難所の碓氷峠、ヒルや熊に気をつけて!聖沢の石仏を探そう!

2019年4月28日

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8:30 コテージを出発し、碓氷峠を目指します。 碓氷峠はヒルが多いことで有名ですので、ヒルのいないゴールデンウィークを碓氷峠越えと、前々から計画していました。

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上木戸と橋供養等

橋供養塔前の石には「常夜燈」と彫られています。上部が壊れ、土台のみ残ったのでしょうか。

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芭蕉句碑

『ひとつ脱てうしろにおひぬ衣かへ』紀行文「笈の小文」収録、奈良の吉野山を訪れた時に詠んだものです。句碑は坂本宿の俳人グループ竹睡庵連が1790年(寛政2)に刎石茶屋下手に建立したものを明治に現在地へ移転してきました。

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八幡宮

創建は不明ですが、伝承によれば景行天皇40年、日本武命の勧請と言われています。
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八幡宮狛犬

享保年間に造られたものです。個性的でユーモラスな狛犬です。

TOO001 浄水場左手の細道に入っていき、左手に林道赤松沢線となりますが、まっすぐ進み、右手に国道へ登るところを上っていくと一旦、国道18号へでます。

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碓氷山小屋

山小屋の左手から刎石山へ入っていきます。中部北陸自然歩道の入口にもなっています。
TOO001 すぐに急坂、階段が始まりしばらく登ると緩やかな細道になります。

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堂峯番所跡

関所破りを取り締まった番所です。石垣上に中山道を挟んで同心の住宅が2軒ありました。石垣が一部残っています。
TOO001 念仏百万遍、馬頭観音など文字も読めない石仏などが点在しています。

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表土が剥がれ樹木ごと横倒しになっています。

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柱状節理

岩体に入った柱状の割れ目、マグマが冷却固結するさい、収縮して生じ、四角形や六角形になることが多いです。

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刎石坂の石仏

「南無阿弥陀仏」「大日尊」「馬頭観音」の3つの碑があります。坂本宿の上木戸に移された芭蕉句碑もここにありました。碓氷で一番の難所です。

十返舎一句

『たび人の身をこにはたく なんじょみち 石のうすいの とうげなりとて』 刎石坂を詠んだ唄です。

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上り地蔵・下り地蔵

地蔵が見つからなく、仕方なく先に進んでしまったのですが、後によく調べると、刎石坂の石仏を過ぎたあたりを上に登らず、回り込むように進むと石に線刻された室町時代の地蔵が2つあるようです。中山道沿いではなく、東山道沿いに造られたものです。
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碓氷峠のぞきで一茶が詠んだ句 『坂本や 袂(たもと)の下は 夕ひばり』ここからは坂本宿がよく見えます。

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馬頭観音(刎石一里塚跡)

この馬頭観音の付近に刎石一里塚があったと考えられています。

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風穴

刎石溶岩の裂け目から水蒸気で湿った風が吹き出している穴が数か所あります。

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弘法の井戸

刎石茶屋に水がないのを憐れみ、弘法大師がここを掘れば水が湧き出すと教えられ、水不足に悩む村人は喜び「弘法井戸」と名付けたとされます。刎石茶屋から井戸へ繋がる道は「呑水道」という脇道です。 

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刎石茶屋(四軒茶屋)跡

刎石山の山頂に茶屋本陣1軒と茶屋3軒がありました。小池小左衛門が茶屋本陣を務め、餅菓子と茶漬けを商っており、6畳書院造りの上段の間、部屋数は10あり、門もありました。大和屋小右衛門の茶屋は名物の砂糖餅を提供していました。わらび餅や力餅も名物でした。林の奥に石垣が残されています。玉屋は現在国道沿いのドライブインとなり、名物力餅を売っています。

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碓氷坂関所跡

899年(昌泰2)、碓氷の坂に関所を設けたと言われる場所です。

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カラスビシャク

古い時代に中国から帰化した史前帰化植物といわれ、日本各地に分布します。花のように見える部分は仏炎包といい、その中に肉穂花序をつけます。雑草扱いされがちですが、塊茎は半夏(はんげ)という生薬に用いられます。鎮吐作用があり、半夏湯などの漢方薬に配合さています。半夏、狐の蝋燭、蛇の枕などとも呼ばれます。

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山火事!?

