2020年12月12日

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11:20 前回の終点、京王線笹塚駅より出発します。だいぶ寒くなってきましたが、お天気は清々しい青空です。まずは、甲州街道を南へ入っていき、「笹塚観音」へ。

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笹塚観音

「観音会館」と看板がある元商店のような建物の一角が観音堂となっています。

笹塚観音の縁起

昔、笹塚橋のたもとにあった泥だらけの地蔵を土地の人が洗い、堂を建て供養したのが始まりとされます。その頃もう一体縁起のはっきりしない観音様があり、また京都の上醍醐寺からも観音様を迎え、この三体を笹塚観音として信仰を集めていました。しかし、東京大空襲により焼失、焼け跡からは上醍醐寺から迎えた観音様だけが発見され、修復されて今日に至っています。笹塚橋は、この先「三田用水取水口跡」の近くにある玉川上水に架けられた橋です。

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観音通り

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三田用水取水口跡

玉川上水から分水する三田用水の分水口だったところだそうです。右手の階段付近がかつての取水口跡にあたるそうです。ほとんどが暗渠となった玉川上水、開渠として残されている笹塚付近は珍しいと思います。

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南ドンドン橋跡

玉川上水に橋が架かっていた場所です。現在は暗渠化され、親柱が1つ取り残されているだけです。

「ドンドン」とはどのような意味なのでしょうか。昔は勢いのある水の音の表現として「どんどん」が使われていたようです。横浜にも「どんどん商店街」という名があり、ここも川の水が濁流となったときの音から名がついたと言われています。

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笹塚庚申塚

1700年(元禄13)の建立です。小さなお堂ですが、現在でも地域の方々に大切にされている様子が伺えます。

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萩久保立場跡

環七と甲州街道が交わる交差点の手前に萩久保立場がありました。現在の環七を北へ2kmほどに堀之内妙法寺があり、ここを参拝する人や甲州街道を通る人で賑わっており、茶店が軒を並べていました。

「甲州道中滑稽華鹿毛」によると二八そば、即席御料理、御茶漬などがあり、軒下には丸提灯が華やかに吊るされていたようです。

堀之内妙法寺

「江戸名所図会」に描かれています。弘長元年、伊豆に配流された日蓮上人の赦免を祈願した日蓮六老僧の一人、朗師が鎌倉で霊木を得て、日蓮上人の真像を手刻したという日蓮像を祀り、「厄除御影」として多くの信仰者を集めていたといいます。

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向岸(こうがん)地蔵尊

小さな公園の中に大きなお地蔵様が佇んでいます。周囲には小さな石仏もいくつかあります。

向岸(こうがん)地蔵尊の縁起

世田谷大原の玉川ほとりに住む向岸という名の人は、どうしたことか体が右に曲がり、悲しんでいました。ある夜地蔵尊が現れ、これからは世のため念佛を唱えれば救われるといい、向岸は悟りを得て念佛修行に励み、200余りの講中となり、念佛が絶えることがなかったそうです。向岸の病は辛く思うことがなくなり、この世を去ったならば私の姿を石に刻み念佛を怠らないようにと大往生しました。講中の人々は遺言通り、地蔵菩薩を建立し生前の徳を讃えたといいます。

代田橋駅方面へ戻っていきます。代田橋駅を過ぎ、京王線の踏切を渡り、左手へ進むと大原稲荷神社入口左側に北向子育て地蔵尊があります。

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北向子育て地蔵尊

子育て地蔵尊は、その功徳をもって子宝が授かり丈夫にすくすくと育つようにと建立されるものです。

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大原稲荷神社(代田村の稲荷)

創建は不明ですが、1702年(元禄15)の検地水帳に、稲荷社があることが記され、1782年(天明2)に、京都伏見稲荷本宮に請願し本宮正官御殿預羽黒摂津守荷田宿禰信邦氏により安鎮之書(勧請之書)を拝受したものが現存するそうです。
大原稲荷神社をでて甲州街道へ戻ります。

