2022年6月18日

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8:50 栗原宿をあとに石和宿を目指します。

大宮五所大神からしばらくは農地の中に住宅や店舗などがぱらぱらとある道を進んでいきます。栗原宿西の枡形から620m程度、右手の路地を少し入ると「太神社」があります。

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太神社

グーグルマップには「大神社」となっていますが、「太神社」の間違いだと思われます。甲州道道中分間延絵図にも「太神宮」となっています。

往時は経蔵や囲籾蔵(貯米蔵)などもあったようです。 社殿の前には「神橋修築之碑」があります。
「日川村誌」によれば、この神橋は1900年(明治33)に石鳥居や石玉垣などと共に地区57軒の寄進により建設されました。1907年(明治40)に日川の大洪水により社殿は流出。1925年(大正14)境内を整備し太神社と弁財天社を合祀し、また流出した石鳥居の扁額、神橋、石玉垣なども泥の中から発見され境内に備えられました。

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旧日川村

甲州街道へ戻り200mほど、旧日川村へ入っていきます。住宅が増えてきました。
日川駐在所の先左手に何故か横向きの「明治天皇日川小休所跡碑」があります。そのすぐ先を左手へ入り、駐在所裏へ回ると大きな駐輦碑と志村翁頌徳碑があります。

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明治天皇日川小休所跡碑

1880年(明治13)明治天皇山梨巡幸において、日川村の志村勘兵衛家にて休憩され、志村勘兵衛が建立した碑です。志村家は日川村の豪商で、勘兵衛は長男として1874年(明治7)に生まれ、26歳の若さで志村銀行を開業しています。

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駐輦碑

1907年(明治40)の大水害では日川村に甚大な被害があり、志村勘兵衛は巡幸の際に明治天皇から下賜された御紋付銀杯、琥珀縮緬三匹などが流出してしまいました。勘兵衛自身も被災しながらも被害にあった人々の救助や飲料水・食糧支援に励んだそうです。
その後、侍従日野西資博が明治天皇の命を受けて県内の視察に訪れた際、勘兵衛の救助、支援活動を高く評価され、再度御紋付銀杯が下賜されました。碑は1929年(昭和4)に建立されました。

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志村勘兵衛頌徳碑

『私は人のためにつくしたい 志村勘兵衛』

自らも被災しながら周囲の人のために尽くした志村勘兵衛を讃えた石碑です。彼が生前よくこの言葉を発していたのでしょう。
日川の「明治天皇日川小休所跡碑」から400mほど甲州街道を進むと左手奥に石仏が見えます。

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石尊大権現・秋葉大権現

往時は街道のすぐ南に日川が流れていました。甲州道中分間延絵図には記載がないため、日川の流れの改修後に祀られたと思われます。

日川郵便局を過ぎ一町田中の交差点に称名院、右へ曲がり150m左手に田安陣屋跡があります。

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田安陣屋跡

田安宗武が1746年(延享3)に甲斐・武蔵以下6カ国を与えられ、翌年田安陣屋が設けられました。1792年(寛政4)には太枡騒動、1869年(明治2)には田安領一揆があり、1870(明治3)に陣屋廃止されています。石積みの上には守護神の水上稲荷が祀られています。

田安宗武

八代将軍、徳川吉宗の次男として生まれ、学問に優れており国学者や歌人としても活躍しました。九代将軍を長男家重が継ぎ、宗武は1731(享保16)年に田安家を新設。田安家は一橋家、清水家と並び、徳川家の親族である「御三卿」として知られています

小島蕉園

名代官として名が残っているのは、1805年(文化2)に田安陣屋に配された小島蕉園です。彼は甘草の栽培を奨励。甲州八珍果(、ブドウ・ナシ・モモ・カキ・クリ・リンゴ・ザクロ・クルミまたはギンナン)を定め、甲斐国で果物栽培を奨励、孝行の普及にも務め名代官と言われました。(甲州八珍果提唱者については浅野長政、柳沢吉保などの名もあがっています)

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称名院

1573年(天正元)西誉文貞が日川のほとりに庵を設け、「光雲庵」と称したのが始まりで、4世近誉門午が1666年(寛文6)村内へ移し現在の「称名院」に改めたとされます。甲州道中分間延絵図とは少し位置が違うような気がします。称名院が移動したのか、川の改修で甲州街道の位置がかわったのか・・・

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称名院の力神

本堂の正面には男女一対の木像力神が掲げられています。地元ではジキジンサン・リキジンサンと呼ばれているそうです。力神と薬師如来像は1886年(明治19)に廃寺となった法珠庵の薬師堂から移されたものです。

