2022年11月19日
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9:30 関野宿をあとに上野原宿へ向かいます。
増珠寺をでて国道となった甲州街道のカーブを過ぎると右手に上って行く細道があり、「小渕小学校入口」があります。
小渕小学校入口の石標
「神奈川縣」と旧字体で彫られています。小渕小学校は1873年(明治6)に創立されてた歴史ある学校ですが、2009年(平成21)に廃校になっています。
甲州道中分間延絵図では小渕小学校入口あたりに
「十王堂」が描かれていますが、現在は見当たりません。その先、歩道橋の左手あたりが「横内立場跡」になります。
横内立場跡
甲州道中分間延絵図には2軒ほどの家が描かれており、現在も2軒の家があります。
横内立場跡の向かいから国道を離れて旧道へ入ります。旧道へ入るとウルトラマンからスペシウム光線で攻撃されます(笑)
スペシウム光線をかわしながら進んでいくと、道が二股になり左側の細道が甲州街道です。坂を下りていきます。
一旦国道へ出て90mほど進み、三柱神社へ向かうため右手の道へ入り、また坂を上りさらに階段を上ると左手に「三柱神社」の入口がありました。
三柱神社
甲州道中分間延絵図には
「唐土明神・牛頭天王之社」と書かれています。
三柱神社は天王宮とも言われ、村の北の高鷹山に埋めた
秦の始皇帝像を慶長年間に里へ移し、代官頭であった彦坂元正が
「唐土明神」と命名したと伝わります。
三柱神社には1863年(文久3)力士
追手風喜太郎寄進の四神(青竜、白虎、朱雀、玄武の四神)がありましたが、後に生家で保存され、2019(令和元)には相模原市へ寄贈され、相模原市立博物館に保管されているそうです。
鳥居前の石灯籠は1826年(文政9)建立。
三柱神社から甲州街道へ戻ると、往時は国道を越えて急斜面となっている沢を下り、相模川まで下りていく道が甲州街道でした。
獅子岩・衣滝
街道は衣滝の流れに沿って下り、衣滝の流末は街道を横切り相模川に落ちていました。さらに滝の上には八尺ほどの獅子岩(揺岩)があったといいますが、現在は廃道となり通ることができません。
旧甲州街道は通ることができませんので、国道を大きくカーブしながら300m、名倉入口の信号から左手へ入り迂回路を進んでいきます。坂を下っていくと「境沢橋」があります。
境沢橋
相模国と甲斐国の国境をなす境川にかかる橋です。往時は相模川に近い、もっと下流に
「境川土橋」が架けられていました。
境沢橋を渡ると、
神奈川県から山梨県に入ります。道は下り坂から上り坂へ転じます。すぐ先T字路は右ですが、その前に廃道部を眺めるため、左へ曲がりアーチ型の
現代の境川橋へ向かってみます。往時は境川に架けられていた境川橋は、現在、相模川に架かっています。
境川橋より廃道部分を望みます。相模川は甲斐国では
「桂川」と呼ばれています。
元のT字路へ戻り、諏訪関所へ向かいます。
往時は境川土橋からほぼ直線的につづら折れの急坂を上り諏訪関所へ至っていましたが、現在は緩やかなS字カーブを上っていきます。650mほど進むと諏訪関所跡へ到着です。
諏訪関所跡(境川関所跡)
甲斐国に入り最初の関所でした。古くはこの先の諏訪神社近くにあったため「諏訪関所」と呼ばれていたようです。
1707年(宝永4)にこの地へ移され、以後1871年(明治4)に廃止されるまで旅人の検査や物資の出入りを見番していました。1885年(明治18)番所役宅は渋沢栄一所有となり、東京飛鳥山へ移されました。
上り坂はやがて平坦になり、人家が増えきました。古い土蔵などもちらほらある静かな道をしばらく進むと右手に慈眼寺への入口があり、100mほど奥へ入ります。
慈眼寺
1593年(文禄2)建立、1602年(慶長7)保福寺2世広山宗沢が引退後に開山しました。
甲州街道へ戻り、すぐ先右手に「船守寺」、その隣に「諏訪神社」があります。
船守寺
1261年(弘長元)「立正安国論」のを説いたことにより日蓮聖人は伊豆に流罪となりましたが、
船守弥三郎は漁の帰りに聖人を救助し、30 日間夫婦で庇護ました。
聖人は海上の安全を祈祷し、弥三郎に船守の御守護を授けたとされます。1955年(昭和30)蓮慶寺(伊東市)より分骨したそうです。
船守弥三郎生誕地碑
船守弥三郎はこの地に生まれた地侍でしたが、武家を捨て伊東で漁師となっていました。
諏訪神社
久安年中(1145〜52)の創建とされますが、村の口伝では文永年中(1264〜75)大覚禅師の勧請と伝わります。1577年(天正5)上野原村領主、
加藤信景により再建。1610年(慶長15)、1639年(寛永15)に本殿が修復されたとの記録があります。古くは
「古郡神社」とも呼ばれていました。