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三宝地蔵菩薩道標

小さなお堂に地蔵菩薩と庚申塔、馬頭観音が祀られています。左の庚申塔は「是より二子みち」、右の馬頭観音は道標も兼ねており、左面に「右 あわしまみち」と彫られています。
「二子みち」は、鎌倉街道、「二子の渡し」へ向かう道だと思われます。現在の二子玉川、二子橋付近です。

あわしまみち

『あわしまみち』のあわしまとはどこでしょうか。恐らく横浜市都筑区折本の淡島神社への道標だと思われます。あわしまさまは、江戸時代には女の神様として婦人病、子授け、安産祈頓に霊験があるとして広く庶民の間に崇敬されており、「江戸名所図会」にも紹介されていました。この馬頭観音道標の建立も女人念仏講とのかかわりが考えられます。この道標から約17km、淡島詣は日帰りだったのでしょうか・・江戸時代の人の足だと日帰りもできそうですが1泊くらいはしていたのでしょうか。女性同士の旅は家のことや仕事を忘れて楽しい時間になっていたことでしょう。

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井の頭街道碑

1913年(大正2)、拡大していく東京市に給水するため村山貯水池からの境浄水場へ導水し、さらに和田堀給水場に至る水道の工事が始まりましたが、その導水管埋設地が転用され道路として整備されていったということです。そのため当初は「水道道路」と呼ばれていたようです。
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玉川上水公園

この公園も玉川上水が暗渠化され、その上部が公園となっています。

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庚申塔

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明大橋跡

明治大学が予科校舎を建設した昭和9年に玉川上水に架けられた橋の地覆と親柱が残っています。

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明治大学和泉キャンパス

明治大学では1923年の関東大震災で駿河台校舎が全焼したため、火薬庫跡地への移転が決定し1934年(昭和9)予科校舎が竣工しました。

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塩硝蔵跡

塩硝(えんしょう)とは火薬のことで、本来は「煙硝」と書くようです。白い粉だったためあくまでも「塩」だとして生産していたようです。当初は上石原宿(調布市)にあったとされ、宝暦年間(1750年頃)に「和泉新田御塩硝蔵」としてこの地に設置されました。敷地は約62,000m2、明治大学和泉校舎・和泉堀廟所を含めた一帯でした。兵部省、陸軍火薬庫を経て現在に至っています。

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大山道追分

案内は何もありませんが、松原大山通りへ入る交差点が大山詣で賑わった大山道との追分でした。「甲州道中分間延絵図」には、「大山道従是道法十八里」とあります。世田谷を経て約52kmほどで大山へ到着です。

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築地本願寺 和田堀廟所

1923年(大正12)、関東大震災により築地本願寺は焼失してしまいました。社殿は元の位置に再建されましたが、墓地に関しては、この和田堀廟所へ移転しました。しかし、1945年(昭和20)の東京大空襲でまたも焼失、昭和28年に本堂が再建されました。
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三島海雲顕彰碑(カルヒ?ス顕彰碑)

三島海雲は1878年(明治11)大阪箕面市の寺に生まれ、西本願寺文学寮から仏教大学を経て24歳の時中国大陸へ渡ります。内モンゴルの地で、遊牧民の活力源と言われる酸乳(発酵乳)に出会いました。帰国後、内モンゴルでの体験をもとに、乳酸菌飲料の事業化に取組み、1919年(大正8)日本初の乳酸菌飲料「カルピス」を発売しました。

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佃島漁業組合解散の碑・佃島名主森家の墓

佃島漁業組合と名主森家

1613年(慶長18)、徳川家康は懇意にしていた森孫右衛門とその仲間の漁師32人を摂津(大阪市)の佃島から連れてきました。森孫右衛門は徳川家康と親密な関係であり、名主として漁業権を与えられました。 漁師たちは浅瀬を埋め立て、故郷である佃島の名を付けたといいます。

