「駒の里」望月から時代劇撮影にも使われた間の宿茂田井へ

2019年5月2日

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8:00 お世話になった井出野屋旅館を出発します。おじいさんが見送ってくださいました。ようやく青空になりました。

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井出野屋旅館

石坂浩二さん主演の「犬神家の一族」、そして2018年にドラマで放送された加藤シゲアキさん主演の「犬神家の一族」もこちらで撮影されました。建物は大正時代のものですが、現在も旅籠として営業しています。

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望月新町跡碑

1742年の「戌の満水」とよばれる大洪水で新町宿52軒が流出したため、新町宿は上宿へ移り、街道筋が変わりました。

城光院

北西へ向かうと城光院があります。古くから勢力をもった望月氏と関係の深いお寺で、望月氏の宝篋印塔や青面金剛像、月を信仰する対象となった月輪石(つきのわいし)が置かれています。

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鹿曲川

望月宿は1600年(慶長5)松岸平、金井原、樋ノ口、作畑などに散在していた民家を集めて宿場を形成しました。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠9軒がありました。

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望月の駒像

望月は平安時代の頃から「駒の里」と呼ばれており、8月の満月(=望月)の日に朝廷へ名馬を納めたことが地名の由来信と言われています。紀貫之など多くの歌人に詠まれ、古くから親しまれていた場所でした。
『相坂の関の清水にかけみえて いまやひくらん 望月の駒』紀貫之の歌です。大津から三条大橋へ至る東海道(中山道)の蝉丸神社境内に関清水神社があり、その横に紀貫之の歌碑があります。⇒関清水神社

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旅籠 山城屋嘉左衛門

江戸時代から続く旅籠ですが、建物は明治期のものです。現在も旅籠として営業しています。
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望月歴史民俗資料館

本陣跡に作られた資料館です。原始時代から江戸時代の望月宿、そして近世の養蚕や生糸などについて展示されています。

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双体道祖神・駒つなぎ石

江戸時代、道幅は5間で街道の中央を宿場用水が流れており、旅人や荷継の馬などに利用されていました。この石は馬や牛などを止めるために利用されていたもので、人が持てる重さになっていました。

比田井天来

1872年(明治5)に佐久市協和の名主の家の三男として生まれました。生家は製糸業や醤油の製造をしていました。五郎兵衛新田村の漢学者依田稼堂が野沢村に開いていた有鄰塾で漢字を学び、貞祥寺の住職に東京で書の修行をするよう勧められ、小石川哲学館で学び後に文部省検定委員などを務めます。書の研究に没頭し中国古典の用筆法を発見し、現代書道の基礎を築きました。民族資料館裏に「天来記念館」が建てられています。

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大森本陣

名主や問屋も兼ねて大森家が代々本陣を務めていました。問屋場の前には高札場がありました。建坪180坪、門構え、玄関を備えていました。敷地の大部分が望月歴史民俗資料館となり、残った部分には「御本陣」と看板を掲げた病院となっています。

書家・大森曲川

大森本陣の当主であった大森曲川は1766年(明和3)に生まれ、細井広沢(こうたく)に筆を習います。細井広沢は、池永一峰とともに正しい篆文の形を世に知らしめようと『篆体異同歌』を著すなど書道に多大な貢献をした人物です。その後は諸藩の依頼により折本や扇に筆を振るい、江戸藩邸へ奉じていました。門人は200人以上いたといわれます。また、心学にも深く、「心学之術遺書教訓条々」を著します。井伊氏が本陣に宿泊した際、折本2冊に書を書いてほしいと頼まれ、徹夜で書き上げたという逸話が残っています。弁天窟の文字も大森曲川の書です。

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鷹野脇本陣

問屋も兼ねていました。建坪99坪、門構え。玄関はなかったようです。鷹野家の看板は歴史民族資料館に展示されています。

鷹野家に伝わる煙草入れの話

鷹野半兵衛は大事にしていた金唐革の煙草入れを無くしてしまいました。金唐革とは、唐草や花鳥などの模様に金泥(金粉をニカワで溶いたもの)を塗った装飾革で当時は高価なものだったと思います。翌年、伊勢参りにでかけ、旅籠に泊まったところその旅籠の帳場に同じ煙草入れが置いてあるのを見付け、主人に問いただしたところ、望月宿の大工が宿泊代の代わりに置いていったということでした。鷹野氏はこれを買い戻し、無事に手元に戻ります。伊勢参りでの出来事ということで何か不思議な縁を感じる出来事です。

