2022年10月8日

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9:00 石和駅を出発します。本日は甲府駅北口のコインパーキングへ車を停め、JR中央線で石和温泉駅へやってきました。南口より駅を出て南下します。石和温泉駅から甲州街道までは約800m、かなりの距離があります。

石和温泉駅入口交差点が甲州街道です。ここで右へ曲がり甲州街道を130m右手が「山伏花蔵院」があった場所といわれますが、現在は何も残っていません。

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山伏花蔵院跡

1487年(文明19)甲斐に入った聖護院道興の「廻国雑記」によると山伏花蔵院に10日ほど宿泊しており、武田刑部(信昌)大輔と酒を酌み交わり親交を深めています。
さらに170mほどで、往時の笛吹川を「甲運橋」で渡ります。渡ると右手に「甲運橋の道標」、すぐ先に「甲運橋碑」があります。

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甲運橋

甲運橋を越えると甲府市へ入ります。現在は、近津用水となっていますが往時はこのあたりが「笛吹川」でした。ここで笛吹市から甲府市へ入ります。

笛吹川の渡し(川田河岸)

江戸時代、4月~11月までは舟渡し、11月~3月までは仮橋が架けられていました。両岸には石和と川田の津出場(年貢米回送のための船つき場)がありました。また、石和の河岸からは身延詣の舟が下りました。笛吹川のこの位置に甲運橋が架橋されたのは1874年(明治7)、1907年(明治40)の大水害後に笛吹川の流路が変更され現在は近津用水、第2平等川と呼ばれる小さな河川となりました。

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身延参詣甲州道中膝栗毛「石和」

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甲運橋の道標

下部が埋まっています。1860年(万延元)三星屋の2名により建立された道標です。 「右富士川・大山・東京道」「左甲運橋・甲府・身延道」と彫られています。「東京」については「江戸」と彫られていたものに追刻したもので、「甲運橋」についても1874年(明治7)に架橋したものなので、ここも改変されています。
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甲運橋碑

1874年(明治7)長さ136mの長大な橋が完成しましたが、1907年(明治40)の水害で橋は流され、笛吹川は石和の東を流れるように変更されました。甲運橋碑の隣にはこの碑が水害で流されたのち、元の位置に戻された経緯が記されています。

200mほど進み、平等川を渡ると左手にセブンイレブン、その向かいに大きな「平等川改修記念碑」がありました。

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平等川改修記念碑

1907年(明治40)の大洪水を受けて笛吹川の流路変更が行われ、大正時代から昭和初期にかけて平等川が改修されていった経緯が記されている石碑です。1941年(昭和16)建立。
さらに150m、川田町交差点より甲州街道を離れ右へ入っていきます。突き当りが「川田館跡」、右へ曲がり1つ目の路地を左、さらに1つ目の路地を左へ曲がると右手に「三ツ俣(大井俣)」があります。

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川田館跡の旧家

立派な長屋門や土蔵が残る旧家の周囲には三ツ俣から流れてきた水路があります。かつての水堀でしょうか。この民家付近が「御厩屋敷」と呼ばれていたようです。

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川田館跡

「甲斐国志」によると武田信玄の父、信虎の祖父である信昌が15世紀後半に築いたと言われますが、「王代記」によると信虎が築いたと記されています。1519年(永正16)に躑躅ヶ崎へ館を移すまでここが甲斐国の中心地でした。今は何も残されていませんが、「御所曲輪」「御厩屋敷」など城に関する地名が伝わっています。

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三ツ俣(大井俣)

農地の奥にあるためあまり近くには行けなかったのですが、ぶどう畑の奥にわずかに見ることができました。 往時は笛吹川から取水した水を川田・桜井・和戸の各方面へ3分する施設です。川田館の堀はこの内の2筋の水路を引いていました。笛吹川の瀬替え後は平等川より取水しています。

三ツ俣からさらに奥へぶどう畑の中の細い路地を進み、左へ曲がると「二宮神社」、右手に「寿徳院」がありました。

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二宮神社(二宮大明神)

創建は不詳とされますが、863年(貞観5)創建とも言われています。用水の取水口近くにあったことから「大井俣神社」とも呼ばれ、古くから河川の分岐点の鎮守として祀られていました。武田家が館を設ける際に鎮守社として奉詞、二之宮と尊称しました。

