お江戸日本橋七つ立ち

2018年09月29日

「ツール」⇒「作図・ファイル」⇒「アイコンのラベル表示」にチェックを入れると名称が表示されます。 KMLファイルに変換することでgoogle mapへのインポートもできます。

お江戸日本橋七つ立ち 天気が悪いですが、中山道中へ旅立ちます。今にも雨が降ってきそうですが、いけるところまで行ってみましょう。

7:40 日本橋へ到着 さあ、出発です。中山道は全長538.0km 東海道より50kmほど長いです。東海道はここから南へ進みますが、中山道はここから北へ向かいます。

今回は、このアプリ「大江戸今昔めぐり」で楽しみながら歩きました。自分が今、江戸のどのあたりにいるのか一目でわかります。特に埋め立てられた場所など現在の状況では想像し得ない江戸の街が手に取るようにわかります。江戸周辺しかないのが残念です。

日本橋の石碑、モニュメント

日本橋は家康が幕府を開いた1603年(慶長8)に架けられました。現在の橋は石造り二蓮アーチの道路橋として明治44年に完成したものです。

日本国道路元標

道の起点、幕府が定めた五街道の起点であり、明治政府はこれを踏襲しています。ここにあるプレートは複製であり、本物は橋の中央の道路のど真ん中に埋め込まれています。 プレートの文字は、当時の総理大臣佐藤栄作の筆によるものです。

日本橋魚市場発祥の地

寛永年間の頃、日本橋魚河岸は江戸城内の膳所へ魚を献上していました。その帰路に余った魚を販売したことが始まりとされます。徐々に魚を取る人と売る人の分離がなされていったそうです。近隣には練り物、海苔、鰹節などの海産物を売る店や飲食店も集まり、大いに賑わいました。アプリでは「芝河岸」となっています。

日本橋三越本店

江戸時代の1673年(延宝元年)、呉服店「越後屋」として創業します。「三越」という名は、三井家の「三」と越後屋の「越」からとったものです。本店建造物は1935年に竣工し、国の重要文化財に指定されています。

三越のライオン

1914年(大正3)に誕生、百貨店として開業するためイギリスを視察中、ロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン記念塔の下の4頭の獅子像がモデルとされ、英国に発注したそうです。 今では三越の、いえ、東京のシンボルの一つですね。

旅立って直ぐですが・・朝食のため一旦中山道を外れて、カフェへ寄り道します。

日光街道分岐点

この大きな楠がある交差点が日光街道の分岐点です。日光街道はここから東へ向かいます。

長崎屋跡

江戸時代、「長崎屋」という薬種屋があり、長崎駐在のオランダ商館の江戸における定宿でした。鎖国政策のため外国貿易を独占していたオランダは、幕府へ謝意を示すため、毎年「江戸参府」を行い、長崎から賑やかに行列を成して江戸へ来たそうです。

随行したオランダ人の中には、ケンペルやツンベルク、シーボルトなどがおり、蘭学に興味を持つ杉田玄白や平賀源内などが長崎屋を訪問し、 江戸における外国文化の交流の場でありました。

鐘撞堂跡と夜半亭

時の鐘は、時刻を江戸市民に知らせるために設置されました。鐘は何度か鋳直されましたが、1711年(宝永8)に製造されたものが十思公園に移されています。 夜半亭は、1737年(元文2)俳諧師早野巴人が結んだ庵です。夜半亭には多くの弟子が出入りしていましたが、若き日の与謝蕪村も内弟子として居住していました。巴人が亡くなると一門は解散し、蕪村は江戸を離れ京都を永住の地とします。

青いポストがあるのは知りませんでした。「速達専用」のようです。

本銀通り

「ほんしろがねどおり」と読みます。この辺りは江戸時代初期から1932年(昭和7)まで「本銀町」と称する町でした。町名の由来となった「銀細工職人」が集合すると共に、数多くの商家が立ち並んでいたようです。関東大震災の復興事業によって「本銀」の町名は姿を消してしまいましたが、通りの名として今日まで残されています。

