2022年5月1日

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11:00 雨は本降りになってきました。気温も上がらず冷たい雨・・・中津川宿へ向かい進んでいきます。

落合宿の西の枡形から暫く進むと国道20号(中津川バイパス)に架かる橋を渡り、正面に「落合五郎兼行城跡・お伽藍神社」があります。

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落合五郎兼行城跡・お伽藍神社

木曽義仲の家臣、落合五郎兼行の屋敷跡と伝えられています。現在は「愛宕神社」となっており、秋葉権現、天神など4社が合祀されています。この丘全体を「おがらんさま」と呼んでいました。

伊能忠敬測量日記には「落合五郎兼行旧跡、大杉二本あり」と記されていますが、昭和34年の伊勢湾台風で倒れてしまったそうです。

木曽義仲と落合五郎

1155年(久寿2)木曽義仲の父は武蔵国で源義平に討たれた時、義仲は3歳でしたが乳母の夫であった中原兼遠を頼り、木曽で養育されました。落合五郎は中原兼遠の子で、樋口次郎、今井四郎、巴御前は兄妹にあたります。落合五郎兼行は落合のオガランに屋敷を構え、中津方面への前線基地として義仲に従い、各地へ奮戦しました。兄、今井四郎の戦死後、その弔い合戦に中津川で戦いましたが敗れ、三留野の首洗いの池で討死したと言われています。

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木曽名所図会に描かれた「落合五郎兼行霊社」

お伽藍神社からカーブが続く道を進み、再び国道20号(中津川バイパス)を地下道で抜けますが、その手前で国道20号を越えずに真っ直ぐ50m、右へ曲がると墓地があります。墓地へ入り墓地西側の園路を北へ50m、その付近に案内柱があり、そこを右へ曲がり一番奥、段丘の縁に「天狗党熊谷三郎の墓」があります。

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天狗党熊谷三郎の墓

1864年(元治元)水戸の天狗党が京都へ向かう途中、落合宿を通過した折、党紀に違反した熊谷三郎は三角屋敷で惨殺されました。三角屋敷は与坂にあり屋敷地を三角形に形作っていたといいます。それを哀れんだ地元の人々供養したそうです。
国道20号(中津川バイパス)を渡る地下道まで戻り、国道20号の下を抜けると上り坂になります。緩いように見えましたが意外ときつい。500mほど上っていくと「与坂立場」へ至ります。左手は「与坂の棚田」として知られる景勝地で、その先に「与坂の八幡宮」もあるのですが、このお天気なのでスルーしてひたすら坂を上り、上りきると「与坂立場」に到着です。

与坂の八幡宮

落合五郎兼行が創建し、五郎の兜が奉納されているといいます。1585年(天正13)市岡半右衛門が再建したとされますが、棟札の一番古いものは1610年(慶長15)落合宿役人、市岡喜平治造立となっています。古くから「鰯祭り」と呼ばれる祭りがあり、神事には鰯をお供えし1883年(明治16)には鰯の数は800を越えていたとされます。

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与坂立場・与坂白木番所跡

与坂の立場茶屋は「越前屋」といい「三文餅」が有名な茶屋でした。三文餅は、米粉の餅に黒砂糖を煮詰めたものを塗り、大人気でしたので「越前屋の裏の井戸から黄金が湧き出る」と言われました。

1745年(延享2)から1782年(天明2)まで白木(木曽五木)を取り締まる番所が37年間置かれていましたが、中津川上金に移されました。

江戸時代の落合名物

『与坂の三文餅、横手のわらじ、田中の馬のくつ、扇屋膳飯しや、盛がええ桜屋とうふ、此吉こんにゃく、板屋寿司、青膏(たこ)吸い出し、金瘡は狐膏薬山中薬師、水に消えない鉄砲の火縄』と詠われまた。かなり多くの名物があったのですね。

与坂立場の前に地蔵堂があります。

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地蔵堂

「弘法大師三十六番札所」とあります。恐らく「恵那中部新四国八十八ヶ所」の一つではないかと思われますが、詳しい情報がありません。八十八ヶ所巡りは無数に存在しているのでなかなか難しいですね。ただ、落合の善昌寺が「恵那中部新四国八十八ヶ所39番」、落合宿の高福寺が「恵那中部新四国八十八ヶ所40番」なので近いかなと。

また、中山道分間延絵図には描かれていませんので、割と最近建てられたものと思われます。

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今度は急勾配の坂を下っていきます。どんどん下り、「三五沢橋」を渡るとすぐ左手に「子野一里塚跡」の石碑があります。往時、三五沢橋は落合宿と中津川宿の境界になっていました。