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称名院の角は南へ曲がります。左手にとても大きく立派な旧家があります。元名主でしょうか・・? 堀のような水路が家を囲んでいて、城跡のようです。門の屋根には逆立ちしたイノシシ?
直進すると日川へぶつかります。往時はこの先に「日川土橋」がありましたが、今はないので、右へ曲がり国道の日川橋をわたります。

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日川橋と日川

日川橋を渡った先左手には「節婦之碑」があります。

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節婦之碑

天明年間(1781〜89)に儒学者加賀美光章の撰文で、1829年(文政12)甲府勤番支配、一柳直敬揮毫した石碑がありましたが、1907年(明治40)の洪水で流され、行方不明になっています。現在ある石碑は1944年(昭和19)に再建されたものです。

節婦「栗」

南田中村の農民安兵衛の妻であった栗。夫は重病で寝込んでいました。1728年(享保13)大雨により日川が氾濫し、人家を押し流そうとしている中、栗はまず年老いた姑を背負って家を出、姑を村人へ託し家に戻り夫を助けようとして共に流されてしまいました。里人はその貞節に感銘し碑を建立したそうです。

TOO001 節婦之碑から土手を戻り、旧甲州街道を探しに行きます。日川橋は往時、先程通ってきたお屋敷前から続いていたので、そのあたりまで戻ります。すると右手に土手から下る階段がありました。恐らくこれが旧甲州街道です。水路に沿って旧道が続きます。一旦、国道へ出て、国道を越えて再び旧道へ。

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日川の中央が山梨市と笛吹市の境になっています。国道を渡るとすぐ右手に白山神社があります。
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白山神社

甲州道中分間延絵図には日川北側、現在の山梨市一町田中の白山神社のみが描かれています。恐らくこちらの一宮町田中の白山神社から別れたものでしょう。

1907年(明治40)の洪水では社殿だけではなく社地とも流されてしまったそうで、1918年(大正7)に新たに土地を購入して再建しました。(別の資料では明治40年の大水害後に建立されたとある?)

白山神社から200mほど甲州街道を進み、「瑞蓮寺」へ寄るため左へ曲がります。田中の交差点をすぎてしばらく行くと左手に「瑞蓮寺」があります。

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瑞蓮寺

武田信玄の帰依を受けた胤誉岌往(いんよぎゅうおう)上人により、1570年(元亀元)に創建されました。現在の本尊は1581年(天正9)立ち寄った武田勝頼より贈られた阿弥陀三尊とされます。本殿前の左右にある松が信玄の盆栽だったと言われる「鶴亀の松」でしたが、マツクイムシの被害により2014年(平成26)に枯死しました。現在は根元が残っているのみです。

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石臼参道と仏足石

山門からの敷石に用いられている石臼は安永の頃(1772〜81)に信徒の寄進によるもので、1000個余りにも及び全国的にも珍しいとされます。仏足石は、1890年(明治23)探誉上人が芝増上寺より下賜されたものと記されています。仏足石は山梨県内唯一のもので、市の文化財に指定されています。

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節婦「栗」の墓

とても立派で凝ったデザインのお墓となっています。石の囲いの中にさらに墓石が入っており、この囲いの左右の彫刻も素敵です。

境内には「孝婦志計女の供養塔」もあるそうですが、探してみましたがわかりませんでした。
瑞蓮寺をあとに、甲州街道へ戻ります。白山神社から少し先の左手に「中宿立場」と高札場がありましたが、現在はっきりとした場所はわかりません。白山神社静かな道を400mほど進み、道が曲がっている付近に一里塚があったと思われます。

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南田中一里塚跡

洪水で流出し、現在は跡形もありません。往時、木立はなかったとされ、隣に金毘羅之社もあったようです。
さらに住宅地を500mほど進むと右手に頌徳碑がありました。

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宮下翁頌徳碑

1896年(明治29)生まれの宮下慶太郎氏は村議会議員、警防団副団長など地域に貢献された方のようです。また、夫人についても讃えられています。

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一宮町田中の街道沿いには所々に古い家が残っていました。
しばらく進むと笛吹川に突き当たり、左へ曲がり笛吹川沿いに進んでいきます。

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笛吹橋の1つ手前の左手に「甲斐国一宮表参道碑」がありました。

