2023年9月16日

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車は新可児駅周辺のコインパーキングへ駐車し、新可児駅を6:29発の名鉄広見線へのり、6:40御嵩駅到着。 本日は御嵩駅よりスタートします。今日の最高気温の予想値は32度くらいです。なるべく涼しい時間帯に進みたいと思います。

駅を出て左手、北へ向かいます。駅前がちょうど西の枡形にあたります。願興寺はまだ補修工事中ですね。70m左手に神明神社があります。

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神明神社

1693年(元禄6)の棟札に寄ると、1643年(寛永20) 再興とされます。中山道分間延絵図にも記載がある神社で、往事から場所は変わっていないようです。
さらに100mほど進むと第二の枡形で、左へ曲がります。

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江戸時代からこのあたりもまだ町並みが続いていた場所です。

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常夜灯

頭部が木像の常夜灯がある場所が再び枡形になり右へ曲がりますが、中山道を進む前に纐纈神社へ寄っていきます。枡形を左へ曲がり100m先を左の細道へ入ると纐纈神社があります。境内には播隆上人名号碑もありました。
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纐纈(こうけつ)神社

1187年(文治元)仁明天皇の皇子人康親王の九代孫にあたる纐纈源吾盛康は中村の地頭となりました。盛康は源頼朝の父・義朝以来の家臣で、頼朝が伊豆へ流された時も大津まで見送った人物です。また、願興寺の復興に力を注いだことでも知られます。

盛康の孫にあたる纐纈縫殿助安忠(修之助)は鎌倉幕府四代将軍藤原頼経に仕え、勇猛で知られ死後に中村の人々によってその霊を祀り大明神としたのが始まりで、1874年(明治7)大明神から纐纈神社へ改称されました。

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播隆上人名号碑

播隆上人は飛騨山脈の槍ヶ岳を最初に登拝したことで知られる高僧です。1823年(文政6)を始めとして笠ヶ岳へ3回登り、1826年(文政9)初めて槍ヶ岳へ登拝しました。凍傷で指を失いながらも他の人も詣りやすいよう、山頂付近に「善の鋼」と呼ばれる鎖を設置しました。現在の可児付近で登山資金を集め、その記念に多くの名号碑が建立されました。
中山道の枡形へ戻り、枡形を北へ向かい「中」交差点の少し手前の右側に常夜灯があります。

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常夜灯

「中」交差点が枡形になっていますので、元は枡形にあったものでしょう。御嶽宿は枡形の常夜灯が多く残っています。
「中」交差点を左へ曲がるのが中山道ですが、その前に真っすぐ進み「春日神社」へ寄っていきます。真っ直ぐ進むとすぐ右手に参道の石碑があり、右へ入っていきます。

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春日神社

創建は不明ですが、重要文化財に指定されている1238年(嘉禎4)の「官宣旨」が保存されているそうです。官宣旨とは平安時代以来行なわれた公文書です。

中山道へ戻り「中」の枡形を西へ。ここからは国道21号線となります。170mほど進むと右手に「鬼の首塚」があります。首塚の西隣に「正岡子規の歌碑」があります。

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鬼の首塚

1190年〜1200(建久・正治)の頃、凶暴な男が鬼岩に住み着き住民を悩ませていました。不破の関の生まれだったため「関の太郎」、「鬼の太郎」と呼ばれ、怖がられていました。1199年(正治元)人々は地頭である纐纈源吾盛康に退治するよう訴えますが、京都にいたため家臣4名へ命じました。家臣はなかなか太郎を討つことができず、可児薬師へ祈願した所、祭礼の日に女装した太郎が現れ、首をとることができました。首を京へ運ぼうとしましたが、この地で首桶が重くなり桶から首が転がりだし、落ちた首は動かなくなってしまったため、この地へ埋めたとの伝説があります。

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木曽名所図会「鬼の首塚」

十返舎一九の歌 『桶縄手 今もその名を朽ちさりき塩漬にせし鬼首かも』首塚のあたりは「桶縄手」と呼ばれていました。

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正岡子規歌碑

『草枕むすぶまもなきうたゝねのゆめおどろかす野路の夕立』

1891年(明治24)に木曽路を旅した紀行文「かけはしの記」に記されている歌です。 御嵩を過ぎて松繩手(桶縄手)に出た子規は連日の旅の疲れが出て、肩から荷物をおろし枕にして松の下でうとうと・・

