2024年9月19日

「ツール」⇒「作図・ファイル」⇒「アイコンのラベル表示」にチェックを入れると名称が表示されます。 KMLファイルに変換することでgoogle mapへのインポートもできます。

引き続き、上諏訪宿を目指して歩いていきます。

「永明寺山遊歩道」の看板のところまで戻り、上原城方面へくねくねとアスファルト舗装の道を登っていきます。500m余りで「諏訪氏館跡碑」があり、右手には上原城への上り口があります。

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上原城跡への上り口

上りたいのは山々ですが、時間もかかりそうなので、またいつか行きたいと思います。

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諏訪氏館跡碑

1542年(天文11)武田晴信(信玄)により、諏訪領主、諏訪頼重が滅ぼされて以降、武田氏の諏訪郡代(初代・板垣信方)の邸が造立されました。1582年(天正10)までの40年間、武田氏の諏訪統治の拠点となった場所です。今日でもこの場所の字名は「板垣平」となっています。
TOO001 大きな「諏訪氏館跡碑」の10mほど先に左手に下りていく細い未舗装の道があります。ここを道なりに下っていきます。

TOO001 どんどん下り、丁字路は左へ。板垣屋敷通りの碑がある十字路にでます。ここからアスファルト舗装の道ですが、「古道(慶長道路)」と呼ばれた道へでます。古道は甲州街道が整備される以前に主要道路として機能していた道です。

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板垣屋敷通りの碑

上原が城下町であった頃に呼ばれていた通りの名です。先ほどの諏訪氏館跡には、板垣信方邸があったため、この名がついたと思われます。
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飯田翁之碑

飯田果樹園の前に「飯田翁之碑」がありましたが、文字が小さくて読めませんでした。ご先祖様なのでしょう。飯田果樹園は主にりんごを栽培しているそうです。青森県についで全国2位の生産量を誇る長野県のりんご。永明寺山の斜面を利用して美味しいりんごを栽培しているのでしょうね。

板垣屋敷通りの碑から1つ目の路地を左へ曲がり、JRの線路を越えて進むとようやく甲州街道へ戻ります。甲州街道との十字路に「塔所小路碑」があります。今歩いてきた道が「塔所小路」なのでしょう。

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塔所小路碑

「塔所」(たっしょ)は、元々は禅宗で、高僧が亡くなった後に弟子たちがその墓(塔)のそばに建てた庵や小院のことを指すそうですが、このあたりにそういったものがあったのでしょうか・・

甲州街道を突き抜けて上川方面へさらに200mほど進むと「法明寺跡碑」があります。

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法明寺跡碑

鎌倉五山になぞらえて、上原五山(極楽寺・光明寺・永明寺・金剛寺・法明寺)と称されるなかの一つのお寺でした。創建年は不詳ですが、室町時代後半と考えられています。 葛井神社北側の高台に位置し、現在は墓地のみを残しています。1588年(天正16)の「諏訪上下社寺領案文」には、上原五山に関して極楽寺・永明寺・金剛寺のみが記され、法明寺は記されていません。 1549年(天文18)政治の中心地が上原から現在の諏訪市岡村へ移るようになりました。このことから法明寺と光明寺は合寺となり現在の岡村に移転し、法光寺になったとされます。

甲州街道へ戻ります。甲州街道を130m、上原北交差点に「播磨小路碑」があり、ここを右へ曲がり80mほど左手の空地が西方堂跡で、多くの石仏が並んでいます。

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播磨小路碑

上原が城下町だった頃の名称です。
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西方堂跡

江戸時代に流行した「諏訪百番札所巡り」の諏訪観音霊場の中ニ番にあたり、江戸中期頃の「上原郷之図」に見ることができます。1879年(明治12)堂を再建し、念仏講をはじめ村の集会所として広く活用されていましたが、1958年(昭和33)に取り壊され、本尊阿弥陀仏は頼岳寺境内の理昌院に仮安置されています。石仏は土地区画事業により周辺から集められたものです。

播磨小路を通り、甲州街道へ戻ります。70m左手に「御社宮司社」があります。

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御社宮司社(上ノ御宮司神)

土着の神であるミシャグチ神を祀っています。小さな祠ですが、豊作を祈願する自然信仰の神です。

100mほどで右手には「頼岳寺」への参道がありますが、後に寄ることにして通り過ぎ、すぐ先左手に「番匠川通り碑」があり、さらに40m先の左手、巾1mほどの細い道を入っていくと「御頭御社宮司社」があります。

