み、東堀へ入ってくると菱形の雀おどりの家があります。立派なお屋敷です。
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東堀一里塚跡と道祖神

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中山道分間延絵図

東堀一里塚は無くなり、石碑のみが残っていますが、分間延絵図には街道より離れて描かれています。街道は古中山道よりも少し南へ移動したようです。
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道祖神

家具のさかと屋さんの双体道祖神は屋根がかけられ、とても綺麗です。新しいものでしょうか。

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横河川

1kmほど上流の出早公園は桜の名所として親しまれています。河口には、冬になると多くの白鳥が訪れるそうです。

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蚕玉神社跡

「蚕玉神社」、「天満宮」などの石碑があります。横河川の橋を渡り、西山田村から小井川村へ入ったあたりの場所ですが分間延絵図にも描かれていませんし、経緯は不明ですがこの場所に神社があったのだと思われます。
TOO001 今井村へ入ってきました。カエデが綺麗です。

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双体道祖神

小さな御柱が建つ双体道祖神はかなり古そうです。右の鳥は木製で羽が動く仕組みのようで、大きな旧家の軒下にたくさんの木製の鳥が設置されていました。種類もたくさんありとっても素敵でした。自分で造られているのでしょうか。

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明治天皇今井御前水跡と今井番所跡

高島藩内には関所は設けられていませんでしたが、藩では塩尻峠口の交通の要衝に口留番所を設置し、人の出入りのほか穀物の検問などをしました。この口留番所では関所と同じく手形が必要でした。番所の建物は1789年(寛政元)に建設されたもので、諏訪地域で番所の建物が残っているのはここだけです。

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今井茶屋本陣

江戸時代、尾張徳川家をはじめ、参勤交代の西国諸大名、人馬の往来も激しく多くの旅人がこの茶屋本陣で休憩しました。文久元年には皇女和宮、明治13年には明治天皇が山梨・三重・京都方面巡行の際に休憩されました。現在は国の登録有形文化財となっています。薬医門があり、主屋は江戸中期に建てられた本棟造り、立派な雀おどりも見られます。
9:40 このあと一旦、旧中山道を外れ国道20号にでます。朝ごはんも食べていないのでお腹がペコペコでしたので、国道沿いのガストへ寄り道です。朝早くから開いていて有り難いです。

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馬頭観音と不動尊?

「不動尊」の石碑を過ぎると徐々に上り坂となっていきます。

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諏訪湖の向こうに見えるのは八ヶ岳でしょうか。中山道の塩尻峠へ向かって登っていきます。現在の塩尻峠は旧中山道の塩尻峠より南へ1kmほどの国道20号線のところになります。岡谷市と塩尻市の境界になっています。

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石船観音

峠越えの旅の安全を古来より見守ってきた観音様です。本尊馬頭観音が船の形をした台座の上に祀られていることから「石船観音」と呼ばれています。堂にはわらじが吊るされ、足腰にご利益があるとされています。
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鳴沢清水

流れの中に龍がいます。この龍、木を彫ったものでした。この場所から湧出しているものできなく、斜面の上の沢からの水のようです。皇女和宮や明治天皇も飲まれたそうです。

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旧中山道の大石

「木曽路名所図会」には、「大石、塩尻峠東坂東側にあり。高さ二丈(約6m)ばかり、横幅三間余(約3.6m) 」と記されています。伝承によれば昔この大石に盗人が隠れており、旅人を襲っていたとされ、ある時旅人が追い剥ぎに殺され、大石のたもとに埋められました。下の村から峠を見ると大石の場所で青い火がチロチロと燃えていたといいます。また周辺ではよくムジナがでて夜歩きの旅人を驚かし、その隙きに旅人の持っているローソクを奪っていたといいます。ムジナはローソクの油が大好物なのだとか。
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峠道の馬頭観音