熈代照覧(きだいしょうらん)

作者不明ですが、1805年(文化2)に江戸日本橋を描いた絵巻です。縦43.7cm、横12mにもおよぶ、長い絵巻きです。東京メトロ「三越前駅」コンコース壁面に複製がすべて展示されているそうです。次に行ったときには見ようと思います。

今川橋碑

1691年(元禄4)掘割が開削され、江戸城の外堀からこの地を通り、神田川を経て、隅田川へ通じていました。当初は神堀、銀堀(しろがねぼり)、八丁堀などと呼ばれていましたが幕府接待役井上竜閑が住んでいたため、竜閑川と呼ばれるようになりました。

この運河は江戸の商品流通の中枢として、役割は極めて大きかったようです。昭和25年、竜閑川の埋め立てと同時に橋も解体されました。

神田駅を通過します。

交通博物館跡

1921年、「鉄道開通50周年」を記念して開設され、交通の全般にわたって収集・展示を行っていましたが、2006年5月に閉館してしまいました。埼玉に後継施設としての鉄道博物館が開館しています。

萬世橋

1872年(明治5)、筋違見附が取り壊され、翌年その石材を再利用してアーチ二蓮の石造りの橋が造られました。萬世橋(よろずよばし)と命名されたが、次第に「まんせいばし」のほうが一般化しました。1903年(明治36)に現在の場所に新しい万世橋が架けなおされ、路面電車が走るなど東京の名所となりましたが、1923年(大正12)、関東大震災で被災し、1930年(昭和5)、石とコンクリート混成のアーチ橋に架けかえられました。

万世駅跡

起終点駅として1912年(明治45)開業しますが、現在の中央線、東京駅ができたため起終点駅を返上し、さらに近くに神田、秋葉原駅ができます。追い討ちをかけるように関東大震災で焼失してしまい、1943年(昭和18)に駅を廃止します。「2013プラットホーム」として歩けるよう改修されていますが、今の時間帯は上がれませんでした。11:00以降は上がれます。カフェも併設されているそうです。

万世橋と神田祭

江戸時代の神田際は、神幸行列が江戸城内に入ることを許された祭礼でした。山車と神輿を仕立てた行列が町を練り歩き、萬世橋を渡り神田神社へ向かいました。

御成道(筋違門跡)

徳川将軍が参詣などで通る道筋を「御成道」といいます。江戸時代、この場所には江戸城外郭門のひとつ筋違門があり、将軍家墓所への参詣と日光東照宮への社参の折、この門を抜けて上野へ向かったそうです。

明治4年の筋違門の写真

昌平(しょうへい)駅跡

明治41年、現在の中央線、万世駅への延伸工事のために造られた仮の駅でしたが、万世駅の開業でわずか4年で廃止されます。

現在の高架下は、雰囲気の良い飲食店になっていました。

昌平橋(しょうへいばし)

寛永年間(1624〜1644)に架けられた神田川に架かる橋です。1691年(元禄4)、徳川綱吉が湯島に聖堂を造営し、孔子の故郷である中国の昌平郷らちなみ、「昌平橋」と名乗るように命じたそうです。現在の橋は、1928年(昭和3)に架け替えたものです。

湯島坂

中山道日本橋からはじめての坂です。湯島聖堂と神田明神の間を登る坂道であり、明神坂とも、本郷坂とも言われます。かつては、神田明神の天下祭りの山車が練り歩き、明治には路面電車が走っていました。

神田明神

正式には、「神田神社」。730年(天平2)真神田臣により大手町の将門塚周辺に創建されました。その後、将門塚付近で天変地異が頻発し、神田神社に神として合祀されたそうです。
1616年(元和2)、江戸城表鬼門守護のため現在地へ移転しました。幕府によって社殿が建造され、以降は江戸時代を通じて「江戸総鎮守」となります。 また、鳥居の左手の甘酒茶屋の「天野屋」も1846年の創業です。