中山道分間延絵図には鬼の首塚の少し先の南側にも「鬼塚」という塚が描かれていますが、現在どのあたりか不明です。

国道21号線を400mほど進むと右手に大きな御獄山碑があります。

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御獄山碑

2014年頃までは古い大きな堂があったようですが、最近小さく新しい建物に建て直されたようです。中山道分間延絵図には記載がありません。
TOO001 大庭の交差点をすぎると国道と分かれ右手の旧道へ入っていきます。

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旧道へ入ると急にのどかな道になります。水田の稲穂は黄金色になり頭を垂れています。もうすぐ収穫ですね。
旧道は500mほどで終わり、国道21号に再び合流です。可児川に沿って150mほど進み「顔戸」交差点から左へ曲がり橋を渡り「在原行平塚」へ寄り道していきます。可児川を渡り300mほど右手、名鉄広見線顔戸駅裏になります。

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在原行平塚

1743年(寛保3)顔戸村の念仏講中が建立したと刻まれます。五輪塔や1832年(天保3)の石灯籠などもあります。しかし、顔戸との関係は不明で、なぜ碑を建立したのかは不明です。

在原行平

在原行平は阿保親王(あぼしんのう)の第二子で平安時代初期の歌人・公卿です。また「伊勢物語」の主人公としてまた六歌仙の一人として有名な在原業平の兄にあたります。小倉百人一首では中納言行平と称されています。

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在原行平歌碑

『立ち分れいなばの山の峰に生ふる まつとし聞かば今帰り来む』

905年(延喜5)の古今和歌集や小倉百人一首に収められている歌です。京の都を離れて須磨に謹慎していたところ、松風・村雨という姉妹と恋仲に・・しかし因幡守に任ぜられたため、このときの任国への下向に際して詠んだものです。
可児川まで戻り、中山道を突き抜け「顔戸城址」へ寄り道していきます。顔戸の交差点から緩い坂を上るとすぐに「顔戸城址」があります。

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顔戸城址

1467年の応仁の乱の頃、美濃の武将で文人でもあった斎藤妙椿が築城し、東美濃の守りの拠点としたと言われる平城です。八幡神社には妙椿が神社を修繕した時の棟札が残っているそうです。

斎藤妙椿

元は八百津の善恵寺で僧侶としての修行をしていましたが、1460年(長禄4)守護代を務めていた兄、利永が世を去ったため、仏道を捨てて家督を継ぎました。

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空堀跡

空堀や土塁が綺麗に残されています。奥の中央部に館があったと考えられています。
道なのに右手に進むと突き当りになり、左へ曲がるとすぐに「新四国第二十五番札所」と彫られた石碑があり、細い階段を上がると札所と恵観寺跡の地蔵と言われる石仏がありました。

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新四国第二十五番札所の恵観寺跡の地蔵

堂前の道は廃寺となった「恵観寺」の参道であったとされます。

中央の大きな地蔵が「恵観寺」の地蔵と言われるものです。燈明山恵観寺は、中山道分間延絵図では顔戸八幡神社の東隣りに描かれています。恵観寺の地蔵は恵観寺跡にあったとされ、移動した経緯はわかりませんが現在はここにありました。1772〜1780年(安永年間)の銘があります。

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顔戸城址裏側

北へ向かって進むと突き当りが「顔戸八幡神社」です。

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顔戸八幡神社

社殿によれば930年(延長8)の創建で、石清水八幡宮を祀っています。1063年(康平6)源義家が奥州征伐の後再建したといわれ、1459年(長禄3)には土岐守護家の執権、顔戸城主・斎藤妙椿が社殿を修繕、また1565年(永禄8)には美濃の豪族、長井隼人の棟札が残り、時の権力者に崇拝されていたようです。