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塩尻峠の合戦

塩尻峠は幾度か合戦の舞台となっています。中でも最も知られているのが武田信玄と小笠原長時の戦いです。1546年(天文15)武田氏は佐久の大井貞清を破り大門峠を越えて小県上田原で村上義清と対決しますが大敗してしまいます。一方、小笠原長時や村上義清はこの機にのり安久曇の仁科氏、伊那の藤原氏らと連合軍を編成し諏訪へ攻め入ります。更には諏訪湖西の土豪衆である西方衆や佐久の武士達も小笠原氏へついたため、信玄の信濃攻略は危機を迎えます。そこで信玄は直ちに塩尻峠へ軍を進め、両軍は塩尻峠で対峙します。始めは小笠原氏が優勢でありましたが、裏切り者が出たため千名余りの死者を出し大敗し、信玄が勝利しました。

塩尻峠の松並木

1764年(明和元)塩尻峠を訪れた勘定奉行石谷備後守清昌は、並木として栗でも植えれば百姓のためにも旅人の助けになるだろうとして、村役人に命じています。しかし、雪の多い峠に並木を作ると日陰ができて雪解けが遅れ、人馬の通行に支障をきたしてしまうため、農民たちは北側のみに植えればあまり日陰にもならず、奉行の命にも沿うと述べています。1843年(天保14)の調べによると663本の松が植えられていたとされます。1843年(明治20)新道の建設により、払い下げられ18本のみが残っていましたが、明治33年小学校の改築時、ほとんどが伐採されてしまいました。
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明治天皇塩尻峠野立記念碑・句碑

明治天皇甲州東山道巡幸の御野立記念碑です。一礼するだけの記念祭は世界一短い祭としてギネスブックに申請しているそうです。句碑には「大帝の龍駕の峠さくらうう」と彫られています。

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塩嶺御野立公園展望台

塩嶺御野立公園は、八ヶ岳中信高原国定公園内に位置しています。南側には八ヶ岳連峰、北側には北アルプスを望むことができます。

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茶屋本陣と明治天皇塩尻嶺御前水

茶屋本陣を務めた上条家、当時の建物が現存しています。

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夜通道(よとうみち)と親子地蔵

親子地蔵は、1783年(天明3)の大飢饉の際に塩尻峠で行き倒れになった旅人を供養するため1801年(享和元)に建てられたものです。

夜通道

昔、片丘あたりに住む美しい娘が岡谷の男と親しい仲になり、男に会うために夜ごとこの道を通っていました。男は始めのうちは楽しんでいましたが、一年も経つと三里の夜道を一人でどのように来るのか不審に思うようになります。ある夜、男は道の途中に隠れて様子を伺っていたところ、女は白衣をまとい、髪を振り乱して長く垂らし、枠を頭に載せロウソクを立て、口には櫛をくわえ、大蛇が這うような音を立てて、小走りにやってきました。これを見た男は驚き逃げてしまいました。間もなく女も姿を消してしまったと伝えられています。夜通道は松井沢橋辺りより中山道と分岐し、いの字山の麓を片丘へ通じていました。

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東山一里塚

北塚は戦後の開拓で崩さましたが、南側は現存しています。1614年(慶長19)に塩尻峠経由となったため、その頃に作られたものと考えられています。
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雀おどりの家

「雀おどし」とも言うようですが、諏訪では菱形が多く、塩尻・松本・安曇野では鳥が羽を広げたような形が多いとされます。

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犬飼の清水碑

塩尻宿より塩尻峠へ向かった公家の一行が柿沢村を通る頃、愛犬の具合が悪くなり供のものが手を尽くしましたが、犬の具合は変わらず峠の中ほどまで来た頃には公家も諦め、近くにあった清水を手にすくい、犬に飲ませてやりました。犬はみるみる元気を取り戻し、回復したといいます。そこで公家はこの清水を「犬飼の清水」と名付け、石に名を刻み、水口の上に建てて出立したと伝えられています。本来は現在の国道の下だったそうです。
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牛馬守護神