天正年中、家康上洛の折、渡し船がなく川を渡るのに困っていたところ森孫右衛門が船を出し、また家康が伏見城に留まっていた際には魚の調達に努めたりしていました。特に1614年(慶長19)の大阪冬の陣、翌年の夏の陣では漁船に見立てた舟での海上の偵察などの重要な仕事を引き受けていました。こうした経緯から家康とともに江戸へ出たようです。

しかし幕末には造船所ができ、明治時代になると東京湾はどんどん埋め立てられ、大正時代になると漁業は急速に衰退し、昭和37年、補償と引き換えに漁業権を放棄し、350年の歴史を閉じました。

築地本願寺の境内には森孫右衛門の供養塔があります。

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佃島由来の碑

1659年、明暦の大火で消失した築地本願寺の再建に力を尽くした佃島の人々の墓地があり、佃島祖先33名の由来が書かれた碑です。

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樋口一葉墓所

樋口一葉は、明治時代に活躍した女流作家です。『たけくらべ』『にごりえ』『十三夜』といった秀作を発表しましたが、肺結核のため24歳の若さで亡くなっています。

2004年から五千円札の顔にもなっています。

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古賀政男墓所

昭和の国民的な作曲家で、生涯で5000曲以上を作曲したといいます。昭和53年に亡くなっています。

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佐藤栄作墓所

安倍元首相の祖父、岸信介の実弟で、自民党総裁として1964?1972年までの7年8カ月間、首相を務め、日韓基本条約批准、非核三原則の提唱、沖縄返還を果たしました。ノーベル平和賞も受賞しています。

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中村汀女墓所

高浜虚子に師事し、のちに「ホトトギス」同人となり、家庭の日常を情感豊かに詠む昭和を代表する女流俳人として知られています。1988年(昭和63)、88才で亡くなっています。傍らにある句碑には、『雪しずか愁なしとはいえざるも』と彫られています。
他には、女子教育に尽くした九条武子、歴史小説の執筆で知られる海音寺潮五郎、女優水谷八重子、戦後ブギウギの名曲をヒットさせた作曲家、服部良一など錚々たる方々も眠っています。

本願寺和田堀廟所をあとに西へ向かい、すぐに右へ入っていきますとお寺が続きます。いずれも関東大震災により崩壊、焼失した後、現在地へ移ってきたお寺が並んでいます。

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真教寺

開祖は黒田甲斐守の嫡子で出家して真了法師と名乗り、1594年(文禄3)に麻布宮村に創建されました。 明治頃には築地本願寺末寺となっていたようで、築地本願寺と同様、明暦の大火、関東大震災などを経て和田堀廟所が移ったのと共に昭和3年に現在地へ移りました。東京大空襲でも焼失し、現在の本堂は昭和35年の再建です。

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善照寺

こちらも築地本願寺の末寺でした。 元は、相州小田原に開創されましたが、1590年(天正18)豊臣秀吉の小田原攻略の折り、焼失し江戸へ移りましたが、場所は不明です。慶長年間には何度も移転し、時期は不明ですが、本願寺の末寺となったようです。関東大震災後の昭和3年、和田堀廟所が移るのを期に現在地へ移転したようです。真教寺同様、東京大空襲でも焼失し本堂は昭和45年に再建したものです。

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浄見寺・中井薫堂墓

1610(慶長15)釋教心により京都伏見に開山。1621年(元和7)浜松御坊(築地本願寺)が創建されると末寺となり、明暦の大火、関東大震災を経て昭和初期に現在地へ移転しました。空襲により焼失した本堂は昭和35年の再建です。
墓地の入口近くに「中井家」と彫られた墓石が2つ並んでいたのですが、建立年が昭和に入ってから・・『中井薫堂』の墓は見つかりませんでした。

中井薫堂は、1758年(宝暦8)江戸の生まれで、日本橋商家の番頭でありながら山中天水・山本北山に漢学を学び、狂詩・狂歌を好みました。俳人・書家としても知られます。1821年(文政4)没。