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番匠川通り碑

「番匠」とは、木造建築技術者、特に大工を指すとされますので、城下町だった頃にこの通りには宮大工などが住んでいたのかもしれませんね。
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上原 御頭御社宮司社(下ノ御宮司神)

土着の神であるミシャグチ神を祀っています。

120m進むと甲州街道は大きく右へ曲がっていきます。曲がった先が上原城下町時代の「渋沢小路」、左手の上川へ向かう道が「備前坂」と呼ばれていた道でした。

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備前坂・渋沢小路

甲州街道を右へ曲がり、JRの線路を越えて道なりに進みますが、途中で右へ曲がり大門道へでて先ほど通り過ぎた「頼岳寺」へ寄って行きます。大門道を150mほど進むと頼岳寺の前へ至ります。

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頼岳寺

参道の右手には理昌院があります。往時は更に奥に「宗湖庵」がありましたが、今は移転しています。参道左手は「宗澤院跡」のようで、ここには現在、句碑や歌碑がたくさんあります。

理昌院

賴岳寺の末寺、賴岳寺十八世尊応教堂が開山。頼水の弟で二之丸家初代の諏訪頼雄(ヨリカツ)が開基、母(理昌院殿玉栄貞珠大姉)のために開創しました。はじめは上原城の二之丸曲輪(理昌院平)にありましたが、頼岳寺の創建とともに現在地へ移されました。

宗湖庵

頼水が父頼忠の位牌所として頼岳寺と一緒に創建しました。のちに代々頼岳寺住職の隠居所とされました。1828年(文政11) 頼岳寺境内より茅野村の千松庵(文政8廃寺)の跡へ移り、1946年(昭和21) 宗湖寺と改められました。前回、茅野で立ち寄った「宗湖寺」です。

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竹田凍湖句碑

『月涼し何れの草に枕せむ』

竹田東湖(1864~1926)はこの地の人で、郷土研究家、俳人、最初期の写真家として知られています。 句碑は1929年(昭和4)松涛会によって建立されたものです。

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鳥瞰図

賴岳寺の伽藍が1901年(明治34)の火災によって全焼する以前の姿を残しています。

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島木赤彦歌碑

『ひとつ蝉なきやみて 遠き蝉聞ゆ山門そとの赤松はやし』
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近藤雪山の句碑とレリーフ

『鶯の雲をとどむる高音哉』

どんな方なのか、全くわかりませんでした。

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芭蕉句碑

『名月や池を巡りて終夜』

1863年(文久3)甲府の俳人、鈴木空羅建立。
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宮坂一眠句碑・北澤敏郎歌碑

宮坂一眠 『若竹のみど 里雨滴を珠と抱く』

北澤敏郎 『いつ見ても飽くこともなき蓼科山女の神の山古里のやま』

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森山汀川歌碑・原天明句碑

森山汀川 『おのづから安住の地と寺山に鳥群がれるさまをしも言ふ』

原天明 『ゆく秋の水は己の音に澄む』

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賴岳寺

諏訪氏の菩提寺であった永明寺を破却後、高島藩初代藩主、諏訪賴水が1631年(寛永8) 白井(群馬県下仁田町)の雙林寺13世大通関徹を招き開山、諏訪氏の菩提寺として開基した寺院です。

初代住職は大通関徹でした。1859年(安政6)焼失しましたが再建され、現在の本堂とその後方の開山堂は1917年(大正6)建築です。庫裏は1902年(明治35)の建立。「賴」は「頼」の旧字です。

本堂左手から山中へ入っていくと左手に「鉄古塚古墳」があり、さらに上ると「諏訪家廟所」があります。廟所の右手からさらに上ると諏訪家墓所があり、その中に二の丸家の墓所もありました。

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鉄古塚古墳(鉄古稲荷社)

古墳の石室の中に稲荷神社が祀られています。鉄製武具(鉄甲)が出土したことから名がついたとも言われています。

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諏訪家廟所

御廟所は三室に分かれ、左が頼水(賴岳寺殿)、中央が父、頼忠(永明寺殿)の御廟所で五輪塔と宝篋印塔が安置され、その右が理昌院(頼忠室)です。 頼水廟の前には、頼水の子である賴郷、賴泰、賴孚や家臣が奉納した石灯籠が並びます。
後に二代藩主、忠恒が城下町上諏訪に新たに菩提寺を建立したため、以後の藩主の墓所は温泉寺へ移りました。

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諏訪家廟所

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亀姫の墓?

