青葉若葉の二里【後編】

2022年4月30日

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TOO001 13:30 「一石栃立場茶屋」を過ぎると馬籠峠はもうすぐそこです。緩い坂道を上り途中少し勾配がきつい場所は石畳となっていました。茶屋から約800mで県道へでて馬籠峠へ到着です。

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馬籠峠

標高790m、長くこの看板には「801m」の記載がありましたが、国土地理院の標高との相違があるということで話題となり、現在看板は付け替えられ、「790m」となりました。
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木曽路名所図会「馬籠より妻籠へいたる」

右上に「男滝、女滝」左下に妻籠宿が描かれています。

馬籠峠には「峠の茶屋」がありました。まだまだ時間もありますし、ここでいっぷくしていきます。

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峠の茶屋

確かこのセットで450円だったかな?お得なセットです。くるみ味噌の五平餅も浅漬けもとても美味しかったです。

馬籠宿までもう一息、頑張れそうです。

峠の茶屋のすぐ先左手に「正岡子規句碑」があり、さらに30メートルで県境です。

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正岡子規句碑

上部には大きく「馬籠峠」と彫られその下に

「白雲や青葉若葉の三十里」

という子規の句が刻まれています。 「かけはしの記」から抜粋されたものです。まさに今日の旅は「青葉、若葉」の季節でした。

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長野県・岐阜県境

長かった長野県もここで終了、中山道で長野県へ入るのは「碓氷峠」から。ここまでどのくらいの距離があったのでしょうか・・・ざっくり計算してみると180kmくらいでした。長かったな〜。東海道は静岡県が長かったですね。

ここからは岐阜県中津川市へと入っていきます。
県道を100メートルほど進むと右手から旧道へ入っていきます。ここからは下り坂が多くなります。どんどん下っていきます。左手熊野神社参道左手に「明治天皇御前水碑」少し下って「明治天皇御小憩記念碑」が往還左手にありました。

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明治天皇御前水碑・明治天皇御小憩記念碑

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熊野神社

峠集落の鎮守です。

熊野神社を過ぎると往還両側に人家が並び、「峠集落」となります。集落へ入りすぐ左手に「民宿桔梗屋跡」、さらに3軒ほど下ると「牛行司今井仁兵衛家」、このあたりに「馬籠峠一里塚」があったようです。

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峠集落

1762年(宝暦12)に集落の殆どが焼失した大火がありましたが、その後は火災がなかったため、江戸中期の姿を留めている建物が多く残っています。

江戸時代、峠集落の人々は民間の荷物を運搬する「牛方」を家業としており、俗に「岡舟」と呼ばれ美濃の今渡から長野の善光寺あたりまで荷物を運んでいましたが、中央線の開通とともに廃止されました。

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民宿桔梗屋跡

建物は明治時代のものですが、元は牛宿をしていました。後に民宿として営業していましたが、1983年(昭和58)の資料では営業していたようですが、現在は閉業しています。

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馬籠峠一里塚跡

現在、案内板などはありませんが、今井仁兵衛家は屋号を「塚本屋」といい、牛宿を営むため明治初期に西塚を取り壊したそうです。

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今井仁兵衛家

家の前にある石は「牛つなぎ石」です。牛行司(牛方の頭)であった今井仁兵衛家です。
今井家から小さな「薬師橋」を渡り120m、左手に「峠之御頭頌徳碑」があります。

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峠之御頭頌徳碑

1856年(安政3)牛方と中津川の問屋に起きた対立は藤村の「夜明け前」にも登場します。この時の牛方の頭(牛行事)が今井仁兵衛で、中津川の問屋との交渉に奔走し尽力した人です。この碑は島崎藤村の兄、広助の提案で建立されました。

牛方ストライキ

往時、中津川の問屋では荷物送り状の書き替え、駄賃の上刎ね、過剰な口銭(手数料)の要求などが横行し、これに対して牛方衆は反発し、荷を送らないというストライキを起こしました。牛方が中津川宿問屋に要求したことは、送り状の不正がないこと、大豆売買でも駄賃を払うこと、付送り荷・通し荷に過剰な口銭をかけないこと、牛方に対してえこひいきをしないこと、荷物を長く問屋に留め置かないことなどでした。また、山村代官に対して、中津川宿で過剰な口銭をとるので、牛方だけでなく品物の値段が上がり、物価が上がると陳情しました。対して中津川の問屋は応戦したため、紛争は長引き20日ほどにもなり、その間は荷物が滞り大変困ったことになりました。結局は荷物を送ってほしい商人らから新しい問屋を要求され、問屋が交代することで紛争は牛方勝利に終わりました。