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寿徳院

1560年(永禄3)の創建、永昌院4代の悟宗純嘉により開山。武田信玄も帰依し、本堂屋根には武田菱が掲げられています。

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二宮神社からは真っ直ぐ南へ向かい、甲州街道へ戻ります。甲州街道は国道となり周囲には公共施設が多いです。近代化された中、所々に旧家が見られ、350mほど進むと右手の一角に真新しい丸形道祖神、周囲には古い石仏が数体祀られています。
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道祖神が祀られる「和戸町」

和戸町は平安期この付近を中心として栄えた「表門郷(うわとのごう)」の遺称で、「郷」とは奈良時代に50戸をもって編成された行政村落のことであり、地名の由来から古くから集落が発達していたことが知られています。

道祖神から360m、駐車場と民家の間の細い路地を左へ入り、突き当りを右へ用水路沿いに130m進み左手ぶどう畑の入口奥に「在原塚」があります。

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在原塚(琴塚)

在原滋春は右中将・在原業平の三男(現地案内板では次男)で、平安時代前期の歌人でした。長く在原家に仕えた甲斐の人を葬るため、甲斐へやってきましたが、病気に倒れこの地で亡くなったとされます。『かりそめの行き交い路と想いしに 今は限りの門出なりけり』その時に母に残した辞世の歌です。

甲州街道へ戻り750m、十郎川を十郎大橋で渡りすぐ先右手に小さな「一石六地蔵」が佇んでいます。

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一石六地蔵

甲斐では一石六地蔵が多く見られますね。

300m先、山崎三叉路を右へ曲がり、JR中央線の踏切を渡ると左手に「摩利支天尊堂」、右手は「甲斐の古道歴史公園」があります。
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摩利支天尊堂

伝説では昔このあたりに疫病が流行った時、力丞(りきじょう)という人が21日間の祈祷をし、病が治まったので、ここにお堂を建て後に江戸深川からご本尊をもらいうけたと伝えられています。

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甲斐の古道歴史公園

甲斐の古道は昔から甲斐九筋(若彦路・中道往還・駿州往還・鎌倉街道・秩父往還・青梅街道・穂坂路・逸見路・棒道)と呼ばれ、この場所が甲斐九筋の起点とされる交通の要衝でした。山崎三叉路は青梅街道・秩父往還の起点、甲州街道の分岐点でした。
甲州街道へ戻ると右手にポケットパークがあり、すぐ先右手に「山崎刑場跡」があります。大きな題目碑が目印です。

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山崎刑場跡

中央の題目碑は身延山58世日環によるもので、周囲には六地蔵、無縫塔、墓塔などが残されています。1936年(昭和11)発刊の「夏草道中記」によると切捨場2箇所、首洗井戸4箇所、骨捨井戸1箇所があったと記されています。1872年(明治5)の「大小切事件」の処刑が最後です。

大小切事件

江戸時代の甲州では「大小切」と呼ばれる年貢の納入方法が取られており、明治初年まで続いていました。明治政府は全国統一の税制とするため、1872年(明治5)山梨県令土肥実匡により「甲州大小切税法」の廃止を通達。これにより疑義を唱える県下97ケ村の農民が決起したのが「大小切騒動」でした。農民は古府中の大泉寺へ集まり嘆願書を提出。次第に拡大し万力、栗原を中心に付近の村々を合わせ数千人にも及び、竹槍やカマを振りかざし鐘を打ち鳴らして県庁へ押し寄せました。一部は暴徒化し山田町の豪商を襲い、生糸や家財を道路へ投げ出し火をかけました。この状況に県は農民の要求を受け入れざるを得ませんでしたが、20日ほど経つと静岡県、東京から軍隊を呼び、兵力の増強を図り全力で首謀者の検挙にとりかかりました。

さらにこの山崎刑場で処刑されたお話を2つほど紹介します。

甲府城 御金蔵破り

1734年(享保19)鶴瀬に住む次郎兵衛の養父、伝右衛門の家が全焼した。伝右衛門は水呑百姓であったが、勝沼の街道沿いに捨てられていた次郎兵衛を拾い育ててくれた恩人である。家を建ててやりたいが、金がない。 そこで、甲府城の御金蔵破りを思いつく。次郎兵衛はかつて仲間(チュウゲン・従者)として城勤めをしていた経験があった。警備が手薄な冷え込む夜中に盗んだ小判は393両、現在の価値で1億円以上。小判は分散して隠し、すぐに使用すると目につくので普段通りに過ごした。7~8年をかけて養父の家を建て、自宅の改造、田畑の購入をしたが、それでも村人たちからは羽振りがよくなったと見られてしまった。1742年(寛保2)とうとう次郎兵衛は連行されてしまった。口が固くなかなか白状しなかったが、拷問により自供し、自供した場所からは127両が掘り出された。山崎刑場で処刑された一人である。

