2021年10月30日
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10:00 谷保駅を出発します。お天気は清々しい快晴。まずは前回寄れなかった谷保天満宮北側にある「滝之院」へより、甲州街道へ向かいます。
滝之院・血文弥陀如来石碑
滝之院は谷保天満宮の別当寺安楽寺六坊の一つで、 もとは「滝本坊」といいました。2000年に堂が取り壊され、現在は無住寺となっています。血文弥陀如来石碑
右手の覆屋が別になっていて上部に小さな阿弥陀如来座像が浮き彫りされていものが『血文弥陀如来石碑』で(写真右)、1195年(建久6) 津戸三郎為守が出家した際、法然上人から贈られたと言われる高さ約45cmの木造阿弥陀如来像で、胎内に津戸三郎為守の血書の願書が納められているため「血文」と呼ばれたようです。 この石碑はこの阿弥陀如来像がここにあると記された石碑になります。元は安楽寺の本尊でした。 覆屋の中の石仏は一番右手が1795年(寛政7)、その左が1761年(宝暦11)、その隣が1668年(寛文8)の造立です。安楽寺
滝之院の西側に安楽寺がありました。安楽寺は947年(天暦元)に法円が開山したとされています。1181年(養和元) 津戸三郎為守が天満天神社を天神島から現在の地に遷座したときに社務六院(六坊)を置き、祝典などを津戸三郎為守が統括しました。津戸三郎為守の血文弥陀如来は安楽寺の本尊として安置されていたようです。六坊は徐々に少なくなり、明治時代となると安楽寺と滝の院だけになってしまいましたが、1876年(明治9)には安楽寺の本堂も取り壊され、仏像などは滝の院へ移されました。江戸名所図会に描かれた「清水の茶屋」
三田氏館跡(神明之森)
多摩川に向かって張り出した青柳段丘の台地上の縁辺にある「谷保の城山」は中世の城館跡であったといわれます。古くから「三田城」、「三田氏館」と呼ばれていましたが、鎌倉御家人津戸三郎為守が城主であったとされる資料が存在し、江戸名所図会・天機の部には菅原道武朝臣の館地として「空堀・城門の跡と覚しき所も見えて四方二町あまりの封境となり、土人三郎殿屋敷跡と称す」とあります。 三田氏館跡の神明の森を抜けると城山公園にでました。綺麗なトイレもあり、ここで少し休憩しさらに少し西へ向かうと「城山さとのいえ」、その先に茅葺屋根の「旧柳澤家住居」がありました。南養寺
開山は1363年(貞治2)に没した建長寺三七世真照寺大定禅師物外可什大和尚で、開基は立川入道宗成と伝えられます。現在の本堂は1804年(文化元)地元の大工、佐伯源右衛門、北島安右衛門らによって建築されました。 南養寺は総門、本堂、大悲殿、鐘楼及び梵鐘、庭園などが市の指定文化財となっています。 大悲殿は1793年(寛政5)に千丑(城山の東の地域)にあった藤井山圓(円)成院の観音堂を移築したものです。 総門は1780年(安永9)建築、大工は本堂と同じく佐伯源右衛門でした。五智如来祠
矢川と甲州街道が交差する付近は「はしば」と呼ばれ、大正の初めころまで「矢川橋」が架かり、橋の袂に五智如来の祠がありました。江戸時代に八王子から移住してきた人々がそれまで信仰していた五智如来を祀ったのが始まりとされます。 その先の大きな交差点を左へ曲がりちょっと寄り道していきます。300mほとで目的の「ママ下湧水」へ到着しました。ママ下湧水
高さ8m程度の段丘崖が連なっており、北側には青柳段丘が、南側には古来多摩川の氾濫原であった低地が広がっています。崖のことをこのあたりでは「まま」と呼ぶことから崖下に湧き出る湧水を「ママ下湧水」と呼んでいました。昭和初期まではわさび田もありました。 ママ下湧水からママ上へ戻り、北の甲州街道へ戻る途中に「四軒在家古墳群1号墳」がありました。四軒在家古墳群1号墳
発掘調査により10基の古墳が発見されました。約1400年前の古墳時代後期の青柳古墳群の一部であるとされます。石室からは直刀などの武器や玉類などの装飾品が多数出土しています。 四軒在家を通り甲州街道へ戻るとすぐ左手に「青柳村の常夜灯」があり、ここを左へ曲がり青柳稲荷神社へ向かいます。青柳村の常夜灯とお堂
1799年(寛政11)に青柳村の油屋近くに建てられたものです。竿には「秋葉大権現」「榛名大権現」「正一位稲荷大明神」と彫られています。昭和初期までは村人が順番に灯りを灯していました。石橋供養塔と馬頭観音
馬頭観音は嘉永2年建立、以前はここに橋があったのでしょうか・・・青柳稲荷神社(稲荷之杜)
