2022年5月28日
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車は大月駅前のコインパーキングへ停めて中央線で大月駅から初狩駅へやってきました。今日はいいお天気です。
9:40 初狩駅を出発します。
初狩駅より北へ200mで甲州街道です。左に曲がり黒野田宿へ向けて進んでいきます。
このあたりはまだ「下初狩宿」の中央あたりだと思いますが・・左手に脇本陣、右手に本陣があったはずですが・・その場所の詳細はわかりません。
甲州街道へ出て200mほどで「宮川橋」を渡ります。
宮川橋の一目富士
往時から「宮川橋の一目富士」と呼ばれ旅人の人気スポットになっていたといい、今日は綺麗に見えていてラッキーでした。甲州道中分間延絵図に描かれた「下初狩宿」
下初狩宿のもう1軒の本陣や脇本陣もどのお宅なのかはわかりませんでした。中初狩宿脇本陣の義民・小林伝兵衛
中初狩宿で代々脇本陣を務めた小林家の当主、伝兵衛は1836年(天保7) 米価高騰などの不満から甲斐領内でおこった打ちこわし(甲州一揆・郡内騒動)の際、対立の激しかった下初狩宿・中初狩宿を統一、総頭取下和田村治左衛門が中途帰村後、一揆衆の統率にあたりました。騒動の鎮圧後に捕らえられ江戸へ送られ、翌年の1837年牢死し、夏狩村(都留市)宝鏡寺に葬られました。甲州道中分間延絵図に描かれた「宮川土橋」
宮川橋の先は現在道が少し変わっているようです。往時は北へ向かい宮川のもう少し下流より土橋を渡っていたようですが、国道工事で道は真っ直ぐになってしまいました。 現在は北へ向かう道がありませんので、真っ直ぐ宮川橋を渡り、国道の緩い坂道を上っていきます。宮川橋から150m左手にモダンな建物が残っています。旧今井医院
大正時代に建てられた木造モルタル仕上げの建物ですが、コンクリート造に似せた外観としています。1999年(平成11)国登録有形文化財に登録されました。 大正時代のモダンな造りが素敵です。 さらに150m右手、旧初狩小学校手前、歩道橋のそばに大きな「芭蕉句碑」があり、旧初狩小学校を過ぎると「中初狩宿」の町並みとなっていました。2015年(平成27)初狩小学校は初狩PA付近に移転しました。甲州道中分間延絵図に描かれた「中初狩宿」
隋(瑞)龍院跡・小山田信茂首塚
側子の福聚院の子院であった随龍院は1871年(明治4)の水害で流出してしまいました。「甲斐国志」には「隋龍院の側に古き石塔あり、小山田氏墳墓なりと云ふ」とあり、郡内領を支配した小山田氏の墳墓と伝えられます。そばには1778年(安永7)の秋葉灯籠や題目碑、読経塔、二十六夜塔、地蔵などがあります。小山田信茂
小山田信茂は甲斐武田氏の家臣で武田二十四将の一人に数えられています。信玄に従い、数々の武功を上げました。信玄亡き後は家督を継いだ武田勝頼に従いますが、長篠の戦いで大敗した武田軍が衰退したことが原因であるのか・・・寝返り武田家を裏切ります。 織田信長の甲斐攻略の際、勝頼は小山田信茂をたより居城である岩殿城へたどり着きましたが、信茂は勝頼を受け入れず、(様々な説あり)最終的に行き場を失った勝頼は天目山で自害し、武田家は滅亡しました。 ただ、裏切ったのは信茂だけではなく、ほとんどの家臣は早々に裏切っていったといいます。 信茂は今後は織田信長に仕えると思っていたでしょうが、信長は「不忠者」としてこれを許さず、1582年(天正10) 、信茂、嫡男、老母、妻、女子も甲府善光寺で斬罪されたといいます。その首を従僕が持ち帰り随龍院の住職がここに葬ったといいます。笹子川
甲州道中分間延絵図の天神山付近
1836年(天保7)の甲州一揆の際には天神坂の白野側下り口の松林で決起集会が行われたとされます。しかしこの道は中央自動車道により無くなってしまいました。ハグロイトトンボ
瀧沢に綺麗なトンボがいました。全く逃げないのでかなり近寄れました。白野宿
瀧沢を下り国道へ戻りすぐ先右手に入っていき、白野宿です。150mほど進むと右手に石仏と常夜灯があります。甲州街道分間延絵図「白野宿」
とある文献では『脇本陣は西外れ左手の天野家、その先右手奥が本陣今泉家』と書かれていますが、甲州街道分間延絵図では宝林寺参道の両側にあったと思われますが、絵図が書かれた後に変更になったとも考えられます。脇本陣跡と本陣跡
甲州街道分間延絵図では宝林寺参道の両脇にあったようです。「身延参詣甲州道中膝栗毛」の白野