社殿

社殿は、関東大震災で消失してしまいました。1934年(昭和9)、当時としては画期的な鉄筋コンクリート造の社殿が再建され、第二次大戦では僅かな損傷で戦災を耐えぬいたそうです。。

石獅子

この石獅子は1862年(文久2)に両替屋仲間より神田社へ奉納されたものです。関東大震災により石山は崩れましたが、親獅子は残り子獅子は紛失しています。石山と子獅子を再建し、親獅子を据えています。

さざれ石と大銀杏

国歌「君が代」に詠われている永久の団結と繁栄の象徴としての「さざれ石」。さざれ石は元々は小さな石の意であるが、長い年月をかけて炭酸カリウムや水酸化鉄が個々の石の隙間を埋めることによって1つの大きな岩に変化します。

大銀杏は、大正時代の関東大震災により、社殿をはじめほとんどの施設が炎上・崩壊したなか、焼け跡に唯一残ったのがこの銀杏です。親木が枯れ、上部を伐採しましたが、その横に子孫の銀杏が育っています。

銭形平次碑

銭形平次は野村胡堂の名作「銭形平次捕物控」の主人公です。平次の住居は明神下の元の台所町ということになっているそうです。右側にある小さな石碑は八五郎、通称「がらっ八」の石碑。江戸マップでは、男坂の南方に「神田明神下御台所町」という地名が見られます。設定ではその辺りに住んでいたということですね。

国学発祥之地

江戸時代中期頃までは学問といえば儒教や仏法でした。国学は日本の古典を拠り所とし、日本独自の文化を研究する目的で様々な人が行っていました。京都伏見の神宮で国学者であった荷田春満が江戸に出て初めて国学の教場を神田神社社家の芝崎邸内において行ったことから、この場所に石碑があります。

明神男坂

天保のはじめころ、当時の神田の火消し「い」「よ」「は」「萬」の四組が石坂を神社に奉納しました。大銀杏は安房・上総(房総半島南部)辺りから江戸へやってくる舟の目標にもなりました。この坂から観月が行われていたそうです。今はビルに遮られて海のほうまで見えないですね。

昔のままの中山道が少しだけ残っています。

魔除けなんでしょうか。勝手戸にこわ〜い焼き物が飾られています。

湯島聖堂の塀

なかなか凝ったデザインです。

徳川綱吉は儒学の振興を図るため、1690年(元禄3)、聖堂を建て「論語」の講釈を行うなど学問を奨励しました。

入徳門

1704年(宝永元)に建てられたもので、現在まで残る貴重な文化財です。

大成殿

孔子を祀っています。孔子は2500年ほど前、中国の昌平郷に生まれた人で、その教え「儒教」は東洋の人々に多大な影響を与えています。少林寺拳法をやりたくなるような広場です。

1872年(明治5)日本で始めて、湯島聖堂で行われた「湯島聖堂博覧会」を描いたものです。湯島聖堂博覧会は、翌年開催される「ウィーン万国博覧会」へ出品予定だった品々を展示したものでした。大成殿を中央に東西の回廊部分に展示品を配して、中庭中央には名古屋城の金の鯱がおかれ、大変賑わっている様子が描かれています。

湯島聖堂案内図

元々は学問所なども同じ敷地内にあったようですね。現在は本郷通りの建設で分割されてしまったようです。

享保の大火ののち、大岡越前守は防災上からこのあたりから江戸城までの家は、塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺を禁じ、瓦葺とすることを許した(それまでは、土蔵以外の 建物を瓦葺とすることは禁じられていた)江戸の町並みは本郷まで瓦葺が続き、その先は板や茅葺となり、その境目にあったのが大きな土蔵のあった「かねやす」であり、川柳に読まれました。

本郷も かねやすまでは 江戸のうち
兼康祐悦は口中医師(歯科医)であり、「乳香散」という歯磨き粉を売り出し評判となり、小間物屋「兼康」を開業します。弟にのれんわけをし、芝に2店目を開店します。売り上げが伸び悩むと、本郷と芝の間で元祖争いが起こり、裁判となります。裁いたのは大岡越前守(大岡忠相)。その沙汰は

