2021年9月12日
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相模湖駅
10:00 相模湖駅東隣の駐車場に車を停めて出発します。駅前のロータリーを南へ、相模湖駅前交差点が甲州街道です。この付近はすでに「与瀬宿」の宿内だった場所です。交差点を右に折れ、与瀬宿中心部へ向かって進んでいきます。
交差点を直進して進めば、相模湖畔へ出られます。天気予報は晴れでしたが、どんよりしています。そのうち晴れてくるでしょう。
500m右手、枡形手前に与瀬宿本陣があります。
与瀬宿本陣跡
与瀬宿は小原宿と相宿で、下りの継送を与瀬宿が担当していました。
本陣は名主であり、問屋も兼ねて坂本氏が務めていました。坂本氏は甲斐武田氏の旧臣と伝えられ、代々名主を務めています。
与瀬宿の本陣は甲州街道では次の吉野宿と共に最も大きな本陣でした。奥にお屋敷がありますが、樹木や草が茂っておりよく見えませんでした。
与瀬宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠6軒がありました。
脇本陣は本陣の手前あたりです。駐車場になっている場所あたりでしょうか。
明治天皇小休所碑
1880年(明治13)には明治天皇巡幸の際に本陣で小休されました。
こちらも草が茂っており、よく見えない状況です。
本陣横の道が枡形となっており、右手に曲がり坂を登ります。すぐに与瀬神社と慈眼寺の入口があります。
霊随上人名号碑
与瀬神社、慈眼寺の街道に面した入口にある「南無阿弥陀仏」の名号碑は無量光寺第52代霊随上人のもので、高座郡から津久井郡にかけて広く分布しており、念仏信仰を広めて行ったそうです。
霊随上人の名号碑は100基を超えているそうで、
相模国の徳本上人といった感じですかね。また霊随上人は号を南謨として
俳人でもありました。
与瀬神社参道
与瀬神社fは、もとは「蔵王権現社」と呼ばれていました。中央自動車道が開通したため参道が削られ、新たに高速道路の上に参道が造られています。
参道下を走る中央自動車道
中央自動車道を通ると下からこの階段をよく目にしていました。
参道を登ると相模湖が眼下に。相模湖周辺は、相模湖ができる以前は美しい渓谷でした。昭和22年に対岸の日連(ひづれ)を中心として相模湖が造られました。
慈眼寺と与瀬神社鳥居
新編相模国風土記稿に描かれた慈眼寺と与瀬神社
与瀬神社参道
4月の祭礼では「ヤョーヤョー」の掛け声で神輿が急な階段を担ぎ下ろされる迫力は見ものといいます。
灯籠には「香具商人中」と彫られています。香具商は露天商や的屋のような商売です。この参道で露天を出していたのでしょう。
与瀬神社拝殿
創建は明らかではありませんが、もとは相模川のほとりに遷座し、1682年(天和2)現在地へ移りました。元禄年間に社殿、境内地が整いましたが、明治37年の大火により焼失してしまいます。本殿は大正3年の再建、拝殿は昭和24年に再建されています。
御供岩とヤヨ・キヨ伝承
その昔、この里に「ヤヨ」と「キヨ」という二人の若者がおりました。相模川で漁をしていると、網の中に御神体がかかりました。二人は恐れ尊みて村の中段に祠を造り祀りました。しかしその後、里に疫病が流行り又火災も度々起こり、これは御神体を不浄の地に祀ったためだと思い、現在の与瀬神社に安置したところ災難は収まり、以後霊験あらたかな神として参詣人が、引きもきらなかったと言います。この「ヤヨ」「キヨ」の子孫は現在も精進衆と呼ばれ祭事に奉仕しているそうです。
相模川にあった
「御供岩」は二人が御神体を上げて二瀬越という川辺岩にのせたところから、名がついたと言われます。与瀬神社の例大祭にはこの「御供岩」でも神事が行われていましたが、相模湖の築造により湖底になるので現在地に移し、現在は湖畔に岩があります。
