2021年11月13日
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高尾駅
本日のゴールとしている相模湖駅に車を駐車し、中央線で高尾駅までやってきました。高尾駅にはハイキングや登山に向かう人々で賑わっていました。今日はとてもよいお天気、楽しい小仏峠越えができそうです。
8:00 高尾駅をスタートします。駅を北へ出るとすぐ甲州街道です。まずは駒木野宿へ向けて進んでいきます。550mほど進み、「両界橋東」交差点を
白山神社へ向かうため右へ入って行きます。南浅川の手前左手に薄紅色のレトロな木造洋風建築がありました。
旧浅川町役場
役場は1945年(昭和20)の空襲で焼け、その後の1951年(昭和26)に再建された木造洋風建築です。少し前までは交通安全協会などが入っていたようですが、今は使われていないようでした。このまま残るといいのですが・・・
南浅川を小さな橋で渡ると目の前に「白山神社」があります。
白山神社
「歯苦散」とも書き表せることから
歯痛平癒のご利益があるといいます。境内にある手水には「享和三癸亥歳 願主金南寺法卯恵田」と刻まれています。
南浅川左岸沿いの細い道を通り甲州街道方面へ戻り、右手に観音堂、観音堂から更に奥へ150mに金南寺(こんなんじ)があります。
観音堂・金南寺
金南寺の開山・開基不詳ですが、本尊の十一面観音は
行基作と伝えられています。
両界橋
甲州街道へ戻ると「両界橋」があります。甲州道中分間延絵図には「河原橋」投渡板橋とも書かれていますが、「投渡」とは桁橋と同じ構造のようです。橋を渡ると駒木野宿内となります。
両界橋を渡り150mほど先の「南浅川」交差点を右へ曲がり、駒木野宿の中心地へ進んでいきます。左手に古風な家とお庭があり、
「高尾駒木野庭園」と書かれています。
高尾駒木野庭園
1927年(昭和2)に開院された
小林医院の家屋と土地が八王子市へ寄贈され、家屋の外観を残し、一部改修した上で本格的な池泉回遊式の日本庭園を整備し2012年(平成24)に開園しました。
高尾駒木野庭園はまだ開いていない時間でしたので、中は見学せずに進みます。300mほど進むと左手に
「駒木野橋之碑」と刻まれた石碑がありました。
駒木野橋之碑
甲州道中分間延絵図によると関所手前の橋は
「御関所口板橋」とあります。いつの頃からか駒木野橋となったようですが、区画整理で駒木野橋も撤去されました。
橋の手前右手が駒木野宿の
問屋2軒が並んでいたようです。
駒木野宿は小仏宿との合宿で1ヶ月のうち1〜15日を小仏宿、16〜30日を駒木野宿が継送っていました。
東から下宿・中宿・上宿となっていましたが、
中宿に関所と問屋などが集中していました。旅籠は農家兼業で12軒あったとされます。
資料によっては問屋を本陣、脇本陣と書かれているものもありますが、甲州道中分間延絵図では両家とも「問屋」としか書かれていません。
「駒木野橋之碑」を過ぎるとすぐ右手に
「小仏関跡」があります。
小仏関跡
石碑の前にある石は手形石と手付石です。手形石に手形を並べ、もうひとつの手付石に手をついて許しを待ったといいます。
小仏関
小仏関は
関東四関の一つとされ、もとは小仏峠頂上にあり、小仏谷関・富士見関とも言われ、戦国時代、後北条氏にとって甲斐国武田氏への備えとして設けられた要衝でした。
1580年(天正8)(1591年・天正19年の資料もあり)駒木野へ移され、江戸時代の初めは八王子千人同心が守衛にあたりましたが、1641年(寛永14)専任の関守として四家(川村氏・佐藤氏・小野崎氏・落合氏)が屋敷地を与えられ土着しました。以降は世襲で関守が受け継がれ、1869年(明治2)に廃止されました。