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大和屋 真山家(さなやま)

江戸時代に問屋と旅籠を営んでいた大和屋は、望月宿に現存する建物としては最古のものといわれます。出桁造りの建物は当時からのもので、火事の類焼により、1766年(明和3)の棟札が見つかり、再建したものとされていますが、雨戸には「天明5年」との墨書きがあるようです。

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大下駄の看板

大きな下駄がぶら下がっています。昔は「春美屋」という下駄屋だったようです。現在は下駄屋ではないようですが、今でも大下駄が吊るされています。

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大判神社

古墳時代には神社の基となるものが築かれた、という伝承があるといいます。月神が祀られています。延喜式佐久三社(英多・長倉・大判)のうちり一社で、榊祭りは大伴神社の例祭と言われており、今でも境内で奉納が行われています。大判氏の子孫、望月氏に庇護されてきました。入口左手の石柱「大判神社」は現代書道の祖・比田井天来の書です。本殿は、延宝5年の建立です。

榊祭り

真夏の夜、松明山に篝火を焚き、100人を超える老若男女が、松明(たいまつ)を手に山から駆け下り、その炎を次々に鹿曲川へと投げ込みます。さらに、榊の神輿を激しく地面に叩き付け、水を掛け合う奇祭です。その起源は、延徳年間(1489〜1492)に武田軍が佐久へ攻め入り、岩尾城を占領したとき望月氏は火の手をあげ台地を火の海にします。これを見た武田軍は敵に囲まれたと思い、退陣したという故事から祭りが始まったとされます。

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馬頭観音

「木匠 小山熊男」誰なのでしょうか?木匠は大工さんのことのようですが、書は林虎雄とあり、下諏訪出身の長野県知事を3期、参議院議員を2期務めた方のようです。馬頭観音は「吹上坂」を入ったところにあります。

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望月の牧

遅くとも奈良時代には信濃の国に国営の牧が置かれていたと考えられています。奈良時代末期になると「御牧(みまき)」と名を変えて、信濃・甲斐・武蔵・上野の4カ国に設置されますが、とりわけ信濃は牧の数、馬の数とも最大の牧でした。信濃の御牧は16か所ありましたが、望月はその一つです。天皇に献上する馬を京都まで牽いて行きますが、日にちが定められており、当初は8月29日でしたが、865年(貞観7)より8月15日に変更したため、陰暦十五夜の月を満月、望月と呼ぶことから「望月の駒」と言われるようになり、885年(仁和元)まで続きました。

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豊饒の郷

田んぼの真中にある石碑です。作物がよく実るように願いを込めて建立した石碑なのでしょうか。
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空は明るいのですが、雲が広がりまた雨が降り出してきました。

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道祖神

かなり古く、傷んでいます。一度折れてしまったものをつなぎ合わせたようです。
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佐久良公園

老人ホーム旧佐久良荘の跡地を公園としたと、佐久市のホームページにありますが、木造の学校のような建物が老人ホームだったのでしょうか・・・今は廃墟ですが、かなり古い建物です。公園には綺麗なトイレもありました。

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月毛の駒

望月氏の美しい娘、生駒姫の誕生日に月毛の駒が生まれました。この駒は名馬で生駒姫の駒としましたが、望月氏は自ら乗り、戦に出て功名を上げたりもしました。生駒姫13歳の時、宮中へ入るよう命が下り、この時より月毛の駒は一切の食べ物を食べなくなります。望月氏は馬医に治療をさせますが、一向に良くなりません。修験者の観清寺(大応院)に見てもらったところ、「駒は生駒姫に恋をしている」といいます。姫は「畜生に見初められるのは過去の悪業の因縁ゆえ自らを馬に与えよ」と言い放ちますが、望月氏は、一時の間に御牧七郷を三度巡れば、と条件をだします。月毛の駒は喜び猛然と走り出し、難なく三巡するところでしたが、慌てた望月氏は、一時を待たずに時の鐘を突かせました。駒は絶望し天狗岩の上から飛び降り自ら命を絶ちました。大応院の修験者が幕末に書き記したという「望月古来記」に登場する悲しい伝説です。
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青木坂の寒念仏供養塔、巡見道道標、道祖神

