2022年10月22日

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8:00 甲府駅北口のコインパーキングに車を停めて出発します。前回、甲府城跡や甲府駅南口には寄りましたが北口周辺には行きませんでしたので、甲府駅北口を散策してみます。

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清水曲輪跡の石垣

甲府駅北口は広場になっています。このあたりも往時は甲府城の一部だったようで、石垣が保存されています。

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武田信虎像

広場の中央あたりに「武田信虎像」がありました。武田信虎は信玄の父であり、乱国となっていた甲斐を統一し甲斐武田氏の基礎を築いた人です。

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甲府市藤村記念館(旧睦沢学校校舎)

1875年(明治8)巨摩郡睦沢村(現甲斐市)に建設された学校の校舎です。往時の山梨県令藤村紫朗が奨励した「擬洋風建築」で、明治前期には多くの官公舎、学校、商家が「藤村式建築」で建てられました。1966年(昭和41)現在地へ移築されました。
広場から少し東へ行くと立派な門があります。門の向かいには明治、大正、昭和初期の甲府城下町を再現した「甲府夢小路」が軒を並べています。

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甲府城山手御門 山手渡櫓門

発掘調査により発見された石垣を土台にし、1700年ごろの絵図をもとに、柳沢吉保が城主だった時代の姿に復元されています。

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甲府夢小路

移築した古民家や蔵、倉庫など、昔の建築様式を取り入れた店舗が立ち並ぶ、レトロな雰囲気のショッピングエリアです。

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甲府時の鐘

甲府城下の時の鐘は寛文年間(1661〜1673年)頃、横近習町(現中央二丁目)にあった歓喜院(廃寺)に鐘楼が建立、1708年(宝永5)にあたご町へ移転、火災で焼失はましたが1818年(文化15)に再建され、1872年(明治5)まで使われていました。
この鐘は2013年(平成25)に新しく造られたものですが、あたご町の鐘楼を模造したものと伝わる玄法院の鐘楼を模し再現したものです。

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諸国道中金之草履「甲府」

往時は商家が立ち並び大変賑わった宿場だったようです。後ろの方には「甲府城」も描かれています。

甲州街道へ向かいます。約1.2kmと甲州街道までかなりの距離があります。

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相生歩道橋までやってきました。ここから甲州街道を西へ進んでいきます。200mほど進むと左手に道標があります。

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旧泉町道標

ここから南へ行く道が「駿州往還」、「河内道」、「身延道」と呼ばれる脇往還で、富士川沿いに甲斐と駿河を結ぶ道でした。古くから道標がありましたが太平洋戦争末期の甲府大空襲により消滅。泉町土地区画整理事業の完成を記念して1975年(昭和50)道標が再建されました。

駿州往還(河内路)

富士川流域を通り、甲府と静岡市の東海道興津宿とを結ぶ古道で、日蓮が身延に入山した時の記録に登場します。「駿州往還」の名前が初見するのは武田信玄の古文書であり、武田氏によって伝馬制が整備されました。江戸時代には富士川舟運の整備に伴い、道筋も変更され経済的な幹線道路とされると共に身延山久遠寺への参詣路としても活用され、文学作品にも登場しています。

現在、国道となっている甲州街道を200mほど進むと右手に「法輪寺」があります。

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法輪寺

武田有義は若い頃より仏教に帰依し、1186年(文治元)京都嵯峨野の法輪寺を模した寺を建立しました。

武田有義

武田有義は新羅三郎義光の四代孫で、甲斐源氏(武田源氏)の六代頭領、武田信義の息子になります。平家全盛期時代には平重盛に仕え、兵衛尉(武衛)として活躍しました。後に源頼朝が平家追討に決起した時には、共に挙兵した甲斐源氏軍の総大将として大功を立てました。朝廷の死後、その側近梶原景時が有義を大将軍にして鎌倉倒幕(梶原景時の変)を図りましたが失敗。有義は九州、五島列島に逃れて五島家の始祖となりました。1200年(正治2)五島で死去しました。

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カンカン地蔵

五島で死去した有義の首級をここへ埋葬し石地蔵を安置したとされます。地蔵は当初、叩けば高い金属音がしたため「カンカン地蔵」と呼ばれています。

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立派な蔵が残っています。寿交番前を左に入るとすぐ右手に「文珠神社」があり、その境内に「山口素堂治水碑」と「芭蕉句碑」があります。