与瀬神社天井絵馬
拝殿右手の絵馬堂2階の天井にはたくさんの絵馬がありました。
与瀬神社から明王峠、陣場山まで登山道がつながっているようですね。
与瀬神社拝殿から右手の坂道を下ると左手に「与瀬小唄歌碑」がありました。
与瀬小唄歌碑
「陣場夕焼け 小佛日暮れ あの灯恋しいよせのまち 与瀬の町」
昭和6年春、白鳥省吾、加藤武雄、諸星一三、山下一平の連作によって「与瀬小唄」が誕生しました。そして昭和46年、村田英雄の「相模湖音頭」と共にレコード化、島倉千代子さんが歌われました。
さらに坂道を下り、
慈眼寺まで下りてきました。
慈眼寺本堂
1600年(慶長5)、頼源の開山、蔵王権現社(与瀬神社)の別当地であり、「虫ふうじの寺」として有名でした。
神仏合併当時、住職が手甲・脚絆(旅のときに手足に巻いてる布)に草鞋姿で
虫止め加持の秘宝を多摩・相模原・川崎・横浜を中心として伝えて行脚し、その遺業が後世に実を結び、その名声は関東一円まで及び大変賑わったといいます。
虫ふうじ
幼児が消化不良や寄生虫を宿したりして身体が弱くきげんが悪い場合、「虫がおこる」などといい、また夜泣きや夜寝ない、すぐに機嫌が悪くなってしまう幼児には「疳の虫がついた」などとも言われ、これを封じるご祈願や御札で虫を封じていました。
上ってきた参道を下り、甲州街道へ戻り再び進んでいきます。
270mほど進むと中央自動車道で旧道が分断されていますが、もとの旧道へつながるように小道が付けられています。国道へは下りずに中央自動車道の橋桁に沿うように進みます。
やがて旧道は未舗装となり、すぐ左手斜面下には国道20号が走ります。150mほど進むとヘアピンカーブがあり、道標らしき石碑がありました。
今熊大権現の道標
正面に「今熊大権現」、右横に「従是今熊山入」と彫られています。左横には「安政」と読めますので、安政年間の建立のようです。
道標から先の道はゲートがあり、車両は入っていけませんが登山道としては利用できるようです。今熊大権現とはどこにあるのか・・・なんと八王子、それもあきる野市に近い場所です。陣場山よりもさらに北にあり、直線距離では10kmほどですが、ずっと山道です。往時はこの先が参詣の道だったようです。
ヘアピンカーブを曲がり、国道へ向かってほんの30mくらい右手に沢に下りる道があります。最初は気づかずに通り過ぎましたが、道が見つからず・・うろうろ探してやっとわかりました。
貝沢へ下りる入口
朽ちかけた木杭にビニールテープが貼られ、「光の音・尾根ルート」と書いてあります。ここからジグザグに貝沢へ下りていきます。
貝沢は眺望がよく、旅人が休息を取ったところと言われています。
貝沢
1本丸太の橋?がありますが・・細すぎて橋にはできません。石の上を滑らないかドキドキしながら渡りました。1本丸太は手すりとして使用(笑)。対岸に渡るとほとんど垂直のような斜面を木の根につかまりながらなんとか登りました。
樹木に巻きつけた案内板には「ハイキングコース→」と書いてありますが、矢印とは反対側、左手へ進みます。雑草が鬱蒼とし、荒れていましたが、なんとか歩けました。
与瀬の一里塚跡
ようやく開けた場所にでて、ここが一里塚跡です。木の標柱がありました。甲州街道分間延絵図には記載がないのですが・・・
与瀬の一里塚跡から続く坂を「塚場坂」といいますが、塚場坂を登って200m、現代の案内板がありました。なぜ、わかりにくい貝沢に案内板を出さず、このわかりやすいところに出しているのでしょうか。
「横道」から見た相模湖
相模湖は、相模川の治水と発電、工業、飲用、灌漑用水の必要から神奈川県初の人造湖として昭和15年に着工、水没した家屋は136戸に及び、勝瀬集落は湖底に沈みました。住民は海老名へ移住したとされます。
さらに200m右手に石仏群、秋葉社の鳥居が見えます。
福寿院跡?