巡見道は、幕府から派遣された巡見使が通った道です。道標には年号が刻まれていませんが、1839年(天保9)、徳川家慶の諸国巡見使の発遣令により、五郎兵衛新田から望月宿を経て、塩沢新田を巡検しています。

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にごり池

確かに濁っているように見えますが、中山道分間延絵図では「穴沢溜井」となっています。

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茂田井入口

茂田井は、望月宿と芦田宿の間にある間の宿でした。
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神明社

1709年(宝永6)、茂田井村初代名主となった大澤茂右衛門が願主となり建立しました。祭神は天照大神、雨乞いの霊験あらたかとされて、崇拝されています。本殿は神明造りで、この地方では珍しいそうです。

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茂田井の町並み

江戸時代の面影が残る民家や造り酒屋が軒を連ねています。寛保2年の大洪水で望月新町が道ごと流され本町も大きな被害を受けたため、茂田井村を望月宿の加宿にしようと幕府に願いでましたが、却下されました。

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武重本家酒造

豪農であった武重本家は、慶応元年頃より酒造りを始めたとされます。「御園竹」というお酒を作っており、江戸後期の住宅や明治初期の酒蔵などが国の登録有形文化財となっています。

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若山牧水歌碑

望月には牧水の友人がたくさんおり、しばしば訪れていたようです。「御園竹」は武重本家酒造で造られているお酒の銘柄です。酒好きで有名な牧水、酒にまつわる歌が3つ書かれています。また若くして亡くなったのも肝臓の病気でした。夏に亡くり暫くしても臭わない、医師は生きたままアルコール漬けになったのでは、と驚いていた、という逸話もあるそうです。

「よき酒とひとのいふなる御園竹 われもけふ飲みつよしと思へり」

「しらたまの歯にとみとほる 秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり」

「ひとの世にたのしみ多し然れども 酒なしにしてなにのたのしみ」

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昔から茂田井の女性はよく働くと評判だったといい、『嫁を貰うなら茂田井から貰え』と言われていたそうです。
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たそがれ清兵衛ロケ地

このあたりに映画「たそがれ清兵衛」のオープンセットが作られていたと思われます。現在は片付けられてしまっていますが、清兵衛の自宅が作られていたそうです。映画も見ましたが、確かにこのあたりの雰囲気があります。武重本家酒造さんのホームページには詳しく記録されています。

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浅間山

ようやく雨も上がり、青空が再び広がってきました。今日は変わりやすいお天気ですね。

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大澤酒造

蓼科山の伏流水、地元の豊富な米と酒造りに適した自然環境にも恵まれた茂田井で1689年(元禄2)より創業。酒造りや街道文化の資料を展示した民族資料館や名主の館、書道館、美術館があります。「大吉野」などのお酒を造っています。

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下組高札場跡

高札場は名主宅前に設けられることが多いです。大澤家は1737年(元文2)より1871年(明治4)に至るまで茂田井村名主を務め、1864年(元治元)11月19日、水戸浪士(天狗党)が中山道通過の際、それを追ってきた小諸藩士の本陣ともなりました。

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雪隠

昔、トイレのことを「雪隠」と呼んでいたようですが、語源は何なのでしょう。南北朝時代の禅僧、義堂周信の「空華集」によれば,唐の雪竇(せっちょう)禅師が霊隠寺の厠をつかさどったところから由来する、あるいは、同じく唐の禅師雪峰義存が厠を掃除して悟ったという故事に由来するようです。こちらの雪隠は新しく、とても綺麗でした。

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茶釜のどぶ!?