幕末の偽勅使騒動

1866年(慶応4)鳥羽伏見の戦いに幕軍が敗走したのちのこと、勅使高松皇太后官少進の先鋒として後見役の小沢雅楽助と自称する一隊が甲府へ入ってきた。挨拶に来た駿河守に書付を取り出し、甲府城を引き渡すための勅使が後に到着すると伝えられる。役人は江戸の指示を仰ぐため待ってもらい、接待を行っていたが、勅使はなかなか現れない。1ヶ月の後にようやく勅使が現れる。ところがもう一組の勅使が現れ、どちらも正当性を主張した。そのうち雅楽助の旗色が悪くなってくると城方はどちらもおかしいと感じはじめ、甲府を追い出した。甲府を出た雅楽助達は街道筋で民衆に石や木片を投げつけられ、一行は信州への道を引き返したが、岩倉具視の偽勅使征伐命令を受けた軍の一撃により、逃げ惑ったが韮崎にて捕縛された。小沢雅楽助は以前城下にいた彫刻師の一仙斎であった。結局、目的が何であったのか分からずじまいであったが、山崎刑場にて処刑された。下山の常福寺に墓があるという。

150mほど進み、ガソリンスタンド前に「酒折宮の道標」がありました。

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酒折宮の道標

「酒折宮 日本武命御旧跡 通ぬけ半丁のまはり」往時はここから酒折宮へ行っていたのでしょうか?「半丁の回り道」ということでしょうが、半丁(54.5m)ではとても到着しないのですが・・・
現在はもう少し先が参道になっていますので、もう少し甲州街道を進みます。左手には立派な建物の山梨学院大学。

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山梨学院大学

山梨学院大学を見ながら進むと「酒折宮入口」交差点へ到着。右へ曲がり参道を進みます。
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酒折宮参道

酒折宮の入口交差点近くに「坂垣の一里塚」がありましたが、現在は何も残っていません。往時は榎が植えられていたといいます。

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酒折宮

日本書紀や古事記によると、111年に日本武尊が東国を平定した帰りに、酒折宮に立ち寄り宴を催し、連歌を詠んだことから「連歌発祥の地」とされ、御神体は日本武尊が塩海足尼(しおみのすくね)に「ここにとどまり国を開き民を育め」と授けた火打嚢 (火打ち石を入れる袋)。当初は北側の月見山の中腹にありましたが、いつの頃か現在地へ移されたようです。現在の社殿は、1996年(大正5)に火災で焼失後、1942年(昭和17)に再建されたものです。

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甲斐叢記「酒折宮」

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連歌発祥の地碑

日本武命が酒折宮へ着いた時、「新治、筑波を過ぎて幾夜か寝つる」と歌で問いかけました。側にいた御火焼(みひたま)の翁がこれを受けて「かがなべて、夜は九夜、日には十日を」と歌い、尊はたいそう褒めて東の国造の地位を授けたということで、後に連歌発祥の地として知られるようになりました。
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甲斐叢記「日本武尊酒折宮連歌図」

冷泉中納言為綱「酒折夜雨」

「暮ぬまのあらしはたえてさか折に まくらかる夜の雨になるやど」この歌は甲斐八景の一つに選出されています。甲斐八景は甲斐国の8つの情景を詠んだ和歌で、甲府藩主の柳沢吉里が近江八景の様式に基づいて定めたものです。

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酒折宮寿詞碑

1791年(寛政3)本居宣長は甲斐在住の門弟である萩原元克に依頼され撰文し、その後の1839年(天保10)になり平田篤胤の書によって碑が建立されました。本居宣長と平田篤胤はとともに「国学の四大人」と言われています。

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山縣大弐「酒折祠碑」

山縣大弐撰、加藤翼書、1762年(宝暦12)建立。甲斐出身の国学者である山県大弐が、師である加賀美光章とともに社殿を造営し、この地が東征の故事に記された酒折宮旧址であるとの内容が記してあります。

