岩村田は善光寺道、下仁田道、佐久甲州道などが交わる交通の要衝

2019年4月30日

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皎月原(こうげつはら)

586(用明天皇元年)、京の女官・皎月が佐久郡平尾へ流刑となり、この地で解き放たれたとされます。彼女は白馬に乗ってきましたが、この白馬を非常にかわいがっていたといいます。白馬に乗り回していると、天の竜馬だった白馬は空へ駆け上がり、平尾山の頂上に立ち止まります。官女は「白山大権現だ」と言って岩の中へ入ってしまいました。その後、官女は時々小田井の原を白馬で駈け廻ったといわれています。その跡は草も生えず輪となって残ったことから、 皎月原と呼ばれるようになったとされます。しかし、「村上家伝」の村上基国の伝記には全く別の話が載っているそうです。

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皎月歌碑

昭和11年、御代田村が建立した押兼団右衛門の歌碑です。押兼団右衛は、小諸藩の馬術師範で、1723年(享保7)皎月原で押兼流馬術を習得したと伝えられます。小田井宿本陣安川庄右衛門に送った文書「夢想皎月記」の中に見られる歌です。

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安養寺ラーメン(文蔵BLACK)

安養寺ラーメンをいただきました。GWということで、とても混んでいて、人気のラーメン屋さんのようでした。安養寺ラーメンは、2008年に佐久のご当地ラーメンとして、臨済宗安養寺で造られていた安養寺みそを使ったラーメンです。佐久は信州味噌発祥の地でもあります。味はといいますと、こちらのラーメン屋さんはかなり濃い目の豚骨ですが、味噌と豚骨はいまいち合わないかと思いました。豚骨の風味が強すぎて、味噌の味が全くわかりませんでした・・安養寺ラーメンを食べるならこちらのお店はオススメしません。豚骨ではないラーメン屋さんがいいと思います。

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鵜縄沢端一里塚跡

慶長年間、中山道開通当初に設けられたものがその後、道路が改修されて一里塚は中山道から外れています。奥へ続く道は、繋がっていないようです。
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りんご園

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行人塚

行人塚は、行者が生きたまま埋葬され、即身成仏したと伝えられる塚のことですが、どなたが即身仏になったのかなどの説明はなく、よくわかりません。塚の上の石碑には「大井法華堂祖源覚法印六百年忌之碑」となっています。大井法華堂は鎌倉時代に始まり、1873年(明治6)まで信州佐久最大の修験勢力を誇りました。周囲にはたくさんの石碑と墓石があります。

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住吉神社

住吉神社は永禄三年1560の創建とも、大坂の陣(1614年)で大阪住吉より勧請したとも言われます。住吉神社ご神木一件の古文書が篠澤家(佐久ホテル)に残っています。欅の大木は樹齢400年と言われます。江戸時代に鼻顔稲荷前の橋修繕に住吉神社の松の木を住民が伐採し、藩を巻き込む騒ぎとなりました。

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善光寺道標

享保20年建立の道標は元々中山道沿いにあったものですが、自動車が衝突して破損したため、危険のない住吉神社内へ移設されています。またこの石標より古く小さいものが一基ありましたが、江戸時代に寄進した渡辺家の庭に移されています。焼石で造られた常夜灯が珍しいです。

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善光寺道標のレプリカ

佐久甲州街道は北国街道小諸藩と甲州街道韮崎宿を結び岩村田宿で中山道と交差します。住吉神社にあるものが本物です。

大井法華堂

鎌倉時代に始まり、1873年(明治6)まで信州佐久最大の修験勢力を誇りました。 武田信玄の信州侵攻時には東信濃の修験者らが武運祈願を斎行したといわれます。龍雲寺や西念寺と並ぶ勢力でした。歴代堂主は熊野入峰し、京都聖護院(天台宗)から権大僧都に任命されました。今も天明年間建立の山伏法華堂(分間延絵図では、山伏法華堂)や、石碑などが残っているようです。天明7年に建立の堂は母屋に改築されているそうで、裏にあった東照宮は庭に移されています。東照宮の扁額には「無??窟」と書かれていますが、「不動窟」のことだそうです。