甲州街道分間延絵図には横町と十二天之宮のちょうど真中あたりの街道北側に「福寿院」が描かれており、場所的に合致します。恐らくこの場所が福寿院であったと思われます。福寿院は1617年(天和3)に没した頼長が開山したとされ、千木良村善勝寺末寺でした。
左から2番目の名号碑は、慈眼寺前にもあった霊随上人の名号碑です。
橋沢土橋の急カーブを曲がると右手に「十二天之宮」があります。
十二天之宮
甲州街道分間延絵図にも描かれており、古くからあるお社です。農民持ちの社であったとされます。一番左の名号碑も霊随上人のものです。
お社はだいぶ傾いており、倒れそうで心配です。
橋沢の馬頭観音
十二天之宮から150mほど左手、住宅横に「馬頭観音」があります。
道祖神
静かな道をさらに300m、大橋土橋を渡ると街道は左に折れます。その不規則な五差路の正面に明治時代の小さな「文字道祖神」があります。
赤坂
五叉路を左に曲がり、道なりに坂道を下っていき中央高速道路の上を抜け、しばらく行くと右手に「赤坂」と書かれた案内板があります。ここから古道が150mほど残っています。
古道
未舗装の道からアスファルト舗装の道に出るとすぐ左手に「観福寺」があります。
観福寺
1522年(大永2)空尊開山、本尊は江戸中期の千手観音菩薩立像とのことです。
観福寺から南へ下り、60m右手に沢を越える道がありますので、入っていきます。
沢からアスファルト舗装の道へ抜けるとすぐ右手の斜面に石仏群があるとのことですが・・・
二十三夜塔・蚕影山石仏群
笹が茂り、よく見えません。かろうじて1基のみちらりと見える程度です。ここには二十三夜塔・蚕影山の他に「光明真言供養塔」、文政6年の霊随上人「南無阿弥陀仏」の名号碑などが並んでいるということです。
さらに坂を下って500m右手に「高札場跡」と「六地蔵」が並んでいます。
高札場跡・六地蔵
高札場の向かいには学制以前までは「学習舎」があったとされます。
六地蔵はほとんどが首が無くなったようで、あとから付け替えられたようですが・・トホホ・・というようなちょっと面白いお顔でした。
二瀬越
対岸の日連(ひづれ)と与瀬間には
2つの相模川の渡しがあったとされ、1つは与瀬宿から勝瀬を結ぶ
「勝瀬渡」、吉野宿から日連村勝瀬集落に至る渡しを
「丹田の渡」といいました。この2つは
「二瀬越」と呼ばれ街道の間道としてまた、南相への要路でした。勝瀬から南下する道は
鎌倉街道で、相模国を縦断、愛甲、高座を経て東海道藤沢宿へと至ります。
高札場跡を過ぎるとすぐに国道へぶつかります。国道を右へ曲がり「吉野宿」へ入っていきます。120mほど左手に「吉野宿ふじや」、右手に「吉野宿本陣跡」があります。
吉野宿ふじや
旅籠「ふじや」として営業していましたが、明治29年の大火で焼失、直後の1897年(明治30)に再建、再建後は農業に専念し、2階は蚕室となっていました。
相模川側の石積みには1846年(弘化3)の刻銘があるそうです。
平成3年より郷土資料館として開放しています。
吉野宿本陣跡
1876年(明治9)、木造、五層楼の異色の建物が完成し、1880年(明治13)には明治天皇巡幸の際には本陣2階で昼食をとられました。
1896年(明治29)吉野宿の大火で五層楼の本陣は焼失してしまいました。現在残っている土蔵だけが大火で唯一残った建物でした。この土蔵は国道の整備工事のため曳家で現在地に移動しています。
五層楼の頃の本陣建物
本陣は、名主である吉野氏が務め、与瀬宿本陣とともに甲州街道最大規模の本陣でした。吉野氏は1221年の承久の乱の時に天皇家へ従い宇治勢田で北条義時を討ちましたが、戦いに破れたため故郷を去り、この地に住み着いたとされます。
その先65m右手が「脇本陣跡」と思われる場所です。
吉野宿脇本陣跡
この付近が船橋家が務めていた脇本陣だと思います。吉野宿には本陣1軒、脇本陣1軒、農家兼業の旅籠が3軒あったとされます。
道は拡幅され新しい家が建ち、往時の面影は全くありません。
吉野宿
吉野宿は信州3藩の参勤交代、お茶壺道中、富士講、身延山信仰、善光寺詣などの人々の往来で大変賑わった宿場でした。
秋葉大権現?