お寺の案内図には諏訪家墓所の右手に「亀姫の墓」となっていますが・・このお墓でしょうか・・ 亀姫とは先ほどの「永明寺事件」の諏訪頼水の末娘である亀姫だと思われるのですが・・
墓地の中をさらに少し上り、灯籠がたくさん並んでいる後ろに「諏訪頼雄」の古い墓石を見つけることができました。

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諏訪頼雄の墓

先程見てきた永明寺跡の墓地に新しい墓石がありましたが、そこから移設された墓石です。
賴岳寺をでてすぐ左手へ30m、右手の小路の角に小さな石祠があり、「遊女小路」と彫られた石碑があります。

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遊女小路の碑

お寺の横に遊女・・?と思いましたが、賴岳寺が創建したのは1631年(寛永8)、上原城の城下町時代には遊女が通っていた、あるいは置屋や遊郭が軒を並べた道だったということでしょう。上原城は1582年(天正10)に廃城になっています。
大門道を戻り、甲州街道へ進みます。大門道と甲州街道との追分に道標が3つあります。

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上原の道標

上原の甲州街道と大門道との追分にあたります。小さいものは「右江戸道 伊勢講供養 施主十人」と刻んであります。大きなものは「右江戸道」と刻んであります。灯籠は少し新しいもののようで、道標にもなっており、「右東京迄 左大門道」と刻んであります。
200mほど進むと右手の高台に「姫宮神社」があり、その先50m右手に「溝口永明翁碑」があります。この場所が生誕地なのかもしれません。

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溝口永明翁碑

江戸時代後期に活躍した四賀村の書家、「溝口永明」を顕彰する碑のようです。1783年(天明3)に生まれ、1813年(文化10)30歳のとき江戸へ出て書塾を開き、門人は300人に及んだといいます。特に篆書に優れていました。この顕彰碑は溝口厚によって1881年(明治14)建立。撰文は中村正直。
さらに100m進むと右手に「頼重院」があります。本堂左手へ回ると「頼重供養塔」「新田次郎惣の歌碑」があります。

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頼重院(らいじゅういん)

頼岳寺末寺、開基年は不詳ですが、甲州道中分間延絵図には記載があります。

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頼重供養塔

1542年(天文11)、諏訪頼重は武田信玄に攻められて桑原城に敗れ、甲府において自害しました。墓は東光寺(甲府市)にありますが、この地に菩提寺として頼重院が建立され、宝篋印塔が建立され供養したとされます。甲府東光寺の墓には諏訪頼重の胴体が葬られており、頼重院には首が葬られているといわれています。

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新田次郎の歌碑

『陽炎や頼重の無念ゆらゆらと』

新田次郎はNHK大河ドラマ『武田信玄』の原作にもなった、小説「武田信玄」の作者として知られ、その関係で歌碑が建立されているようです。
後ろに見えている岩は、諏訪頼重の怨念のために7つに割れてしまった石と言われています。

頼重院をでて、すぐ先右手の奥に「道祖神」がありました。さらに60mほど先の左手に小さな「神ノ木神社」があり、その先150mほどで「神戸一里塚跡」です。

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道祖神

このあたりは山裾の少し高い位置を歩くので、左手の家が途切れると抜けた景色が気持ちいいです。
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神ノ木神社

雑社、橡木様ともいいます。「祝詞段」に「神戸ニ鎮守若宮サンソンガウノ木ノ明神」と見られ、「ガウノ木ノ明神」が神ノ木神社と考えられています。 諏訪信仰の中には七木(桜湛木・檀湛木・峯湛木・柳湛木・橡湛木・檜湛木・木湛木)に対するものがあり、この神社もはじめは橡木そのものが神でしたが、その木に神が降臨する勧請木として信仰されたものと考えられています。

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神戸一里塚跡碑

エノキが植えられていたとされますが、塚は1879年(明治12)頃に取り壊されました。
しばらく進んでいくと左手に常夜灯があり、その横に遺徳碑があります。さらに進んでいくと消防団倉庫がある十字路に大きな諏訪大社の常夜灯と道標があります。

