2021年4月10日
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11:20 府中本町駅から出発します。府中本町駅を東から出るとすぐに「武蔵国府跡」があり、広い公園になっています。
国司館復元模型
1/10サイズで復元、国司が赴任したときの儀式が行われている様子を再現しています。野口仮屋
昔、大國魂神が府中に降臨した際に、野口家が宿を提供したという古事にならい、例大祭には「野口仮屋の儀」が行われます。宮司を含め神職一同が仮屋の主人野口氏より古式に従った接待を受けるものです。 野口仮屋を見学後は路地を北へ向かい、ようやく甲州街道へ戻ってきました。甲州街道を西へ向かうとすぐ右手に「四人部屋跡」の標柱があります。御旅所・高札場跡
ここは「札の辻」と呼ばれ、甲州街道、川越街道及び相州街道が交差する府中宿の中心地でした。川越街道は青梅街道の多摩郡小川村からさらに北の入間郡所沢町、川越城下町へ至る道でした。 現在の高札場は江戸時代後期から末期にかけて造られたと推定されています。高札場の裏は大國魂神社の御旅所となっています。善明寺・府中小唄歌碑
江戸時代中期の1744年(延享元)、神学者依田伊織が、天台宗安養寺末寺の善明寺を、現在地に移転、諸堂を造立したもので、「伊織屋敷」とも呼ばれていました。。寺宝としては、刀鍛冶、藤原助近作の「大鉄仏阿弥陀如来坐像」及びその胎内仏とされる「小鉄仏阿弥陀如来立像」が安置されています。共に国指定の重要文化財です。府中小唄
昭和4年に誕生して以来、市民に親しまれている「府中小唄」の歌詞が刻まれた石碑が府中小唄のゆかりの場所6か所に設置されています。ここには、善明寺の金仏さまが登場する4番の石碑があります。 府中小唄4番歌詞:♪ハァ、恋のかけ橋 金仏さまもヨ ひとり渡りは ササラサイサイ ひとり渡りは なさりゃせぬ あれは身ごもり 金仏さん 身重がわるけりゃ お詫びする サアサ ヤッサキタ ササラ サイサイ西園寺実満
西園寺実満は1843年(天保14)京都の公家西園寺家に生まれました。高安寺に眠る木曽源太郎とは親しい間柄であり、共に国事に奔走した勤皇の志士でした。1863年(文久3)の生野の変(尊皇攘夷派が但馬生野に挙兵し生野代官所を占拠した事件)には源太郎と共に参加、明治維新後は一時太政官に出仕し、国学、漢学、詩歌に長じ、書も優れていたため、神田一ツ橋に温和学堂を開き、門弟の教育にあたりました。姪が善明寺の室(妻?)であったため、老後はここで過ごし1918年(大正7)74歳で亡くなりました。依田伊織
1681年(天和元)府中本町の旧家に生まれ、本名は五十嵐貞鎮(さだかね)通称を定右衛門、後に?無為と称しました。神道・儒教・仏教の三教一致を説いた大成教を信仰し、その研究と普及に務め、「本紀筏」など百数十巻の著作を残しています。1744年(延享元)には府中本町の屋敷を提供して善明寺を改修しました。1764年(明和元)上野谷中で病死し善明寺に葬られました。花蔵院
開山は不詳ですが、1537年(天文6)阿闍梨祐秀によって中興されたといいます。その後、1705年、法印宥盛が再興、1863年(文久3)下河原の火災で山門などを焼失。翌元1864年(元治元)に再建されました。江戸時代から府中の商工の職人たちが太子講を組織した名残で太子堂が残っています。 花蔵院から甲州街道へ戻ります。土蔵を改装した家
甲州街道へ戻り街道を突き抜け少し北へ入ると右手に古木、向かいに稲荷神社があります。番場宿跡
府中宿は3宿で構成され、東から新宿・本町・番場宿となっており、ここは最後の番場宿の中心地でした。宿継ぎは上十日、下十日を本町と番場宿で務め中十日を新宿が務めていました。高安寺
平将門を征伐したことで知られる藤原秀郷が武蔵の守となったときの館跡といわれ、当初は「市川山見性寺」として建立されましたが、足利尊氏が征夷大将軍となると安国利生の祈願所として龍門山高安護国禅寺を暦應年間(1338〜1342)に再建、大徹心悟禅師の開山でした。 往時は大伽藍で塔頭(たっちゅう)10院、末寺75院、寺領も広大だったとされます。戦国時代にはしばしば将軍家の陣所となり、北条氏の庇護もありましたが衰退していきました。慶長年間に青梅の海禅寺第七世関州徳光禅師により中興され今日へ至ります。 立派な山門は1857〜1872(安政4〜明治5)にかけて、時の住職哲苗により建立されました。両脇には仁王像が安置されています。 山門をくぐりすぐ左手の小さな石碑が「宮崎素洲句碑」です。本堂と時の鐘