芝は漢字で、本郷は仮名で

それ以来、この本郷の店は「かねやす」となったそうです。さすが大岡裁き!粋な判決ですね。

本郷薬師

このあたりは戦災にあい、世田谷へ移った真光寺の境内でした。真光寺は藤堂高虎によって再建された寺であり、本郷薬師堂、十一面観世音菩薩は真光寺境内に置かれていたものでした。

本郷薬師堂

1670年(寛文10)に薬師堂は建立されました。御堂は戦災で消失しましたが、昭和22年に改築され、さらに昭和53年に新築されました。

十一観世音菩薩

真光寺は戦災で焼けましたが、この十一観世音菩薩に被害はなかったそうです。

別れの橋跡、見返り坂と見送り坂

江戸を追放された者がこの別れの橋で放たれ、南側の坂で親類縁者が涙で見送り、追放された者は振り返りながら去り、見返り坂と言われたそうです。 坂といってもとっても緩やかな坂です。

東大赤門

この場所は元々は加賀藩前田家の江戸藩邸上屋敷でありました。加賀藩13代藩主前田斉泰は、1827年(文政10)に11代将軍徳川家斉の21女、溶姫を正室に迎えました。その際に建立された御守殿門です。

21女にびっくりしますよね。子供は、男女合わせて53人(55人とも)いるそうです。さすがオットセイ将軍といわれるだけありますね。

追分一里塚跡

日本橋からはじめての一里塚です。面影は一切ありませんが、ここの「高崎屋」は江戸時代から続く酒店で、両外商も兼ね「現金安売り」で繁盛したそうです。

この場所は、日光御成道(旧岩槻街道)との分かれ道でした。

本郷高等小学校跡

東京市本郷高等小学校は1908年(明治41)「本郷尋常小学校」(現文京総合体育館)の一部を仮校舎として開校しました。1910年(明治43)にこの地へ移転し、1947年(昭和22)、学制改革により廃校となりました。

誠之館跡

福山藩が江戸詰めの藩士の子弟のために設けた藩校がありました。明治4年の廃藩置県により閉校し、明治8年に誠之小学校として開校しました。

ほうろく地蔵

火あぶりの刑を受けたお七を供養するため建立されたお地蔵様です。お七の罪業を救うため、熱した焙烙(ほうろく・素焼きの縁の浅い鍋)を頭にかぶり、自ら灼熱の苦しみを受けるお地蔵様です。

横の3つの庚申塔は、本郷追分一里塚にあったものが移設されたものです。

11:00 東洋大学前駅付近のファミレスでちょっと早いランチ

徳川慶喜巣鴨屋敷跡地

15代将軍慶喜が巣鴨のこの地へ移り住んだのは1897年(明治30)、61歳のときでした。大政奉還後、静岡で長い謹慎生活を送ったあとに4年をここで過ごし、豊島線(現山手線)が近くを通ることが決まると騒音を嫌い、小日向第六天町へ移りました。

巣鴨駅を通過します。

染井吉野の石碑

上駒込染井(現在の豊島区駒込)で幕末から明治の初めにエドヒガンとオオシマザクラの雑種交配で誕生したサクラです。誕生地は一駅南の駒込付近のようですが、線路沿いにたくさんのソメイヨシノが植えられています。

江戸六地蔵尊 眞性寺

開祖年代は不明のようですが、聖武天皇の勅命により行基が開いたものとされます。

傘をかぶり、杖を持つお地蔵様は江戸の六街道出入り口に置かれ、旅の安全を見守っています。

松尾芭蕉 句碑

『白露も こぼれぬ萩のうねりかな』

芭蕉が巣鴨に来たことはないのですが、当時境内に萩が植えてあったためこの句を選んだようです。

巣鴨地蔵通

雨が降っていても結構な人がいました。赤いパンツ、赤い下着がたくさん売っています。美味しそうなものもたくさん売っています。

巣鴨地蔵通

「おばあちゃんの原宿」などと言われますが、ファミリーや若い人も結構いました。

とげぬき地蔵尊 高岩寺

1596年(慶長元)湯島に開かれ、約60年後に下谷屏風坂へ移転しますが、1891年(明治24)に巣鴨へ移りました。地蔵菩薩は秘仏のため、見ることはできないそうです。