青柳村は昔、府中市本宿の多摩川南岸の青柳島にありました。1671年(寛文11)多摩川の大洪水により青柳村は流出、現在地へ移住し青柳村を開拓しました。石田も青柳と同じく今の日野市石田から移住したものです。この青柳稲荷神社は青柳・石田の鎮守でした。 青柳稲荷神社からは甲州街道へ戻らず、ハケ上の道を進んでいきます。静かな道でサイクリングの人が多いな〜と思ったら多摩川サイクリングコースになっているようです。300mほど進むと多摩川沿いへ出て「府中用水取入口」、その先左手に「御野立場碑」、右手に「伊藤単朴の墓」があります。府中用水取入口
府中用水は多摩川の水を青柳南で取り入れ、谷保南部を通り府中まで導く農業用水です。江戸時代には府中宿のうち、本町・番場宿・新宿と是政村、上谷保村、下谷保村、青柳村の7ケ村が管理していたため、「七ケ村組合用水」と呼んでいました。一説には江戸時代、羽村の玉川兄弟が青柳から府中までの上水路を計画し、途中まで掘り進んだ所、土地の高低差が激しく断念、後の人がその跡を利用したと伝わります。また一説には昔の多摩川の河床を用水路として利用したとも伝わっています。第六天神社
1593年(文禄2)創建、現在の社殿は昭和10年の再建です。今日は町内のハロウインパーティーが開かれており、賑やかでした。 甲州街道へ戻ると街道が大きく左へカーブしているあたりに柴崎村の立場がありました。多摩川
多摩川は上流では丹波川、中流が多摩川、下流は六郷川と呼ばれています。現代は立日橋で多摩川を渡ります。江戸名所図会に描かれた「日野津」
多摩川の鮎
多摩川産の鮎は古くから名産として江戸に知られ、江戸城御膳所御用として上納されていました。柴崎村では1722年(享保7)まで御菜鮎として年に3・4度、将軍家へ献上していましたが、制度は廃止となり川役銭を上納するようになったそうです。しかしその後も「鮎御用・上げ鮎」と称して江戸城に買い上げられていました。江戸名所図会に描かれた「玉川 猟鮎」
名物「鮎ずし」
多摩川を渡り渡船場近くに鮎ずしの創始者古川屋仙八の家があったとされます。近年まで子孫も住んでいたといいますが・・・どのあたりだったのか・・・詳しいことはわかりません。 古川屋仙八は多摩川で採れる鮎を使った「鮎ずし」を売り出し、大変評判でした。江戸からわざわざ食べに来る人や大名や将軍家からも注文が来たそうです。仙八は江戸へ運ぶため、鮎ずしをおかもちへ入れ一晩中揺すり江戸まで運ばれる状況を再現し、それを自分で試食し味の研究をしたそうです。 また、鮎料理の「玉川亭」も知られていたようです。 四ツ谷生まれで小金井小次郎の流れを汲む天野要蔵親分は渡船場を預かり、女将さんが鮎料理の玉川亭を経営していました。鵜飼を行い、川舟(屋根船)の中で料理を賞味、特に鮎の天ぷら、うるか(鮎のはらわた)の石焼は有名でした。福地蔵(東の地蔵)・西明寺跡
元は日野宿の東鉤の手を曲がった左手にありましたが、明治26年の大火で焼け、再建されましたが大正4年の国道新設工事の際に新道脇へ移設、更に昭和6年国道一帯の大改修により西明寺墓地横の現在地へ移されました。西明寺
西明寺は下河原の百姓屋舗にあり、1608年(慶長13)良忍が創建したとされます。本尊は十三僧、明治24年に廃寺となり本尊は横町の宝泉寺観音堂へ移されました。現在この場所には西明寺の墓地が残り、福地蔵が佇んでいます。本堂は日野宿中央あたりにある「普門寺」へ観音堂として移築されています。下河原観音堂
近代的なコンクリート造りの堂になっています。堂の横には1757年(宝暦7)、1774年(安永3)の庚申塔、1812年(文化9)の百番供養塔などが並んでいました。手水は1775年(安永4)の銘が入っています。下河原付近
古い写真は1926年(大正15)日野橋が開通して間もない頃の下河原の消防小屋だそうです。中央付近が現新奥多摩街道入口付近で、その角に映るのが「角屋」です。 角屋まで戻り、日野宿へ入っていきます。すぐ左手のモダンな土蔵造りの建物が有山家です。有山家
下佐藤家当主であり新選組の後援者であった佐藤彦五郎の四男、彦吉が有山家の養子となっています。有山彦吉は渡米し帰国後日野銀行を興した実業家でした。明治30年以降の建物ですが、銀行として使用されていた建物です。日野宿本陣の上段の間は有山家に移築されているそうです。 左手石垣付近が有山家です。この写真は1893年(明治26)の大火の前に撮られたもので、有山家のほか中嶋家(屋号「嶋屋」)、古谷家(屋号「油屋」)、土方家(屋号「土屋」)と蔵の連なる甲州街道の町並みが写真で残されています。 有山家の先160mほどの「川崎街道入口」交差点左手に大きな「高幡不動尊道碑」があります。江戸名所図会に描かれた「高幡不動尊」