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子野一里塚跡

少しこんもりと盛土されそれらしくされていますが、元の塚は取り壊されています。 子野一里塚跡を過ぎると道はまた上り坂となり、徐々に急坂となります。ここが「まき坂」と呼ばれた坂で、急カーブの左手に「子野石仏群」があります。

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子野石仏群

巡礼供養塔や馬頭観音が祀られています。
まき坂を上りきると右手に御嶽覚明神社があり、多くの石仏が祀られています。

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御嶽覚明神社

1785年(天明5) 覚明行者は木曽御嶽山を信仰の山として切り開こうとここを通り、ここにあった茶屋に泊まりました。家人の接待に喜んだ行者は記念品を渡して御嶽山に向かいました。後に御嶽開山を記念して「覚明霊神」を祀った神社です。

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一命石

中山道分間延絵図のまき坂を上った右手に描かれています。現在の御嶽覚明神社あたりです。

「壬戌紀行」には覚明行者がこの石を打ち鳴らし、その音色は鐘の響きに似ていたという話が記されています。恐らく覚明行者が茶屋の主人に渡した記念品が一命石だと思われます。

現在、中津川市東宮町の御嶽教朝日覚明教会には打ち鳴らすといい音がする「チンチン石」という石を御神体としているそうで、これが「壬戌紀行」に記されている石だと思われます。しかし、中山道分間延絵図に描かれた「一命石」はもっと大きなものだと思われるのですが・・・一命石とチンチン石は同じものなのか否か・・わかりません。

御嶽覚明神社からは坂を下り左手に子野の神明神社、さらに下るとトイレも併設された「快心庵休憩所」があり、ここを過ぎると道は平坦になってきます。子野橋を過ぎると住宅が多くなってきます。左手に道にはみ出るように枝が伸びた大きな枝垂桜が見え、一角に多くの石仏が集められています。

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しだれ桜

樹齢350年以上と推定されています。
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子野石仏群

江戸時代に中山道を整備した際に近くにあった石仏をここに集めたと言われています。1822年(文政5)、高さ2mほどの徳本上人念仏碑があり「上金村 子野村講中」とあります。地蔵には寛政11年の年記。地元の人はここを「とっこんさま」と呼んでいます。

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十一面観音と弘法大師

地蔵堂川の辺りに地蔵尊が祀られていた社がありましたが、いつの間にか取り壊され、現在は石仏群の一角に小さな社が建てられています。「地蔵堂」という地名は今でも残っています。
子野石仏群から地蔵堂橋を渡り突き当りに「第一用水上金水力発電所」の案内板がありました。

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第一用水上金水力発電所

中津川市では用水を利用して小水力発電を行っており、ここでは防犯灯10灯分を発電しているそうです。
突き当りを右へ曲がり少し行くと国道19号線で中山道は分断されています。国道改修のためこの付近の中山道は消滅しています。国道の下をくぐり水田や住宅が混在する道を200mほど、左手に「秋葉常夜灯と二十三夜塔」があり、更に200m右手に「尾州白木改番所跡」の案内柱があります。

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上金の秋葉常夜灯と二十三夜塔

1823年(文政6)建立の秋葉権現常夜灯です。

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尾州白木改番所跡

1782年(天明2)、与坂に置かれていたものがこちらへ移され、1871年(明治4)に廃止されました。木曽五木(ひのき・さわら・あすなろ・こうやまき・ねずこ)を領外へ搬出するのを厳しく取り締まっていました。

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伏見稲荷神社

奥は「旭ケ丘公園」になっており、多くの句碑や南林寺などがあります。江戸時代後期には6人の地主の名を取り「六兵衛山」とも呼ばれていました。
たくさんの句碑や天満宮、南林寺がありますが、とにかく雨が強いので寄り道はせずに、中津川へ向けて急いで進んでいきます。

旭ケ丘公園の入口付近に「経王書写塔」、カーブを曲がり茶屋坂入口右手に「芭蕉句碑」、茶屋坂を少し下りた先に「元矩碑」があります。

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経王書写塔

菅井嘉兵衛の長女、伊志は未亡人でしたが盲目になったのち、仏門へ入り丸い石に一字一石、360個の石に法華経を書き上げ、納めたもので、実家所有の中山道沿いの土地に1779年(安永8)に建立されたもので、碑文は手賀野の松源寿八世庵礼が作成しました。この塔を拝むと読経したのと同じ功徳があるとされました。

