2021年9月25日

「ツール」⇒「作図・ファイル」⇒「アイコンのラベル表示」にチェックを入れると名称が表示されます。 KMLファイルに変換することでgoogle mapへのインポートもできます。

9:45 野尻宿をあとに三留野宿へ向けて進んでいきます。野尻宿「西のはずれ」から400m、左手に一里塚跡の石碑があります。

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下在郷一里塚跡

後ろの石柱には「西国五十二番」と彫られているような・・
下在郷一里塚跡を過ぎてすぐに小さな橋を渡ったら右へ曲がります。直進は明治時代に出来た道で、ぼけっとしていると真っすぐ行ってしまいそう・・道案内の石碑もあります。右折後はそのまま道なりに約450m、蛇抜沢のところでJRのガード下をくぐり、Y字路を左へ。60m左手に石仏群を見て、その先10mほど左手に「妻神社」の石碑があります。さらに400mほど進むとJRと並走する道となります。

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しらなぎ坂

JRに沿って450m踏切があります。踏切から真っ直ぐ伸びる道が「しらなぎ坂」です。僅かに確認できましたが、その先は廃道のようです。左手JR横の斜面上が「しらなぎ坂」だったようで高巻きで景色が良く、新茶屋という茶屋がありました。「新茶屋」は本家・分家の2軒があったとされ、名物はあんころ餅でした。
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中山道分間延絵図の新茶屋

中央より右側に描かれているのが「新茶屋」、左手に描かれているのが「勝井坂」です。

さらにその先の踏切付近から「読書ダム」がよく見えました。

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読書(よみかき)ダム

後ろに見えるのは飯盛山でしょうか。読書ダムは福澤桃介が初代社長を務めた大同電力によって1923年(大正12)に竣工した水力発電所です。現在は関西電力になっています。

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伊勢山?

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勝井坂

踏切を渡り、「小滑沢」の橋を渡り、さらに800mで一旦国道へでます。国道を右折し60m、八人石沢を渡る橋を越えてすぐに左へ入ります。
国道には横断歩道はなく、カーブとカーブの間のためかなり危険でしたがなんとか突破し、八人石沢から勝井坂を登っていきます。鉄道開通までは難所の一つであったといいます。

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八人石(はちにんしゅ)の二十三夜塔

宝暦10年建立の観音像をはじめ弘化3年の二十三夜塔、文政2年の馬頭観音や庚申など多数の石像物があります。現在でも二十三夜講は近隣の人々によって行われているそうです。

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からくり水車

八人石の集落一番手前にある家の前にあった水車ですが、たいへん良く出来ており感心しました。水車が回ると鳥が臼をつき、恐らくそば粉をこねている?隣で人が蕎麦を延ばしています。道の駅大桑に同じような水車が売られていました。もしかして・・ここの方が作られて販売しているのでしょうか・・・
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八人石の由来

1663年(寛文3)美濃国の山伏二人と信濃国山伏八人がこのあたりで些細なことから争い、美濃国の山伏一名が死んでしまいました。山村代官所は取り調べを行い、信濃国の山伏八名を処罰しました。このことから「八人石」という集落の名前になったといいます。

さらに少し進むと左手に常夜灯がありました。

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シャグジの常夜灯

1842年(天保13)の常夜灯があります。後方斜面には石仏が何体かあるようですが、雑草で確認できません。昔はシャグジの祠があったのでしょうか。今は常夜灯が残るだけです。シャグジ(ミシャグジ)は石神信仰とされ、諏訪神社に関連するといいます。柳田国男塞の神(境界の神)で木の神であるといいます。また縄文時代からの信仰とも考えられています。
八人石を過ぎると三留野宿地内へ入ります。八人石集落の端に「シャグジ」がありました。柳田国男のいう「境界の神」という説もあり得るな・・・などと思いながら先へ進んでいきます。

シャグジを過ぎてY字路を右手へ、坂を下ると正面に「熊野神社」があります。

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熊野神社

社内に牛の絵馬が掲げられています。十二兼立場は牛方を排出しており、「木曽の岡舟」と呼ばれ、明治44年、鉄道が開通するまで長野−名古屋間の運送を担っていました。

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熊の沢水路隧道

熊野神社前を過ぎ直進、熊の沢へ下りていくと水路隧道があり、国道とJRを越えます。その先はすぐ左、民家の前の道、民家の私道に見えますが、そこが中山道です。通行してもいいようですが、ちょっと遠慮しまして新道を通りました。

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十二兼立場跡と十二兼からの木曽川

立場の面影は薄くなくなっていますが、今も同じ場所に民家が並んでいます。

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中山道分間延絵図の十二兼立場

中央あたりにあるのが「十二兼立場」、熊の沢に山神が描かれ、これが熊野神社でしょうか。
11:20 水路隧道から約350mで十二兼駅へ到着です。 「十二兼一里塚跡」は国道を越えた場所にありますので、駅へ入り跨線橋を渡り、反対側のホームへ。ホームから国道へ出られるようになっていますので、国道へ出て100m、左手に石碑があります。