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法照寺

開基は明教と言われ、鎌倉に創建されたようですが、詳細は不明です。本郷、浅草浜町と移り、浜町御坊(築地本願寺)が創立されると末寺となり、明暦の大火、関東大震災を経て昭和3年に現在地へ移転しました。

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市川團蔵の墓

法照寺の墓地には歌舞伎役者市川團蔵のお墓があります。「團蔵」は、代々養子により襲名しており、お墓は合葬墓です。初代から四世までが埋葬されているようです。
また、長唄の囃子方で鼓の名手、宝山左衛門、2代目(1835〜1910)、3代目(1859〜1914)のお墓もあるそうです。

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栖岸院

元は三河国村高庄(愛知県安城市)にあった長福寺で、1591年(天正19)に麹町に移りました。1621年(元和7)、老中安藤重信が葬られて以来、菩提寺となり1639年(寛永16)には重信の子、重長が中高開祖となり改めて、「栖岸院」として開創します。現在地へ移ったのは大正9年です。

観音堂の聖観世音菩薩は「火伏観音」と呼ばれ「江戸名所図会」には頼朝の念持仏と書かれています。

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永昌寺薬師堂(永泉寺)

寺伝によると1624年(寛永元)、龍昌寺の五世明岩舜洞により四ツ谷塩町に開創したと伝わります。 1910年(明治43)下高井戸の永泉寺と合併し現在地へ移転しました。

永泉寺に伝来する玉石薬師も合祀、この玉石は玉川上水の永泉寺付近工事の際に土中より発見され、その光沢の中に薬師像が浮き出たと言われます。1945年(昭和20)空襲で焼かれ、光沢を失ったものの現在でも大切に保管されています。

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平山行蔵墓所

儒学者・兵学者として知られる平山行蔵(子龍)は、江戸で生まれ、幕府に仕えて普請役となりますが、退職して兵法研究に専念し、「兵学文稿」「海防問答」などを著しています。

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永泉寺歴代住職の墓

永泉寺廃寺跡に残る歴代住職の墓です。永泉寺は永福寺の十三世祥翁祖麟の開山・開祖でしたが、明治13年に焼失、明治43年に四谷塩町の永昌寺へ合併し廃寺となりました。その後、永昌寺が現在地へ移転しました。
永昌寺には他に江戸の狂歌師であり、絵も巧みだったという「塵外楼(じんがいろう)清澄」の墓もあります。

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玉川上水永泉寺緑地

暗渠となった玉川上水の上部が緑地になり、廃寺となった「永泉寺」の名が残されています。

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竹清堂

竹で作成した製品を販売しているようです。看板には「明治四拾年創業」と書かれていましたので、気になりホームページを探してみると・・竹製のとても素敵な作品がたくさんありました。値段が書かれていないのですがかなりのお値段でしょうね・・
竹清堂を過ぎると下高井戸宿になりますが、宿場の面影は全くありません。

下高井戸宿

下高井戸宿と上高井戸宿は合宿で、継立は1ヶ月のうち前半の15日が下高井戸宿、後半15日が上高井戸宿の努めでした。問屋は1ヶ所で分間延絵図によると覚蔵寺の向かい辺りだったようです。その奥に本陣が描かれています。旅籠は大中小、各1軒づつ。また、下高井戸宿は三卿(田安、一橋、清水)の鷹場であり、その負担も負っていました。

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覚蔵寺

創建は不明ですが、慶長年間(1596〜1614)実成院日相が中興開山したと伝えられます。安置されている鬼子母神像は、日蓮上人の直刻とされ、江戸名所図会にも記載されています。

1271年(文永8)聖人が龍ノ口法難にあう前、馬に乗せられて鎌倉の町を引き回されて刑場に向かう途中、ごまのぼたもちを供養され、その御礼として手渡したものであると言われています。当初は鎌倉の妙法寺に安置されていましたが、江戸時代中頃に移されています。

