2023年9月17日

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本日は中山道あるきとは別に「金山城」を中心にその城下町、兼山道の一部を散策したいと思います。

9:10 可児市観光交流館・戦国山城ミュージアムの北100mほどのところに設けてある同施設の駐車場に車を止めました。まずは城下町や兼山道を散策したいと思います。

駐車場をでて南へ向かうと「可児市観光交流館」、「戦国山城ミュージアム」と続き、戦国山城ミュージアムの前には名鉄八百津線のレールが展示されています。

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可児市観光交流館

甲冑や忍装束が展示されており、甲冑着付け体験ができるそうです。
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戦国山城ミュージアム

懸け造りの三階建てという珍しい様式で、1885年(明治18)に小学校校舎として建築されました。これを1994年(平成6)に解体改修し、資料館として開館しました。美濃金山城跡と城主森氏について紹介されています。

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名鉄八百津線のレール

かつて兼山を走っていた「名鉄八百津線」のレールが保存されています。2001年(平成13)に廃線となりレールが移設されたものです。3代目吊り橋の「兼山橋」ネームプレートとワイヤーも展示されています。

名鉄八百津線

兼山ダムと丸山ダム建設の資材運搬のため作られ、1930年(昭和5)開業し可児市の明智駅から八百津駅までの7.3kmを結んでいた鉄道です。昭和30年代からの高度成長期には通勤乗降客で超満員でしたが、マイカー時代の到来とともに年々乗降客が減少し、2001年(平成13)に廃線となりました。

戦国山城ミュージアムの脇から1段下の道へでると正面に兼山地区センターがあり、その西隣が専養寺です。その隣が浄音寺、さらにその隣が森立寺です。

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専養寺

1583年(天正11)日見上人が鬼子母神像を奉じて各地を行脚し、金山村の古城山麓を安住の地として庵を結んだことに始まります。その後、陰湿地であったため江戸時代初めに現在地へ移転しました。

専養寺の門左手に平岡頼資の墓所、その奥に山本藤九郎家の墓所がありました。

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平岡頼資の墓

平岡頼資は小原川秀秋の家老で、関ケ原合戦の功により美濃徳野に封ぜられた平岡石見守頼勝の子で、二代藩主が平岡頼資です。1653年(承応2)の銘があります。

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山本藤九郎家の墓所

山本家は江戸時代酒造業を営み、船問屋でもあったようです。尾張藩へ納める御用金を任されていた豪商で、代々兼山村の宿長を務めていたと言われます。2代目から5代目までのおよそ90年間、尾張藩からの命をうけ伏見高倉野(現御嵩町)、西柿田村、東柿田村(可児市)の新田・尾張間々原新田(現小牧市)などの開発に全財産を投入し、新田開発に務めましたが、借財のためつぶれたとされます。

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浄音寺

1540年(天文9)斎藤道三の養子である斎藤正義が草庵を設け、京都知恩院の高僧智安上人を開山に迎えました。1544年(天文13)に至って伽藍が建設されましたが、土地が陰湿なため1571年(元亀2)現在地へ移転しました。
山門は鳥峰城の裏城戸門を移築したと伝えられます。 天保年間には播隆上人が幾度か当地に滞在し、兼山各地に念仏名号碑が残されています。 1539年(天文8)に描かれた斎藤正義の等身大の画像、播隆上人の自画像などが保管されています。

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斎藤大納言正義(妙春)の墓

斎藤正義は名門近衛家に生まれながらも、比叡山へ出家させられたため、斎藤道三の養子となり戦国武将を目指します。1537年(天文6)道山の後押しもあり、古城山に鳥峰城を築きました。翌年、鳥峰城に入城すると、大納言を自称しました。
1548年(天文17)、配下の久々利城主の久々利頼興に館へ酒宴に招かれて謀殺されました。享年33歳。一説には斎藤道三が黒幕とも言われています。顔戸城の城主でもありましたね。

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森立寺

1567年(永禄10)森長可の乳母「お立の方」が長可の父、森三左衛門可成に願い出て、長可を開基に一卯院日好上人を請じて開山としました。寺名は森氏とお立から一時ずつとったものです。
創建の100年後には荒廃し、時の住職第八世日宝上人は片桐宗圓の力添えを得て1672年(寛文12)に現在地へ移し新たに堂宇を建立しました。

森立寺前の道をさらに西へ400mほど進み、坂道を下っていくと「兼山湊跡」があります。

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兼山湊跡の常夜灯

室町時代の末期、1530年頃には既に水運に使用されていたとされます。材木屋や兼山産の茶、酒、陶器類も大量に積み出され、江戸御用廻米もここから積み出され、桑名経由で江戸蔵屋敷まで船送りされ、非常に賑わった湊でした。
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兼山湊跡