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若山牧水歌碑

『白玉の はにしみとおる 秋の夜の 酒は静かに飲むべかりける』 長野県酒造組合の敷地内の神社脇に牧水の歌碑があります。入れない場所のため、望遠で写真だけ撮らせていただきました。

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西念寺

大井氏支配の頃は信楽院という寺院があり、大井氏滅亡後は荒れ果てた地に十王堂が建てられました。後に新阿岌往が1560年(永禄3)西念寺を建立します。本尊は阿弥陀如来像で、12世紀末、定朝作の寄木造り、高さ130cmの大作だそうです。
TOO001 西念寺には、小諸藩主・千石秀久の墓所、岩村田城主・内藤美濃守墓所、江戸時代中期の郷土史家・吉沢鶏山の墓所と句碑が境内にあります。

千石秀久

少年期より秀吉に仕え、天正8年には淡路洲本城主となります。四国攻略で功名をあげ、高松城主として讃岐一国を与えられます。次の九州攻略においては、出陣が遅れたため島津家久軍が豊後へ入り、大友氏の鶴ケ城を攻撃、これを助けるため家久と戦いますが惨敗し、逃げ帰ります。秀吉は激怒し、讃岐一国を没収し高野山で謹慎させられます。小田原城攻めの際には、家康のもとで参加し、後に小諸城主となります。一説には伏見城で宿直をした際、石川五右衛門を捕らえたという伝承があります。

吉沢鶏山

西念寺門前の鍛冶屋の三男で1710年(宝永7)に生まれますが、両替商を営む祖父の養子となり、1725年(享保10)家督を継ぎます。蓼科山で雷鳥を見て以来「鶏山」と名乗ります。1735年(享保20)寺子屋を開き、1736年(元文元)信濃の郷土史「四鄰譚藪」(しりんたんそう)を著します。1740年(元文5)には江戸へ出て松本珪琳に入門し、芭風を学びます。芭蕉没後60年に祭し、赤岩村の弁天境内に鶏山が世話役となり芭蕉句碑恋塚を建立しました。「信陽雑志」、「信濃地名考」なども残しています。

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岩村田宿は、内藤氏の城下町でした。鎌倉時代より、豪族大井氏が東の高台に居を構え、多くの人々が行き 来する土地柄でありました。江戸時代になると街道が整備され、中山道が北から西へ、北西の小諸への街道、南へ下って野沢を経て甲州への街道、東の香坂峠を越え上州の下仁田への街道の分岐点であったため、岩村 田宿は米穀の集積地として物資輸送上で大きな役割を果たす要衝地でした。

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現在の宿場の中心地はアーケードのついた商店街となっています。1720年(享保5)には、市が月に数回開催されました。江戸中期の宿の中心地は荒町で、本陣・脇本陣は置かれず、龍雲寺や西念寺が本陣の代わりを務めました。旅籠は桔梗屋・吉野屋・ひの屋・なべ屋・亀屋・石橋屋・駿河屋・布袋屋の8軒がありました。

佐久の蹴鞠

江戸時代中期(宝暦〜明和)に佐久では蹴鞠が大流行していたそうです。西念寺、野沢の瀬下家、根々井来迎寺、平賀陣屋などに「蹴場」が設けられ、蹴鞠名人を招いて練習に励んだといいます。俳諧の後には蹴鞠大会が開かれていたようです。

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みそ蔵 和泉屋商店

佐久は、信州味噌の発祥地でもあります。和泉屋商店は、1853年(嘉永6)創業の老舗の味噌蔵で、信州味噌のルーツでもある安養寺味噌も販売されています。

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龍雲寺惣門

惣門の扁額は、「東山法窟」(東山道第一の道場)と書かれています。室町時代の正親町天皇のものです。横の「葷酒山門」の石碑の台座は岩村田七石の一つ「赤石」の一部だそうです。かつては山門西の中山道の道の中央にあり、通行の障害になるほどの巨岩だったといいます。