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辻嵐外の句碑

「月の雲 雲から先に 離れゆき」

辻嵐外は1771年(明和8)敦賀に生まれ、高桑闌更、加藤暁台、五味可都里らに学び、後に甲斐を訪れ甲府に住み、多くの門人を育て「甲斐の山八先生」と呼ばれました。1845年(弘化2)76歳で没しています。
拝殿前の東側から酒折宮境内を出ると石鳥居の左手に小さな道標があります。

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道標

「右せんこうし通り 當(当)やまとけの尊古路 左 とおりぬけせんこうし」

1840年(天保11)建立。
このまま甲州街道へは戻らずに甲斐善光寺へ向かおうと思います。道標から北へ向かい、坂を上っていくと右手に「不老園」があります。

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不老園

梅の名所のようです。今は休園しているようですが、早春に来てみたいですね。

不老園を過ぎ、県道へ突き当たると左手の側道へ入り坂を下っていきます。左手の畑の真ん中に「ポンポコ塚」があり、道が左手に曲がる正面に「玉諸神社拝殿跡」の石鳥居と石碑があります。

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ポンポコ塚

北原扇状地一帯には20基ほどの古墳が散在しています。ポンポコ塚は横穴式の石室があり6~7世紀頃のものと考えられています。昔は「御前塚」と呼ばれ、玉緒神社と関わりがあったようです。背後の御室山山頂付近に石祠があり柴宮神社の摂社として合祀されています。太鼓をボコボコ打ち鳴らしながら御室山へ登り雨乞いの祈願をし、明治の中頃まで続きいつの間にか「ポンポコさん」と呼ばれるようになりました。
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玉諸神社拝殿跡

現在1.2kmほど南の国玉町に鎮座している玉諸神社が元はここにあったようです。

玉諸神社拝殿跡から西へ真っ直ぐ300mほど進むと善光寺の山門前に出ました。

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善光寺山門

1754年(宝暦4)の大火により本堂とともに焼失しましたが、本堂に先立ち1766年(明和4)に再建されました。

山門をくぐり、善光寺境内へ入ります。山門のすぐ先右手に「お咳婆さんの石」がありました。

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お咳婆さんの石

百日咳など咳に苦しむ人が全快した後にはを奉納する約束をして祈願すればご利益があると言われてきました。
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善光寺境内

1555年(弘治元)武田信玄と上杉謙信が激突した川中島の戦いにおいて、戦場が善光寺周辺に及んだため本尊や寺宝を兵火から守るため、1558年(永禄元)本尊を甲府へ移し甲斐善光寺を創建しました。開山は信濃善光寺大本願37世鏡空、開基は武田信玄。

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善光寺本堂(金堂)

現在の本堂は1766年(明和3)~1796年(寛政8)までの30年という長い年月をかけて再建されたものです。天井には江戸の希斎という画家が描いた大きな龍が2頭描かれています。手を叩くと共鳴する「鳴き龍」になっています。

武田家滅亡後、本尊は織田信長により岐阜へ、本能寺の変以降は尾張へ、さらに家康によって遠江へ移されたのち、再び甲府へ帰りました。 その後1597年(慶長2)秀吉の命により京都方広寺大仏殿へ遷座され、翌年信濃善光寺へ戻ることになりました。 甲斐善光寺は1754年(宝暦4)門前からの出火により諸堂をことごとく焼失、1796年(寛政8)本堂が再建されました。

お戒壇めぐり

本堂の中へ入り「お戒壇めぐり」へ。信濃善光寺と同じで、真っ暗な本尊の下部をめぐり錠前を触ることができたらご本尊と縁が結ばれ極楽浄土へいけるというものです。信濃善光寺では足元にフットライトがあり、真っ暗ではなかったのですが、こちらの甲斐善光寺は本当に真っ暗で、手探りで進みなんとか錠前に触ることができました。なかなか面白かったですね。

芭蕉翁月影塚は手水舎の西側にあります。

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芭蕉翁月影塚

「月影や四門四宗も只一つ」

1775年(安永4) 如雪庵尺五により建立。
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加藤光泰の墓

加藤遠江守光泰は、1591年(天正19)から1593年(文禄2)まで甲斐の領主でした。1593年(文禄2)豊臣秀吉の命を受けて朝鮮へ出兵をしますが、同年病死しました。この五輪塔は1739年(元文4)に子孫によって建てられたものです。

