2022年10月1日
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笹子駅にも今日のゴールの甲斐大和駅にもコインパーキングがなさそうなので、塩山駅前のコインパーキングに駐車し、中央線で笹子駅までやってきました。
7:25 笹子駅から出発します。いよいよ甲州街道、最大の難所、
「笹子峠越え」。今日は快晴で気持ち良いお天気です。笹子駅から国道となっている甲州街道へでます。
旧道と笹子川
右手側の歩道を進むと中央線の下を小さなトンネルでくぐると150mほど旧道が残っていますが、すぐに国道へ合流してしまいます。
さらに500mほどで左に「笠懸地蔵」があり、すぐ先左に「黒野田宿本陣」があります。
笠懸地蔵
1855年(安政2)建立のちょっと変わったお地蔵様です。お地蔵様なのかな〜?お相撲さんに見えるのですが。
黒野田宿本陣
天野家が務めていました。1880年(明治13)明治天皇山梨巡幸の際には行在所となりました。
黒野田の甲州一揆
1836年(天保7)は大飢饉で、1年半の間に家数91軒から42軒が絶え、人口400名のうち死者49名、物乞いとなった者12名。大規模な一揆も起こりました。
名主で問屋を兼ねていた「泰順」は眼科医でしたが、囲碁、弓に長け知識も豊富、人望があり、甲州一揆では指導者的な立場となっていました。泰順は14か条の「連判評定の事」を起草し、暴力主義を戒め、統一行動を示しました。直接一揆には加わりませんでしたが、指導したことにより中追放の刑に処せられています。
中追放とは、重追放と軽追放の中間で、田畑・屋敷没収、一定の地域より追放されることです。
本陣から100mほど進み黒野田橋の手前、左手の住宅前に「秋葉常夜灯」がありました。
秋葉常夜灯
1854年(嘉永7)の銘がある常夜灯だけがぽつんとありました。分間延絵図で確認しましたが、特にお寺や神社があったということはないようですね。
黒野田橋
笹子川に架かる橋です。往時は「宿上橋土橋」と書かれています。
黒野田宿
1843年(天保14)の記録では本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠14軒、本陣西隣に問屋1軒があったとされます。脇本陣は、本陣の向かいあたりでした。白野・阿弥陀海道宿との合宿であり、1日〜15日を黒野田宿で継立を行っていました。
黒野田橋を渡ると正面にあるのが「普明院」です。門前に「黒野田の一里塚跡」の標柱がありました。
黒野田の一里塚跡・番所跡
番所が設置された年代は不明ですが、1555年(天文24)の領主、小山田信有が佐藤又七郎の通行手形に「はつかり口役所」とあるのがこの番所であったとされます。1705年(宝永2)までは存在したようですが、間もなく廃止されたようです。
黒野田の一里塚は甲州道中分間延絵図には北側のみが描かれ、南塚はなかったようです。
普明院
桂林寺を引退した竺元道和尚が開山し、開基は遠州乾城主、天野宮内右衛門尉景連の子、景信で1582年(天正10)以後この地に居住し大旦那となり諸堂を建立したとされます。
本尊の
阿弥陀如来像は行基作といわれるもので、元は阿弥陀海道宿の「阿弥陀堂」にあったものだそうです。しかし、
「秘仏」とされているので、あるのか・・ないのか・・・?
普明院の境内には「芭蕉句碑」と「一休歌碑」がありました。
芭蕉句碑
『いくたびにいどころ変わるかたつむり』
一休歌碑
「正月は冥土の旅の一里塚 めでたくも有り めでたくも無し」
「有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)へ帰る一休み 雨ふらば降れ風ふかば吹け」
「一休」という名前の由来となった言葉だそうです。
身延参詣甲州道中膝栗毛「黒野田宿」
描かれているお寺は
「普明院」でしょうか。甲州道中分間延絵図を見ると普明院は街道から少し奥の小高い位置に描かれています。恐らく元は少し上ったところにあったのでしょう。中央高速道路の工事で麓に下りたのではないでしょうか・・・
普明院から130mほど進むと道路の下には中央線の笹子トンネル入口があります。上からでは見えないので、70mほど先の左手、道なのかどうか・・よくわからない砂利道を入り、坂を下って行くと線路脇に出ます。ここからはトンネルがよく見えました!