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常夜灯と遺徳碑

文字が読みづらく、どなたの頌徳碑なのかはわかりませんでしたが、「横川」という文字が読めます。調べた所「横川唐陽」という人が四賀神戸の出身ですが、年代的に違うようです。「桃李満門」、「塾」などが刻まれているのがわかりましたので、地元に貢献した教育者か指導者を称えたものであろうと思われます。1897年(明治30)建立。

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上桑原道標

道標には『左 江戸みち 右 大明神江』と彫られているようです。
この十字路を右へ曲がり上っていくと「仏法紹隆寺」へと至るのですが、寄るのを忘れてしまいました。

仏法紹隆寺

807年(大同2)坂上田村麿が開基となり、諏訪上社の別当地として「慈眼寺」と称したとされます。弘仁年間(810~823)弘法大師空海は、上社神宮寺を真言流布の根本道場とし、慈眼寺を学問道場にしたと伝えられます。その後、幾多の盛衰があり1352年(文和元)に俊海法印が再興しました。 1560年(永禄3)大祝邸の跡へ移り、寺の横を別沢川が流れていることから山号としました。 天正年中(1573~92)10世住職専朝は紀州根来寺の学頭となり、仏法紹隆寺と称するようになったとされます。 1583年(天正11)諏訪家永代の祈願所となります。1868年(明治元)年の神仏分離令の際、諏訪上社神宮寺から山門や普賢堂本尊の普賢菩薩像などが移されました。

上桑原道標から進んでいきます。右手の山頂はかつて「桑原城」と呼ばれた山城でした。さらに進むと右手に「足長神社」へ至る参道があります。

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桑原城跡

鷹戸屋城・水晶城・矢竹城ともいい、上桑原の北方の山上にあり、諏訪氏の重要な山城の一つでした。築城年代は不明ですが、「守矢頼真書留」によれば、1542年(天文11)武田晴信が諏訪頼重を上原城に攻め、頼重は桑原城に走りましたが、2日後に降伏開城しました。

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足長神社

諏訪上社の末社で、上桑原の産土神です。創建年は不詳です。

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武者幟とこいのぼり

明日は5月5日、男の子の成長を願う「端午の節句」ですね。こうした本格的な武者幟は最近なかなか見られないですね。なんだか嬉しくなります。

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双体道祖神

石の石室の中に古い双体道祖神が祀られています。石室の後ろには秋葉山の石塔もありました。

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石仏群

160mほど進むと川の縁に双体道祖神が2体と灯籠の竿がありました。さらに100mほど進むと右手に「岩久保観音堂」への入口があり、石仏が並んでいます。
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岩久保観音堂

普門寺山崎の丘上にある岩久保観音堂は、万福寺との関係が深く、本尊は馬頭観音です。元々は岩窪の中にあったので岩窪観音とされ、寛政時代(1789~1801)の頃に遷座したとされます。

岩久保観音堂から500mほど進み、右手の武津公民館の前に近年の双体道祖神と秋葉山の石碑、道祖神の裏のほうに「こんぼった石」と呼ばれる白っぽい大きな石があります。

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こんぼった石

昔この付近が湖水であった頃には「鷹津」と呼ばれる入り江でした。その後「竹津」と呼ばれいつの間にか「武津」と呼ぶようになりました。

漁に出た親の帰りを待つ子供たちが、青草で石をつきつき遊んでいたとされ、「こんぼった石」と呼ばれ親しまれていたとされます。また、案内板には漁に出た時の「舫石(もやいいし)」としたとも書かれています。舟をつないでおく石です。現在よりも30mほど山の手にあったとされます。往時、諏訪湖の水がすぐ傍まできていたということですね。

さらに400m進むと国道20号と合流します。国道を300m、清水1・2丁目交差点右手に「清水町」と書かれた湧水があります。さらに秋葉神社へ向けて坂道を上っていきます。

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清水町の湧水

一般の人に供水した施設で、上流の秋葉神社から引水されているものです。秋葉神社の明治天皇御前水から殿様御前水、清水町の湧水へと導水されています。

絵図では甲州街道から秋葉宮へ通じる小路を描いていますが、地元ではこの道を「秋葉小路」と呼び、その入口にあります。郡中法度では、ここから片羽の一里塚まで小荷駄馬にのって通ることが禁止されています。