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武田信玄像

金堂の東側、歴代住職の墓所の一角に見つけました。この武田信玄、座っているにしても頭と体のバランスがおかしいです、4頭身くらいでしょうか。なんか笑える。1956年(昭和31)に造られたようです。

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善光寺銅鐘・引き摺りの鐘

1313年(正和2)に鋳造され、武田信玄が信州善光寺からから引きずって運んだため、「引き摺りの鐘」と言われます。

甲州善光寺の棟木

昔、遠光寺村というところにお琴という美しい娘がおり、娘には夫となる若者がいました。ある日若者は「私は高畑村にある大きな柳の木の精です。明日、善光寺の棟木になるため切り倒されてしまうためお別れしなくてはなりません」と泣きながら言います。そして「私は切られても千人、二千人の力でも動きませんが、あなたが声をかけてくれたら動きましょう」と言い残すと消えてしまいました。次の日、柳の木は切り倒されてしまいますが、いくら人夫を増やしても全く運ぶことができません。そこでお琴が泣きながら今様(流行歌)を歌うと大木はスルスルと動いたということです。

善光寺もぐるっと一周しましたし、境内の売店でソフトクリームを食べながらしばらく休憩します。

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巨峰ソフトクリーム

う~ん!美味しい!!
善光寺を山門からでて真っ直ぐ甲州街道へ戻ります。JR中央線の高架下を越えると右手の善照寺前に「小松地蔵尊」がありました。

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善照寺の小松地蔵尊

一番右が縁結びにご利益があるといわれる小松地蔵尊で中央が合格祈願にご利益がある六部地蔵尊、左手が交通安全にご利益があると言われる馬頭観音です。
TOO001 ようやく甲州街道へ戻ってきました。

甲州街道を少し進むと頭上には身延線が走り、下をくぐっていきます。すぐ先は枡形になっていてこれを越えると右手に荘厳な旧家があります。

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石川家住宅

甲州道中分間延絵図にも描かれている石川家は、江戸時代から金物屋、繭問屋などを営み、屋号を「河内屋」と称した旧家です。蔵屋敷は1872年(明治5)、他の建物は大正初期の建築とされます。
石川家住宅から900mほど進むと道は再び枡形になっており、これを左へ曲がり再び枡形の手前、左手に「尊体寺」があります。曲がり角が多いのは城下町の特徴の一つですね。

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尊体寺

武田信虎が帰依した忠蓮社弁誉を開山として、1521年(大永元)に7歳で亡くなった竹松君の供養寺として古府中の元柳町(現武田三丁目)に建立され、文禄年間(1592~96)に現在地へ移転しました。
尊体寺の境内には「大久保長安墓所」、「竹松君供養塔」、尊体寺墓地には「山口素堂墓所」、「富田武陵墓所」などがあります。

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大久保長安墓所

甲斐に生まれた大久保長安は石見銀山、佐渡金山奉行を務め、後に甲府代官、伊豆代官と歴任しいずれも金銀の産出を激増させ徳川幕府の財政基盤を確立させました。また中山道や東海道の整備なども行っています。
この卵塔は長安の亡くなった翌年の1614年(慶長19)に建立されたもので、風化して文字は読めない状況ですが、「甲州風物誌」によると「前石川一的朝覚神儀 慶長十九年」と彫られていたようです。かつては尊体寺開山墓所にあったものを移したものです。

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竹松君供養塔

1523年(大永3)、7歳で亡くなった武田信虎の子、竹松君の供養塔です。

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葵御紋の鬼瓦

天正年中(1573~1592)、徳川家康が数度入国した祭、仮館を構えたのが尊躰寺です。1582年(天正10)8月より1583年(天正11)3月まで尊躰寺に滞留、その後一時浜松へ帰城しましたが、同年8月再び尊躰寺へ入山しています。

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山口素堂墓所

「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」の句で知られる山口素堂は、教来石山口(現白州町)出身の学者で俳人。江戸林家で漢学を修め、京都にも遊学し和歌や書道を学び、芭蕉とも交友がありました。甲州では濁川の治水工事を行い、「とくとくの句合」「素堂歌集」などの著書があります。1716年(享保元)没。