笹子トンネル
1903年(明治36)に開通しました。「因地利」の扁額は
伊藤博文の揮毫によるものです。甲斐大和駅側の揮毫は
山県有朋によるものです。
甲州街道へ戻り250m右手の坂道を中央高速道路へ向かい、上っていくと「笹子トンネル事故慰霊碑」がありますので、参詣して行きます。
笹子トンネル事故慰霊碑
中央高速道路、笹子トンネルが見える位置に慰霊碑が建立されています。笹子トンネルの天井板が落ちる痛ましい事故があったのは2012年(平成24)でした。
上ってきた坂道を下り、甲州街道へ戻ります。緩い坂道を150m、右手に「黒野田の石小屋」と呼ばれる石仏群があります。
黒野田の石小屋
大きな岩の上に馬頭観音など5基の石仏、下に大きな馬頭観音1基があります。大正や昭和の新しいものが多いです。国道整備の時に集められたのでしょうか。
150mほど進むと人家が増え、笹子追分集落へ入っていきます。笹子追分へ入る左手に石仏やレンガ造りの祠がありました。
庚申塔と馬頭観音、初めて見たレンガ造りの祠があります。なぜレンガで作ったのでしょうか。初狩には中央線トンネル敷設の際に大量のレンガを焼く施設があり、レンガ造りの立派な蔵もありましたね。この祠も余ったレンガで作ったのでしょうか・・・
笹子追分の常夜灯と石仏
常夜灯には1856年(安政3)と彫られています。
緩い上り坂の国道をどんどん上っていきます。400mほど左手に国道からそれる道を入って行きますが、その前に右手の「天野記念公園」へ寄っていきます。
天野記念公園
トイレがあるのですが、かなりひどいトイレです。ぼっとんですし、廃墟。使用できないトイレと思っておいたほうがいいでしょう。
天野久翁之像
天野久は、1892年(明治25)塩山市下於曽に生まれ、酒造業を修得。叔父の経営する大月市笹子の「笹一酒造」を継承、実業家として成功した後、1946年(昭和21)には衆議院議員に当選し、1951年(昭和26)には山梨県知事となり、数々の功績を残しました。1968年(昭和43)76歳で亡くなっています。
阿弥陀海道宿にあった「笹一酒造」ですね。
左手側道へ入るとすぐに小さな橋があり、笹子川を越えすぐ左手の未舗装の道へ入ります。
田畑の間の未舗装の道を進み、アスファルトの道とぶつかり左へ。
笹子追分にはこんな伝説が残っているそうです。
追分のトウモロコシ
昔追分に強欲な修験がおり、村人はその悪行に我慢ならず、トウモロコシの藁で落とし穴を作り修験を誘い出し穴に隠れて殺害。修験は「今後トウモロコシを作ったならば村を焼き払う」と言い残し死亡。村人は気にせずトウモロコシを作付けし、後に火事が起こります。これが3度続き、ようやく修験の言葉を信じ、以来トウモロコシを栽培する者はいなくなったといいます。
アスファルトの道を130mほど進んだ右手が笹子峠への入口になりますが、もう少し進み右手の大きな題目碑を見ます。
題目碑
この先あたりが「笹子追分人形」が継承されている集落です。
笹子追分人形の歴史
「追分の人形芝居」として山梨県の無形民族文化財に指定された伝統芸能です。18世紀頃、淡路よりこの地へ来た人形遣いにより伝えられ、以来住民により継承されてきました。
笹子峠入口
少し戻り、笹子峠入口から山道へ入っていきます。動物侵入防止用のフェンスがあり、扉を開けて中へ入っていきます。
しばらく緩い坂を上り、砂防堤の横を上るとちょっと開けた河原になっていました。笹子川の流れもちょろちょろで、子供が水遊びするのにちょうどいい感じですね。
急な斜面を上り切ると一旦、アスファルトの県道へでます。本来はこのまま笹子川沿いに行くはずですが、一部は廃道になっています。