2019年1月3日に発生した山火事で樹木が炭になっているようです。ヘリコプターも出動し鎮火にあたり、2日後に鎮火されたそうです。2.6haを延焼したそうですが、旧道を歩くには問題ありません。4ヶ月ほど経っていますがまだ焦げ臭い匂いが漂っていました。

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堀切

1590年(天正18)豊臣秀吉の小田原攻めで北陸・信州軍を松井田城主大道寺駿河守が防戦しようとした場所で、道が狭く両側が堀切されています。堀切は尾根伝いに攻めてきた敵を足止めするための仕掛けです。

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南向馬頭観音

寛政3年、坂本宿、七之助の建立です。切通を南に出ると、南側が絶壁となります。昔この付近は山賊が出たところと言われ、この険しい場所を過ぎると左手が岩場となり、そこにまた馬頭観音があります。

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北向馬頭観音

文化15年、信州善光寺、内山庄左衛門、上田庄助、坂本世話人 三沢屋清助の建立です。馬頭観音は危険な場所にありますが、この場所も右手が絶壁です。

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東山道一里塚

「座頭ころがしの坂を下ったところに東山道があり、東山道の一里塚がある」と書かれていましたが、東山道がわからず、結局、東山道一里塚は見つかりませんでした。

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座頭ころがし坂(釜場)

急な坂道となり、岩や小石がゴロゴロしています。更に赤土でもあり湿っているため滑りやすい場所です。

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めがね橋への分岐点

明治天皇北陸巡幸の折に新設され、めがね橋へ至ります。以前は崩落し立入禁止であったようですが、現在は通行できるようです。河川が増水したときのみ通行できなくなるようです。

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栗が原

明治8年、群馬県最初の「見回り方屯所」がありました。現在の交番の原型です。

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線刻馬頭観音

石に線で彫られている(ペトログリフ)馬頭観音があります。

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山中茶屋・山中学校跡

山中茶屋は峠の真ん中にある茶屋で、慶応年間(1648〜1652)に、川水を汲み上げる場所に茶屋を開きました。1662年(寛文2)には13軒の立場茶屋ができ、丸屋六右衛門が茶屋本陣をつとめ、門構えはありませんでしたが、上段の間が2か所設けられていました。茶屋を営むものは他に松尾文太夫、亀屋佐次兵衛の名が記され、餅や茶漬けを提供していました。

山中学校跡

明治になると中山村となり、学校もできました。明治11年に明治天皇巡幸の際、児童が25人いたので25円の奨学金が交付されました。お供からも10円の寄付がありました。明治17年に碓氷新国道ができると、旅人の往来はなくなり、住民はここを離れました。

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山中の墓石と供養塔

林の奥の方に墓石と1738年(元文3)建立の供養塔が見られました。

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山中坂(めし喰い坂)

陣場が原に向かって登る急坂が山中坂です。「めし喰い坂」とも呼ばれ、坂本宿から登ってきた旅人は、空腹ではとても上れないと、手前の山中茶屋で飯を食べて登りました。

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見晴台別荘跡

山中坂の途中に見晴台別荘地が開発され、現在は廃墟になっています。バスもありました。この未舗装道路をバスが走っていたのですね。

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山中一里塚跡・一つ家跡

ここには老婆がいて、旅人を苦しめたと言われます。一つ家の標識しかありませんが、山中坂に一里塚がありました。

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子持山 万葉歌碑

右手に標高1107mの子持山の裾をなめるように道が続きます。万葉集の『子持山 若かへるでの もみづまで 寝もと吾は思う 汝はあどかと思う』の歌が案内板に記されているのですが・・碑が見当たりません。