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文珠神社

創建は不明ですが、明治初年に金比羅大神と道祖神を合祀しています。以前は別の場所にあったようですが、1999年(平成11)区画整理のため、現在地へ移されたようです。

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素堂治水碑

「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」の句で知られる山口素堂は、教来石山口(現白州町)出身の学者で俳人。江戸林家で漢学を修め、京都にも遊学し和歌や書道を学び、芭蕉とも交友がありました。甲州では濁川の治水工事を行い、「とくとくの句合」「素堂歌集」などの著書があります。1716年(享保元)没。甲府宿手前の尊体寺に墓所がありました。
この碑は濁川の治水工事に感謝して建立したものでしょう。

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芭蕉句碑

「物いへば唇寒し穐の風」
甲州街道へ戻り、すぐ先右手に旧荒川橋親柱が残されています。

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旧荒川橋親柱と建設当時の荒川橋

左が1926年(大正15)に架橋された旧荒川橋の親柱、右が1931年(昭和6)架橋の旧貢川橋の親柱です。旧荒川橋の親柱には高さ1.5mほどのガス灯が設置されていましたが、太平洋戦争末期の金属供出で接収されてしまいました。またかつては「ボロ電」と呼ばれた路面電車が1962年(昭和37)まで通過していました。

荒川

古くは「忘川」と呼ばれ、雨が降れば大水となるも雨が止むと涸れて水がなく、忘れたような状態となったとされます。江戸時代は4月〜9月までは作場船で渡り、9月〜4月までは仮橋を架けて渡っていました。

TOO001 荒川橋の左手には富士山が見え、右手には甲斐駒ヶ岳などの南アルプスが見えています。

荒川橋を渡り、続いて貢川も渡ると右手の旧道へ入って行きます。旧道へ入り300mほど進むと右手に「上石田のサイカチ」があります。

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上石田のサイカチ

昔、この付近は貢川に近接していましたが、河川は整備され現在のような市街地となりました。サイカチは川岸の湿ったところに生える木で、ここが貢川の近くであったことを物語っています。また、ここには秋葉神社があった場所とされます。樹齢300年ほどの大小2本のサイカチの木があることから「夫婦サイカチ」と言われています。

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道祖神と馬頭観音

サイカチから200mほど進むと右手に石仏がありました。
この先2kmほど交通量の多い住宅地を進みます。途中、左手には山梨県立文学館や山梨県立美術館がありました。中央高速道路を越えるとすぐ左手に石仏があります。 高速道路のあたりで、甲府市から甲斐市へ入ります。

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遠忌碑

日蓮の五百遠忌を記念して、1781年(天明元)に建立された碑と1831年(天保2)の建立の五百五十遠忌の石碑があります。
さらに400mほど進むと交差点左の角に「山縣神社参道碑」があります。

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山縣神社参道碑

山縣神社はここから南へ800mほどありますので寄り道せずに進んでいきます。
300mほど進み「真福寺入口」交差点を右へ入ると真福寺の門があり、さらに甲州街道を180mほど進み、右手へ曲がり80mほど進むと左手に「松尾神社」があります。

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真福寺

1628年(寛永5)創建。

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回国地蔵

「為廻國供養也」と刻まれており、1720年(享保5)建立。道路建設のため現在地へ移りました。
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松尾神社

拝殿左手にある石祠の道祖神は、元は甲州街道沿いにありましたが、寛永年間(1624〜44)頃に勧請された松尾神社境内へ移されました。

TOO001 竜王新町交差点の立派な門扉のお宅の角を曲がり、竜王新町へはいっていくと右手に大きな丸形道祖神がありました。

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道祖神

この場所は昔、「寄り合い場」でしたが、大部分が道路になってしまいました。丸形道祖神には「衢神、文正文七申極月、氏子中」とあります。「衢」はよつつじ、横道、分かれ道などの意味があります。 案内板には道祖神の他に樹齢200年の古樹と共同井戸であった古井戸が残されていると書かれていますが、道祖神以外は見当たりません。
道祖神横の路地を少し入ると右手に「新町不動堂」があります。

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新町不動堂

本尊の不動立像は弘法大師作と伝えられ、初めは甲府市羽黒に安置されていましたが、後に中央市の浅利村に移り、武田氏の滅亡時に焼失し現在地へ移転したとされます。当時は光善寺というお寺がありましたが廃寺となり、今は不動堂の中に本尊が安置されています。