洗い観音

明暦の大火で檀家の一人、屋根屋喜平次は妻を亡くし、その供養のため「聖観世音菩薩」を寄進したそうです。水をかけ、自分の悪いところを洗うと治るという信仰がいつしか生まれました。以前はタワシでゴシゴシされ、削れてしまったそうで、現在は2代目ですが、1代目は後ろの木箱に収められています。午前中は開帳されています。たわし禁止ですよ!

すがもんポスト

巣鴨のゆるきゃらですね。

巣鴨庚申塔

中山道の立場であり、道標を兼ねた庚申塔が建っていました。ここは王子道と大塚道が分岐する辻でもありました。

道の神、旅人の神とされている猿田彦大神を合祀しています。庚申塔は堂内に収まっていますが、「右 おうし道」と刻まれた道標が行方不明になっているそうです。

都電荒川線

東京に残る唯一の都電で三ノ輪橋から早稲田間の12.2kmを運行しています。

延命地蔵尊への道標

延命地蔵堂の石造物群

文政年間に建立されました。巣鴨庚申塚付近に行き倒れた人馬の共同墓地があり、墓標として延命地蔵が現在の都電荒川線庚申塚駅の場所にありました。以来様々な供養等が集まってきましたが、1911年(明治44)、駅の建設のため移転、さらにもう一度移転して、この地へ落ち着きました。徳本名号塔、題目塔、延命地蔵塔、地蔵塚庚申塔、馬頭観音塔などがあります。

徳本名号塔

徳本上人は厳しい修行を行いながら南無阿弥陀仏を唱えて日本全国を行脚し、庶民の苦難を救った江戸時代の念仏行者で、上人の書かれた「徳本文字」、想像を絶する「荒修行」が特に有名です。名号碑は、上人が巡教された土地に多く建てられていますが、建立の狙いは、旅の交通安全、病魔退散、子育て、古戦場の慰霊等です。その数は和歌山県内におよそ百七十基、信濃(長野県)に二百基、武蔵(東京都・埼玉県)五十基、越中(富山県)三十基、その他常陸(茨城県)、下総(千葉県・東京都)、相模(神奈川県)等広く日本各地に分布しています。

滝野川三軒屋(東京種苗)

旅人は農家の庭先で見慣れない野菜を見つけると種をほしがる人がおり、農家は副業として種子を販売するようになったそうです。滝野川ゴボウ、滝野川人参、練馬大根などの種子を売る店がここには三軒あり、桝屋・越部・榎本を三軒屋と呼ばれました。現在は東京種苗に面影が残っています。

鴨台さざえ堂

平成25年に大正大学内に造られた「すがも鴨台さざえ堂」堂内の回廊は往路と復路が交わることのない二重螺旋構造。同じ構造はいくつか見られますが、江戸時代後期の1796年(寛政8)に造られた会津のさざえ堂が有名です。順路に沿って三十三観音や百観音が配置された堂内を進むだけで巡礼が叶うようになっています。

千川上水分配堰碑

千川上水は、1696年(元禄9)に玉川上水から分水された上水で、堰はこのあたりにあり、そこから西巣鴨交差点の方向へ分水路が通されていました。明治時代になると潅漑用水、紡績工場、大蔵省紙幣寮抄紙局等の工業用水として多方面へ利用されることになり、利水権を明確にするとともに取水量を遵守するために1882年(明治15)に石碑が設置されました。

亀の子束子本舗(西尾商店)

明治40年創業。亀の子束子は西尾正左衛門が発明し、泳ぐ亀に形が似ていることから命名したとされます。関東大震災を免れた社屋は洋風外観が可愛らしく、およそ亀の子束子を製造しているとは思えないですね。