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富田武陵墓所

通称は富五郎、号は武陵。1793年(寛政5)江戸から甲府へ移り住み、甲府勝手小普請役で代官町同心組屋敷へ居住し勤番士の師弟に学問の指導を行い、甲府学問所が創設されると教授に迎えられました。この学問所は後に「徴典館」となり、さらには現在の山梨大学教育人間科学部につながっているそうです。1812年(文化9)没。
尊体寺をあとにすぐ隣の教安寺へ入ります。

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教安寺と仙千代墓

教安寺は1504年(永正元)創建、開山は教蓮社便誉。開基は徳川家康の祖父母である信忠でした。また、誓願寺、来迎寺、尊躰寺、瑞泉寺、教安寺を「府内浄土の五か寺」とも呼ばれます。

教安寺境内には1815年(文化12)建立の徳川家康の八男、仙千代の石廟があります。

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甲州道中分間延絵図の「芝居地」・「芝居」

甲府の町人階級の娯楽として広く楽しまれるようになった歌舞伎甲府勤番により江戸からもたらされたものと考えられています。要行寺、八幡宮、普光寺などの境内に仮小屋を建てて興行が行われてきましたが、1764年(明和元)西一条町の亀屋与兵衛が光沢寺地内町に常設の芝居地を設け、翌年教安寺境内に移りました。1803年の甲府大火の後、与兵衛は自宅に劇場「亀屋座」を造りました。1841年(天保12)歌川広重の日記にはこの芝居小屋へ行ったと記されています。

教安寺から甲州街道を140m、瑞泉寺入口交差点を右へ曲がり「瑞泉寺」へ向かいます。150mほどで瑞泉寺の境内へ入ります。

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顔だけの地蔵?

参道に顔だけの地蔵・・・でしょうか?怖いです。
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瑞泉寺と太子堂

1498年(明応7)、武田氏の加護のもと運公上人が鎌倉にあった錦屏山瑞泉寺を古府中に移し造立したのが始まりとされ、1593年(文禄2)甲府城築城計画にともない現在地へ移されたといいます。足利尊氏の四男基氏を開基としています。 1945年(昭和20) 太平洋戦戦争より本尊像、過去帳他を除き諸堂全焼、現在の本堂は1970年(昭和45)に再建されたものです。

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坂田氏の墓

瑞泉寺の墓地には坂田家の墓碑があります。坂田家は武田時代から活躍し、江戸時代には甲府年寄りを務めました。石覆に収まる墓碑は2つあり、一つは「天正」、もう一つには「慶長」が読み取れます。

瑞泉寺からは墓地の南側の路地通り、西へ向かうと右手に小さな「咳乃大明神」と「穴山稲荷神社」が並んで祀られていました。

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咳乃大明神・穴山稲荷神社

いわれなど詳しいことはわかりませんが、咳が治るのかな?
魚町通りへ突き当たると右へ曲がり、100mほど進むと右手の旧甲府市立富士川小学校が「甲府代官所跡」になります。

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甲府代官所跡

甲府代官所は(享保9) 奥野俊勝(忠兵衛)が任じられ、当初は東光寺村の帰命院(甲府市東光寺)を仮陣屋として発足、翌年には現在地に移転しました。1868年(慶応4)に廃されています。

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権太翁頌徳碑

「権太翁頌徳碑」は明治期に甲府市の初等教育に尽力された権太政(ごんだただし)さんの頌徳碑のようです。1849年(嘉永2)生まれ、教師を経て1882年(明治15)に甲府小学校長、琢美小学校長などを歴任。たくさんの蔵書を寄贈し「権太文庫」と呼ばれていたようです。

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小川悠心先生の碑

碑文によると1923年(大正12)富士川小学校初代歯科校医に就任、学校歯科衛生の重要性を訴え、私費を投じて治療設備を整え、翌年より毎日放課後に学校において児童の歯科治療にあたり、学校歯科の先駆者としてその推進に寄与されたとあります。碑は1955年(昭和30)建立。

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富士川小学校の碑

1872年(明治5)に開校された歴史ある富士川小学校は、児童数減少により、2011年(平成22) 閉校、琢美小学校と統合され、善誘館小学校として新設されました。
富士川小学校跡をでて、魚町通りをさらに北へ向かうとすぐに古びた小さな「蛍橋」という橋があります。蛍橋を渡り、JR中央線を越えると「長禅寺」です。

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蛍橋

1929年(昭和4)に架けられた橋で、川辺に多くのホタルが飛んでいたことから名がついたと言われています。上流の三念橋では初夏の風物詩として「ほたる祭」が行われています。