看板にはテレビ愛知で放送された「森蘭丸〜戦国を駆け抜けた若獅子〜」の兼山湊のロケ地と書かれていました。実際、湊跡はたくさんありましたが、川べりまで下りられる場所は少なく、当時の面影がよく残る湊でした。

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兼山湊から石畳を上り、ひなびた道の右手に「春吉稲荷大明神」があります。
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春吉稲荷大明神

船の安全を祈願し、船問屋が建立したということです。

春吉稲荷大明神をでて石段を上り県道(多治見八百津線)を西へ向かい、兼山の入口へ向かいます。県道のカーブから兼山へ入り直します。交差点がポケットパークのようになっています。

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以前はこの場所に冠木門と蘭丸の像があったようですが、現在はどちらもありませんでした。
200mほど進み右手から坂道を上ると名鉄八百津線の「兼山口駅跡」で、トイレが残されています。

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名鉄兼山口駅跡

2001年(平成13)に廃線となった名鉄八百津線の兼山口駅があった場所です。

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名鉄八百津線の軌道跡が歩けるようになっていましたので、この道を進んでいきました。
少し行くと未舗装になりますが、歩くことはできます。切通の崖のあたりから左手、ちゃんとした入口は無いですが、草をかき分け貴船神社へ入ることが出来ました。

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貴船神社・貴船稲荷神社

1127年(大治2)領主、土岐氏が山城国(京都)の貴船神社より勧請したと伝えられます。古来は「貴布称大明神」といいました。 1538年(天文7)斎藤正義が鳥峰城を築くと、貴船神社を手厚く保護しました。1695 年(元禄8)には城主が森氏となりますが、引き続き保護し、1593年(慶長3)森忠政は社頭を再建しています。

境内社の貴船稲荷神社は1634年(寛永11)に兼山村六斎市の市神として、京都伏見稲荷より勧請されたと伝わります。

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名鉄八百津線の軌道跡から集落を望みます。

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少し進むとコンクリートの擁壁前の細い通路を通ります。
TOO001 右手に「森家墓地」の案内があり、小さな門から山側へ入って行きました。石段を上っていきます

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美濃金山城主 森家廟所

中央が金山城初代城主、森三左衛門可成の墓碑です。1370年(元亀元)近江宇佐山の合戦にて48歳で討死しました。

左手が二代城主、森武蔵守長可の墓碑です。1584年(天正12)尾張長久手の合戦にて27歳で討死しました。
右手に2つ並んだ墓碑は、可成の父、森可行と可成の長男、森可隆のものです。森可行は1571年(元亀2)金山村にて77歳で没しています。森可隆は1570年(元亀元)敦賀天筒山合戦にて19歳で討死しました。

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森蘭丸の墓

森蘭丸は兼山城主、森可成の三男で弟の四男・坊丸と五男・力丸と共に小姓として織田信長に仕えていたときに本能寺の変があり、18歳の若さでこの世を去りました。坊丸は17歳、力丸は16歳でした。
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可成寺

宇佐山(大津)で戦死した金山城主の森三左衛門尉可成の菩提を弔うため、二代城主長可が栄巌和尚を迎えて金山城東の寺ケ峰に創建されました。 三代城主、忠政が1600年(慶長5)に信濃川中島へ移封されたときに寺は現在地へ移されました。

「寺ケ峰」へは後ほど行ってみます。

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森家顕彰碑

境内には寺を建立し、当地を治めていた森家を顕彰する碑が建立されています。

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水野春川句碑

『ふるさとの松風こひし秋の山』

1965年(昭和40)建立、水野春川さんがどんな方なのか、全くわかりませんでした。

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芭蕉翁之墓

『山路来て何やらゆかしすみれ草』

「芭蕉翁之墓」となっていますが、句碑です。左側面に句が刻まれています。1766年(明和3) 、美濃派の俳人、素陽坊らによって芭蕉七十三回忌に建立したものなので、「墓」となっているのかもしれません。
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播隆上人名号碑・延命地蔵尊

可成寺を県道側から後にし、兼山道を50m程進むと「小関の清水」の案内板があります。空地の中央部くらいにあるようですが、草もボーボーですし入ることもできません。

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小関の清水

空き地の中央くらいの草がボウボウになっているあたりに昔はあったようですが、入ることが出来ないため確かめられません。案内板があるのみです。

小関の清水

尾関の清水、菊の水、お直の水などとも呼ばれているようです。1756年(宝暦6)の「濃陽志略」にも取り上げられています。1729年(享保14)の「金山記全集大成」によると、1585年(天正13)に豊臣秀吉が開催した「京都北野松原の大茶会」に森忠政が茶人、鳥屋尾不省を参加させ、その際に長寿の言い伝えのある小関の清水で茶を立て、秀吉は喜び褒美を与えたとされます。