甲州街道へ戻り、すぐ先右手個人邸の庭に石碑があり、さらに60mほど進み左手の路地へ入り、2軒目の個人邸の庭に「明治天皇龍王御小休跡碑」があります。

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山県昌樹(斎宮)宅跡

山県大弐の兄で山県昌樹の旧宅跡です。斎宮は号です。竜王新町に住み、農業を営んでいました。1767年(明和4)大弐の事件に連座して駿河へ追放されました。

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明治天皇龍王御小休跡碑

1880年(明治13)の山梨巡幸の際、龍王村の小宮山家にて休憩されました。
少し進むと左手に称念寺があり、さらにJR中央線を越えると左手に小さな祠、「竜王新町中の道祖神」があり、その先300mほど左手に文字道祖神の「竜王新町上の道祖神」があります。

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称念寺

1606年(慶長11)創建、心誉安人により開山。資料には本尊は石造りの六地蔵と記されています。

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くり抜き石枠井戸

一枚岩を加工された石枠は市内でも少なく、井戸と共に現存しているのはわずかです。上水道ができるまで付近集落の生活用水として利用されてきました。甲州街道に面していたため往来する旅人が休憩し、古くから「お休み井戸」とも呼ばれていました。

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六地蔵尊

この石造りの六地蔵がご本尊でしょうか。江戸時代初期の作と伝わり、元は寛政年間(1624〜1644年)に赤坂諏訪神社付近に創建された地蔵院の本尊であったと伝えられています。明治初期に廃寺となったのち村の石橋に転用されましたが、大正期に掘り出され称念寺へ祀られました。
石橋にされてしまったくらいですから、御本尊ではないですね。

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竜王新町中の道祖神

小さな古い石祠ですが大きな台座に祀られ、お供えもされていて、大切にされているようですね。

竜王新町

1605年(慶長10)徳川家康によって竜王村の新田として取り立てられたのに始まり、信玄堤の水防を義務付けられ、これにより46軒が屋敷年貢諸役御免許とされました。1646年(正保3)には代官岩波七郎右衛門により新たに16軒を取り立て、計62軒が特権を与えられ、竜王村と同様に「御川除御奉公」を務めました。

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竜王新町上の道祖神

自然石に「道祖大神」と刻まれています。
ここから少し遠いのですが、「信玄堤」へ寄り道していきます。道祖神を過ぎてすぐに左へ曲がり、300mほどで「慈照寺」があります。

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慈照寺入口

慈照寺の前身、真言宗法城寺の創建は不明ですが、1489年(延徳元)、曹洞宗に改め「慈照寺」を創建したと伝わります。寺記や1868年(慶応4)の由緒書によれば開祖は甲斐武田氏家臣である諸角豊後守昌清とされます。

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慈照寺山門

1639年(寛永16)に建てられたもので、上部には五百羅漢が祀られています。
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慈照寺本堂と庫裏

本堂は慶安年間(1648〜52)の建立とされます。

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梵鐘

刻銘によると1647年(正保4)に慈照寺の檀徒の浄財によって奉納され、相州千津嶋(神奈川県南足柄市)に住む鋳物師、石墟五郎右衛門重次、喜兵次重久の2人によって制作されたものです。時の鐘として数百年にわたり使用されてきました。

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竜王水

「竜王」の地名の由来となったとも言われる湧水です。古くから地域の重要な生活用水となっていました。現在水源は、小屋の中にあります。 伝承では信玄堤の北方、高岩の下に通称「竜王潭」という川の水深が深い場所があり、そこに悪竜がいました。慈照寺の開祖、真翁宗見禅師は悪竜に善を説き更生させたところ、竜王潭の主が白髪の老翁の姿になり、礼を述べました。翌朝、禅師が以前から願っていた清水が本堂の前庭より湧き出しており、「竜王水」と呼ぶようになったと言われています。
本堂左手から墓地へ向かっていくと墓地入口右手に「猫石」があります。

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猫石

寺の和尚は長年猫を可愛がっていました。あるとき猫は寺を出て行き、甲府の旗本渡辺家の葬式で怪物に化けてその棺を奪いさってしまいました。人々が化け猫を追ってくると、龍王の慈照寺に入ったので、渡辺家はここを菩提寺としてその棺を葬り、そのおかげで寺は繁栄したとされます。和尚さんは猫の霊に感謝し、猫塚を建てて供養したということです。
墓地には入らず、右手の細い階段を上っていくと「諸角豊後守昌清供養塔」がありました。