県道のヘアピンカーブを上っていき、左手、案内板のある分かれ道から再び未舗装の旧道へ入っていきます。
中茶屋跡
案内板のある分かれ道から500mほど右手には古い石積みが3段築かれています。この平地に「中茶屋」があったようです。笹子峠の蕎麦飯は街道の名物だったといいます。
蕎麦飯
蕎麦の実を煮たものに飯をまぜ、蒸籠で蒸しあげたもので、醤油ベースの出汁をかけて食べることもあったようです。
この先に「明治天皇御野立所跡碑」が建立されており、その先の石積上に庚申塔がありました。
明治天皇御野立所跡
1880年(明治13)明治天皇山梨巡幸の際、この地にあった天野治兵衛家で野立をしました。
庚申塔
かなり壊れています。たくさんの石に支えられていますが、地震で倒れそう・・・
御野立所跡を過ぎると少し坂は急になってきますが、間もなく「矢立の杉」へ到着します。
矢立の杉
昔、武者が出陣にあたり矢をこの杉に打ち立てて武運を祈ったところから「矢立の杉」と呼ばれてきました。幹は高さ21.5mで折れ、中は空洞になっており洞内からは空が丸く見えるようですが、現在は入れないようになっています。
諸国道中金之草履「黒野田」
枠からはみ出している「矢立の杉」、その大きさがよく描かれています。
矢立の杉の休憩所
水場やお地蔵様、矢立の杉歌碑などがあり、反対側はデッキにテーブルベンチを備えた休憩所になっています。
諸国名所百景 「矢立の杉」
2代歌川広重が1859年(安政6)から1861年(文久元)にかけて描いたものです。
矢立の杉ゼンマイ式音声ガイド
杉良太郎の「矢立の杉」の歌詞が彫られた歌碑があり、隣にはゼンマイ式音声ガイドというものがありました。ハンドルをクルクル回すと「矢立の杉」の歌が流れます。歌を聞きながらしばらく休憩。3回位聞いてしまいました(笑)
矢立の杉の先もしばらくは笹子川の流れに沿って上っていき、ちょっと怖い仮設の橋を渡り、対岸へ。
両側が谷の尾根道を行きます。はっきりとした道ではありませんが、ところどころ樹木に印がついていますので、これを頼りに上っていきます。笹子川の源流はこのあたりになります。
甲州道中分間延絵図によると
「笹子峠矢立杉の一里塚」は笹子川の源流から少し下ったところに描かれています。今は何の痕跡もありませんので、詳細な場所は不明です。往時の木立は松であったとされます。
矢立の杉から450mほど進むと一旦車道へでます。車道へ出るときが急な下り坂で滑りそうでちょっと怖いです。慎重に下ります。
この付近は廃道になっていますので、アスファルトの道をくねくね進みます。しばらく進むと正面に「笹子隧道」が見えて来ます。旧甲州街道は隧道手前を右へ入っていきます。
笹子隧道
1938年(昭和13)開通、1998年(平成10)に登録有形文化財に指定されています。素敵な意匠です。
隧道手前を右へ曲がり再び山道へ入り、笹子峠はすぐそこです。
笹子峠
笹子峠は甲州街道のほぼ中間で標高は1096m、甲州街道随一の難所でした。峠には諏訪神社と天神社が祀られていました。広場には常時馬が20頭ほど繋がれていました。
古くは
「坂東山」とも称され
「吾妻鏡」には1213年(建保元)和田義盛の乱に加担して敗走した古郡左衛門尉保忠兄弟が「甲斐国坂東山波加利之東競石郷二本」で自害したと記されています。
また、笹子峠から先は
「甲州市」へ入り、数十メートル進むと「天神社」の小さな石祠があります。
甲州峠唄