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甲斐国一宮表参道碑

垂仁天皇八年に神山の麓に祀られたのが起源であり、延喜式の明神大社と比定される「甲斐国一宮浅間神社」への参道になります。ここから4kmほどもあります。

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笛吹川

江戸時代、このあたりには鵜飼川が流れていました。現在「近津用水」となっているものが、以前の笛吹川でした。
石和は笛吹川と鵜飼川の中洲で、度々水害にあい、江戸時代27回、明治時代9回の水害に見舞われました。特に1907年(明治40)の水害は甚大で、笛吹・重川・日川の3河川が1本の濁流となり石和をはじめその下流の村々までも流出しました。そのため、大規模な笛吹川の瀬替えが行われ、旧笛吹川は近津用水に、鵜飼川は現在の笛吹川へ取り込まれています。

笛吹橋を渡り交差点を左へ曲がり100m、右手から斜めに堤防を下ります。このあたりは旧甲州街道が笛吹川に取り込まれているので、どこを歩いてもいいのです。

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川中島の松並木

笛吹川の瀬替えをし、新しい堤防を築いた際に植えられた松並木です。
松並木が終わる頃、正面には「笛吹権三郎の像」が見えてきました。

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笛吹権三郎の像

現在はこの像のすぐ南に笛吹川がありますが、往時は300mほど北に流れていました。現在の「近津用水」です。

笛吹権三郎

芹沢の里に権三郎という若者が住んでいました。彼は鎌倉幕府に反抗して追放された日野資朝一派の藤原道義の嫡男でありましたが、甲斐に逃れたという父を母とともに探す旅をして、ようやくこの地へたどり着き、仮住まいをしている身でした。近隣の人々からは笛の名手として知られていました。 ある時、子西川が氾濫し権三郎と母が住む小屋は一瞬で飲み込まれ、若い権三郎は流木につかまり九死に一生を得ましたが、母は行方不明となってしまいました。日夜、笛を吹きながら母を探しますが、疲労困憊となりついに川の深みにはまり流され、下流の小松の河岸で遺骸が発見され、長慶寺に葬られました。 間もなく、川の中から美しい笛の音が聞こえてくるようになり、いつしか「笛吹川」と呼ぶようになったとされます。

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笛吹川と鵜飼川

甲州道中分間延絵図の川中島付近です。北に笛吹川、南に鵜飼川が流れています。鵜飼川は古くは「石和川」といいましたが、日蓮が鵜飼の亡霊を済度したのちに「鵜飼川」と呼ばれるようになりました。笛吹川の瀬替えにより現在の笛吹川に鵜飼川が取り込まれる形となり、鵜飼川は消滅しました。

石和川中島簡易郵便局を過ぎて最初の交差点を左、すぐ右に折れ静かな住宅街を460mほど進み、「湯元通り」を右へ曲がります。270mほど進むと左手に「天満宮入口」という看板がでています。ここを入っていくと「天満宮跡」があります。

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天満宮跡

このあたりは平安の頃より「天神原」と呼ばれ、大きな木があった小高い丘でした。水害の多いこの地では、この丘が村人の避難所となっており、1907年(明治40)の大水害では2本の大榎が多くの村人の命を救ったと言われています。甲州道中分間延絵図には「天満宮之社」として描かれています。
甲州街道へ戻り500m、石和宿東枡形の手前を右へ曲がり、「八田御朱印公園」へ向かいます。

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八田御朱印公園

八田家御朱印屋敷と八田家書院が隣接する公園は広々としており、しばらく休憩しました。トイレも綺麗です。

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八田御朱印公園のかもは人に慣れているようで、近くに寄ってもぜんぜん逃げません
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八田家書院

1601年(慶長6)徳川家康により都留郡富士根の材木を賜り、建築されました。

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八田家書院

1998年〜2000年(平成10〜12)に半解体修理、2017年(平成29)に茅葺屋根の修理を行い、現在はすっかり綺麗になっています。

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八田家書院の表門

1661年(寛文元)石和代官所創設の際、代官平岡勘三郎良辰が石和陣屋表門として建立したものを、1874年(明治7)払い下げを受け八田家表門として移築したものです。

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八田家御朱印屋敷

八田家は武田家の蔵前奉行として年貢の収納、軍糧の輸送を司っていたため、1582年(天正10)織田軍の兵火にあい焼失しました。同年、家康が入国すると家康に属し、家康の庇護により母屋を造立とましたが、1859年(安政6)笛吹川の洪水のため取り壊されています。現在はその後に建てられた屋敷となりますが、立派な旧家の趣です。
八田家の向かいの路地を少し東へ入ると右手に狛犬に守られる「石和大水害碑」があります。