10月の祭礼では、神輿を急な坂の上にある奥の院まで担いで一気に駆け上がり、花飾りを挿した上馬が境内を走り、見物人が奪い取るところなど迫力のあるお祭りなのだそうです。

顔戸八幡神社の裏山を少し上っていくと「天満神社」がありました。

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天満神社

灯籠には「北野神社」とあります。菅原道真を祀る学問の神様です。
顔戸八幡神社前の道を西へ350mほど進むと右手に石鳥居や石仏が見える一角があります。

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日吉神社山王鳥居

山王(現在の日吉神社)の一の鳥居です。北の八王子山に鎮座しているのが「八王子神社」で、その手前にある「日吉神社」が往時の山王神社です。

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播隆上人名号碑

山王鳥居の近くには播隆上人の名号碑が残されています。
中山道へ戻るため路地を左へ、畑の中を可児川へ向かって下っていきます。このあたりにはかつて「御嵩炭田」がありました。

御嵩炭田

地下数十メートルに亜炭層があり、1869年(明治2)〜1967年(昭和42)まで採炭されていました。最盛期には2000人が働き日本一の亜炭産地でした。しかし、最近では地盤の陥没が起こり負の遺産となっています。

国道となっている中山道へでるとすぐに右手から旧道へ入ります。その旧道入口右手に「比衣一里塚跡」の石碑があります。

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比衣一里塚跡

中山道分間延絵図には一里塚のすぐ先に立場が描かれています。

1908年(明治41)一里塚は払い下げられ取り壊されました。現在は石碑があるのみです。
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銘木指定の「柿の木」

顔戸のあたりから伏見宿まで松並木が続いていましたが、今はあとかたもありません。

静かな旧道をくねくね進みます。最近建てられたと思われる「右御嵩宿 左伏見宿」の石標をすぎると国道21号へ合流します。国道を進むと「高倉口」交差点の北側に国道からは見えないのですが、「雨池」があります。

雨池

1729年(享保14)兼山村の大地主であり、船問屋であった山本藤九郎が三代に渡り高倉野の開拓に当たり、 天池はその折に設けた池で、地元の人は「余奈池(よないけ)」と呼んでいるそうです。高倉野の開拓は成し遂げたそうですが、山本家は借財のためつぶれてしまったとのことです。

その先、駐在所の脇を右に曲がり旧道へ入ります。最初の路地を左へ曲がると水田が広がります。2つ目の農道を右へ曲がり、100mほど脇道へそれると「伏見大柳の碑」があります。

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伏見大柳の碑

樹齢1000年と言われた大きな柳は「お柳様」と呼ばれ、櫛を供えると苦死から逃れられると飯盛女から信仰されていました。1962年(昭和37)に倒れ、現在は石碑が残るのみです。隣には名鉄八百津線が走っていた線路があったようですが、2001年(平成13)に廃線、線路も撤去されています。
100m戻り旧道を進むと急な上り坂となり、70mほど上ると伏見宿に入ります。上りきったところに往時は東の高札場があり、枡形にもなっていました。150m進むと左手が伏見宿本陣跡です。尾張領傍示石もあります。向かいが問屋になっていました。

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伏見宿本陣跡

本陣は岡田家が代々世襲していましたが、明治時代に学校が建設され、後に伏見村役場となり、1955年(昭和30)の町村合併によって御嵩町となるまで使用されていました。現在は伏見公民館になっています。
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中山道分間延絵図「伏見宿」

伏見宿は木曽川の渡し場変更により南の土田宿から宿が移り、御嶽と太田宿の間に1694年(元禄7)に宿場が新設されました。他の宿場よりも90年遅れて、中山道で最も新しい宿場となります。

1843年(天保14)の記録では家数82軒、人口485人、本陣・脇本陣1軒ずつ、旅籠29軒がありました。

1750年(寛延3)の火災以後、防火のため道幅を広げましたが、1838年(天保9)、大火で29軒が延焼、1848年(嘉永元)にも26軒が火災で焼失しています。

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尾張領傍示石

伏見宿西はずれの幕領である新村との境にあった傍示石が移設されています。現在の播隆上人名号碑のあたりだと思われます。「従是東尾州領」と刻まれています。往時のものは廃藩置県の際に撤去され、現在あるものは1915年(大正4)に復元されたものです。
寄り忘れてしまいましたが、左へ入ると浄覚寺があります。 浄覚寺は尾張国祖父江村の教順が教如の弟子となり伏見に建立した寺です。 徳川家康の孫で、尾張藩2代藩主徳川光友夫妻の位牌があります。また芭蕉句碑『古池や蛙飛こむ水の音』があるそうです。