平尾一里塚跡付近

案内もなく、正確な場所はわかりません。この付近の刑場で近藤勇は処刑されたようです。

近藤勇墓所

1868年(慶応4)、新選組局長であった近藤勇は、平尾一里塚付近に設けられた刑場で官軍により斬首処刑されました。その後、首は京都に送られ三条河原でさらし首にされ、行方不明になっています。胴体はこの場所に葬られているそうです。

板橋駅を通過します。

平尾追分

板橋宿へ入ってきました。

観明寺の寛文の庚申塔

観明寺の創建は、1338年(慶応元)と伝えられます。庚申塔は1661年(寛文元)に造られ、青面金剛像が彫られています。

現在の板橋宿は、商店街になっています。人もお店も多く、今日は雨ですので人出はいつもよりも少ないとは思いますが、それでも賑やかです。

レンガの卯建を備えた古い建築物です。明治から大正のころでしょうか。深谷には深谷レンガを使用したこのような建物が多く残っていますが、このあたりには他には残っておらず、貴重な建物ですね。

遍照寺

明治4年に一度、廃寺となっていますが、明治14年に旭不動堂の道場となり、昭和22年に寺院として復活しました。境内は江戸時代、馬つなぎ場であったそうです。

14:00 このあたりでちょっと休憩のため、カフェへ入ります。お天気の日は公園やお寺で休憩ですが、今日のような雨ではお店に入らないと休憩できませんが、板橋はお店がたくさんありますので、休憩場所には事欠きません。

高野長英ゆかりの地(旧水村長民宅)

蘭学者・蘭方医であった高野長英は、幕府の外交政策を批判して囚われの身となります。1844年(弘化元)、老屋敷から出火し、一時的に収監者を外す「切放ち」が行われると脱獄し、逃亡します。そしてこの地にあった水村長民宅へ現れ、長民は逃亡の手助けをし、最終的には奥州方面へ逃れたとの資料が発見されています。

板橋

石神井川には板の橋が架かり、「板橋」と呼ばれるようになりました。

本町にぎわい広場

火の見櫓が再現されています。扉には銅板彫りの街道絵図。火の見櫓の割には低いですが・・鍵がかかっていて中には入れません。

板橋宿「上宿」

板橋宿は1843年(天保14)には、人口2448人、家屋573軒、旅籠や商家などが立ち並ぶ大変にぎやかな宿場町でした。板橋宿は日本橋方面から「平尾宿」「中宿」「上宿」と別れており、このあたりが「上宿」です。

縁切榎

江戸時代、向かい側に旗本近藤登之助の抱屋敷(大名が民間の土地を買って建てる屋敷)がありました。何時の頃からか、ここの榎が「縁切り榎」と呼ばれるようになったそうです。将軍家へ輿入れする五十宮や和宮の行列は、縁起が悪いため、日曜寺まで迂回してこの場所を通らないようにしたそうです。

村社 氷川神社

古来から蓮沼村の鎮守で慶応年間の創建とされています。

南蔵院

当初は荒川低地にあった「道生沼」の畔に建っていましたが、度重なる洪水により、恐らく正保期に現在地へ移転されたようです。享保7年に行われた八代将軍徳川吉宗による戸田・志村原の鷹狩りにおいては、御膳所(休憩や食事をする場所)となりました。「板橋十景」に南蔵院のしだれ桜が挙げられています。

《板橋十景》

赤坂溜池公園周辺・板橋・いたばし花火大会・志村一里塚・石神井川の桜並木・松月院・田遊び・高島平団地とケヤキ並木・南蔵院のしだれ桜

志村一里塚

昭和8年から行われた国道17号(中山道)の工事の際に周囲に石積みがなされて、両側ともに保存されています。現存する一里塚は全国的にも少なくなり、都内では北区西ヶ原と2か所だけだそうで、貴重な一里塚です。

15:20 志村坂上駅から帰宅します。雨の中、なんとか予定地までたどり着きました。