峠集落をあとに畑の中の一本道を150mほど下ると右手に「十返舎一九狂歌碑」があり、トイレも備えた休憩所があり、その先70mほど左手の民家あたりが「清水立場」でした。

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十返舎一九狂歌碑

「渋皮のむけし女は見えねども 栗のこはめし ここの名物」

江戸では小粋な女性を「渋皮のむけた」、「小股の切れ上がった」などといいました。江戸時代の戯作者十返舎一九は1819年(文政2)に木曽路を旅して「岐蘇街道膝栗毛」の馬籠宿のくだりでこの狂歌を詠んでいます。
TOO001 坂を下り県道を2回横切り、県道と平行にある駐車場裏を経て、栗こわめしの食事処前を通過し、「清水立場」から約300m、再び旧道の梨子ノ木坂石畳へ入っていきます。

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双体道祖神

右手にかなり劣化した双体道祖神、旅人が周囲に石を積んで行くようですね。

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梨子ノ木坂

梨子ノ木坂の石畳を下りていくと右手に「水車小屋と水車塚」があます。
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水車小屋と水車塚

「山家にありて水にうもれたる 蜂谷の家族四人の記念に 島崎藤村しるす」

1904年(明治37)水害のためここにあった家屋は一瞬にして押し流され一家4人が亡くなりました。難を逃れた蜂谷義一は藤村と親交があったため後年、供養のため藤村に碑文を依頼して「水車塚」を建立しました。碑の裏には長野県歌「信濃の国」の作詞で知られる浅井洌の撰文が刻まれています。

TOO001 水車小屋を振り返ります。

TOO001 美林の中の小径を数百m、県道と合流し「塩沢橋(塩沢土橋)」を経て少し行くと右手に自然石の階段と熊よけの鐘があり、ここから再び山道へ入ります。馬籠峠からここまでずっと下り坂でしたが、ここでまた急な上り坂となります。

TOO001 針葉樹で鬱蒼とした中山道の中、石段を上り、石畳を経てへとへとになりながら最後の石段を上って頂上にたどり着くと・・・

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恵那山が!

ぱーっと周囲が明るく開け、正面に恵那山が!この一瞬にとっても感動しました。

しばらくぼーっと恵那山を眺めて・・ここから再び石段を下り、平坦な道を100m、「陣場上展望台」へ到着します。往時は民家裏に中山道があり、双体道祖神前へ出るようになっていましたが、付け替えられ今は直接展望台へ行くようになっています。

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陣場上展望台

今日は天気もよく、ここは車でも簡単に来られる場所のため、たくさんの観光客で賑わっていました。雲が多くなってきましたが、恵那山も綺麗に見えています。恵那山は覆舟山とも言ったそうで、舟を伏せたようにも見えます。
陣場上展望台には「島崎正樹長歌と反歌碑」「島崎藤村歌碑」などがあり、休憩所にもなっています。

陣場

このあたり一帯の地名を「陣場」といいます。1584年(天正12)に徳川家康と豊臣秀吉が戦った小牧山の決戦時、木曽路を防衛する豊臣方は馬籠城を島崎重通に固めさせていました。家康側は兵七千をもって木曽へ攻め入り、その一部は馬籠城を攻略すべくこの地に陣を敷いたため「陣場」と呼ばれるようになりました。

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島崎正樹長歌と反歌碑

自筆の掛物を原寸大で石碑にしたもので、信州木曽谷、馬籠の素晴らしい風土を謳い上げたふるさと讃歌です。正樹は万葉仮名を駆使して約千首の和歌を詠んだ教養豊かな人でした。

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島崎藤村歌碑

『心起こそうと思はゞ先づ身を起こせ』

本名、島崎春樹、1872年(明治5)馬籠宿の本陣・庄屋・問屋を兼ねた旧家に生まれました。代表作の長編小説「夜明け前」は幕末〜明治初期の馬籠が舞台であり、主人公の青山半蔵は藤村の父、島崎正樹をモデルにしています。