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殿様御前水

水の出口が鯉になっていて面白いです。
天保の頃と思われる清水町関係の「覚之書」に「文化年中諏訪稲葉守(因幡守)様御在城の節は御前水御用立候事に依て」云々の記載、また1830年(天保12)の文書「御前水保護のため秋葉山持畑御永引願上」などがあります。

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明治天皇御前水

300年ほど前から各種古文書に名が見られます。「清水町」という町名の起源となった湧水で、4箇所の出水口があります。 明治天皇御前水は、1868年(明治13)明治天皇御巡幸にて柳口の高島学校に御宿泊の際、御用立てしたものです。公民館北にはかつて簡易水道として使用した水源があります。
ですが、この「明治天皇御前水」はほとんど水がでていません。殿様御前水など下のほうは出ているのですが・・

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秋葉神社

由緒などは不詳です。崖に食い込ませたように祠が作られています。

坂を下り甲州街道へ戻り、300mほど進むと右手に赤い鳥居がある小さな路地があります。「角間天神社」への入口です。

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天神小路

角間天神社の参道を「天神小路」と呼んでいるようです。

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角間天神社

1841年(天保12) 角間東小路(現天神小路)に北野天満宮を阿倍炳学清斎が勧請しました。1874年(明治7)社殿を造立し、石灯籠は1848年(嘉永元)に奉納されています。

角間天神社からさらに奥に進み、突き当りの右手が「島木赤彦生誕地」です。

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島木赤彦生誕地・良寛様童謡碑

アララギ派歌人、島木赤彦(久保田俊彦)が1876年(明治9)塚原浅芽の四男として生まれた場所です。 1955年(昭和30)に公園となり、自作自筆の童謡を刻んだ石碑が1956年(昭和31)に建立されました。
甲州街道へ戻るとすぐ左手に「宮坂醸造」があります。古い建物の先には新しい店舗が建てられており、観光客が訪れています。

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宮坂醸造

清酒「真澄」で知られる宮坂醸造です。1662年(寛文2)創業で、現在の建物は明治末期の建築とされます。

宮坂醸造のショップ前の二股のところが「十王堂跡」です。十王堂跡の右手の細道は往時から存在し、「裏町通り」と呼ばれていました。

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十王堂跡

初代高島藩主、諏訪頼水には亀姫という末娘おり、家臣の小澤家へと嫁ぎました。ある日、亀姫が城へ書状を届けるよう下男へ頼んだ所、隣の下男に手紙を奪われ衣ノ渡川に捨ててしまいました。諏訪家に追われた下男は永明寺へ駆け込み命乞いをしました。頼水はその下男を渡すよう寺僧に命じましたが、寺を焼き払い、その者の首を刎ね、槍の穂先に貫き、この場所に捨てました。祟を恐れた村の者たちが十王像を祀り、堂を建て供養したと伝えられています。

1764年(明和元)堂が老朽化したため、門間の名工、初代立川和四郎富棟が建て替えました。1603年(享和3)高国寺裏手より出火した火災(天狗火事)によって焼失、間もなく再建され、明治の神仏分離令により廃され、十王像は唐沢山阿弥陀寺の観月堂に移され、内陣は岩屋堂として移築されました。
貞松院へ寄り道していくため、「裏町通り」を進んでいきます。門間川を渡り、200mほどで「貞松院」へ到着します。貞松院には「世外句碑」、「貞松院殿御墓所」、「頼忠息女墓・諏訪頼雄夫人墓」、「徳本上人名号碑」、「井手家墓所」、「松平忠輝墓所」があります。

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貞松院

古くは慈雲院として片羽山上に創建されましたが、1593年(文禄2)に僧無哲が開山し、現在地へ移しました。2代藩主諏訪忠恒の母の菩提寺となり、貞松院と改称しました。

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世外句碑

『眼をとちて見る月に 雲無かりけり』

1845年(弘化2)諏訪市門間町生まれ、本名は山田源次郎、岩波基残の門人です。明治・大正の諏訪を代表する旧派俳人の一人です。1925年(大正14)に傘仔寿記念と河合曽良200年忌を兼ねて正願寺に句碑が建立されました。世外は1929年(昭和4)に亡くなっています。

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貞松院殿御墓所

岡崎城大守本多康重息女。1583年(天正11)家康の勧めにより、高島藩初代、頼水の夫人となり、1645年(正保2)没。その息子、二代藩主、忠恒は貞松院を大修復し、母を中興開基として寺領や広大な山林を寄進しました。元は「慈雲寺」と称しましたが、この時から貞松院としました。
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頼忠息女墓・諏訪頼雄夫人墓