牛馬は農作業や荷物を運んだり、家の宝として大切に扱われ、その安全を祈願する習慣がありました。この辺りに「新茶屋立場」があったとされます。

暫く進むと国道20号を横断しますが、国道はカーブしてる上にとんでもなくスピードをだしてくる車がありますので、必ず地下道を通ってください。かなり危険です。

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馬頭観音

洋梨でしょうか・・・木は小さいですが立派な実をつけています。

更に進むと長野自動車道が下を交差する橋になりますが、ここに「みどり湖SA」があります。このSAは徒歩でも入ることができます。長野自動車道を渡る橋の手前で右に曲がり、10mほど進むと階段があり、下のサービスエリアへ降りることができます。SAでは食事もできますし、トイレも綺麗ですし便利だと思います。

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とんび

凛々しくもかわいい顔ですね。

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光明庵跡

光明庵跡の石碑と歴代住職墓、明治44年光明庵が廃寺となったときに上条氏が建立した石碑だそうです。

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八幡神社

詳しい創建はわかりませんが、光明庵も八幡神社も中山道分間延絵図に描かれていますので、それ以前からあったようです。

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柿沢の双体道祖神

ほとんど形がわからないほど傷んでしまっています。他の地区より移設されたようですが、取り返したとも伝えられているそうです。

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永井坂の首塚・胴塚

天文17年、甲斐武田信玄と松本林城主小笠原長時軍が永井坂において激突、小笠原軍が破れ多くの戦死者を残して退却しました。武田軍は、家臣の戦功を賞するため首実検を行った後、戦死者の遺体を放置して引き上げていったので、柿沢の村人は哀れに思い、ここへ埋葬しました。石碑の文字は子孫の唐津藩主小笠原長生の筆によるものとされます。
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雀おどりの家と道祖神

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高札場

柿沢村の高札場が復元されています。

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本棟民家

松本平に多く見られる切妻造りの民家です。雀おどりが立派です。
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永福寺観音堂

永正年間(1504〜1521年)木曽義仲の末孫である義方上人が義仲の菩提を弔うため義仲の信仰していた馬頭観音を本尊として長畝の東方の福沢に再興したと言われています。開祖は木曽福島城主の木曽豊方で法号にちなみ、「長福寺」としましたが、徳川家重(後の9代将軍)が生まれ、幼名を長福丸と称したため、「永福寺」に変更しました。2度の移転後、1702年(元禄15)現在地へ朝日観音堂が建立されましたが、その後焼失してしまいました。(別の文献では1717年(享和2)現在地へ移ったとあります)現在の観音堂は、1855年(安政2)二代立川和四郎内匠富昌が請け負いますが、彫刻用材の大ケヤキの枝下ろしの際の事故で74歳で亡くなってしまいました。彫刻は十二支を計画していましたが、亡くなったため、正面の龍の彫刻のみとなり、最後の作品となってしまいました。

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永福寺仁王門

明治29年、諏訪の立木音四郎種清により建立されました。種清は、観音堂を造営した二代立川和四郎内匠富昌の弟子として修行していました。明治21年の皇居造営にも関わり、数多くの作品を残しています。
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上町の舞台

祭礼に繰り出す山車を、松本では舞台と呼ぶようです。上町の舞台は、信州松本の大工、小澤長重朗、立石清八(清八郎)、小野精十により1855年(安政2)に造られたものです。欄間飾りの「二十四考」の彫刻は立川流工匠の中でも屈指の名工と言われた立木音四郎種清の作で随所に卓越した技が見られます。

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双体道祖神

『三河道、寺あり。土橋を渡りて柿沢村なり。石に二人の立てる形をゑりたるは道祖神にや』蜀山人が記した壬戌紀行には、この道祖神のことが記載されています。

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柿沢一里塚跡

江戸より58里の一里塚ですが、明治以降の道路整備により塚はなくなり、場所もわからなくなってしまったといいます。塩尻四宿開宿400年にあわせ、「ほぼこのあたり」として石碑を建立したものです。
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阿禮神社御旅宮(おかりや)と三州街道碑(塩の道)