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双体道祖神

展望台の北側に「双体道祖神」があります。近年、立派な台に綺麗に据え直されたようです。

旧道は先程の民家庭からこの道祖神前に至る道でした。
「双体道祖神」の奥の広場に「島崎藤村文学碑」がありました。

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島崎藤村文学碑

「夜明け前」の書き出し原稿用紙をそのままレリーフにしてあります。同じようなものが木曽福島にもありましたね。
少し下っていくと左手に「馬籠宿高札場」、県道を越えて馬籠宿へ入っていきます。

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馬籠宿高札場

復元された高札場に架かる札は1711年(正徳元)の「御朱印・毒薬等の定書き」、1770年(明和7)の「徒党禁止」などで、復元の際に読みやすくされています。
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馬籠宿

馬籠宿は坂道に沿って造られています。木曽十一宿は全て山の中ですが、宿場全体が坂道となっているのは馬籠以外にありません。2度の大火により古い建物はありませんが、復元により江戸時代の雰囲気を作り出しています。

坂道を下りていくと宿の中央あたりの右手に「馬籠宿脇本陣」、その隣は酒林が下がる「大黒屋」、さらにその隣が「馬籠宿本陣(藤村記念館)」、その下に藤村が長男のため建てた「四方木屋」があります。

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馬籠宿脇本陣

屋号を「八幡屋」といい、年寄役も兼ねて蜂谷家が務めていました。現在は資料館となっており、上段の間を復元し、当時使用していた家財や什器を展示し、また木曽路の独特の文化や制度を紹介しています。

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山口誓子句碑

『街道の坂に熟れ柿灯を点す』

筆は山口誓子自身によるもので、馬籠宿脇本陣前にあります。山口誓子は馬籠宿を大変気に入り、しばしば妻の波津女さんと一緒に訪れ、多くの作品を発表しました。1982年(昭和57) 俳句会によって建立されたものです。

山口誓子

女性のようなお名前ですが、男性です。1901年(明治34)、京都生まれ。東京帝国大学法学部に入学後、東大俳句会に加わり高浜虚子に指導を受けました。大正15年大学を卒業後は大阪住友合資会社に入社しますが、胸部疾患のため昭和15年に退社し執筆活動に専念します。 「ホトトギス」、「馬酔木」などで活躍し、昭和23年には自身の主宰誌「天狼」を創刊し戦後の俳句会に多大な貢献をしたとされます。1994年(平成6)に亡くなっています。

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大黒屋

藤村の初恋の人と言われる「おゆうさん」の生家です。『まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき・・・・』おゆうさんは妻籠の脇本陣奥谷(林家)へ嫁いでいます。

また十代目、大脇兵右衛門信興が小説「夜明け前」の年寄役・伏見屋金兵衛です。この信興が残した「大黒屋日記」が藤村が夜明け前を執筆する決心をさせたといいます。父正樹も多くの書物を残しましたが、火事で焼失してしまっています。

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馬籠宿本陣(藤村記念館)

島崎藤村の生家である馬籠宿本陣は明治28年の大火で焼けそのまま放置され、隣の大黒屋の畑となっていました。昭和20年頃、焼け残った本陣隠居所へ英文学者菊池重三郎が疎開し、彼を中心に100名ほどの様々な職業の人々が集まりました。彼らは仕事の合間にそれぞれの得意分野を活かし自ら「藤村記念堂」を建設、小中学生も瓦や石を運んだそうです。この藤村記念堂を中心に次々に本陣時代の建築物が復元され、財団法人も設立されました。これが現在の「藤村記念館」です。

島崎家

島崎家の祖先は鎌倉幕府の重鎮・三浦氏です。1513年(永正10)に島崎監物重綱が初めて木曽へ来て、木曽義在に仕え妻籠に居住しました。その子、重道が1558年(永禄元)馬籠へ移り砦を預かりました。重通が馬籠島崎家の始祖で代々馬籠代官を務め、その末が本陣・問屋・庄屋の三役を兼ねました。妻籠島崎家と馬籠島崎家は親戚ということですね。

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御宿 但馬屋

16:00 本日宿泊する「但馬屋」へ到着しました。
『青葉若葉の二里』・・・たった二里(8kmほど)に7時間もかかりました。のんびりしすぎですね。一日がとても長く感じました。お天気もよく、ほんとにのんびり、ぶらぶら、楽しく素晴らしい馬籠峠越えの一日でした。