初代諏訪藩主、諏訪頼水の父が頼忠なので、「息女」ということは、頼水の兄妹ということでしょうか。 諏訪頼水の弟で高島藩家老だったのが、諏訪頼雄でした。諏訪頼雄の墓は現在、頼岳寺にありましたが、こちらには夫人のお墓がありました。

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徳本上人名号碑

徳本上人は、1816年(文化13)春から秋にかけて信州全域を巡錫、7月より約1ヶ月間貞松院へ滞在し、多くの人々を教化しました。この名号碑はこの時に建立されました。

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井手家墓所

家康の侍医であった片山宗哲は徳川家康の怒りをかい、諏訪へ配流されました。

家康が没した後、宗哲は赦免され江戸ヘ帰参しましたが、その際に諏訪頼水は片山家で信頼できる医師を残してほしいと懇願し、宗哲が推挙した医師が甥の井手宗順でした。2代苔庵、4代宗順は泰庵ともいい、8代苔庵は蘭学を重んじました。井手家は幕末まで藩医を続けました。

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松平忠輝墓所

徳川家康の六男で、1592年(文禄元)江戸城において出生しました。母は茶阿の方、11歳で上総介(上総国、国司次官)に任じられ、14歳で将軍名代として大阪城を訪れています。

15歳で伊達正宗の娘、五郎八姫と結婚しました。
1610年(慶長15)、19歳で越後高田城主となりましたが、1616年(元和2)家康や秀忠との確執から改易、追放されました。各地を転々とし、1626年(寛永3)上諏訪の諏訪因幡守頼永に預けられ、諏訪高島城南之丸で、1683年(天和3)93歳で没しました。

貞松院の門をでます。貞松院の左手が「高国寺」です。北側の「法光寺」へより、さらに北側の「正願寺」へ。正願寺の墓地には河合曽良の墓碑があります。

高国寺は、慶長年間(1596~1615)下諏訪町高木に建立されました。1665年(寛文5)3代藩主、諏訪忠晴が実母の永高院のために現在地へ再興したとされます。永高院の遺品、忠晴の「八才竜女」「西王母」などの絵を所蔵しています。

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法光寺

上原城の城下町には、鎌倉五山になぞられて上原五山(永明寺・金剛寺・光明寺・法明寺・極楽寺)といわれる寺院がありました。後に法明寺光明寺合併し、法光寺となりました。
上原城が武田氏に侵攻され、天正年間に日野根織部正が高島城を築城するため、、1592年(文禄元)手長神社の下、現在の長野地方裁判所諏訪支部の場所にに移しましたが、1633年(寛永10)に全焼しました。その後、1645年(正保2)現在地に再建されました。

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正願寺

草創は明らかではありませんが、中興開基は岌往(きゅうおう)です。境内の墓地には河合曽良墓碑、新田次郎の墓碑があり、寺宝として銅灯篭があります。

本堂の左手に「河合曽良の銅像と句碑」があり、そのまま裏の墓地へ進むと本堂の後ろあたりに墓碑があります。

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河合曽良の銅像と句碑

銅像横の説明石には句も添えてあり、「松島や 鶴に身を借れ ほととぎす」と辞世の句とされる「春にわれ 乞食やめても 筑紫か奈」の二句が刻まれています。 句碑には『ゑりわ里て古き住家の月見かな』が刻まれています。

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河合曽良の墓

無くなった場所である壱岐の勝本に立派なお墓がありますが、この墓には遺髪が納められているそうです。

河合曽良

1649年(慶安2)諏訪下桑原高野七兵衛を父として出生。1689年(元禄2)江戸深川から松尾芭蕉と共に東北、北陸を巡り、岐阜大垣までの約5ヶ月間、全行程600里(2356km)の旅を踏破します。この行程が「奥の細道」です。奥の細道行脚では「奥の細道随行日記」を記し、芭蕉の記録の不備を補う重要な資料を残しました。晩年は幕府の巡見使として九州壱岐勝本に渡りますが、その地にて病に倒れ、1710年(宝永7)62歳で亡くなります。

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温泉!!