旭ヶ丘公園

あまりに雨が強かったので旭ヶ丘公園の奥に入らなかったのですが、後日、再び訪れたので記録しておきます。

中山道より左の旭ヶ丘公園へ入っていくとまず左手に覆屋に納まる「三井寺観音」があります。

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三井寺観音

「歯観音」ともいわれ、虫歯の痛みを治す観音様と伝えられています。(手でほっぺを抑えているから?)菅井家先祖が文化年間(1804〜1818)に建立したもので、天台宗総本山円城寺へ背を向け遥拝できるように安置されています。
そのまま直進して奥へ進むと「伏見稲荷神社」、さらに奥へ進むと「南林寺」があります。

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伏見稲荷神社

詳しいことは不明ですが、中山道分間延絵図には描かれていませんので、それ以降に勧請されたか、移設されたようです。
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南林寺・延命千体地蔵尊

旭ヶ丘公園内は道が複雑でよくわからなかったので、南林寺から西側の斜面を下り、一旦車道へでました。

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天満宮参道

車道を北(中山道へ向かって)へ少し下ると「天満宮」の入口が右手にありました。ここを上っていきます。参道を上ると左手広場に「はだか武兵の碑」があり、さらに上ると正面に「天神碑」、右手に「旭ヶ丘天満宮」が祀られています。

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はだか武兵(ぶびょう)の碑

武兵は中山道で駕籠かきを生業とし常にふんどし1本の裸のまま中津川を根城に美濃路と木曽路を往来して暮らしていました。天保年間、御嶽山にある霊神より悪病退散の秘宝を授かり、後に西国の大名のお姫様が道中、高熱病におかされ数日間宿で伏せていたのを一晩で治したことが評判となり近郷近在で悪病を追い払った伝説の人物と言われています。武兵の死後、疫病よけの神として街道沿いに祀られていましたが、後に現在地へ移設されました。

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天神碑

1867年(慶応3)間秀矩が天満宮氏子有志に図り建立。撰文は儒学者菅原為栄。「純粋な日本独自の国学論が必要」などと論じられています。

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旭ヶ丘天満宮

「中川旧記」によると川を流れてきた神様を子供が拾い、近所の者たちが祠を建立し、中津川宿天満屋の裏に天満宮として祀られていました。

1664年(寛文4)に天満宮は石灯籠1基と共に現在地へ移されました。どの石灯籠が天満屋から持ってきたものでしょうか・・・1664年以前のとても古いものですが、それほど古い灯籠は見当たらないですね。
旭ヶ丘天満宮から戻り天神碑を右手に見て通過し、すぐ先分かれ道に「宝暦の御神灯」「間秀矩歌碑」がありました。

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宝暦の御神灯と間秀矩歌碑

御神灯は、1753年(宝暦3)の建立ですが火袋がない状況です。台座には市岡長右衛門をはじめ本町・横町の寄進者の名が刻まれています。

間秀矩歌碑

『くにのため死におくれとる老の身は 書の林にすてむとぞ思う』

間秀矩は22歳で家督を継ぎ、酒造業のやまはん十八屋の主であり、中津川宿の問屋・年寄役を兼務。幕末には平田門人となり尊王思想家の一人として活躍しました。明治時代になると神祇官(じんぎかん、朝廷の祭祀・諸国の官社を司る最高国家機関)に就きますが、1871年(明治4)に亡くなりました。 島崎藤村の「夜明け前」では蜂谷香蔵、姉婿の馬島靖庵は宮川寛斎の名で登場しています。

1885年(明治18)神祇権少教正の職位が追加して贈られたことを記念して六代、元矩が1889年(明治22)に歌碑を建立しました。 天神碑の撰文者、菅原為栄は歌碑の建立に際し「あさひのおか この石文に雲なき こころのあとを いまもみるかな」と長歌を手向けています。

その先、さらに奥へ進むとつきあたりの四阿の下に「土丶衛歌碑」、少し上って「芭蕉句碑」「馬風句碑」があり、もう1段上って左手に「蝶哉句碑」「樹霊之碑」があります。

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土丶衛(ひじもり)歌碑

『真木たてるあら山中を香細しき 花の園生となしたるや』

1887年(明治20)公園開設に合わせて詠まれたものです。土丶衛は市岡長右衛門殷政(しげまさ)の雅号で、殷政は中津川宿本陣最後の当主でした。また、平田門人でもあり、1888年(明治21)78歳で死去。島崎藤村の「夜明け前」では浅見景蔵の名で登場、また勤王の女傑、松尾多勢子はいとこにあたります。