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石和大水害碑

1907年(明治40)の大水害を忘れないために建立された石碑です。1978年(昭和53)建立。
八田家の向かいにあるのが「願念寺」です。

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願念寺

北側の元笛吹川(現近津用水)が度々氾濫し、古文書や記録が残っていませんが、半鐘に刻まれた文字から1571年(元亀2)創建、釈林秀法師開基とされます。 八田家の菩提寺です。

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願念寺の六地蔵

この六地蔵は水害で流されてきたものを祀ったとされます。
再び甲州街道へ戻り、100mほどで石和宿東の枡形、石和宿へ入りすぐ先右手に「遠妙寺」があります。

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石和宿

鎌倉時代初期、甲斐源氏武田信義の子、石和信光が武田の総領となって以来、信虎が躑躅ヶ崎へ館を移すまでの間、甲斐の政治の拠点でした。江戸時代になると幕領支配となり、石和代官がおかれ政治、交通上の要衝となりました。1804年(文化元)の記録では本陣1軒、脇本陣2軒、191戸、旅籠18軒がありました。

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富嶽三十六景「甲州伊沢暁」

葛飾北斎が描いたものです。石和宿から富士山は見えなかったのですが、この絵は北の大蔵経寺山からの眺望と言われています。
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遠妙寺

1274年(文永11)日蓮上人の弟子、日朗日向上人と共に甲斐への教化の折り、鵜飼魚翁(平大納言時忠郷)の亡霊と対面、法華経を一字ずつ小石に書写し、鵜飼川の水底へ沈め三日三夜に渡り施餓鬼供養を営み、亡霊を成仏させたのち草庵を結び「鵜飼の寺」と称しました。1600年頃(慶長) 遠妙寺と改称したとされます。

しかし、時忠は流された能登国で没しているため、平家の落人伝説に関連付けられた伝説と考えられています。

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諸国道中金之草履 石和遠妙寺

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魚翁堂(鵜飼堂)

堂の中には鵜飼勘作の墓碑が収められていますが、かなり石がぼろぼろになってきています。堂の前には「勘作の供養塔」があります。元は鵜飼川の側にありましたが、甲府バイパス(国道20号)建設のためここへ移れたものです。

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鵜供養塔

鵜飼による鵜を供養しているようです。
甲府八景の一つ、「石和の流蛍」日野中納言輝光は「いさわ川夏なき波のよるよるは水のほたるのかげぞながるる」と詠んでいます。

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遠妙寺本堂

謡曲「鵜飼」

安房国(千葉)清澄の僧、日蓮が甲斐国石和へ行き、川端の堂へ泊まっていると鵜飼の老人が来ます。実はその老人は昔この地の僧を接待した鵜飼の亡霊で、懺悔と回向(供養)のため現れたといいます。 僧が法華経の句を一石一字書いて川に投げ回向していると、閻魔王が現れ鵜飼は罪深く、地獄へ落ちるべきものであったが、僧を接待した功徳によってこれからは極楽へ送ると語ります。 この謡曲は世阿弥が鵜飼勘作(平大納言時忠郷)の伝説を元に作られたものといいます。

鎌倉道

遠妙寺の南西から分岐して相州小田原へ通じる脇往還、約23里、古くは甲斐路、御坂路とも呼ばれた古代の官道で、加古坂(籠坂峠)、御坂峠を越えて甲斐国府へ通じていました。甲州街道が整備されるまでは関東への重要な道で、江戸時代には甲州道と東海道を結ぶ脇往還として重要でした。

遠妙寺を出るとすぐ隣にあるのが「普賢願生稲荷堂」、さらに140m右手に「石和本陣跡碑」があります。

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普賢願生稲荷堂

本殿は建物の中にあり、1850年(嘉永3)建立。棟梁は下山大工、彫刻は立川流とされます。1803年(享和3)それまで空宮となっていた妙覚稲荷堂跡地に武田館に祀られていた古城稲荷を勧請したのが始まりとされます。

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石和本陣跡碑

後藤家は1761年(宝暦11)信州高遠城主通行の際、本陣を命ぜられ、これが石和宿本陣の始まりとされます。建物は1880年(明治13)の火災で焼失、土蔵が残されているのみです。

本陣跡のすぐ先左手には「石和小林公園」があります。石和温泉が引かれた足湯があり、園内には旧石和町民族文化財展示館、小林中銅像などもありました。

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石和町民族文化財展示館

石和小林公園は実業家小林中の邸宅でした。1956年(昭和31)に邸宅の敷地を町に寄贈し、建物は公民館等として利用されてきましたが、後に取り壊され明治中期に建てられたこの土蔵だけが残りました。1974年(昭和49)には民俗文化財展示館として開館しましたが、現在は倉庫となっています。
また、石和小林公園は江戸時代後期には「由学館」という郷学があった場所でした。由学館は甲斐における最初の郷学とされ、1823年(文政6)当時の代官、山本大膳が一宮町小城に作った学校を後に移転、主として漢学を教授、武士ばかりではなく、一般人にも聴講を許していたとされます。