正願寺の境内にチョロチョロ出ている水がありました。なんだか硫黄の匂いがするなぁ・・と触ってみるとあっつ!!温泉でした。敷地内に温泉があるなんて、羨ましい!!

上諏訪の湯

天野信景の随筆「塩尻」に「下諏訪ニ温泉三ケ所、上諏訪二四ケ所アリ、此所ノ人ハ湯アミ衣洗フ、湖中ニモ温泉出ル、ソノ所ハ氷ラズ」とあり、上諏訪の4か所とは蒸湯(虫湯)、精進湯、小和田平湯、湯之脇平湯を指します。

頼重院には新田次郎の歌碑がありましたが、正願寺には墓石があります。門間川を挟んだ東側にも正願寺の墓地があります。山門を正面に見て右手へ曲がると小さな橋があるので渡ると東側の墓地へ行くことができます。川沿いを北へ上っていくと角間川保育園との境界近くに大きな自然石の墓石がありました。

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新田次郎の墓碑

墓碑には『春風や次郎の夢のまだつづく』と句が彫られています。新田次郎は中央気象台に勤めながら執筆をした異色の作家でした。当時世界最大の気象レーダーを富士山頂に建設し、登山家としても知られ、山岳小説家とも言われました。1980年(昭和55)心筋梗塞により、71歳で亡くなりました。
甲州街道へ戻り、今度は甲州街道から左手へ入っていきます。100mほど正面に「八劔神社」があり、その左手に「甲立寺」があります。

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八劔神社(諏訪大社上社摂社)

もとは高島村にありましたが、1590年(天正18)高島城築城に際して、城内にあったに八劔神社を現在地へ移しました。鎌倉時代の「十三所造営」の中に社名が見られます。初代高島藩主、諏訪頼水を初め歴代の藩主が崇拝しています。江戸時代の末までは、諏訪神社の夫島権祝が神官として仕えていました。諏訪湖の御神渡の拝観という神事を守り伝えてきた神社です。

拝殿は1848年(嘉永元)に上棟したもので、彫刻は立川専四郎富種の手によるものとされます。

諏訪湖の「御神渡」

「諏訪の七不思議」の第一に挙げられています。 諏訪湖の全面凍結によって氷に亀裂が入り、せり上がる現象で、これを諏訪明神が水の上を上社から下社へ渡ったものと理解されてきました。御渡りができれば、氷上を人馬が渡っても危険ではないとされてきました。この結果は中世より諏訪大社の大祝を通じて幕府へ報告されていました。1683年(天和3)以降の御渡拝観の記録である「御渡り帳」が伝わっています。現在まで続いていますが、2018年以降は凍結しないため幻となっています。

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甲立寺

もとは高島にあり、八劔神社の別当地でした。武田信玄が再興し日根野高吉によって現在地へ移され、代々高島藩主の祈願所として帰依を受けたお寺です。

甲州街道へ戻ります。100mほど進むと「鍵手」という交差点ですが、少しくねっと道が曲がっています。かつての「鍵手」がなんとなく残っています。左手へ入っていくと「教念寺」です。土蔵造りの建物や古い建物がところどころに残っています。

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上諏訪町道路元標

さらに300mほど進むと右手の駐車場の前に「上諏訪町道路元標」がありました。この駐車場が往時は「上諏訪宿本陣・問屋」でした。

上諏訪宿

1590年(天正18)に入部した日根野高吉は翌年城地をみたて、1592年(文禄元)高島城の普請を開始しました。それに伴って城下町づくりがなされ、寛永年代(1624~44)の初め頃までに出来上がったようです。

鎌倉街道は下桑原の北の丘陵地を通っていましたが、城下町の形成とともに街道が整備されてきました。 上諏訪宿は上町・中町・桑原町に分けられており、家数は232軒、人口973人、本陣は中町に1軒、脇本陣はなく、旅籠14軒、問屋1軒がありました。問屋は街道の左手にあり、五右衛門が代々務めていましたが、1654年(承応3)一家8名が自死し、断絶しました。その後に日根野氏の家臣、保延(メカノブ)ニ兵衛が命じられ、問屋場を中町へ移しました。同年末には小平八右衛門が本陣・問屋を命じられ、以降幕末まで小平氏が務めました。