時の鐘は、谷保の「かなや」親子が1858年(安政5)に鋳造したものです。石橋供養塔・棒屋の坂
野川に架かる弁慶橋のたもとにあった石橋供養塔と解説がありますが、分間延絵図では「観音堂土橋」となっています。明治4年建立。「願主 関口勘右衛門」と刻まれています。 坂を下りきった場所に屋号「棒屋」があったため「棒屋の坂」と呼ばれていました。徳川家康によって甲州街道が整備される以前はもっと南寄りの狭いハケ道を通っており、今でも所々残っており往時の面影が残っているようです。 少し戻って左折し、分倍河原駅方面へ寄り道していきます。分倍河原駅前のバスターミナルに「新田義貞公之像」がありました。石橋供養塔・光明院坂
慶應4年建立、常久邑(村)、願主、関田勘右衛門、世話人、分梅中」と彫られています。勇○という人の短歌が刻まれていますが・・達筆すぎてなんと書いてあるのかわかりません・・・ 光明院坂は鎌倉街道であると案内板には書いてありますが、別名を「根ツ子坂」ともいわれ、以前道が荒れていた頃道の両側に木の根がわだかまっていたことによると言われています。 市川(府中用水)には光明橋が架かっていました。市川の流れは美しく、小魚の種類は豊富で夏には蛍の名所であったそうです。江戸初期の甲州街道
江戸初期の甲州街道は大国魂神社から府中本町駅を越え、鎌倉街道を進み分梅駐在所で鎌倉街道と分かれ、 御猟場道を西へ進んでいました。この分梅碑から御猟場道へ入り800mほど進むとNECの工場があり、工場内に「本宿一里塚」があります。谷保天満宮へ向かい、万願寺一里塚へ、日野警察署へ至り、享保以降の甲州街道と合流し日野宿へ入っていました。光明院・陣街道
創建年は不詳ですが、1316年(正和5)北条氏の家臣、肥後守義継が分倍河原の戦場での戦没者の供養塔を作り天正年間(1573〜92)に祐秀を中興開山として再興されたといいます。 光明院の前の道は、中世には軍勢が陣立てして往来したことから「陣街道」と呼ばれていました。鎌倉街道、浅間道、分倍道の別名があります。江戸名所図会に描かれた『陣街道・分倍』
中央に描かれるのが陣街道、「天王森」とあるのが天王宮八雲神社、石碑のようなものは「元応の板碑」でしょうか。右手に描かれている「首塚」は浅間神社から右へ曲がり100mほどの場所に「首塚古墳」として残っています。天王宮八雲神社・元応の板碑
古くは天王宮と呼ばれていましたが、創建は不明です。境内の東北隅には1319年(元応元)の大木に抱かれた石板碑が残ることからそれ以前から存在していたと思われます。 現在置かれている「元応の板碑」は複製されたものです。1319年(元応元)大蔵近之という人物が亡き父親、道仏の17年忌追悼供養のために建立したものと考えられています。本物はどこかの博物館に保管されているのか・・調べてみましたがどこにあるのかは不明でした。 さらに150m左手に小さな浅間神社があり、門前に「屋敷分の碑」、「庚申塔」があります。浅間神社・庚申塔
浅間神社前の庚申塔は1674年(延宝2)建立、府中市内では最も古い庚申塔です。一時府中市郷土館に移されましたが、平成13年に元の浅間神社へ戻されました。本宿村 常夜燈・西府村役場跡
度重なる火災のため、本宿村では「講」を作り遠江(とおとうみ、現在の静岡)の秋葉神社で火伏せの祈願をし、1792年(寛政4)常夜灯を設けました。村内に「番帖」を廻し受領者は常夜灯に火をつけ無事を祈り、隣へと引き継ぎ、この制度は太平洋戦争の頃まで続けられたといいます。西府村役場跡
明治22年に四ツ谷、本宿、中河原の三ヶ村が合併して「西府村」となり、明治35年、ここへ役場が置かれました。昭和29年には府中町、西府町、多磨村が合併し府中市となりますが、村役場は府中市役所西部出張所として使用されていました。平成元年には文化センター内へ移転されました。御嶽塚
直径約25mの墳丘とその周囲に幅約7mの溝がめぐる円墳でした。江戸時代には信仰の対象として祀られていました。塚上の祠には「御嶽大権現 安政五午年 十一月吉日 小野宮 願主 内藤伊助」の銘があります。 御嶽塚から南ヘ向かい、ハケ(段丘崖)上をハケに沿って250m進とハケを降りる階段があり、下りていくと右手のハケから湧水が流れています。西府町湧水