入口右手の題目塔は、寛保元年の建立。

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宗源寺

慶長年間(1596年〜1615年)、光伯院日善によって開山されました。日善の祖先は畠山重忠の子孫、吉田宗利とされ、宗利が出家して「宗源」と名乗ったといいます。

境内の不動堂は、1872年(明治5)に廃寺となった修験道の本覚院にあったもので、高台にあったため「高井堂」と呼ばれ、「高井戸」という地名の起源という説があります。1911年にこちらへ移築しています。
墓地には地理学者で「日本風景論(明治27刊)」で有名な志賀重昴の墓もあります。

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宗源寺のラカンマキ

樹齢350年と推定されています。

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高井戸一里塚跡

高井戸一里塚は、標識付近の高速道の下にあったそうです。

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安楽寺跡の六地蔵

「甲州道中分間延絵図」には高井戸一里塚を過ぎて、街道北側に安楽寺が描かれています。向かいの街道、南側の少し入った場所に「稲荷之社」が描かれています。恐らく、六地蔵とお墓がある場所が「安楽寺」、そして現在、山谷稲荷神社となっている場所が絵図の「稲荷之社」だと思われます。

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山谷稲荷神社

安楽寺跡を甲州街道を挟んで反対側へ入ったところにあるのが「山谷稲荷神社」です。

上高井戸宿

安楽寺を過ぎて暫く行くと上高井戸宿に入ります。問屋は医王寺の少し手前北側に置かれ、本陣は問屋の奥にあり屋号は「武蔵屋」といいました。脇本陣は置かれていませんでした。旅籠は大1軒、小1軒、将軍家の鷹場「御拳場」で、鷹場環境の維持管理、密猟の監視などの負担がありました。

明治末頃までは『高井戸宿はしゃれた宿、武蔵屋に角屋に、下では富吉』と麦打歌(麦打をする時に歌う作業歌)に唄われたといいます。

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医王寺

834年(承知元)弘法大師が東国巡行の際、箱根山で彫った薬師如来像を海星和尚がこの地へ草庵を建て安置したものと伝わります。

「西向き薬師」は、眼病に効くため「おめだま薬師」とも呼ばれました。明治の初めに廃寺となり、本堂は高井戸小学校の前身、高泉学校の仮校舎として使用されていましたが、薬師堂だけは1923年(大正12)の関東大震災までは甲州街道に面したところにありましたが、大正13年に現在地へ再興しました。

片目の魚の伝説

放生池に眼病平癒を祈って川魚を放すと、病は治りますがその代わりに放った魚が片目になるという伝説がありました。池は「片目の魚の池」と呼ばれていました。

医王寺から甲州街道へ戻るとようやく国道と別れて旧道である左手へ入っていきます。

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「井之頭辯財天参道」道標

「是より一里」と彫られています。「井の頭弁財天」はこれより北西へ4kmほどもある井の頭恩賜公園にあります。

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長泉寺観音堂

長泉寺は、1648年(慶安元)世田谷の鳥山にあった通称「お伊勢の森」に開創しましたが大火にあい、1655年(明暦元)にこの地へ移ったと伝えられます。

観音堂は「円通閣」といい、1728年(享保13)の建立です。堂内に納められている「板絵着色西国巡礼図」は狩野派の絵師、中田小左衛門が描いたものです。

長泉寺には高井戸宿本陣を務め、代々並木伊兵衛を名乗った旅籠「武蔵屋」のお墓があるらしいのですが、多くが並木さんのお墓で、薄暗くなってしまったし、よくわかりませんでした。台座に「武蔵屋」と入っているそうですが・・

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ワカケホンセイインコ

長泉寺でウロウロして薄暗くなってくると、何かがバタバタ飛んできてケヤキに鈴なりになっています。よく見るとインコ!! 東京に野生のインコが繁殖している・・というニュースは見ましたが、本当にこんなにたくさんいるとはびっくりしました。
16:30 かなり薄暗くなってしまいましたので、本日は京王線芦花(ろか)公園駅より帰宅いたします。