あれに白いのはコブシの花か 峠三里は春がすみ うしろ見返りゃ今来た道は 林の中を見え隠れ 高くさえずる妻恋雲雀 おれも歌おうかあの歌を ここは何処だと馬子衆に問えば ここは甲州笹子道
1986年(昭和61)に作られたこの唄により旧道を復元しようとの気運が高まり、旧道が整備され歩行できる状態になったそうです。
笹子峠からほんの少し進むと「天神社」が祀られています。
天神社
江戸時代から笹子峠を往来する旅人の無事を願い、特に雷除けとして祀られた天神さまです。現在の石祠は1981年(昭和56)の再建、灯籠は1729年(享保14)の建立です。
笹子峠より下っていくとアスファルト道となる手前に「馬頭観音」がありました。
馬頭観音
上部が欠けており、台座の石の下は中空になってしまって・・いつ倒れるか・・ちょっと心配です。
笹子隧道からくる車道と合流し、すぐ向かいの峠道へ入っていきます。
道が不明瞭ですが、なんとなく下っていくと「甘酒茶屋跡」の標柱があります。
甘酒茶屋跡
江戸時代、笹子峠を往来する人々の憩いの場として甘酒などを商うお茶屋さんがあった場所です。
甘酒茶屋跡から少し下ると、旧道は通行できなくなっています。災害によるものなのか、災害防止のためなのかわかりませんが、砂防堰堤工事で通行できなくなっています。車道を通行し西へ向かうと再び旧道があり、ここを下っていきます。案内板もありますのでわかりやすいです。
砂防堰堤の西側を通行する道です。この砂防堰堤、丸太でできているの?とびっくりしましたが、型枠を間伐材で作っているようです。間伐材で作った型枠の中にコンクリートを流します。コンクリートが固まると通常は型枠を外しますが、間伐材を使用したものは丸太を残置させるようです。景観的にとってもいいですね。間伐材は自然に朽ちていくと思いますが、その頃にはコンクリートも古めかしくなり、目立たなくなると思いますし。新しいコンクリートは真っ白で山の中で目立ちますし。
このあたりは樹木についているカラーテープをたよりに進んでいきます。橋がある場所もありますが、橋がない川も石を足場に越えていきます。
しばらく下っていくと木製の案内柱が朽ちて転がっています。「馬頭観音」と書かれていました。どこにあるのかキョロキョロ。ようやく見つけたのは崖の上に佇む観音様でした。
馬頭観音
望遠でなんとか確認できました。さらに2分程度で「自害沢天明水」と書かれた案内板のある分かれ道へ。甲州街道は右へ行きます。
自害沢天明水分かれ道
「吾妻鏡」にある古郡左衛門尉保忠兄弟が自害したとされる沢なのでしょうか・・?
分かれ道から少し進むとつづら折れの道で下り300mほどで清水橋へ至ります。
清水橋
笹子峠道は1903年(明治36)当時、全国一の長さを誇った中央線笹子トンネルの開通、1958年(昭和33)には笹子有料道路新設により峠道を歩く旅人はいなくなりました。
笹子沢川
笹子峠から西へ流れている川です。鵜飼宿の先で日川へ流れ落ちています。
清水橋から先はアスファルトの車道となり、S字カーブが続きますが、往時は直線的に下っていったようです。
S字カーブを下ると右手に「桃の木茶屋跡」と書かれた標柱があります。
桃の木茶屋跡
甲州道中分間延絵図の「三軒茶屋」と書かれている場所でしょうか・・
桃の木茶屋跡からはひたすらアスファルトの道を下り、1.2kmほど進むと地理院地図には右手から旧甲州街道へ向かう道が書かれています。しかしほとんど道という感じではなく、樹林地を抜けて笹子沢川まででてみましたが、橋などはなく川を渡る術がありませんでした。地理院地図には結構太い道が描かれているのですが・・・