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十二兼一里塚跡碑

手書きの案内板によると、本来は国道の右手側に一里塚があり、昭和39年の国道工事により失われたと書かれています。

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十二兼駅開業20周年記念碑

鉄道開設時には駅は設けられず、1929年(昭和4)、十二兼信号場が作られ、1948年(昭和23)に駅へ昇格しています。開業20周年を記念して建てられた石碑がホームにありました。
十二兼駅より南木曽まで電車で戻ります。車を天白公園に置いているので桃介橋を渡り天白公園へ。

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桃介橋

読書発電所の建設用資材運搬路として大正10年に架けられた吊橋で、往時はトロッコの軌道が敷設されていました。トロッコは南木曽から桃介橋、読書発電所導水路に通じていました。

昭和25年に村に寄付されましたが、老朽化のため通行止めとなっていました。平成2年、近代文化遺産として修復、復元しました。橋の名称は当時の大同電気社長、福沢桃介から名付けられたものです。

天白公園の駐車場西側に「じゃぬけの碑」がありました。大きな石に文字が刻まれ、人をかたどった石が乗っています。

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伊勢小屋沢とじゃぬけの碑

昭和28年、伊勢小屋沢のじゃぬけによって犠牲となった3名の霊を慰めるとともに、災害を後世に伝え、再び被害を受けないことを念願して昭和35年に建立した碑です。「じゃぬけ」とは木曽では大雨による土砂崩れ、土石流を指します。

天白公園駐車場から帰宅します。

2022年4月29日

久しぶりに木曽に戻ってきました。

中津川駅前のパーキングに車を駐車し二泊三日分の荷物をザックに入れ、中央線で十二兼駅へやってきました。二泊三日で中津川まで戻る予定です。一泊でも可能ですが、妻籠、馬籠、両宿ともに宿泊してみたかったため、のんびりと二泊三日の行程にしました。

8:30 十二兼駅を出発しました。今にも雨が降りそうなお天気です。 TOO001 駅前の旧道を進んでいきます。右手側は木曽川が流れています。今日も木曽川と一緒に旅をします。

1kmほど進んでいくと右手に「中川原立場跡」があります。

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中川原立場跡

往時は4軒の茶屋があったとされます。現在も立派な旧家が残り、明治天皇御小休所記念碑、明治天皇御前水碑が建っています。この立場の家は国道工事のため土手上から移ったそうです。

250mほどで「柿其入口」交差点、ここからは暫く国道19号を進みます。国道を500m、左手に岩の上に建立された石碑がありました。

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金毘羅神社碑・椎河脇神社碑

中山道分間延絵図にはそれらしいものは見当たりません。難所の「羅天」を控えて往来安全のために建立されたものでしょうか。
この先が木曽路の難所と言われた「羅天」へと至ります。

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羅天

現在は道路が整備され難なく歩くことができます。
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木曽名所図会に描かれた「嶮路の棧」

『木曽路はみな山中なり、名にしおう深山幽谷にて岨つたいに行かけ路多し。就中三留野より野尻までの間、はなハだ危き道なり。此間左は数十間、深き木曽川に、路の狭き所は木を伐わして並べ藤かづらにてからめ、街道の狭きを補ふ・・・・』とありますが、この文章は貝原益軒の「岐蘇路之記」を模したものです。さらに島崎藤村「夜明け前」の有名な冒頭も貝原益軒を模したものです。

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羅天橋

羅天の険しさは現在感じられませんが、橋の名前として「羅天」が残っています。

「羅天の清水跡」が羅天橋手前の左手駐車スペースにあるとのことでした。「ここに清水があり木曽義仲と巴御前の清水と書かれた標柱が立てられている」と書かれている文献がありましたが、それらしい標柱はありませんでした。
600mほどで中山道を外れ左手の細道へ入っていきます。左手に与川が流れ、右手には小さな与川発電所があります。この発電所横の細い階段を登ると大きな「蛇抜地蔵」があります。

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蛇抜地蔵

往時このあたりでは江戸城西の丸用材伐採のため、与川山本会所が設置され多くの日雇い者が入山していました。1844年(弘化元)5月、一日の仕事を終え眠りについた頃、突如蛇抜け(土石流)にあい、飯場にいた120名中99名が命を落とし、7名が重軽傷をおったといいます。あまりの死者数に奉行所が地蔵を建立することになり、開眼供養は翌弘化2年、地元の等覚寺、光徳寺をはじめ信濃・美濃合わせて21ケ寺の僧侶により執行され、饅頭は3千個も作られました。また死傷者に対しては弔慰金が支給されました。

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中山道へ戻り300m、右手に国道に取り込まれなかった旧道が150mほど残ります。

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旧道から国道へ出るとすぐに線路が越えられそうな場所があります。恐らく奥に墓地があるのでそこへ行くための場所のようです。通らないように書かれていますが・・ここを渡るしか一里塚へ行く道はありません。電車に気をつけて線路を渡ります。
TOO001 線路を渡ると右手へ曲がり250mほど樹林内を進みます。大きな赤松の一本松が目印です。草がボウボウですが、一本松の根元に金知谷一里塚跡の石碑や石仏が散乱しています。