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陣場が原

南北朝時代の太平記に新田方と足利方のうすい峠の合戦が記され、戦国時代には、武田方と上杉方のうすい峠合戦がありました。笹沢から子持山の間は萱野原で、ここが古戦場と言われています。
TOO001 道が二手に分かれています。右手の太いほうには「安政遠足」と書いてありますが、こちらは皇女和宮が輿入れの際の1861年(文久元)に陣場が原から碓氷峠までなだらかな迂回路が新設されました。古い方の左手の道に進みますと細道となります。

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化粧水跡

峠町へ登る旅人がこの水で姿、形を直した水場です。小さな沢がありますが、水はほとんどありません。

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人馬施行所跡(接待茶屋跡)

峠越えの街道には多くの茶屋がありましたが、伝馬人足や貧しい旅人は茶屋で休憩するとたちまちお金がなくなります。こうした難儀を救おうと、江戸呉服の与兵衛が笹沢のほとりに1828年(文政11)に人馬が無料で休憩できる施設を作りました。与兵衛は、箱根峠和田峠にも人馬施行所を建てています。碓氷峠には4か所設けましたが、財政難で休止しています。平地がほぼなく、建物があったとは思えない場所です。

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沢を渡ります。橋はないので、石の上を滑らないよう慎重にすすみます。

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長坂道

急坂を上ったり下りたり、長々と続く古道です。

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仁王門跡

元の神宮寺の入口にあり、元禄年間に再建されていますが、明治維新の際に廃棄されました。仁王様は、熊野神社、神楽殿に保存されています。

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碓氷貞兼霊社・一つ家歌碑

碓氷貞兼霊社は、平安時代に京都で源頼光に仕えた四天王の一人、碓氷貞光の父を祀っています。

一つ家歌碑

一つ家歌碑は、天明の浅間山大噴火で行方不明になったものが、幕末に見つかったといいますが、現地の案内では、大正時代に再建されたものとあります。古碑は現在どうなっているのでしょうか。詠み手は、弁慶とも市川團十郎とも言われています。『八万三千八 三六九三三四七 一八二 四五十三二四六 百四億四六』と刻まれています。これが読めないと通してくれなかったという話もあります。「山道は寒く寂しな一つ家に夜毎身にしむ百夜置く霜」と読むようです。

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思婦石

『ありし代に かへりみしてふ 碓氷山 今も恋しき 吾妻路のそら』群馬郡室田の国学者、関橋守の作で1857年(安政4)の建立です。

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熊に注意!!

「熊注意」の看板はあちこちに見られました。ザックに熊よけ鈴はもちろん付けていましたが、上り始めたときはラジコでラジオも流していましたが、今日はゴールデンウィークで旅人がたくさんいましたので、ラジオは不要でしたね。
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碓氷川水源地

中山道よりだいぶ下へ下りていかなければなりませんが、透き通る綺麗な湧水が湧いています。水神が祀られ、時が止まったような静けさがあります。隣には湧水を利用したわさび田が広がっています。

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相馬御風歌碑

『なおおりて おのれきよかる高山の こほりにうつる 空の色かも』

相馬御風

明治6年新潟県生まれの詩人です。野口雨情・三木露風らとともに「早稲田詩社」を設立し、口語自由詩(押韻や韻律に捉われない)運動を進めていきます。早稲田大学校歌、早稲田実業学校校歌を始め、多くの校歌の作詞をしています。隠居後は歌僧良寛の研究に没頭し、地元に伝わる奴奈川姫伝説を元に、糸魚川でヒスイ(翡翠)が産出するとの推測を示したことが、1938年(昭和13年)に同地でのヒスイの発見につながったそうです。