公園となっている場所が関守四家のうちの
落合家跡です。今日は集落の皆さんが公園や関所跡の草刈りや清掃をされています。こうした地元の人々がいらっしゃるので私達は安心して気持ちよく旅ができるのですね。
小仏関跡の図と分間延絵図
小仏関跡の図は、極楽寺所有の千人同心組頭塩野適斎らによって記された
「桑都(そうと)日記」によるものです。
先賢頌徳碑
代々関守の落合家の落合直亮・直澄兄弟の頌徳碑です。直亮は幕末には勤王の志士として活躍し、明治初期には国学者として知られ、晩年は神職を務めました。筆は「憲政の神様」と言われた、尾崎行雄(咢堂)によるものです。
小仏関所跡から少し行くと
「念珠坂」の緩い下り坂となります。その左手に石仏が並んでいます。往時は念珠坂に高札場が設けられ、向かいには
十王堂がありました。石仏は十王堂にあったものでしょうか。
念珠坂の石仏群・高札場跡
一番奥のものは痛みが激しく読みにくいですが、「観音明王」とあり、台座には「新井 駒木野」とあります。徳本名号碑と正面金剛は「文政四辛巳二月 当宿中」と刻まれています。
駒木野一里塚は分間延絵図を見ると念珠坂の高札場と次の地蔵堂跡のちょうど中間くらいの街道左手にあったようですが、何も残されていないのではっきりとはわかりません。往時から右手の塚は描かれておらず、なかったようです。さらに暫く進むと左手の小仏川の奥に覆屋に収まった石仏が並んでいます。
地蔵堂跡の石仏群
小さな橋で小仏川を渡ります。甲州道中分間延絵図によるとここは地蔵堂だったようです。その残された石仏が並んでいるのでしょう。地蔵の台座には「比丘尼菩提也」と刻まれています。供養塔は新しく、戦没者の供養のため作られたようです。
徐々に民家が少なくなってきました。すぐ先、左手の細い橋を渡ると
「天神清水」があり、甲州街道をさらに250m進むと左手に
「蛇滝茶屋」と言われたふじや新兵衛の茶屋が残されています。
小仏川(南浅川)
小仏の谷間に水源を発し、甲州街道にそって東流します。途中、木下沢川と案内川を合わせて下り南浅川、浅川となります。
天神清水
高尾山からの綺麗な湧水です。ここから少し登ると高尾天満宮がありますので、天神清水と名付けられたのでしょう。
ふじや新兵衛(蛇滝)茶屋・蛇滝道標
「神田・二見」「浅草・夕梅」など講の名を記した
「板まねき」を掲げた旅籠茶屋跡があります。「板まねき」とは講名を板に彫ったものをいい、旅籠側はこのまねきを掲げることで講をまねき入れること(歓迎)を意味し、またそれぞれの講もこれを目印としたものです。
茶屋の先には大きな道標があり、
「是より蛇瀧まで八丁」と彫られています。
蛇瀧(じゃたき)は高尾山薬王院の
水行道場で、往時は全国各地より多くの修行者が集まってきました。水行は現在も行われているようです。
蛇滝茶屋の向かいに
「いのはな慰霊碑」への案内がありました。案内に従って中央線のほうへ登っていくと線路の手前に慰霊碑がありました。
いのはな慰霊碑
1945年(昭和20)新宿発長野行きが湯の花(猪の鼻)トンネルへ差し掛かった時、硫黄島から飛来したP51戦闘機による銃撃を受け52名が死亡、133名が重軽傷を負いました。平和への願いと戦争の惨劇を語り伝えるため、1950年(昭和25)供養塔が建立されました。
湯の花トンネルは元々地元では
「猪の鼻山」と呼ばれていた山にトンネルを開削したものです。当時の国鉄が「猪の鼻」ではイメージが良くないと思ったのか・・わかりませんが音が近く漢字のイメージも良い
「湯の花」に決めたようです。
甲州街道へ戻り100mほど進むと圏央道の下が公園になっています。