近年まで所有者の高木家が味噌・溜の醸造用水として利用していました。

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兼山道

古い佇まいが残されています。140mほど進むと右手に妙向尼の墓がある常照寺があります。
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常照寺

1565年(永禄8)森三左衛門尉可成の室で、森長可・蘭丸の生母である妙向尼が亡き母、妙願尼の菩提を弔うために建立し、はじめは「妙願寺」と称しました。

1600年(慶長5)森右近大夫忠政が川中島へ移封されたときに妙願寺も信州川中島へ移転しました。 移転の後、妙向尼の父、林新右衛門常照菩提のため高山(現土岐市)に創建されていた常照寺が現在地へ移転します。 常照寺は1583年(天正11)森長可が高山城を攻略すると母方の叔父林長兵衛を留守代として居城させましたが、その際に創建されたものであるといわれています。

天正時代の作と伝わる親鸞聖人の画像、林長兵衛常吉の画像と共に蘭丸愛用と伝えられる手槍の穂先も保存されています。

ここにもテレビ愛知で放送された「森蘭丸〜戦国を駆け抜けた若獅子〜」の看板がありました。ここでもロケが行われたようですね。

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妙向尼の墓へ向かうため、本堂裏の細い道を上っていきます。

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妙向尼の墓

妙向尼は北陸に生まれたとされますが、詳細は不明です。1580年(天正8)織田信長の石山本願寺攻撃の折り、両者の間に入り蘭丸を通じて和睦の成立に努力した人です。 この功を讃え、本願寺本山で妙向尼50年忌追悼法要が執り行われたといいます。 妙向尼の墓石に並んで、父林新右衛門常照の墓石があります。
常照寺の東隣が西念寺です。

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西念寺

京都の公家梅渓大納言兼房卿の長男、中将左衛門尉兼行卿の建立と伝えられ、もとは対岸の八百津牧野村にありました。その後兼山に移り、1619年(元和5)より西念寺と称するようになりました。
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兼山道

西念寺から500mほど進むと左手に小さな六角形の灯籠のようなものがあります。ここが六角堂です。

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六角堂

金山城の鬼門除けとして建立されたと伝わり、お堂の中には木像金泥塗の六地蔵尊立像が祀られています。石灯籠や庚申塔、名号碑、五輪塔など江戸時代中期の石像が残り、石造り地蔵尊は古城山の寺ケ峰から移されたものです。毎年7月に提灯祭りが行われています。
六角堂からは右へ曲がり、いよいよ金山城へ向けて歩いていきます。米蔵跡の下の公園で一休みします。

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米蔵跡の石垣

1500 年代に金山城7万石の年貢米を貯蔵する米蔵が造られ、江戸時代には代官所があったと伝えられてい ます。 金山城域では最も大規模な野面積で、高さ 6m、 長さ 40m程あります。

しかし、米蔵のためだけにこのような大きな石垣が築造されたとは考えにくく、金山城に通じる登城路があったことから、登城する来客などを迎える屋敷があったのではないかと考えられています。

石垣の上に上っていく途中の左手に「金刀比羅神社」があります。

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金刀比羅神社

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米蔵跡からの景色

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米蔵跡の少し上の「うらじろの径」と書かれた山道を登っていきます。木製の杖が借りられるようになっていましたので、借りていきました。
TOO001 山道へ入ると本丸まで一気に170mほど上ります。途中、四阿があり休憩しました。四阿のある広場が搦手道との合流点となっており三叉路になっています。ここから地獄の階段が本丸まで連続します。

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杉ケ洞搦手道

永遠に階段です。
50分程度で上りましたが、途中の四阿で20分ほど休んでしまったので、実質30分程度かかりますね。

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本丸からの景色(東側)

1537年(天文6)斎藤道三の命を受け、養子の正義が標高273mの山頂に築城、鳥ケ峰と称し地名を金山村と改めました。豪勇を振るった斎藤正義も1548年(天文17)久々利城主、土岐三河守に討たれました。

1565年(永禄8)織田信長は東濃経略の拠点として森三左衛門尉可成を封じ、金山城主としました。以来、可成、長可、忠政3代の居城としていました。

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美濃金山城(兼山城)跡

2代森長可は次男で武勇に優れ「鬼武蔵」と言われ、岩村城主を兼ね信州海津城主でもありました。

3代森忠政は金山城で生まれ、15歳で家督を継ぎます。豊臣秀吉に仕え、徳川時代になると信州海津城へ移封します。忠政は1603年(慶長8)美作国へ国替えとなり、以後1年をかけて津山城を完成させ、現在の岡山県津山市の基を作りました。
金山城は森忠政から犬山城主であった石川備前守光吉に変わります。すると天守をはじめ全てが取り壊され、木材は犬山城の増築に使用されたといいます。