ネーミングが気になります。名前からどのようなところなのか全く想像ができません。このとき行かなかったのですが、戻ってからどのような場所なのか、どこにあるのか調べてみました。しかし、気になって行ってみた方も見つからなかったようです。う〜ん、気になります。

諏訪社

諏訪信仰は全国的であり、その分社、末社は5076社といわれます。現在の社殿は1818年(文化15)、茂田井の宮大工田中円蔵が建てたもので、上屋の中の本殿は、一間社流造りで地元出身の立川流宮大工の田中円蔵の見事な彫刻で飾られています。神楽殿は、回り舞台になっており、立科町で現存する唯一のものだそうです。正面鳥居をくぐり、すぐ左側に芭蕉句碑『山路きて何やらゆかしすみれ草』

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茂田井村は古くより良質の米の産地として知られ、小諸藩の江戸藩邸では茂田井の米が毎年江戸まで運ばれていました。良質の米処だったことから造り酒屋が2軒、発生したのでしょう。また、薬用人参の栽培も盛んであったといいます。望月宿の井出野屋さんで、夕食に薬用人参の天ぷらが出されたのは、こうした背景からなのでしょう。
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上組高札場跡

茂田井宿は、上組・下組と名主が2人いた時代があり、ここは上組名主宅前の高札場跡です。

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石割坂

勾配がきついこの坂に大きな石があり通行に不便だったため、石を割り中山道を開通させたため「石割坂」と呼ばれるようになりました。
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茂田井一里塚跡

かつては北塚にはエノキ、南塚にはケヤキが植えられていたようです。現在は跡地となっており、痕跡はありません。明治初期にはこの場所に豊川稲荷が祀られていました。

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柿本人麻呂歌碑

『ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ』万葉集の中からの歌ですが、柿本人麻呂の歌ではないとも言われています。

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庚申塔

斜面のだいぶ上に古い庚申塔がありました。現在のような道路整備をした時に、削られて以前よりもだいぶ下に道路が作られたのでしょう。
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三界無縁佛供養塔

塚のようなものが築かれた上に三界無縁佛供養塔があります。行き倒れなど縁者のない者を葬ったのでしょうか。このあたりの道もだいぶ掘り下げられたのでしょう。

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芦田川

芦田川は4kmほど流下して望月宿から流れてきた鹿曲川と合流し、やがては千曲川へ流れていきます。

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大庭遺跡

芦田川の氾濫原である沖積地に形成された縄文時代、古墳時代、奈良時代、平安時代わたる複合遺跡で、竪穴式住居、墓、掘立柱建物跡、高床式倉庫などの遺構が発掘されています。住居が復元されています。

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芦田宿入口

芦田宿には1804年(文化元)の調べでは、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠25軒、茶屋6軒、商家2軒、医師3軒、髪結2軒、按摩1軒、農家45軒が軒を連ねていました。他に民家20軒が臨時の旅籠になることになっていました。1844年(天保14)には6軒と急激に減り、1860年(万延元)になると旅籠は10軒と多少持ち直しました。

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塩沢堰・文字道祖神

塩沢堰は、江戸時代初期に初代六川長三郎勝家が蓼科山の裾野に、弁天神湧水と新堰(和見堰)の源泉となる湧水を探し当て、1641年 (寛永18)から6年の歳月を費やし、1646年 (正保3)に延長約55kmの塩沢堰が完成したとされます。現在は蓋がかけられて、この場所では直接見ることが出来ませんが、グレーチング蓋からは勢いよく流れる水音が聞こえてきます。

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1861年(文久元)、皇女和宮の一行は、芦田宿で昼食を摂っています。

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文字道祖神

600mほど北東に津金寺(つがね)があります。702年(大宝2)行基により開かれたと伝わります。平安、鎌倉時代には滋野一族により、戦国時代には武田信玄により帰依を受けます。1582年(天正10)織田軍の兵火により多くを失い荒廃しますが、1640年(寛永17)小諸城主の庇護により観音堂・阿弥陀堂・妙見堂・仁王門が再建されます。杉の大木は樹齢800年といわれ、武田信玄が兜を掛けたとされます。室町時代の石塔や寺の裏手には滋野氏の墓塔が3基並んでいます。少し遠いので行かなかったのですが、いつか行ってみたいお寺です。

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芦田宿ふれあい交流館

地域交流の場として、中山道を歩く人の憩いの場として立科町が運営しています。とても綺麗な建物で自由に入ることができ、宿場のジオラマやパンフレットが用意されています。トイレもお借りしました。