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長禅寺山門

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長禅寺

武田信玄が定めた甲府五山の筆頭にあげられる名刹で、武田信玄の母、大井夫人の墓を1552年(天文21)鮎沢の古長禅寺から躑躅ヶ崎館に近い現在地へ移し創建しました。
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武田信玄公母堂「北之坊霊廟」と三重の塔

大井夫人は甲府の躑躅ヶ崎館から幼い武田信玄を連れて鮎沢の古長禅寺に通い、時の住職・岐秀元伯から学問や兵法を学んでいます。信玄の人間形成に大きな影響を与えたといわれています。1559年(永禄2)武田信玄が出家した際に「機山信玄」という法号を与えたのもこの岐秀元伯だったそうです。

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五重の塔と四重の塔

三重、四重、五重と3つの立派な塔があるのにびっくりです。3つの仏塔があるお寺は長禅寺だけのようです。かなり珍しいですよね。

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大井夫人之墓参詣道

五重の塔と四重の塔を通り奥へ進むと「大井夫人之墓参詣道」と彫られた石碑があり、山道を少し上ると大井夫人の墓所があります。

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大井夫人墓所

武田信虎が駿河へ退隠後、除髪して躑躅ヶ崎館の北曲輪に住んでいました。夫人の死後は甲西町鮎沢にあった長禅寺に葬られましたが、武田信玄が後に甲府に寺を移し、大井夫人を開基としこの長禅寺を開きました。
長禅寺をあとに魚町通りを南へ600m、甲州街道へ戻ります。甲州街道との左手角に「甲州印伝博物館」があります。

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甲州印伝博物館

「印伝」は甲州名物で、鹿のなめし皮に漆で模様をつけたものです。江戸時代には印籠・巾着・早道(銭入)・莨入(タバコ入)など様々なものが作られました。また火事装束に用いられ、頭巾や羽織も作られました。

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身延山尼別院

甲州印伝博物館のすぐ先右手にこじんまりしたお寺がありました。すぐ先左手には「新聞発祥之地碑」がありました。

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新聞発祥之地碑

1872年(明治5)この地で「峡中新聞」が創刊され、後に「山梨日日新聞」になったとのことです。
すぐ先「NTT甲府支店西」交差点が枡形で左へ曲がります。曲がってすぐ左手が甲府柳町本陣跡、その隣が脇本陣でした。

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本陣跡・脇本陣跡

甲府柳町の本陣・脇本陣については詳しい資料がないのですが、本陣は藤井屋庄太郎が務め、脇本陣は佐渡屋幸三郎が務めたと記録されています。

甲府柳町

甲府城下に設けられた宿場で、1843年(天保14)の記録では本陣、脇本陣、問屋が各1軒、34軒の旅籠があったと記されています。城下町特有の枡形が多く作られ、街道からの脇道も多く、甲州道中分間延絵図を見るとたくさんの家が描かれています。

「NTT甲府支店西」交差点から150m、左手に「柳町大神宮」、その先「問屋街入口」交差点右手に往時は問屋がありました。甲州街道は「問屋街入口」交差点を右へ曲がりますが、直進する道は「中道往還」の起点でした。

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柳町大神宮・お伊瀬の森跡

甲州道中分間延絵図には「神明社」として描かれています。武田信虎が躑躅ヶ崎館を築くにあたり、石和館の鎮護のため奉斎し、武田家滅亡後1592年(文禄2)現在地へ移したようです。

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問屋跡

中道往還は、遠光寺村、右左口(うばぐち)村を経て迦葉坂、阿難坂を越え、精進湖・本栖湖畔を経て駿州根原村へ出て、東海道吉原宿に至る往還です。甲州から駿州への三道のうち中間に位置していたため「中道」とも呼ばれました。
「問屋街入口」交差点を右へ曲がり、突き当り左折、1つ目の交差点「桜町南」を右へ曲がり350m、「相生歩道橋」交差点で本日の甲州街道歩きは終わりにし、甲府城跡を見学へ行きます。

「相生歩道橋」交差点を右に曲がり甲府駅へ向けて380m、甲府市役所手前の甲府警察署前交差点で右へ曲がります。このあたりは甲府市の中心地で市役所、裁判所、警察署などが集中しています。