明治以後は、諏訪郡役所が置かれていました。

駐車場の隣の路地は「精進湯小路」といわれ、現在精進湯はなくなり、ポケットパークとなっており、温泉がでています。

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精進湯跡

1756年(宝暦6)高島藩士の記した「諏訪かのこ」には精進湯は「市中にあり、日夜ゆあみの者たえず、工匠、賈人鬱を散じ、樵(きこり)翁農夫労を解く」とあるように、一般庶民の湯でした。 近くにある手長神社へ参拝する前に入浴したことから名がついたとされます。
近代以降は1925年(大正14)に精進湯組合が設立され、共同浴場として運用され、1978年(昭和53)からは諏訪市の市営浴場として運営されてきましたが、利用者の減少、施設の老朽化などにより2017年(平成29)に幕を閉じました。 精進湯に祀られていた湯殿社(お湯泉様)は手長神社境内に移されています。精進湯の跡地は小さな公園に整備されています。

すぐ先に大正レトロな建物があったので写真に収めましたが、実は名家ということが後にわかりました。

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三村貴金属店

1626年(寛永3)徳川家康の六男・松平忠輝が諏訪へ流された際、家老として帯同していたのが三村家でした。

明治になると三村家は宮大工・立川流の系譜である昌三郎を養子に迎えます。昌三郎は、鍛金で才能を開花し、現在の「日展」で入選作家になるほどの腕となっていきます。
1907年(明治40)に三村貴金属店の前身となる三村製作所を開業。金属製品の製作を行うようになります。1919年(大正8)当時の皇太子殿下(後の昭和天皇)に献上したタバコ入れをはじめ、花瓶や水差し、香炉など、昌三郎はさまざまな作品を手がけていたそうです

大正レトロな建物は1928年(昭和3)の建築とのことです。登録有形文化財に指定されています。

さらに100m、諏訪一丁目交差点の右前角に「虫湯」がありましたが、現在はマンションになっています。

虫湯跡碑

以前は、交差点角に八十二銀行があり、その前に「虫湯跡碑」がありましたが、マンションに建て替えられた際に撤去されたようです。歩道上に移せば良かったと思いますが、石碑を捨てることはないと思います。ちょっとひどいですね。

虫湯は藩主や藩士の入浴する湯で、虫湯守という役がおかれ管理していました。藩主はここで入浴してから菩提寺の温泉寺を参詣することが多かったとされます。上下の浴室があり、下湯が女湯でした。

上諏訪温泉の歴史

上諏訪温泉に関する最も古い記録は、1237年(嘉禎3)に成立されたという「祝詞段」という資料で、当時の上諏訪富にあった神社の名前を列挙した中に「湯ノウ権現」というお宮が登場します。また、1443年(嘉吉3)の諏訪湖の御神渡りを記録した「当社神幸記」には「平湯渡」とでてきます。正確な場所は不明ですが、恐らく現在の諏訪市湯の脇付近にあったものとされ、少なくとも鎌倉時代には何らかの温泉の存在が知られていたとされます。また、市内湧出地や湧出跡から縄文土器が発見された例があり、その歴史はもっと古いという説もあります。

虫湯跡前で右へ曲がります。次の丁字路の右手歩道に「諏訪藩主来訪公拝領従地」と彫られた古い石碑と石祠、手水がありました。

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諏訪藩主来訪公拝領従地碑

高島藩主、諏訪家が特定の土地を拝領した際に建てられた記念碑と考えられます。現在駐車場となっている奥の部分は2023年までは土蔵があり、その裏にこの石碑があったようです。2024年、建物を取り壊し、駐車場にした時に現在地へ移したもののようです。
この石碑の丁字路で左手からきた「裏町通り」と合流します。甲州街道は丁字路を左へ曲がります。200m右手に「吉田のマツ」と書かれた案内板があります。

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吉田のマツ

高島藩士、吉田式部左衛門が1690年(元禄3)から1723年(享保8)藩主忠虎の大阪城守備に随行した際に持ち帰ったものと伝えられます。代々吉田家の庭園に育てられたものを昭和の初めに甲州街道沿いに移植したものであり、諏訪市内で最年長樹です。
本日はここまで。吉田のマツのところで左へ曲がり、「上諏訪駅」へ向かいます。

16:00 上諏訪駅到着。駅の中を通り西口へむかい、車をピックアップし帰宅します。 ぽかぽか陽気の中で、楽しく歩けました。歴史が古くお寺や城下町も多いこの区間は、寄り道も多くなり時間がかかってしまいましたが、楽しい一日でした。