「高尾梅の郷まちの広場」という名がついているようです。ここでトイレを済ませ、一休みです。とても綺麗なトイレでした。
広場を出るとすぐ先左手に道標が2基あります。
高尾山道標
「是より蛇瀧まで八丁 高尾山道」とあり、「享和三年(1803年)癸亥三月」の年紀があります。ここで左へ折れ高尾山方面へ向かう蛇瀧への道標です。
道標を左へ曲がり蛇瀧橋をわたり、
小仏峠にあったという芭蕉句碑を探しに浅川老人ホームへ寄って行きます。
芭蕉句碑
『ひばりより上にやすらう峠から』
1840年(天保11)に小仏峠に建立された芭蕉句碑が浅川老人ホームに移されたとされます。玄関あたりにあるとのことですが・・・渡り廊下の下にある石には文字が書かれていないようで違うようです。結局はわかりませんでした。
浅川老人ホームのさらに上には
「千代田稲荷神社」があります。
千代田稲荷神社
神社前の案内板によると、「太田道灌が千代田城(江戸城)築城の際に守護神として城内に勧請し、後に徳川家康が紅葉山に祀ったもので、明治維新の折に女官によって城外に移され、後年、紅葉山と言われたこの地に奉還されるに至りました」とあります。
しかし太田道灌に勘定された稲荷社は道玄坂の千代田稲荷神社と思われ、恐らくそこから更に勧請した稲荷社と思われます。
甲州街道へ戻り小仏峠へ向かい400m、右手にあった
峰尾豆腐店で豆腐ドーナツを購入し、再び歩きだします。峠で食べよう!楽しみ!!
すぐ右手に常林寺、さらにその先右へ曲がり、坂を登ると小さな小山神社があります。
常林寺
創建は不詳ですが、開基はここ摺差(するさし)に居住した峯尾氏、本尊は釈迦の立像とのことです。
小山神社(小山大明神)
勧請年、祭神などは不詳ですが、摺差の農民32軒が全て峯尾姓だったことからかつては「峯尾神社」と称していたともされます。石灯籠には「願主 峯尾平右衛門」「安政四丁巳年」の年紀があります。
甲州街道へ戻り300m、左手にはマス釣り場があり多くの人が釣りを楽しんでいました。住宅はまばらです。
このあたりは少し道の形態が変わってしまっています。JRのレトロな橋をくぐると小仏宿へ入ります。宿の入口には高札場が設けられていましたが、今はありません。
小仏宿
駒木野宿と合宿で1〜15日を継立て、15日以降は江戸方のみ継立てを行っていました。問屋1軒、旅籠11軒、本陣・脇本陣は置かれていませんでした。 武蔵国最後の宿場であり、小仏峠を経て
相模国小原宿へと至ります。
のどかな集落を500mほど進むと右手に
「五色弁才天」があるはずですが・・
五色弁才天入口
草がぼうぼうで入れるのかな・・隣の駐車場へ回ってみると、駐車場の中からは入りやすかったです。駐車場は今、中央高速の工事車両の駐車場として使っているようでした。
五色弁才天
五色弁才天の泉は
「大志沢の泉」と呼ばれているようで、1880年(明治13)の明治天皇の山梨巡幸の折、問屋で小休された際には
御前水として使用されたと書かれています。
甲州街道へ戻り60mほど進むと右手に
問屋跡があります。その向かいの中央本線の線路上に
「排煙装置」が見えます。
小仏宿問屋・明治天皇御小休所碑
問屋跡であった家の塀の上に小さな碑があります。かつては名主・旅籠屋鈴木藤右衛門宅跡だといい、3軒ほど手前はかつて甲府三度飛脚の定宿「三度屋」があったとされます。
1880年(明治13)、明治天皇は山梨・長野・岐阜・愛知・三重・滋賀・京都への巡幸が行われました。巡幸は馬車・騎馬・人力車などを使い総勢400名が同行したとされます。同行した医師であり国学者、後に宮内省文学御用掛となった池原香穉(日南)が記した「みとものかず」によると、午前8時に小仏村に到着し小仏峠は御輿で越えたようです。
排煙装置