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山梨県道路元標

警察署駐車場前に「山梨県道路元標」がありました。パイプ柵で囲まれ、かなり大切にされています。
さらに2つ先くらいの交差点を左へ曲がり、遊亀橋から甲府城跡へ入りました。

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甲府城

豊臣秀吉の命により浅井長政・幸長によって甲府城は築城されました。築城は江戸の徳川家康を牽制する目的でしたが、江戸幕府が開かれると家康は平岩親吉を城代とし甲斐国を治めました。その後は武田遺臣団を中心とした城番制(武田十二騎)、徳川忠長、再び城番制、徳川綱重、綱豊(後に六代将軍家宣)が城主となり、甲府城は幕府直轄、あるいは徳川家が治める重要な城であったと言えます。甲府に大名が入ったのは1705年(宝永2)甲斐国を受領した柳沢吉保、吉里親子だけです。明治に入ると甲府城は取り壊されてしまいました。
遊亀橋を渡ると広い広場になっており、、その北側に「小田切謙明君頌徳碑」がありました。

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小田切謙明君頌徳碑

1846年(弘化3)甲府生まれの小田切謙明は、明治維新の後に山梨県初の小学校設立に尽力し、山梨県の自由民権運動の中心人物でした。新聞の発行や市議会、県議会議員を歴任し地域振興にも尽力しました。かつて甲府駅前にあった「海州温泉」は開発者であった小田切謙明の雅号から命名されました。1894年(明治26)48歳の若さで亡くなっています。
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石切場跡と水溜場跡

甲府城の石垣の石材はこのような岩山からも切り出されました。岩盤の表面には石を切り出すための古いくさび跡が残されています。 水溜場跡は発掘調査によって初めて確認された水を貯めておく所です。

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稲荷曲輪門

稲荷曲輪と鍛冶曲輪をつなぐ門です。享保の火災でも焼けず、明治初年まで残っていた物を1999年(平成11)に復元しました。

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二重の石垣

石垣の解体調査をしたところ、その背後からも石垣が現れ積み直していることがわかりました。

城内の石垣には鳥や魚、☆×井の記号が描かれているそうです。築城当時に作業の安全を願ったおまじないと考えられていますが・・・じっくり石垣の石を眺めましたが、なかなか見つかりません。
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稲荷櫓

城内の鬼門に位置することから良櫓とも呼ばれ、江戸時代には武具蔵として使われていた建物です。明治初年までは残されていましたが、現在の建物は2004年(平成16)に復元されたものです。

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本丸櫓跡からの景色

甲府城は古くは「一条小山城」、「府中城」などとも呼ばれました。舞鶴城の名は1898年(明治31)の公園指定の折に舞鶴公園としたことから一般化したようです。

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明治天皇御登臨之跡

1880年(明治13)の山梨巡幸において、上野原宿で1泊、野田尻、鳥沢、猿橋、笹子、勝沼、日川、石和、甲府と巡行し、甲府では錦町の師範学校で1泊され、翌日、山梨県庁、静岡裁判所甲府支庁、勧業製糸場を見学され、さらに翌日に甲府城内の勧業試験場において葡萄酒の醸造見学後、天守台跡に上り御仮屋で休息されたそうです。

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鉄門

明治初年に他の建物とともに取り壊されています。現在の門は発掘調査を元に復元されたものです。
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武徳殿と内松陰門

内松陰門は屋形曲輪と二の丸をつなぐ門で、発掘調査と絵図を元に1999年(平成11)に復元されました。

内松陰門から甲府城をあとにし、甲府駅南口へ向かい、大きな武田信玄の像を見に行きます。

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武田信玄像

武田信玄は武田信虎と大井夫人の長男として生まれ、成人して「晴信」と名乗りますが一般に知られている「信玄」は法名です。1541年(天文10)、父信虎を駿河へ追放して甲斐の守護となり、信濃を制圧して上杉謙信と対立し5度に及ぶ川中島での合戦を繰り返しました。反織田勢力と手を結び戦国最強と言われた甲斐軍団を率いて京都進出を企て、徳川家康を三方ケ原で破ります。1573年(天正元)三河の野田城攻略中に発病し、帰国途次の信濃国伊那駒場にて53歳で没しました。

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ヒヨドリ

信玄公にとまっているヒヨドリはちょっと凛々しく見えました。
16:30 北口へ周りコインパーキングに停めている車をピックアップし、「ほったらかし温泉」へ寄って帰宅します。

本日は見どころの多い街道歩きでした。