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諸角豊後守昌清供養塔

諸角昌清は、近年は室住虎光と記されることが多く、武田家の譜代家臣でした。 1561年(永禄4)、第4次川中島の戦いに出陣し討死しましたが、なんとこの時81歳だったとされます。一時上杉方に首を取られましたが、与力の成瀬正一と石黒五郎兵衛が取り戻したといいます。墓とされる史跡は川中島に近い長野市稲里町にあります。

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双体道祖神

慈照寺をあとに西へ向かいます。竜王北小学校下、竜王北中学校下を通りJR中央線を越え、竜王バイパスの側道を進みバイパスの下をくぐると右手突き当りに双体道祖神があり、さらに竜王バイパスに沿う細道から「三社神社」へ向かいます。
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三社神社

石鳥居の額裏には1652年(承応元)とありますが、これは修理した年代で建立はもっと古く、桃山時代の造立と考えられています。 創建は不明ですが、825年(天長2)国中地域に未曾有の水害が起こったあとに、水防祈願のため川除祭を行ったと伝えられる古社です。

現在の本殿は1686年(貞享3)に建立。1707年(宝永4)に修築されていることがわかっています。屋根は1966年(昭和41)に檜皮葺から銅板葺に替えられています。 1874年(明治7)までは一宮、二宮、三宮の三社が合同で信玄堤上にて水防の祭事として「神幸祭(みゆきまつり)」が行われていました。

三社神社から釜無川へ向かうと左手にみゆきはし、右手に築堤本陣跡碑、その奥に用水隧道開削碑、さらに川に近い場所に「聖牛」がありました。

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みゆきはしと築堤本陣跡碑

築堤工事の祭、今で言う現場事務所が置かれた場所でしょう。

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用水隧道開削碑(中央)

1636年(寛永13)釜無川からの取水のため高岩に隧道を開削し、富竹新田に至る用水路(堰)を完成させました。甲州代官解頭、平岡次郎右衛門和由の徳を讃え、富竹新田村の村民が建立したものです。

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聖牛

聖牛は洪水の流れを弱めるために考えられた古い河川工法の一つで、戦国時代の甲州が発祥地と言われています。聖牛は大中小に分類されていますが、設置されているものは「中聖牛」です。
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信玄堤

甲府盆地には東から笛吹川、西から釜無川、御勅使(みだい)川が流れています。どの川も暴れ川でした。往時は「竜王御川除」と呼ばれていました。信玄堤は戦国時代、武田信玄の命により造られたといわれ、また御勅使川と釜無川の洪水の流れを高岩に当てて洪水の勢いを弱めていました。信玄堤を中心とする大規模な治水工事により甲府盆地は水害から守られるとともに、多くの新田開発が可能になりました。

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宝暦年間の「おみゆきさん」

おみゆきさんは、一宮町浅間神社のお祭りで、その由来は平安時代に甲府盆地西側の水害を治めるために朝廷から命じられたことに始まり、戦国時代には信玄が祭主となり甲州の治水を祈らせたとされます。
トイレの横に潤澤興郷之碑と竜王用水施設整備記念之碑があります。

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潤澤興郷之碑と竜王用水施設整備記念之碑

江戸時代の絵図では高岩の前に集まった釜無川の水はトンネルを開けて取り込まれていることがわかります。これが「竜王用水」と呼ばれます。信玄堤が築かれて以来、甲府盆地の竜王地区を潤す用水として現在も大切な役割を果たしています。

およそ1.3kmの道のりを甲州街道へ戻ります。竜王新町上の道祖神から甲州街道を再び歩きだします。

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赤坂

竜王新町上の道祖神から甲州街道を再び歩きだします。すぐに「赤坂」と呼ばれた上り坂となります。

坂の途中の右手に大きな「赤坂供養塔」があり、すぐ先左手に「道祖神」があります。

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赤坂供養塔

長旅に疲れた旅人の行き倒れが多かったため、その供養と旅の安全を祈って建立されたものです。 「一蓮寺法阿本暁上人」の名が刻まれています。一蓮寺は甲府市太田町に所在する時宗の寺院です。裏面には念仏講の世話人29名と有志7名のほか地代寄進者と石工が刻まれています。安政年間(1854〜60)に建立されたとみられます。 明治期に中宿の竜王川の橋として利用され、1886年(明治19)元の場所へ戻され、1891年(明治24)に現在地へ移されました。

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道祖神

小さな道祖神ですが、甲州道中分間延絵図に描かれているものだと思われます。

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甲州道中分間延絵図「竜王新町」

赤坂供養塔や向かいの道祖神も描かれています。また赤坂諏訪神社の手前に茶屋があったようですね。

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赤坂諏訪神社

創建年不詳ですが、永禄の番帳に神社の記載があったことから1569年以前の創建と思われます。鳥居の扁額には1713年(正徳3)の銘があります。
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赤坂諏訪神社

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武田宮・東照宮

赤坂諏訪神社には多くの境内社が祀られています。

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赤坂稲荷神社と境内社

往還左手にあった赤坂稲荷神社は、赤坂諏訪神社へ移されたようです。境内社として大嶽山、秋葉神社、金峰神社、蚕神などが祀られています。

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岩波霊神?