正式には高幡山金剛寺といい関東三大不動の一つに挙げられ、平安時代初期に慈覚大師円仁が清和天皇の勅願によって不動堂を建立したのに始まるという古刹です。時の権力者や公家、戦国武将はもとより一般庶民の信仰も集め、関東地方屈指の大寺院でしたが1779年(安永8)の大火により多くの建築物が失われました。以降、徐々に復興しましたが、昭和50年代以降五重塔・大日堂・宝輪閣・奥殿・大師堂・聖天堂などが再建され、往時を彷彿する境内となりました。新選組土方歳三の菩提寺でもあります。 「高幡不動尊道碑」を過ぎるとすぐ左手に日野宿脇本陣(本陣)があります。日野宿脇本陣(本陣)
1849年(嘉永2)の大火により日野宿本陣、脇本陣とも焼失しています。現在の脇本陣の建物は1864年(元治元)の再建です。本陣・脇本陣とも佐藤家が務め、大火後は脇本陣佐藤家が「本陣」を称しています。土方歳三の姉の嫁ぎ先でもありました。日野宿
1717年(享保2)の記録によると、日野宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠は大5軒、中8軒、小7軒がありました。八王子初代代官、大久保長安の支援によって宿場となったと言われます。東から下宿・中宿・上宿からなり、本陣・脇本陣・問屋とも中宿にありました。幕末に新選組で活躍した土方歳三、井上源三郎は日野の出身で、新選組ゆかりの史跡が多く残されています。普門寺
1398年(応永5)の創建。牛頭天王社の別当(神社に付属して置かれた寺院)を務め、朱印高十四石でした。境内の観音堂は日野宿東の入口にあった西明寺の本堂を移築したもので、1807年(文化4)の建立といいます。写真左の奥の建物が観音堂です。 甲州街道へ戻り100mほど進み、左へ入っていくと「大昌寺」です。大昌寺の墓地には「佐藤彦五郎墓」、「讃誉上人墓」、「玉川居祐翁墓」がありました。大昌寺
讃誉牛秀(さんよぎゅうしゅう)は立川の領主、立川能登守清房の子と言われ、川越蓮馨寺で剃髪、永禄年間(1558〜1570)に北条氏照の寄進により八王子に大善寺を創建しました。大善寺はその後八王子城下、さらに八王子大横町に移りました。1602年(慶長7)、讃誉牛秀は日野に隠棲して創建したのが大昌寺です。 梵鐘は幕末期には「時の鐘」とされ、日野宿及び付近一円の村々から時鐘料を徴収していました。甲州道中分間延絵図には「宝泉寺」に「時之鐘」が描かれています。この後に「大昌寺」へ変更されたようです。玉川居祐翁
祐翁は1838年(天保9)に日野宿の旅籠「あずまや」の中村半兵衛の三男として生まれ、太吉郎といいました。幼少の頃、江戸麹町の呉服商に奉公し、後に日野宿で小料理屋を営み、佐藤道場で天然理心流の近藤周作に剣を学びました。1863年(文久3)幕府の浪士組に土方歳三らと共に加わり、帰郷し日野農兵隊に参加も武州一揆の打ち払いや八王子の浪士狩り、甲陽鎮撫隊でも活躍しました。1877年(明治10)絵馬屋三世を継ぎ、後に玉川居と号して狂歌や俳句に広く名が知られています。風流人の生活を送り、1904年(明治37)に亡くなりました。日野用水
大昌寺の北側を流れる日野用水は、昭和50年代中頃には暗渠となってしまいましたが、2009年(平成21)にこの付近は再び開渠となりました。 大昌寺をあとに甲州街道へ戻り、70mほど先を今度は右へ入っていきます。細い路地を70mほど進むと正面に4基並んだ「庚申塔」があり、道なりに右カーブを進みすぐ左へ曲がり、十字路正面に「とんがらし地蔵尊 」があります。とんがらし地蔵尊
井上源三郎
1829年(文政12)、井上藤左衛門の三男として日野宿に生まれました。天然理心流近藤周助へ入門し、剣術を学び1863年(文久3)浪士組に加わり上京し、新選組結成後は副長助勤・六番隊長として活動しました。1868年(慶応4)鳥羽伏見の戦いで淀の千両松にて銃弾を受けて戦士しました。八坂神社(牛頭天王)
創建年は不詳ですが、普門寺が創立された際に鎮守として牛頭天王社を祀り、1570年(元亀元)に普門寺が移転された際に現在地に移されたといいます。 現在の本殿は1800年(寛政12)の再建、棟梁は武蔵国大里郡上吉見領村の須長伊右衛門源国信・織江源信安父子です。