祭事の際に神を仮に安置する場所を御旅宮といいます。神霊を神輿に乗せることから、「神輿所」という地方もあります。

三州街道碑(塩の道)

三州街道と中山道が交差する場所です。三州街道は、中山道の脇往還として伊那、飯田を経て三河国・岡崎へ至る信州と三河を結ぶ道です。伊那街道ともいわれ、塩を運んでいたことから「塩の道」とも呼ばれています。中馬で盛んに利用された街道です。中馬とは伝馬と違い宿場で荷物を付け替えずに、目的地に直接運ぶ方法です。

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塩尻口留番所跡

1633年(寛永10)頃に松本藩の口留番所が設置されました。享保10年頃には松本藩の番所は11あったとされます。女性の通行や塩の出入りが取り締まられました。松本藩内では千国番所のみ塩の運搬を許し、運上金を徴収していたため、他の出入りは禁止されていました。また、穀類の輸入の取締り、麻や木曽からの材木、馬なども許可証が必要でした。

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十王堂跡

中山道と五千石街道の追分に近い場所にあったとされます。双体道祖神は、文化6年の建立で男女が逆になっています。庚申塔、念仏碑などの石仏も並んでいます。

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五千石街道碑

諏訪藩主が東5千石の飛び地の巡見に利用した道が「五千石街道」と呼ばれるようになったと言われています。塩尻宿の上町から長畝を経て中挾から南熊井・赤木、竹淵で村井方面から来る北国西街道(善光寺街道)と合流します。

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旅籠いてうや(小野家住宅)

1836年(天保7)に再建された旅籠屋で、屋号を「銀杏屋(いてうや)」といいます。間口8間、奥行き40間の町割り敷地と主屋、文庫、隠居屋、など全体が国重要文化財となっています。二階には鶴の間、鹿の間(紅葉の間)、桜の間があり、それぞれ極彩色の見事な襖絵が全面に描かれているそうです。
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上問屋場跡・高札場・下問屋場跡

左手に「上問屋場跡」、隣に「明治天皇行在所」の石碑があり、斜向かいに「高札場・下問屋場跡」があります。

塩尻宿は、以前は東北の古町が宿場の中心地でしたが、中山道の開通時に村寄せされ現在地に新たな宿場ができました。天保14年の調べでは旅籠75軒があり、中山道では深谷宿に次いで旅籠の多い宿場町でした。1779年(安永8)より塩尻宿にも飯盛女が置かれるようになりました。

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川上本陣跡・川上脇本陣跡

塩尻宿は、1614年(慶長19)中山道が塩尻峠経由となった折に開かれた宿場です。1563年(永禄4)に武田信玄の出した伝馬定書の宛先が「信州塩尻宿中」となっていることから、中山道制定以前にすでに「塩尻宿」と呼ばれた宿場があったことは明らかで、この旧宿の南西に新たに塩尻宿が開かれました。本陣は、間口24間で中山道の宿場では最大の本陣でした。川上本陣、川上脇本陣共に明治15年の大火で焼失してしまいました。川上家は塩尻駅が開業すると駅弁事業を行い、「駅弁カワカミ」で知られています。

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塩尻陣屋跡(笑亀酒造)

1725年、松本藩主水野忠恒は将軍吉宗に拝礼を済ませ、退出した松の廊下で刃傷沙汰を起こしてしまいます。(松本一大事)七万石の領地、江戸藩邸没収後、蟄居となります。その後松本藩には鳥羽藩主戸田光慈(松平みつちか)が六万石で入封となります。残った一万石が天領となり、塩尻陣屋が置かれました。陣屋跡地が笑亀酒造となっています。

笑亀酒造は、1883年(明治16)創業の造り酒屋で主屋と造蔵、穀蔵の3棟が国の登録有形文化財となっています。造蔵は木造の建築物としては県内最大級といわれ、酒造りのための工夫が随所に施されています。蜀山人の「壬戌紀行」にも記載がある造り酒屋です。
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立場碑・鈎(かぎ)の手碑