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みくにふみ歌碑

『四四八四四 七二八億十百 三万九千二百二十三 四九十 四万万四 二三 四万六一十』、「よしやよし 何は置くとも み国書 よくぞ読ままし 書読まむ人」の意味。峠の社家に伝えられていたものを滅失を恐れて、昭和30年に熊野神社に建立したものです。

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軽井沢赤バス

万平ホテル・旧軽井沢を経由して旧中山道を登り、碓氷峠「見晴台」まで走行しています。4月下旬から11月くらいまで運行しているそうです。レトロでかわいいバスです。

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赤門屋敷跡

加賀藩前田家の御守殿門を模して造られた朱塗りの門がありました。屋敷は「峠開発の粗」曽根氏の屋敷であり、諸大名が参勤交代の際には、この屋敷で休憩しました。1861年(文久元)には、和宮一行も休憩しました。

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しげのや

300年前より力餅を提供している茶屋です。ご主人は熊野神社の禰宜(ねぎ、神主の下の役)、お父上が神主さんだったようです。

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熊野神社

県境にあり、社伝によれば日本武命が東征平定の帰路に碓氷峠にて濃霧にまかれ、八咫烏(やたがらす)の道案内により無事に嶺に達することができたことにより、熊野の大神を祀ったと伝わります。

八咫烏(やたがらす)

日本神話において神武東征(神武天皇が大和を征服)の際、高皇産霊尊(たかみむすび)によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたと言われる三本足のカラスです。

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県境の神社

本宮の中心が、長野県と群馬県の境になっている神社で、長野県側では「熊野皇大神社」、群馬県側では「熊野神社」と呼ばれています。
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熊野神社の狛犬

室町時代中期の作と伝えられ、長野県内では一番古いもので、阿吽の一対となっています。狛犬は中国で陸前に魔物撃退のために置かれたのが最初で、本来威嚇を目的としていますが、この狛犬は可愛らしく、微笑ましいです。

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峠の石の風車

1657年(明暦3)、軽井沢問屋佐藤市右衛門及び、代官佐藤平八郎が二世安楽祈願のため石畳を築造しました。その記念に佐藤家の紋章源氏車を造り、1866年(元禄元)建立し、奉納したものです。往来の旅人に親しまれ、追分節に『碓氷峠のあの風車 たれを待つやら くるくると』と唄われ、有名になりました。

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ここは日本海と太平洋の分水嶺でもあります。群馬県側が利根川水系で太平洋に流れ、軽井沢側が千曲川水系で日本海に流出するという中央脊梁山脈です。

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杉浦翠子の歌碑

『のぼる陽は 浅間の雲を はらひつつ 天地霊あり あかつきの光』門下生によって昭和42年に碓氷峠に建立されました。軽井沢の自然を歌ったものです。
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古鐘

鐘は、鎌倉時代の1292年(正応5)、松井田の武士団25名によって「二世安楽」を祈願して奉納されたものです。二世安楽とは、この世とあの世、両方での幸せを意味します。群馬県では最古の釣鐘です。

シナノキ

樹齢800年と言われる古木です。信濃にはシナノキが多く、「信濃は科野なり」とも言われます。この木を一廻りすると、寿命が1年伸びる、しわが一つなくなると伝えられています。10周くらい回りたいですね。

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道標

「右 ごんげんさま」と彫られています。熊野神社のことと思われます。熊野神社を過ぎると上州よりみこもかる信濃国へ入ります。「みこもかる」信濃は湖沼が多く、薦(こも)の生えている所が多い意で、万葉集の時代からの信濃の枕詞です。

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タゴール記念碑

ノーベル文学賞を受賞したインドの詩聖タゴールは、来日した際に軽井沢で行われた日本女子大の修養会に講師として招かれ、学生の前に「祈り」について講話を行いました。像はタゴール生誕120年を記念して建立されたもので、背後の壁には彼の言葉「人類不戦」の文字が記されています。
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碓氷峠見晴台