このコンクリート構造物は蒸気機関車だった時代のトンネル排煙装置です。コンクリートの上に木造の小屋がかつてはあり、その小屋の中に排煙装置が入っていたとのことです。
小仏宿問屋跡から3.4軒先、JR東日本高尾変電所手前の右手の草地が
大日堂跡と思われます。うっすら獣道があるので登ると石仏が並んでいました。
大日堂跡
大日堂の勧請年は不詳ですが、伝えによると本堂はもっと西の小仏峠あたりの
「堂ケ谷戸」(恐らく現在の小仏トンネル入口から300mほどの北側にある沢)ここから見いだされた大日如来の小仏を安置し、その後現在地へ移されたといいます。この
小仏は「小仏」という地名の起源の一つとされ、大日堂の古さを伝えています。
大日堂跡の大日如来像
沢から見つかった大日如来像とは違うと思いますが、一番奥の大きな碑の更に奥に石造の大日如来像があり、草に埋もれています。小さいので微かに見える程度です。1975年(昭和50)頃の資料では大日如来像は台座に乗り、「小仏講中」と刻まれていました。今は台座も無くなり、確認できません。
小仏バス停を右手に見て進みます。バスはここで終点になり、多くの人が下車してきます。皆さん小仏峠を経て高尾山などへ向かうようです。峠までの最後のトイレがここにあります。更に250m進むと左手に
「浅川神社」、その先に
「宝珠寺」があります。
浅川神社
甲州道中分間延絵図では、この地は「地蔵堂」となっています。1784年(天明4)小仏峠に勧請された浅間社と麓に鎮座していた子之社を1912年(明治45)に合祀し、浅川神社としました。
宝珠寺
開山は
行基、開基は道明と伝えられ、中興開祖天闇は1429年(延享元)正月に没しています。
恵心作と言われる釈迦本尊坐像があり、境内からは1310年(延慶3)の板碑が発掘されています。
小仏のカゴノキ
宝珠寺を入ってすぐ左手の斜面に大きなカゴノキがあります。クスノキ科で、幹が鹿の子模様になるため漢字で「鹿子の木」と書きます。幹は鼓の胴などに利用されます。
飛脚の常夜灯
宝珠寺境内の山王神社前にある2基の灯籠のうち、左側のものは甲州と江戸を一か月に3度往来した町飛脚が奉納したもので、「甲州三度飛脚」と刻まれています。
この山王神社は、甲州道中分間延絵図の
「山王権現社」だと思いますが、宝珠寺よりもう少し先にあったようですが、ここへ移されたのでしょうか。
宝珠寺から600mほどは中央自動車道工事のために作られた道で、旧道は消滅しています。宝珠寺からは完全に人家がなくなり、小仏峠登山者用の駐車場を過ぎるといよいよ山道へ入ります。その入口、沢を渡る手前左手と渡った先の右手に
「小仏一里塚」があったようですが、痕跡はありません。
山道になってから暫くは緩い上り坂が続きます。
沢沿いを500mほど上ると急坂のジグザグ道になり息が上がります。3、40分で小仏峠へ到着します。
都心のビル群も遠くに見えています。
新編武蔵国風土記稿に描かれた「小仏峠」
標高548m、小さな仏様が祀られていたことから「小仏峠」と名付けられたといいます。戦国時代、武田信玄の家臣
小山田信茂が武州滝山城を攻めた際にこの山路が使われ、江戸時代に入ってからは甲州街道として通行が盛んになりました。
山頂は
武蔵国と相模国の国境となっており、小仏関ははじめここへ設置されましたが1580年(天正8)に駒木野へ移されました。
峠に関所があった頃には「富士見関」「富士の関」とも呼ばれ、1840年(天保11)に建立された
『ひばりより上にやすらう峠から』という芭蕉句碑がありましたが、この句碑は現在、麓の浅川老人ホームへ移されたそうです。
小仏峠からみたスカイツリー
望遠最大で写したので、画質がいまいちですが、はるか遠くのスカイツリーまで見えました!