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芭蕉句碑

『三井寺の門敲はや けふの月』、「指月亭 紺拝(しかん)」

1691年(元禄4)近江、義仲寺・無明庵で仲秋の名月を詠んだ句です。茶店指月亭内に紺拝が建立したものと思われますが、1882年(明治15)菅井馬良(馬風の親族で菅井蠖)が「指月亭」の上り口だった現在地へ移設したようです。指月亭は上金台にあったようですが、詳しい場所は不明です。

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馬風句碑

『菊折て すててまた折る 山路かな』

馬風は旅籠田丸屋の10代目で、肥田九郎兵衛通光(みちてる)。中津川最後の庄屋を努める傍ら俳句を好み、また平田門人となり市岡殷政、間秀矩らとともに水戸浪士横田元綱の首を埋葬、東山道軍の先導隊にも加わり1880年(明治13)死去。島崎藤村「夜明け前」では小野三郎兵衛の名で登場しました。この句碑は1882年(明治15)、馬風の三男と親族により建立されました。

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蝶哉(ちょうさい)句碑

『無為にて祖田を守る 案山子かな』

蝶哉は、1871年(明治4)中村の素封(そほう)家に生まれ、成木長治郎といい、正岡子規のホトトギスに参加、高浜虚子、吉田冬葉と交わり漢詩・印刻・日本画にも打ち込み、議員も務め1956年(昭和31)に亡くなりました。この句は1946年(昭和21)戦後の農地改革の時に地主の心境を詠んだもので、1954年(昭和29)に建立されました。

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樹霊之碑

詳しくはわかりませんが、大きな樹木が倒木してしまったときなどにその木に宿る樹霊を祀ったりするようです。「農林大臣河野一郎」から推定すると1955年頃の建立のようです。
少し戻り、伏見稲荷神社の方へ上ると左手にたくさんの石仏が集められています。

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旭ヶ丘公園の石仏群

江戸幕府が中山道を整備した際にここに移されたと言われていますが、元禄・宝永・天保の銘のものが多いですね。その後も続々とここへ集められたのでしょうか・・・

後日談はここまでです。

再び中山道を歩いた記録を綴っていきます。

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芭蕉句碑

『山路来て何や羅遊かし寿す連草 はせを』

1773年(安永2)大津出身の菅井嘉兵衛が芭蕉80回忌に建立したものです。傍らには馬頭観音も佇んでいます。

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茶屋坂

茶屋坂は上金から中津川宿への一続きの曲りくねった道でしたが、1964年(昭和39)国道19号線(現在は国道ではない)が中津高校の下を通るようになると茶屋坂が切られてしまい、歩道橋で繋がれています。

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元矩碑

やまばんの六代目をついだ間元矩は中津川の戸長を8年、初代町長を2年、町村の行政を担い旭ヶ丘公園を開いた中の一人であり、園内に「間秀矩歌碑(蜂谷香茂・問屋)」「土衛歌碑(浅見景茂・中津川宿本陣・市岡殷政)」を建立した後に49歳の若さで亡くなりました。

元矩碑は、1894年(明治27)に建立され、扁額は天神碑と同じ中納言菅原為栄の書、撰文は熱田神社の大宮司、角田忠行です。忠行は島崎藤村「夜明け前」に暮田正香の名前で登場します。
TOO001 細い坂を下りアスファルトの道に出ると張り出しの歩道を進み、歩道橋を渡ります。歩道橋をおりた先をくるっと回り30m、左手の細い階段を下りると中津川高札場に到着します。高札場には、「成田不動尊」、「二十三夜塔」があり、その下から水量は少ないですが湧き水があります。

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中山道分間延絵図の茶屋坂

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成田不動尊

庚申塔は1805年(文化2)、二十三夜塔は1835年(天保6)に建てられたものです。常夜灯は1789年(寛政元)のものです。この常夜灯の場所には遠くからでもよく見えた1本の大きな松の木があったそうですが、枯れたため伐採され跡地に常夜灯が移されました。

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中津川宿高札場

高札場は茶屋坂にありましたが、茶屋坂はほとんどが道路改良のため消失したため現在地へ復元されています。
13:00 高札場から230m、新町交差点で二泊三日の馬籠峠越えは終了します。ここから中津川駅へ向かい車をピックアップします。雨が多い3日間でしたが、馬籠峠越えの日だけは晴れましたので良かったです。旧道が残る中山道は楽しい、楽しい3日間でした。