「身延参詣甲州道中膝栗毛」は1857年(安政4)仮名垣魯文により著され、挿絵は一光斎芳盛です。 宝林寺より宿内を150m進むと白野宿は終わり、国道へ合流します。すぐ先右手から「子神社」へ入っていきます。子神社
白野村の氏神で祭神は大己貴命(おおあなむちのみこと)。1527年(大永7)の創建とされ、1686年(貞享3)に神殿造営の記録が残っているそうです。 甲州道中分間延絵図を見ると、子神社は移転していることがわかります。1975年(昭和50)に中央自動車道建設に伴い、現在地へ移転しています。 子神社の先は石井工業のところを右へ曲がりますが、往時はこのまま直進して石仏群を右手に立石坂を上り、右手に立石、立石を過ぎたあたりでJRを横切り吉久保集落へ入る道筋でした。 立石を見学に石井工業前を直進し、80mほど進んだ右手の草むらの中に手作り(?)のような簡易階段と単管の手すりがあり、そこを上ります。正面にたくさんの石仏があります。ここが往時の甲州街道です。さらに左手へ草の生えた緩い上り坂、「立石坂」を50mほど進むと右手に立石があります。百八十八番供養塔と馬頭観音
多くの馬頭観音が集められています。白光院跡
建物の中には観音様が祀ってありました。今は観音堂になっているのではないかと思います。稲村神社
原村と吉ケ窪(吉久保)村の氏神、神社前の立て札によると「嘉暦2年創建」とあります。嘉暦2年は1327年、鎌倉時代後期にあたります。稲村神社の石仏
境内には不思議な男女合体の道祖神が祀られています。また、常夜灯は1790年(寛政2)、二十三夜塔は1805年(文化2)、多くの馬頭観音がありました。親鸞上人の伝説
昔、小俣左衛門という大百姓がおり、吉という娘がいました。美人でしたが邪悪で嫉妬心が強く笹子川に身を投げましたが、悪念が毒蛇となり池に棲んで往来の多くの人々に害を及ぼしました。布教で通りかかった親鸞上人が64884個の小石に名号を書き池へ沈めるとようやく毒蛇が成仏したといいます。親鸞聖人念仏塚
後年、池が干上がり親鸞上人が池へ投げ入れた小石が持ち去られ、しばしば災いがあるようになったため、残った名号石を取り出し、塚を建てて安置しました。今も真木の善福寺に名号石が残っているとされます。 石碑には1736年(元文元)の年紀があります。 親鸞上人旧蹟をあとに進んでいくと、往還左手が葦池跡、向かいにあった泉竜院はなくなり、民家となっています。甲州街道はこのまま真っすぐ進み、中央線を越えて国道へでる道ですが、中央線が街道を分断していますので、迂回路として左へ曲がります。すぐ左の畑前に「葦池」の碑があります。阿弥陀堂跡への道
笹子川橋を渡ると国道へでますが、国道を左へ少し戻ると右手の側道を下りていき、すぐ先工場のようなところの駐車場脇を右手に入り30mほど進み、右から山へ上る道があります。上るとすぐに「阿弥陀堂跡」があります。阿弥陀堂跡
村名は「芦ケ窪」でしたが、宿名はこの「阿弥陀堂」によるものです。「甲斐国志」によると行基作と伝わる阿弥陀如来像が安置されていたので阿弥陀谷(がやつ)と言っていたのが後世、訛って海道(がいどう)の字をあてるようになったと説明しています。 安置してあった阿弥陀如来像は黒野田宿の「普明院」に移されているとのことですが、「秘仏」とされます。甲州道中分間延絵図「阿弥陀海道宿」
幕領だった阿弥陀海道宿には1843年(天保14)の記録では本陣・脇本陣1軒ずつ、旅籠4軒がありました。白野宿・黒野田宿との3ケ宿の合宿で阿弥陀海道宿では1ケ月のうち16日〜22日までの人馬継立を務めました。 「甲斐国志」によると古くは笹子川北岸沿いにあった村は1728年(享保13)の大雨による洪水で一軒残らず流失したため、後に南岸へ移住したものであるといいます。 甲州街道へ戻るとすぐ左手が広大な敷地の「笹一酒造」です。笹子餅
甲州街道唯一の難所、笹子峠の『矢立の杉』の麓で、「峠の力餅」として売られていましたが、明治36年、国鉄中央線開通で峠の通行は激減しました。当時、東洋一のトンネル「笹子トンネル」(全長4656M)の開通に合わせて、旅客サービスにと「笹子餅」と名付け、「みどりや」として明治38年創業しました。笹子餅
柔らかくてめちゃめちゃ美味しかったです。口の周りを真っ白にしながら二人でぺろっと平らげました! 駅の左手広場に「中央線笹子隧道記念碑」、その隣にも大きな「忠魂碑」、さらに奥のほうにも大きな「天野翁頌徳碑」がありました。