赤坂諏訪神社内に「岩波霊神」が祀られていると記されていますが、どの社なのかわかりません。資料によると代官岩波七郎右衛門の徳を慕い「岩波霊神」として祀られているそうですが・・・生き神だったと推定されています。
諏訪神社の近くには「岩清水」という井水があり、涸れることがなかったとされますが、無くなってしまったのか、見つけることはできませんでした。

赤坂を上りきった左手のクリーンエネルギーセンターを見ながら進み台地の上にでます。セブンイレブン手前の潰れたラブホテル付近の角にトタン屋根の中に石仏群があります。

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クリーンエネルギーセンター

県営26の水力発電所の集中監視制御と、併せてクリーンエネルギーの啓発を行うための施設だそうです。

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赤坂道標

雑草が繁茂する覆屋へ草を分けながら入っていくと、水神や墓石などとともに道標がありました。合掌像の両脇に「右江戸道 左五ケ村道」と彫られています。

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二十三夜塔

甲州街道と竜王から御嶽道へ続く交差点に二十三夜塔があり、1819年(文政2)の銘があります。また、赤坂を上り詰めたところに往時は三軒の茶屋があり、昭和初期まで民家が残っていたといいます。
二十三夜塔から100mほど進み左手旧道へ入っていきます。旧道へ入るとやっと静かな旧道らしい佇まいになります。道なりに進み、大きなカーブを左へ曲がっていくとすぐ左手に「庚申供養塔」があります。そのすぐ先、枡形に下今井の道標があります。

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庚申供養塔

庚申供養塔は1793年(寛政5)建立です。この付近には「教福寺」や「観音堂」がありましたが、現在はないですね。供養塔が名残かもしれません。

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下今井の道標

新旧2つの道標があり、甲州街道と市川(市川三郷)への分岐点になります。古いものには「従是左甲府 従是右市川」とあり、1693年(元禄6)に建立されたものです。新しい道標は「庚申 右市川駿州 左甲府江 信心中」と刻まれ、1846年(弘化3)に建立されたものです。
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下今井

下今井村には立場がありました。また、1794年(寛政6)刊行、島田登高によって著された「孝女松伝」で知られた満津は下今井村の百姓、儀右衛門の娘でした。

下今井の街道右手には自性院があり、その先130m右手に「双体道祖神」があります。

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自性院

元は真言宗でしたが、1570年(元亀元)界翁和尚が開山となり、曹洞宗に改めました。1972年(昭和47)隣接の林泉院と合併しました。林泉院は1581年(天正9)独翁長尊を開山として創建された寺院でした。 参道の石畳は1765年(明和2)に敷設されたもののようです。

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旧家と双体道祖神

風化が激しい双体道祖神ですが、台座に「天保二年(1831)卯正月」と刻まれています。

下今井上町交差点は右手旧道の細道へ入り、バイパス下を過ぎると左手に丸形の「下今井(上町)道祖神」が祀られています。

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下今井(上町)道祖神

別の場所から移設されたものだそうです。

雪だるまみたいですね。

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中央線のトンネル

すぐ先にはレトロなレンガ造りの中央線の高架下をくぐり、右へ曲がると県道となり、中央線沿いを進みます。しばらく進むと右手に大きな「泣石」があります。

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泣石

元々は現在地より100mほど南東にありました。昔は中央部より水が流れ出ていたそうですが、鉄道の開通とともに水脈が絶たれてしまいました。

1582年(天正10)高遠城が落城すると、武田勝頼一行は完成したばかりの新府城に自ら火を放ち岩殿城に落ち延びようとしました。途中、勝頼夫人はこの地で燃える新府城を振り返り、涙を流したとの言い伝えがあります。
13:15 200mほどで塩崎駅入口へ到着です。今日はここまでにし、甲府駅へ停めてある車をピックアップし、またまたほったらかし温泉でゆっくりして帰宅します。