鈎の手は、曲尺手(かねんて)、枡形などとも言われる宿場の出入口を直角に折り曲げた道のことです。防衛のほか大名行列同士がかち合わないようにする意味もあったとされます。鈎の手碑で街道は北へ折れます。

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阿禮神社

創建は不明ですが、927年(延長5)の延喜式名帳にも記されており、格式のある神社です。元は東山山麓の五百渡山にあり、奈良時代(700年代)柿沢の明神平(現在の奥社)に移り、塩尻宿ができてから1687年(貞享4)、それまであった八幡宮に合祀される形で現在地へ移ってきました。小笠原氏、武田氏より社領を寄進されていましたが、両家の滅亡により社領も失いました。古文書や神宝は、天文年間と1714年(正コ4)の火災により焼失してしまいました。現在の社殿は1717年(享保2)建立とされています。

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堀ノ内大壺の道祖神

元治元年建立。男女の双体道祖神は、頭部の後ろに御幣が刻まれています。御幣とは、半紙で出来たヒラヒラを竹串にはさんだものです。

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堀内家住宅

江戸時代、旧堀之内村の名主を務めた豪農です。天明年間に下西条の川上家から現在地に移築されています。
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石仏群・顕徳碑?

南妙法蓮華経の髭題目碑、文字道祖神、秋葉大神、蚕玉大神の石碑が並んでいました。「萩上一夫君の碑」明治26年に建立されたようですが、詳細がわかりません・・・

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大小屋の庚申塔・道標

道標は一部破損しており、「左、右」は読めるのですが・・庚申塔は下半分がありません。
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大門神社(柴宮八幡宮)・柴宮銅鐸出土の地碑

長野県は銅鐸文化の圏外と考えられていましたが昭和35年にこの大門神社境内から弥生時代のものと思われる全長64cmの三遠式銅鐸が完全な形で出土しました。三遠式は、三河・遠江など東海地方に多くみられる様式で東海地方から搬入されたものと考えられています。

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耳塚

耳塚様と呼ばれ、昔は耳の病気が治ることを祈り、穴を開けた素焼きの皿が多数奉納されています。1548年(天文17)武田信玄と小笠原長時との桔梗ヶ原の合戦の際に討ち死にした将兵の耳を葬った場所と言われています。
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道祖神

燈篭には「有明山神燈」とありますが、どこの神社の参道だったのか・・詳しくはわかりません。

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明治天皇野立所跡

この石碑がある広場は、旧塩尻駅の跡地だと思われます。1880年(明治13)の中央道巡幸(明治13年6月16日〜7月23日) の際に旧塩尻駅より列車に乗られたのでしょう。裏には「日本アルプス連峰」「古戦場」とありますが・・刻まれた文字が全て読めなく、詳細はわかりません。

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塩尻駅

15:40 ようやく塩尻駅到着です。中山道より約1kmほどですが長く感じました。

塩尻駅は中央本線と篠ノ井線が発着する駅で、中央東線(JR東日本)と中央西線(JR東海)の境界駅でもあります。中央東線は更に本線と辰野経由の支線が分岐しており、松本方面・名古屋方面を含め4方向へと線路が延びているため、結構わかりにくいです。中央東線、本線で下諏訪駅へ戻りました。

下諏訪駅で車をピックアップし、お風呂の前に諏訪市のご当地ラーメン「ハルピンラーメン下諏訪町役場前店」へ寄りました。

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ハルピンラーメン

1974年(昭和49)創業の老舗で、上諏訪・下諏訪の他、塩尻や松本、富士見町など長野県内に4店舗あるそうです。ハルピンラーメンと普通の餃子としそ餃子を注文しました。ラーメンは、味噌のような醤油のような・・そして甘みとコクのある味で美味しいです。ラーメンは人それぞれ好みの分かれるところですが、私は好きな味でしたね。しそ餃子が美味しかったです!あっさりしていていくつでも食べられそう。 お腹がいっぱいになったところで、「美肌の湯 ロマネット」で温泉へ入り、「道の駅 小坂田公園」でおやすみなさい。