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金知谷一里塚跡

赤松の一本松の下に平成23年に建立した一里塚の石碑があります。
金知谷一里塚跡の先は廃道のため元来た道を戻り、再び国道を300mほど進み左手から旧道へ入ります。「三味坂」と呼ばれた坂を登っていきます。

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三味坂・三味坂の馬頭観音

左手に明治時代建立の馬頭観音がありました。

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木曽川

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与川道分岐点

東山神社御仮宮があるこの場所が与川道分岐点です。与川道は木曽川沿いを避けて山道を進み野尻宿へ至る迂回路です。 徳川9代将軍家重に嫁ぐ比宮(なみのみや)の降嫁(こうか)に合わせ、尾張藩が開いた峠越えの脇道です。難所の「羅天」を避けることができますが、4.5kmほど長くなります。
三留野宿へ入っていきます。右手には綺麗な公衆トイレもあります。静かな道を170mほど進むと左手に「三留野宿脇本陣跡」の案内板、その向かい右手の空地が「二本木屋跡」、さらにそのすぐ先右手が「三留野宿本陣跡」になります。

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三留野宿脇本陣跡

中山道分間延絵図では往還右手に「脇本陣、問屋、本陣、問屋」と描かれていましたが、現地の案内板では往還左手に案内がありました。古い文献を何冊か読んだところ、やはり往還右手で二本木屋と本陣の間にあったと思われます。脇本陣は代々宮川家が務め、また庄屋も務めました。

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二本木屋跡

空き地に「二本木屋」と案内が出ています。旅籠だったのでしょうか。

三留野宿には本陣・問屋が1軒ずつ、旅籠32軒(大7軒、中19軒、小6軒)がありました。

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三留野宿本陣跡

三留野宿本陣は鮎沢家が努めていましたが、明治14年の大火により本陣建物は焼失しました。その後は長野地方法務局南木曽出張所の洋館がこの地に置かれていたそうですが、その建物も現在はありません。
本陣跡奥に「本陣枝垂梅」、本陣西側の路地を35mほど入った左手に「明治天皇御前水碑」が残されています。

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本陣枝垂梅と明治天皇御前水碑

本陣鮎沢家が屋敷内の庭木として大切に育てていた枝垂梅です。明治14年には明治天皇が三留野宿本陣に一泊しました。御前水の井戸は昭和54年に復元したものです。

その先のカーブは直進する階段が中山道です。階段を下りずにカーブを曲がった先の左手には「西筑摩郡読書村道路元標」があります。

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西筑摩郡読書村道路元標

三留野村は明治7年に与川村、柿其村と合併しそれぞれの頭文字をとって「よみかき(読書)村」となり、1961年(昭和36)には吾妻村、田立村と合併し現在の南木曽村町となりました。
中山道の階段をおりて2軒目の幅1.5mほどの路地が等覚寺へ至る道です。坂を登ると四ツ辻に「等覚寺入口常夜灯」があり、参道の坂道を100mほど登ると等覚寺へ至ります。

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等覚寺入口常夜灯・等覚寺

常夜灯には「寛政十一年」の年記があります。 等覚寺の創建は定かではありませんが、松本の全久院に属し、開山は大雲和尚とされます。

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等覚寺山門と円空堂

等覚寺の「弁天祠棟札」に「弁財天十五童子像」が1686年(貞享3)に作られたことが記されています。円空がこの頃、南木曽に滞在し造像に励んでいたことが伺えます。円空堂には円空仏3体が収められています。近隣では川向の聖観音像と厨子、沼田の十一面観音が円空作の仏像として残されています。

円空

円空は1632年(寛永9)頃美濃の竹ケ鼻に生まれ、19歳頃に仏門へ入り伊吹山・富士山・白山などで修行を重ね、美濃国池尻に弥勒寺を再興しました。12万体造像を発願し全国各地で修行、布教をしながら木片や立木を素材に鉈(なた)1本で荒削りで素朴な仏像を数万体彫りました。1663年(寛文3)から寛文10年にかけて白山、越前を経て津軽に入り、さらに松前に渡り有珠地方ではアイヌに布教し、「今釈迦」「今行基」とも呼ばれたといいます。その翌年の寛文11年、法隆寺で血脈相承を受け、1679年(延宝7) 大津市の園城寺(三井寺)において受戒しました。1695年(元禄8)自ら食を断ち亡くなったと言われています。 円空像は現在、全国に5千体余りが確認されています。

等覚寺から坂を下り元の中山道へ戻ります。すぐ左手に「秋葉社」があり、その先には「梨子沢」を渡ります。

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常夜灯と秋葉社

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平成蛇抜けの碑

平成26年7月9日、梨子沢を一気に下ってきた土石流は住宅や道路、鉄道、橋を飲み込みました。10軒ほどの住宅が破壊されましたが、死者は1名だったそうです。土木技術の発達した現在でも蛇抜けはしばしば起こります。

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梨子沢

復旧が進み、今は静かな流れの梨子沢です。
11:10 三留野宿をあとに妻籠宿へ向かいます。いよいよ雨が降ってきそうな空模様です。