本陣跡から160mほど進むと右手に一本松公園があり、トイレや休憩所が整備されています。その一角に「兼山道道標」があります。交差点左手の本・文具・化粧品などを売っているお店が脇本陣跡になります。

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兼山道道標

「左 兼山八百津」と彫られており、森氏が治めた兼山城下町への道を示しています。

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伏見宿脇本陣跡

脇本陣は岡田家が代々務めていました。
脇本陣跡の伏見交差点で左へ曲がり、洞興寺へ向かいます。伏見小学校を過ぎると二股になり右手へ進むとすぐ右手に洞興寺があります。

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洞興寺

戦国時代に兼山村の鳥峰城主・斎藤正義の妾が22歳で居住したのが始まりとされます。その後の1732年(享保17)再建されています。

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伏見子安観音

創建は不明です。堂宇は兵火で焼失しましたが、観音像は難を逃れて洞興寺へ預けられました。1708年(宝永5)観音堂が再建され、秘仏である観音像は7年ごとに開帳され多くの人々で賑わっていたとされます。

1959年(昭和34)の伊勢湾台風で堂宇は倒壊、再び洞興寺へ預けられましたが、地域の人々により1991年(平成3)に再建されました。

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女郎塚

伏見宿は遊女が多く、明治時代になっても女郎を置く店が7軒もあったといわれます。遊女を供養する50体ほどの観音像が寄進され並んでいます。
洞興寺と女郎塚の間の細道を中山道へ向かい戻ります。松屋の東側へでました。

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松屋山田家

1944年(昭和19)まで醸造業を営んでいました。江戸時代、長崎から江戸へ運ばれる途中に興行師が病気となりらくだと共に3日間ここへ滞在したとされます。近隣からは2日間で2000人もの人々が押し寄せたといいます。

主屋は1917年(大正6)に建築され、1933年(昭和8)に郵便局として増築され、現在はお休み処となっています。

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らくだ

1646年(正保3)オランダから徳川家光にラクダが献上されたことがありました。2度目となる1821年(文政4)ヒトコブラクダ雄雌2頭が長崎に陸揚げされましたが、幕府は辞退しました。 ラクダは興行師の手に渡り、興行を重ねながら2年後には大阪、3年後には江戸まで運ばれました。その後10年以上全国津々浦々で見世物として話題になりました。
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元三吉屋

松屋の前には三吉屋があり、三吉屋は往事、生薬屋だったとされます。右手の住宅には常夜灯と屋敷神が残されていました。

松屋から300mほどの右手に大きな播隆上人名号碑があり、そのすぐ先左手に小さな正岡子規の句碑があります。

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播隆上人名号碑

御嵩町には9基の播隆上人名号碑が残されています。1834年(天保5)建立。

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正岡子規句碑

『すげ笠の生國名のれほとゝぎす』

1891年(明治24)に木曽路を旅した紀行文「かけはしの記」に記されている歌です。「この夜、伏見に足をとどむ。朝まだほの暗き頃より、舟場に至りて下り舟を待つ。つどい来る諸国の旅人七八人あり」 子規は伏見から木曽川を下る船に乗り、犬山城のほうまで下ったようです。
正岡子規の句碑から160m、「上恵土」交差点の左手に道標があります。

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犬山街道道標

中山道と名古屋を結ぶ脇往還で、「名古屋往還」とも呼ばれました。「左多治見及犬山ニ至ル 右太田渡ヲ経テ岐阜市ニ至ル」と刻まれています。1915年(大正4)建立。
10:30 伏見宿をあとに太田宿へ向かいます。徐々に気温が上がってきました。30度は越えてきたようでした。