小仏峠は登山者で賑わっていましたが、なんとか野外卓を確保し、来るときに海老名PAで購入した「てんむす弁当」で昼食です。デザートは先程購入した峰尾豆腐店の豆腐ドーナツです。ほんのりとした甘みで美味しかったです。
陣場山方面への道と庚申塔
往時、山頂には
「小仏立場」があり4、5軒の家と茶屋があり、「津久井日記」によるとあべかわ餅と強飯(おこわ)が名物でした。
今日はお天気もいいため、山頂はハイカーでごったがえしていました。陣場山からも高尾山を目指してたくさんの人がやってきます。人が写ってしまうため、自由に写真が撮りにくい状況で、山頂の写真はほとんど撮れませんでした。
以前、陣場山から高尾山まで縦走したことがありました。かなり長距離でへとへとになった思い出がよみがえります。
三条実美歌碑・明治天皇小佛峠御小休所阯及御野立所碑
『来てみればこかひはた織いとまなし 甲斐のたび路の野のべやまのべ』
「こかひはた織」は「蚕飼ひ機織り」のことで、当時生糸は高騰しており多摩や甲州が養蚕や製糸織物業で賑わう様子を歌っています。
太政大臣三条実美が命を受けて高尾山薬王院に詣でて詠んだ歌と言われています。
「明治天皇小佛峠御小休所阯及御野立所碑」は、1880年(明治13) 明治天皇の山梨巡幸の際、ここで小休された記念に建てられたものです。
高尾山庚申塔道標
甲州街道と高尾山道の分岐点にあります。1795(寛政7)の建立。この道標を左手に見て右手へ下っていくのが旧甲州街道です。
皆が高尾山方面へ上っていきます。甲州街道へ行く人は私達以外誰一人いません。お腹もいっぱいになりましたし、もうひと頑張り。小原宿へ向かって下っていきます。
1888年(明治21)新甲州街道開設により駒木野から小原に至る峠越えの街道の通行は激減しました。現在は登山客やハイカーなどで賑わっていますが、峠から小原へ下る旧甲州街道を通る人は誰もいません。くねくねしたカーブを幾度曲がったでしょう・・
下りの途中左手に寛文年間〜天明年間(1661年〜1789年)まで
「中峠立場」があり、三軒の茶屋があったそうですが、実際どの辺りだったのかはわかりませんでした。
小仏峠出口
ようやく山道からアスファルトの道へでました。峠の旧道は楽しく歩けましたが、ここからは中央自動車道の工事のため、旧道をとどめていません。
旧道はほとんど残っていませんが、付け替えられた道があるので進んでいきます。現在も中央高速道路の大掛かりな工事が行われているようでダンプカーが往来しています。道なりに進み、中央高速道路の下をくぐり大きなカーブの頂点を底沢方面へ右折します。甲州街道を外れ、ちょっと寄り道します。500mほど先、右手に
「七ツ淵」があります。
七ツ淵入口
元々「説経節」の演目であった
「小栗判官と照手姫の伝説」は歌舞伎や浄瑠璃などにもなり、話に尾ひれがいっぱいついてしまい、色々なお話になってしまっています。ここでは七ツ淵に掲げられていた案内板を転記します。
照手姫物語
照手姫は小仏峠の麓、
美女谷の生まれと伝えられその美貌が地名の由来とされています。北面の武士(院御所の北側近衛詰め)だったという父と優しい母から生まれた照手姫は美しい娘に成長し、美女谷上流の
七ツ淵で豊かな黒髪を漉く姿は美しく、里の若者を魅了したといいます。しかし、両親は相次いで亡くなり、いつしか照手姫の姿は美女谷の里から消えてしまいました。その後数奇な運命をたどり、相州藤沢宿で小栗判官満重と劇的な出会いをしますが、満重は毒殺されてしまいます。姫の必死の願いが通じたのか満重は
遊行上人のおかげで蘇生し、常陸国の小栗城に戻り照手姫を迎え末永く幸せに暮らしました。
七ツ淵の水鏡
細い獣道のような道を登っていきます。最後は鎖を掴みながら奥へと進むと岩が水流で削られ、水が溜まっている場所がありました。これが「水鏡」だと思います。あくまでもお話ですけれど・・・
甲州街道へ戻り300m、中央自動車道の下をくぐると右手にいくつかの石仏があります。
板橋の馬頭観音