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蓼科の水

古来より蓼科山の湧き水は中山道を行き交う旅人の喉を潤してきました。現在、この蓼科山の湧き水は上水道として整備され、立科町の水道水として利用されています。

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土屋本陣

土田家は芦田宿の開設に尽力し、代々本陣を務め問屋や名主を兼ねていました。一時、酒造業をしていたこともありました。現在の客殿は1800年(寛政12)に建て替えられ、建坪は163坪でした。往時は門の左に高札場、右に問屋場、後方に間口5間の荷蔵、主屋、酒蔵などがありました。上段の間は優れた意匠の京風造りとなっており、ほぼ原形のまま残っているそうです。

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山浦栄次右衛門脇本陣

山浦家の始祖は、芦田宿開祖者の一人で岩間忠助であり、庄屋・問屋も兼ねていました。慶長から元和にかけて建てられた建物でしたが、昭和52年、隣家からの火災により主屋は焼失し土蔵1棟が残っているだけです。建坪は90坪程度で、門構え、玄関を有していました。

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山浦又左衛門脇本陣

建坪90坪程度で、門構え、玄関を有していました。老朽化のため昭和12年に取り壊されました。脇本陣は平日は旅籠として使われていました。
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酢屋茂

1892年(明治25)創業の老舗醸造元で、信州みそや醤油を昔ながらの伝統的製法を守って作っています。

芦田七井戸

今泉は芦田七井戸の一つであり、1759年(宝暦8)「芦田八ヶ略誌」によれば「今泉は明暦三年(1658年)浅野宮君御東下の供御用水となる。平素は鍵をとざして人の汲むを許さず神主今井式部大輔の水なり」とあります。また芦田七井戸は「七曜井」又「七星井」とも言われ、鳥居井戸、桜井戸、今泉、和子井戸、赤沢井戸、中井戸(上五反田)、下井戸(下五反田)があたかも北斗七星の形に配置されていることから「七星井」ともいわれたそうです。

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旅籠つちや

本陣土屋家の分家で、1804年(文化元)頃より旅籠として営業しています。建物は2階が蚕室にするなど少し改造されていますが、ほぼ昔のままの面影を留めています。現在も金丸土屋旅館として営業を続けています。金丸氏は武田信玄に従い、甲斐より土着したそうです。向かいには、幕末から明治期にかけて漢方医を営んでいた瀬下家があります。

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牛宿跡(中村屋)

屋号はかかっていないのですが、こちらが「旧中村屋」さんです。江戸時代は牛舎が西から北を取り巻いていたそうで、西隣の駐車場も牛宿の一部だったのでしょう。牛宿は中馬のための宿泊施設でした。

中馬

中馬は信州の農民が行ってきた輸送システムです。通常、街道は伝馬により各宿場で馬の荷物を付け替えて次の宿場まで送る「継ぎ送り」ですが、中馬は荷物を目的地まで直送する「付け通し」でした。荷物を付け替えなくて良いため便利がいいのですが、利用者が多くなると宿場の問屋と利害が対立し、度々紛争が起きましたが、1764年(明和元)には、幕府に公認され制度化されます。中馬が特に多かった地域は、松本町から飯田町に至る間だったそうです。

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正明寺

1622年(元和8)登算により開山されました。本堂は大正14年に再建され、平成12年に新築されました。本尊は阿弥陀如来像で、楠1本彫り、作風は江戸末期で塗装はなく、木目を全体に出し、美しいと言われます。敷地内には古墳があり、時代は不明ですが、直刀・勾玉鐙(あぶみ・馬具)などが出土しています。
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正明寺の枝垂れ桜

満開です。一番いい時期に見ることができ、ラッキーでした。

TOO001 古中山道だという道が少しだけ残っています。「南妙法蓮華経」が彫られた題目塔三界萬霊塔などの古い石仏が古道を物語っています。

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この先は道が無くなり、繋がっていませんので戻って舗装道を歩きます。

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双体道祖神

この2つの道祖神も古中山道にあったのではないでしょうか。このアパートが建築された時にここへ移されたのではないでしょうか。

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石打場公園

「石打」は当て字で「石内」が本字のようです。石内とは境界、あるいは石敢当(せきかんとう)の意味があり、「災害除け」あるいは防御示のための場所が本来の意味のようです。ここは、芦田村と横鳥村の境です。

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馬頭観音

石打場公園内にある板碑型の馬頭観音で、大きな石に立てかけてあるだけで、あまり見たことのないタイプです。
11:30 芦田宿をあとに笠取峠、長久保宿を目指して進んでいきます。