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小林中銅像

石和町出身の小林中は1922年(大正11)に石和銀行取締役支配人に就任、1929年(昭和4)上京し富国徴兵保険相互会社(現富国生命)に入社、1943年(昭和18)には社長に就任しています。1951年(昭和26)日本開発銀行初代総裁に就任、その後も数多くの団体、会社役員を歴任、戦後日本の発展に大きく貢献しました。
石和小林公園を奥へ進み、公園から出てすぐに「石和陣屋跡」の石碑があります。

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石和陣屋跡

1661年(寛文元)平岡勘三郎良辰が造ったのが始まりとし、1724年(享保9)天領化に伴い代官所として幕末まで続きました。(一時、川田に移されたこともある)初代の代官は、「地方問答集」「田園類説」などを著した小宮山杢之進であり、後期には甲斐における最初の郷学とされる「由学館」を開設した山本大膳なども務めています。 現在は石和南小学校敷地となっています。ここにあった代官所の正門は先程見た八田家へ移築されています。
公園の横を通り、甲州街道へ戻ります。すぐ先右手に石和八幡宮の入口があり、中へ入っていきます。

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石和八幡宮

1192年(建久3)に石和(武田)信光が鎌倉鶴岡八幡宮を勧請したと伝わります。1519年(永正16)武田信虎が館を躑躅ヶ崎に移した際、石和八幡宮を勧請し、「府中八幡宮」を建立。1582年(天正10)織田軍の兵火により焼失、翌年徳川家康の保護を受けて再建されました。

石和八幡宮を北からでて、佛陀寺へ入ります。

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佛陀寺の楼門

山門の扁額は第90代亀山天皇の筆であると伝えられています。

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佛陀寺

開祖法燈円明国師が亀山天皇の勅命により1269年(文永6)朝廷祈願寺として建立されました。本尊は行基作と言われます。

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吃安(どもやす)の墓

1811年(文化8)竹居村の名主、中村甚兵衛の子で本名は「中村安五郎」、竹居安五郎とも言われます。暴力事件をはじめ喧嘩や博打を繰り返し博徒となります。1850年(嘉永3)捕らえられ、新島に流されますが、3年後に島抜けをし甲州へ戻ってきます。1862年(文久2)石和代官所により捕らえられ、甲府堺町の牢内で死亡。接慶院へ葬られましたが、廃寺となったため佛陀寺へ移されました。 ちなみに「吃安」という愛称は言葉にどもりがあったことからだそうです。

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節婦之碑

碑文によると、境川村瀧沢家より石和町農家雨宮貞吉に嫁いだ雨宮かく女は1907年(明治40)の大水害のため家屋家財の全て、田畑の大半を失いましたが屈せず夫を助け復興に励み、さらには夫が幼少期に生き別れとなった年老いた母が病気に侵され孤独に暮らしていると聞くと、夫を説得し家に迎い入れ亡くなるまでの16年世話をしました。 石碑は1953年(昭和28)年の建立。
今日の甲州街道歩きはここまでにし、石和駅へ向かいます。佛陀寺をあとに石和八幡宮との間の道を戻り駅前の県道へでます。右へ曲がり石和駅に向かい、右手ローソンの奥に「小松導平頌徳碑」があります。とても大きな頌徳碑です。

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小松導平頌徳碑

1878年(明治11)一宮で生まれ、弟の早川徳次は地下鉄の父と呼ばれています。1907年(明治40)に大水害が起こり、1917年(大正6)に笛吹川が現在の流れに変わりました。泥におおわれた旧笛吹川の開拓に導平は乗り出し1925年(大正14)に開拓の権利を手に入れます。荒れた土地に畑を造り、その後に温泉が湧き出し旧笛吹川の土地は温泉街になりました。石和温泉の父とも言えますね。
すぐ先には旧笛吹川(現近津用水)があり、石和橋にも笛吹権三郎像が設置されています。

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石和橋の笛吹権三郎像

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石和駅

13:15 石和橋から石和駅まで500mほどで到着です。石和駅より車を駐車した塩山駅まで戻り車をピクアップし、帰りに「ほったらかし温泉」へ寄って帰宅しました。