東京の名湧水57選に選ばれている府中崖線から湧き出ている湧水です。水量は少ないですが、都会の中の貴重な湧水です。 さて、目的の「西府町湧水」を見ることができましたので、甲州街道へ戻ります。南武線を越えられる場所がなかなかなく、800mほどかなり大回りしてようやく熊野神社手前から甲州街道へ戻りました。内藤道・庚申道・庚申塔
内藤道は国分寺村の内藤新田へ通じる道だったことに由来します。明治時代まで沿道にはほとんど人家はなく、畑と雑木林でした。その先には1782年(天明2)の庚申塔があり、秩父道と子の権現の道標となっていたそうですが、案内板にはこの庚申道標は現在熊野神社内にあると書かれていますが、熊野神社では庚申塔が見当たらなかったです。 交差点には庚申塔がありますが、この庚申塔が道標になっていたのでは・・?庚申道はほかに「わらつけ道」、「いな道」、「寺道」とも呼ばれていたようです。 甲州街道へ戻り850m、右手アパート前に石碑がありました。そのすぐ先が旧本田家住宅です。本田家の東側の路地を奥へ進と左手に「本田道庚申塔」があります。旧本田家住宅・本田道庚申塔
本田家は江戸時代、下谷保村の名主を務めていました。幕府の馬医者を努めていたため銅葺、4本柱の薬医門で客は馬に乗ったまま門をくぐれるようになっていました。現在は空家のようで、老朽化が進んでいます。 「本田道庚申塔」には右側面に「川ごへ道 庚申待講中」、左側面に「左子のごんげん ちゝぶ道 寛政五癸丑年四月吉日」と刻まれています。1793年(寛政5)の造立です。 本田家から50m、右手に常夜燈があります。第六天神社・清原元輔歌碑
『わが宿の千世のか わ竹ふし遠みさも行く末の遥なるかな』
清原元輔は三十六歌仙(平安時代の和歌の名人36人)の一人で、藤原定家の『百人一首』にも選ばれています。肥後守で、清少納言の父でもあります。 歌碑は1841年(天保12) 菅原以長の筆で石坂実福の門人が建立したとされます。 堂前の『競技場改修記念碑』は1936年(昭和11)建立、かつて梅林が下谷保青年団の陸上競技場であった頃のものだそうです。谷保天満宮(天神之社)
菅原道真を祀った神社で、湯島天神、亀戸天神と並んで関東3大天神と言われています。菅原道真が大宰府に流された時に、道真の三男、道武はこの地に流されました。道真の死後、道武がその姿を彫って祀ったものが谷保天満宮の始まりとされます。江戸名所図会に描かれた谷保天満宮
仮谷坂や安楽寺、常磐の清水なども描かれています。 谷保天満宮を奥へ進み、梅の花はもう終わっていますが梅林へ向かいます。梅林には文学碑や記念碑が点在しています。孝林道人詩碑・不老軒うたた句碑
孝林道人は南養寺22世孝林碩慶 、七言絶句で漢詩が書かれています。詩碑は1858年(安政5)頃の建立。『空に香の満てや(梅)に日の匂ふ』
不老軒うたたは文化文政年間に豆腐屋をしながら俳句や狂歌を創作していた戯作者です。蜀山人(大田南畝)などとも交友がありました。山口瞳文学碑・原田重久文学碑
谷保天満宮の祭りを描写した『週刊新潮』に連載されたエッセイ「男性自身」の「祭り」の一節が彫られているそうです。山口瞳は女性っぽい名前ですが、男性の作家でエッセイストです。1926年(昭和元)現在の大田区に生まれ、サントリーでコピーライターを経て作家として活躍しています。毎年梅の咲く頃に谷保天満宮の梅林で宴会をしていたそうです。『風落ちて青田の秩序戻りけり』
原田重久は1901年(明治34)、谷保村生まれ、青年期より短歌・俳句・詩・小説等の創作に励み、昭和21「東京都歌」を作詞、昭和24年よりNHK専属の放送台本を執筆、郷土史の研究も行い「国立風土記」ほか30冊を残しています。碑は昭和56年に建立しました。谷保厳島神社・常磐の清水
延宝年間(1673〜1681)に筑紫の僧坊が谷保天満宮に詣でたところ、この泉を見て「とこはに湧ける泉のいやさやに神の宮居の瑞垣となせり」と詠みました。これが「常磐の清水」の名の起こりと伝えられています。昔は付近の人々の井戸として使用されていました。 16:40 本日はここまでにし、南武線「谷保駅」から帰宅します。寄り道しすぎました。全然進んでいないですね〜