標高約1200m、サンセットポイントとして知られています。上州三山(榛名・妙義・赤城)や日光連山、関東平野が見渡せます。日本橋から中山道をずっと歩きながら眺めてきた山々が見られます。ここは昔は城山といい、戦国時代はしばしば狼煙陣営を設けた古城でした。

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右側の山々は南アルプス連峰、絶壁(バットレス)の山は八ヶ岳の横岳でしょうか。

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建国記念塔由来碑

碑文には憲法制定の経緯が書かれていますが、なぜここに「建国記念塔由来碑」なのかがさっぱりわかりませんでした。

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万葉歌碑

昭和12年に建立された歌碑です。『日の暮に うすいの山を こゆる日は せなのが袖も さやにふらしつ』よみ人知らず、 『ひなくもり うすひの坂を こえしだに いもが恋しく わすらえぬかも』他田部子磐前、奈良時代の防人で755年(天平勝宝7)上野から筑紫に派遣される途中、碓氷峠を越える時に詠んだ句です。

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右手の舗装道は明治11年に明治天皇巡幸の際に造られたものです。この場所の石積みの左手に下りていく道が旧道です。この道の険しさを旅人が歌っています。『旅人の身を粉に砕く難所道 石のうすいの峠なりとて』『苦しくも峠を越せば花の里 みんな揃って身は軽井沢』

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碓井貞光力試し石

大きな石の上に祠が祀ってあります。祠は明暦4年の建立です。源頼光(らいこう)の四天王の一人、貞光が大石を持ち上げた力持ちだったことから、峠名物「力餅」が名付けられました。
TOO001 一旦車道へ出たのち、すぐに未舗装の道を下っていきます。所々に木製の小さな道案内があります。聖沢の旧道は、明治11年より廃道になっていましたが、軽井沢の小学校の先生が発見されたそうです。

TOO001 急坂にはロープが張ってあり、砂防ダムが築造された沢を渡ります。

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聖沢の馬頭観音群

旧道の証、古い石仏がたくさんあります。1813年(文化10)と彫られているものもありました。それぞれ個性的なお顔です。

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旧碓氷峠遊歩道コース分岐点

聖沢の別荘地を抜けて、峠道(県道)へでます。

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上信越高原国定公園碓氷峠

群馬県と新潟県の県境にある三国山脈南西部の志賀高原を中心とする高層湿原や浅間、本白根、草津など今なお活発な火山活動地域を含み、苗場などの火山が集まる、日本で最も火山の密集した地域となっています。

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二手橋

碓氷峠の戦いで上杉軍が武田信玄軍の侵入に備え、二番手の軍勢を置いたとされる橋から「ニ手橋」となったとされます。後の逸話として、旅人が飯盛女に送られてきて二手に分かれた地とも言われていました。

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軽井沢ショー記念礼拝堂

1886年(明治19)、カナダ生まれの宣教師ショーが家族を伴い、軽井沢で避暑生活をはじめました。ショーは軽井沢最古の教会を創設し、現在の建物の原形が造られたのは1895年(明治28)で、1922年(大正11)までにほぼ現在の形に増改築されました。礼拝堂裏に別荘第一号、ショーハウスが移築されています。

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芭蕉句碑

『馬をさへ なかむる雪の あしたかな』1843年(天保14)に地元の門下生である俳人、小林玉蓬によって建立されました。「のざらし紀行」(甲子吟行)の中の一句です。雪の降りしきる朝は、馬でさえも普段と違って面白い格好で通っていく、という意味だそうです。
16:00 本日宿泊する「軽井沢つるや旅館」に到着しました!! ヒルの心配は全くありませんでした。のんびり、休み休み旅ができてよかったです。ヒルがいたらのんびりしていられません。休憩もオチオチ出来なかったでしょう。気温もちょうどよく、この時期で正解でした。