甲州街道はここから斜面を上り、中央自動車道の下を通り、樋谷路沢を経て小原本陣脇へ出る道だったといいますが、現在は中央自動車道の下は廃道となっています。板橋を過ぎると立場や稲荷もあったようですが、これも中央高速の下になり、今は跡形もないようです。このまま真っ直ぐ緩い坂を下っていきます。
左へカーブしJRの下をくぐる手前に
「底沢一里塚跡」の看板が以前はありましたが、今は無くなっているようです。
底沢一里塚跡
先程通った板橋の馬頭観音から上って行くのが旧道でしたので、一里塚はこの斜面の上、中央自動車道の下あたりにあったとされますが、甲州道中分間延絵図には一里塚の記載はなく、「塚場」と記されているだけです。分間延絵図が記された1806年(文化3)には既に塚は無かったのかもしれません。
甲州道中分間延絵図
JRをくぐり300mほどで国道20号線の大きな道へぶつかり、ここからは国道20号線を進みます。国道を300mほどで右手に
「小原の郷」があり、さらに150mほどで
「小原宿本陣」へ至ります。
小原の郷
小原宿の資料などが展示されていますが、どちらかというと駐車場の利用が主のようです。ここへ駐車して周辺観光をするようですね。休憩施設やトイレもある観光拠点のような施設です。
小仏峠
下りてきた小仏峠を見上げます。
本陣手前の左手に
「古道弁天島への道」と書かれた案内板があります。
古道弁天島への道
ここを下っていくと弁天社や牛鞍神社、善勝寺の方へつながっています。行きたい気持ちは山々ですが、残り時間が少なくなりましたので、また今度にしたいと思います。
小原宿の高札場はこのあたりに描かれています。
小原宿本陣
本陣清水家の先祖は後北条氏の家臣清水隼人介で、小原宿が設けられてからは代々
庄屋と問屋を兼ねていました。神奈川県下に東海道・甲州街道合わせて26軒あった本陣の中で唯一現存している本陣建物です。
小原宿本陣
平屋に見える建物は内部では四層造りになっており養蚕や機織も行っていました。
上段の間のほか14の部屋が往時のまま残されています。小原宿本陣を利用していたのは高遠藩、高島藩、飯田藩の大名と甲府勤番の役人が主でした。
小原宿
小原宿は次の
与瀬宿との合宿で、甲府への継立ては吉野宿までを継立て、江戸への継立ては与瀬宿で行い、小仏宿へ継立てる片継ぎの宿場でした。本陣1軒、脇本陣1軒、農家兼業旅籠7軒がありました。
小原宿本陣より70m左手に
「旅籠小松屋跡」、その向かいあたりが
小原宿脇本陣跡と思われます。
旅籠小松屋跡
往時は富士講、身延講などの定宿として多くの旅人が利用していました。出桁が往時のまま残っています。
十王堂、名号碑
さらに150m右手小原宿の外れにあるのが甲州道中分間延絵図に描かれている「十王堂」ではないかと思います。
十王堂を過ぎたあたりは道の形態が大きく変わっていますので、国道を通ってもいいのですが、
小手沢土橋跡から広場の中を横切り、再び国道20号へ出て斜めに登っていく細道へ入っていきます。ここから再び旧甲州街道です。
上り坂を道なりに500m、右手の斜面上に小さなお堂が2つあります。
太子堂
詳細はわかりませんが、甲州道中分間延絵図にも描かれていました。もう一つの社はすぐ近く、中央自動車道の法面あたりに描かれている稲荷かもしれません。
太子堂を過ぎて突き当りは左へ曲がり、右手公園の先、集会所の庭先に多くの石仏が祀られています。
石仏群
集会所のような場所に石仏がたくさんありました。このあたりには稲荷や十王堂があったようですからそこから移されたものかもしれません。
遠藤坂
遠藤坂から右へ曲がり、急な坂道(現在は階段)を下り、カーブを過ぎて水路には橋があり
「竹鼻石橋」、その先右手に
十王堂があったと思われます。現在道になっているあたりです。また、十王堂が与瀬宿入口となっていました。
さらに進むと国道20号線へでます。ここが与瀬宿の枡形となっており右折し、100mで相模湖駅前の交差点です。今日はここまで、駅前交差点を右折し相模湖駅へ向かいます。
16:00 相模湖駅に到着、駅前の駐車場へ向かいます。天気もよく
小仏峠越えは楽しい道のりでした。