なんとか向こう側へ渡る場所はないかと探してみましたが無理ですね〜大人しくアスファルトの迂回路を通って行きます。
さらに1kmほど下っていくと天狗橋の手前右手に「津島大明神」が祀られています。
津島大明神
祭神は素戔嗚命、牛頭天王で、古来より駒飼宿の人々に信仰されています。現在の津島大明神のある場所に往時は「馬蹄石(駒飼石)」がありました。
馬蹄石(駒飼石)
高さ2.3mほどの大きな「馬蹄石(駒飼石)」と呼ばれる石がありました。聖徳太子が甲斐の黒駒を飼育した所といいます。享保年間の洪水で笹子川の水がこの石に塞がれ、崖が崩れたため多くの民家が被害を受けました。後に道路の妨げとなったため小さく切り、河防に使われてしまったそうです。
天狗橋
天狗橋を渡った右手に旧道が残っています。さきほど川を渡れなかったところがこことつながっていました。この日はスルーして進みましたが、後日、近くへ来た時に中へ入りどこまで行けるか確認してみました。
害獣よけのフェンスを入っていくと岩盤が崩壊して道が塞がれています。危険ですがこれを慎重に乗り越えて向こう側へ。しばらく進むと道が3つに分かれているように見えますが、真ん中の道が正しいです。
門扉から250mほどで「駒飼一里塚跡」の標柱がありました。
駒飼一里塚跡
往時、西側の塚しかなかったようです。
どこまで行けるかもう少し奥まで進んでみました。すると砂防堰堤にぶつかり、これ以上は道がありませんでした。
害獣避フェンスのすぐ先、右手に「芭蕉句碑」があり、駒飼宿へ入っていきます。
芭蕉句碑
『秣(まぐさ)負ふ人を栞の夏野哉 芭蕉』
右面に「駒飼石」と題し芭蕉の句が刻まれたものが建てられていましたが、1907年(明治40)の大出水により流出してしまいました。現在の句碑は再建されたものです。
駒飼宿
駒飼宿は幕領で、1843年(天保14)の記録では、本陣1軒、脇本陣1軒、本陣の南隣に問屋1軒、旅籠6軒、宿内家数64戸あったとされます。
宿場へ入っていくとすぐ左手にあるのが「駒飼宿脇本陣跡」、その3軒先の左手に「駒飼宿本陣跡」があり、本陣跡の向かいに大きな「萬霊塔」があります。
駒飼宿脇本陣跡
現在は空地になっています。
駒飼宿本陣跡・明治天皇小休所跡碑
駒飼宿は鶴瀬宿と合宿で、1ヶ月のうち21日〜31日までを駒飼宿が継立していました。
萬霊塔
萬霊塔横の細道を入っていくと「養真寺」があります。
養真寺
1597年(慶長2)の創建で、開山は台誉、本尊は子安地蔵です。
養真寺から甲州街道へ戻り、二股の道を左、坂道を下っていくと小さな橋が架けられています。
宿下土橋(現古道橋)
笹子沢川に架かる橋は甲州道中分間延絵図では「宿下土橋」、現在は「古道橋」と書かれています。
その先90mほど左手の石積みの上に小さな千手観音の石仏が枯れ葉に埋まるようにあります。
千手観音
平山庄司氏は区長を歴任され、区民の夢であった古道復活に尽力したとのことです。恐らく橋がなくなり、このあたりは一時期通行できなかったのでしょう。
中央高速道路の下を通り300m、左手に石仏や五輪塔が集められています。
石仏
かなり古いもので何が彫ってあるのか全く不明です。
200mほど下ると国道20号に合流します。甲州街道は交差点を左へ曲がりますが、本日はここまで。最寄りの甲斐大和駅へ向かうため、交差点を右へ曲がります。駅まで800mほどあり、ちょっと遠いですね。
15:00 甲斐大和駅着
JR中央線で塩山駅へ戻り車をピックアップして帰宅します。
甲州街道で最も難所と言われる
「笹子峠」、無事に越えることができました。お天気もよく旧道も整備され、沢を越えたり、とても楽しい道中でした。