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龍雲寺

戦火により寺は荒廃します。永禄年間(1558年〜70)、武田信玄により再興されます。北高禅師を中興とし、北高に深く帰依し勝頼も信玄同様帰依し、寺の再興に尽力しました。
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武田信玄霊廟・五輪塔

1573年(天正元)信玄は伊那で病死しますが、遺言に基づき、北高が密かに遺骨を持ち帰ったとされます。昭和6年境内から骨壷と短刀、袈裟輪が出土し、調査により信玄のものにほぼ間違いないとされています。

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岩村田藩陣屋跡

岩村田藩の藩庁であった岩村田藩陣屋は、1703年(元禄16) 武蔵赤沼藩より国替えした譜代大名内藤正友により築かれました。一時退きますが、内藤正敬の代に再度この地に国替えとなり、以降明治維新までの7代に渡り、この陣屋に居を構えました。幕末期、正縄の代に城主格になりますが、程なく明治維新を迎え、城郭は完成を見ることなく廃止されました。野沢の中島公園に蔵が移築されています。

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大井城跡

鎌倉・室町時代を通じて佐久郡の東部を中心に繁栄し、大井氏宗家が城館としていました。城は東は湯川の断崖、西は南北に走る田切によって形成された台地を利用しています。堀切によって3つに分けられ、中央を王城、南を黒岩城、北を石並城とし、合わせて大井城、あるいは岩村田館と呼ばれていました。1484年(文明16)、村上氏の攻撃により岩村田市街地と共に焼失、大井氏宗家は滅亡します。その後、支族によって再興されますが、天文年間以降は武田氏の支配下、武田氏滅亡後は家康家臣依田信蕃の支配下となりやがて廃城となります。
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王城のケヤキ

大井城のシンボルとなっいたケヤキで、樹高26m、幹周は9.15m、平成14年の落雷で幹の中心部が焦げ、側面にも大きな穴が開いたため、平成15年修復治療がなされています。根元周囲には氏神、道祖神、石尊山、不動尊、金毘羅が祀られています。

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割本(佐久ホテル)

「割本邸」は、江戸時代中山道を往来した大名や奉行などに宿泊や食事を提供したお屋敷で、明治初年には佐久ホテルとなり、現在に至っています。

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佐久の鯉

1825年(文政8)の頃、岩村田藩主・正縄は大地主である並木七左衛門に淀川産の鯉を贈り、これが佐久鯉養殖の元となります。しかし、これ以前の1817年(文化14)には「鯉魚育方儀定書」が作成されています。かつては岩村田宿を流れる用水でも鯉が飼われていたといいます。

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荻原井泉水句碑

『和羅那布流遊幾通毛留』(わらやふる ゆきつもる) 自由律俳句の俳人・荻原井泉水は、昭和5年の冬に佐久ホテルに逗留し、この詩を残したそうです。

御船様祭

毎年夏に行われる「岩村田祗園祭」に御船様が安置されます。船体の一部は室町時代、応永年間より毎年軽井沢土屋家が奉納しています。きらびやかに装飾された御船様は荒町・今町・本町と祇園の神輿と共にねり廻りましたが、現在は荒宿中央路上に安置し、参拝するスタイルになりました。この御船様は、尾張国津島神社の行事に酷似しており、津島神社より勧請されたことが記されています。現在、佐久ホテルである篠澤家には貴重な古文書が多数現存しています。

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若山牧水歌碑

『白玉の はにしみとおる 秋の夜の 酒は静かに飲むべかりける』大正11年、14年とこの佐久ホテルに逗留し、執筆活動をしています。牧水の掛軸や額が佐久ホテルには残されているそうです。

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佐久ホテル

15:40 本日は、この歴史ある『佐久ホテル』に宿泊します。