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本丸からの景色(北側)

北方に木曽川、その上方に御嶽山がちょこんと見えているようですが、今日は雲で見えないようです。御嶽山を源流とする木曽川は120kmを流れ下り、兼山ダムで一旦溜り伊勢湾まで注ぎます。一部はダムの畔にある愛知用水取水口からさらに110kmを流れて、知多半島へ至ります。眼下には美濃金山城下町として栄えていた兼山の町並みが見えています。

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本丸虎口

正面の石垣沿いに4つの柱の礎石が確認されており、虎口全体を覆うような建物があったと考えられています。

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本丸跡

発掘調査により4棟の建物の礎石と排水口が確認され、周囲からは瓦が出土したことから居住性のある建物があったことが判明しています。茶湯器なども出土したことから御殿の他に茶室があったとも思われ、天守も存在していたのではないかと考えられています。

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天守台西南隅石

犬山市瑞泉寺の表門と裏門は金山城にあった大手門と城門を移したものと伝わっています。
本丸跡で休憩後は南西へ下っていきます。途中、大手枡形二の丸跡などよく残っています。二の丸跡には土塁囲いがあり、往時は二の丸門、侍屋敷、物見櫓などがありました。枡形虎口は、枡形に造られた虎口で城の出入口です。敵が侵入してきた場合には門を閉じて三方から一気に攻撃できるようにしてあります。虎口の門跡には主柱と控え柱の礎石が残っています。

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古城山払下げ記念碑

江戸時代は兼山の地を治めた尾張藩のお留山となって、村人は立入禁止となっていました。明治時代になると皇室の御料林となり、1945年(昭和20)以降は国有林となりました。長年、人が入ることがなかったため、城の遺構がよく残っています。 1953年(昭和28)住民の念願であった払い下げが認められ、翌年にこの碑が建立されました。

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三の丸門跡

三の丸門の礎石が残されています。
三の丸門跡を過ぎると城跡内に整備されている車道へでます。ここを左へ曲がり可成寺があった「寺ケ峰」へ行きたいと思います。

ペットボトルの飲み物が無くなり、駐車場などに自動販売機が無いかと人に聞いたのですが・・・どこにも無いらしいです。困った・・水切れです。駐車場やトイレはあるのですが、自動販売機は無いらしいです。城から出るまでしばらく我慢するしかなさそうです・・・

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物見の櫓からの景色

明智城が見えているはずですが、どのあたりか・・さっぱりわかりません。
物見の櫓から車道を300mほど進むと右手に山道へ入る場所があります。道があまり整備されていないので注意が必要です。

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信長の休み石へ向かう入口

案内板もあります。ここを入っていきます。
くねくねしていますが、1本道ですので道なりに進み、鉄塔のすぐ脇を通ります。200mほどで「座禅石」へ到着します。そのすぐ先の平地が「可成寺跡」だと思われます。

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座禅石

誰が座禅をしていたのでしょうか?詳しいことはわかりませんが、石の上部は平で座禅を組むのにもってこいの感じでした。実際座禅してみました・・・森林の中での座禅、心が落ち着きます。

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可成寺跡

現在麓にある森家菩提寺の可成寺は、はじめはここにありました。現在は何もなく、石仏なども全て麓に移動したようです。

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可成寺跡から左手(東側)に60mほど下ると信長の休み石があります。

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信長の休み石

可成寺が寺ケ峰にあった当時、信長が訪れて休んだと伝承される大きな石です。
TOO001 このまま戻らずに尾根道を下っていき、二又を左手の沢へ向かって下るとアスファルト舗装の道へでました。ここで右手へ曲がりアスファルト舗装の道を下っていきます。再び丁字路へでたので、ここを左へどんどん下っていくと左手に「杉ケ洞搦手道入口」がありました。

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杉ケ洞搦手道入口

綺麗に整備された入口です。ここからも本丸へ行くことができます。ここにも杖の置き場所がありましたので、ここで木の杖を返却しました。
さらに50mほど下ると右手の沢に小さな橋がかかっており、その奥に舟形の馬頭観音が佇んでいました。

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馬頭観音

この馬頭観音のためだけに架けられた橋、真新しいシキミがいけてあり、どなたかが大切にされているようです。
ようやく麓に下りましたが、自動販売機はなかなか見つからず・・・駐車場の手前あたりでようやく自動販売機を発見し、その場で1本立ちながら飲みもう1本購入。なんとか熱中症は避けられました。

歩いて金山城へ上る場合、特に真夏は飲料を多めに持っていくことをおすすめします。

14:10 駐車場へ到着。今回はここから帰宅します。