吉野宿郵便局前交差点の左手に小さなお社があります。
「大権現」は読み取れるのですが、上部2文字がはっきりしません。「秋葉」と書いてあるような気がするのですが。もう一つの石碑も表側の石が剥離しよくわかりませんが、裏面は綺麗で「文政二年 講中」が読み取れます。
吉野郵便局前の交差点を右へ曲がり「吉野神社」へ向かいます。
吉野神社(春日之社)
1364年(貞治3)の創建とされる春日大明神と1307年(徳治2)創建とされる八坂神社を合祀し、1875年(明治8)「吉野神社」となりました。1911年(明治44)には琴平神社も合祀されています。1532年(享禄5)に造られた青銅の蔵王権現像があります。
船橋四郎兵衛顕彰碑
詳しくどのような方なのか不明ですが、「民権家」ということですので、明治初年の国民の自由と権利を要求した自由主義運動を推進していった人なのでしょう。
吉野神社の石仏
この石仏は「天明二年」の銘があります。1782年のものですが、非常に綺麗に残っています。細部の彫りまで欠けることなく、摩耗も見られません。側面に「吉野村 澤井村 勝瀬村 小渕村 講中」と刻まれ、4カ村合同で建立したことがわかります。
吉野神社を西側からでて、坂を下りもとの甲州街道へ戻ります。すぐに「吉野橋」になります。
吉野橋
1933年(昭和8)に築造された鋼トラストアーチ橋。近代土木遺産2800選に選ばれているそうです。2800・・って随分たくさんあるんですね!
親柱に風格があります。袂の石碑は百万遍供養塔と二十三夜塔です。
新編相模国風土記稿に描かれた小猿橋
往時は現在の吉野橋よりも河口側へ50mほどのところに「小猿橋」が架かっていました。金亀岩も描かれています。
日本三奇橋の一つとされる大月の「猿橋」と架け方が似ていることから「小猿橋」と命名されました。
戦国時代に記された「妙法寺記」には『小サルハシニテ度々合戦アリ』と記載があることからかなり古くから架けられていたと考えられます。
江戸時代には八王子千人同心が小猿橋の警備をしたという記録も残ります。
人馬通行橋銭の徴収、宿場の飯盛女からの刎銭(上前をはねる意)を財源とし、橋の架替をしていました。
明治中頃には上流500mほどの場所に「新猿橋」という木橋ができ、昭和8年に吉野橋が完成しました。
甲州街道分間延絵図に描かれた小猿橋
金亀岩
岩の上に浅間神社があり、浅間岩とも言われました。景勝地で、吉野宿が賑わっていた頃は舟遊びも盛んでした。今は相模湖の底に沈んでいます。金亀岩や小猿橋の付近には「鶯渕」があり、この付近は旅人の疲れを癒やした景勝の地でした。
沢井川河口
この先端あたりに小猿橋がありました。沢井川が合流するのが相模川です。このあたりからは相模湖から相模川になります。
相模川
相模国最大の河川です。富士五湖の一つ、山中湖を源とし
甲斐では「桂川」と呼ばれ
相模国では「相模川」、河口の
馬入村(現平塚市)では馬入川と呼ばれています。古くは鮎が多くいて
「鮎川」とも呼ばれ、江戸時代には将軍へ献上されていました。また中世から江戸時代まで木材を運搬する「川下げ」が盛んでした。
13:10 天気がちっとも良くなってきません。悪くなる一方で、ポツポツ雨も降ってきました。吉野宿をあとに関野宿へ向けて進んで行きます。