本殿前、右手に芭蕉句碑があります。
芭蕉句碑
芭蕉の句と各務支考(かがみしこう)の句が刻まれているそうですが、風化でほとんど文字が判別できません。
『稲妻に悟らぬ人の等さよ はせを』
『虻の目の何か悟りて早がてん 東花坊(支考)』
上野原宿万年屋の医師、虚楽坊が建立したそうです。各務支考は蕉門十哲の一人です。
諏訪神社のトイレは新しく、とっても綺麗でした!有り難いです。
馬頭観音
諏訪神社から100mほど進むと右手に馬頭観音がありました。
さらにそのさきには大きな「旧甲州街道」の石碑があり、その先100mで中央高速道路の上に架かる橋を渡り、50mほど右手に
「疱瘡神社」と
「塚場一里塚跡」があります。
疱瘡神社
江戸時代の初め、疱瘡神とゆかりのある越前国湯尾峠生まれのあばた顔の老婆が諸国行脚の途次、この地で倒れ村人に助けられます。村人の手厚い看護に感謝し「この地を疱瘡から守る疱瘡の神を祀りなさい」と言い残して亡くなりました。そこで村人は1661年(万治4)疱瘡神を祀りました。
塚場一里塚跡
疱瘡神社の裏手にあります。往時はカヤノキが植えられていたといいます。
地蔵
疱瘡神社から80mほど右手にお地蔵様があり、さらに100mほど道案内の看板が出ているところを右へ曲がり「棒塚」へ寄ってみます。
棒塚への道はとても細い道です。2回曲がって上っていくと「棒塚」があります。
塚場碑林園
ここには
「塚場」の地名の由来となった古墳があったとされ、戦後までは塚の上に榛名山が祀られていました。公園として整備される際、石碑は集められ一列に並んでいます。
二十三夜塔は1814年(文化11)の建立、諸角栄吉母など8名の名が刻まれています。大六天は建立年不明、庚申塔と榛名山碑は1867年(慶応3)の建立です。
塚場遺跡出土石棒
2017年(平成29)公園の南端崖面で発掘されました。縄文時代中期から後期(約4500〜3000年前)、儀礼に使ったものと考えられています。
80cmほどもあり、とても綺麗でそんなに前のものとは思えませんが、覆屋の中で大切に保管されています。
甲州街道へ戻り、250mほど進むと国道20号と合流、上野原宿へ入っていきます。国道と合流してすぐ右手にあるのが
「浅間神社」、さらに奥にあるのが
「福泉寺」です。
浅間神社
甲州道中分間延絵図には描かれていません。江戸時代以降に建てられたのでしょうか。
福泉寺
1597年(慶長2)、あるいは1618年(元和4)創建、開山は保福寺4世建州隣道(1643年(嘉永20)没)とされますが、『甲斐国志』によると、開山は保福寺3世の朝山宗暾和尚となっています。
上野原宿へ入ってくると建物がひしめいています。牛倉神社の鳥居が左手にありますが、その手前を右へ曲がり60mほどの突き当りに
「大正館倉庫」の建物があります。
大正館倉庫
登録有形文化財として登録されています。1924年(大正13)建築、元は大正館という映画館でしたが、1988年(昭和63)閉館。だいぶ傷んでおり、このままでは朽ちてしまいそうです・・・
大正館のすぐ西側の路地を北へ向かい70m、左手に「八幡神社」があります。
八幡神社
甲州道中分間延絵図には「八幡宮之社」と描かれています。創建年は不明ですが、1643年(正保2)の棟札が残されています。現在の社殿は1977年(昭和52)に再建されたものです。
甲州街道へ戻り牛倉神社の鳥居をくぐり、牛倉神社へ向かいます。
牛倉神社入口
甲州道中分間延絵図から推定すると鳥居西側が脇本陣でした。甲州道中分間延絵図には4軒の脇本陣が描かれています。
牛倉神社
創建年は不詳ですが、1566年(永禄9)領主、加藤景忠の棟札が残されており、また1604年(慶長9)、1622年(元和8)、1645年(正保2)、1672年(寛文12)の棟札も残っています。
かつては
「あばれ神輿の渡御」で知られていました。現在もお祭りは盛大に行われているようです。
1554 年(天文23)、甲州・相州・駿河の三国同盟が成立し、武田信玄の長女(黄梅院、氏直の母)が北条家4代当主氏政に輿入れする際、両国の使者による引き渡しの儀式がこの神社で行われました。武田方のひき目役は郡内領主の青年武将
小山田信茂であったと伝えられます。
境内には楠木正成の像もありました。
ほとんどが現代的な建物に置き換わっている上野原宿ですが、所々に古い建物が残されていました。
牛倉神社から150mほど先右手に
「永井の酒まんじゅう店」があります。
永井の酒まんじゅう
1887年(明治20)頃の創業とされます。米に恵まれないこの地方の人々は粉食が多かったため、工夫を施し
「酒饅頭」ができたといいます。市に来る近郊の人々に売り出したところ大変な人気で、
上野原名物になりました。酒まんじゅうのお店は街道沿いに数店舗あります。
皮は柔らかくふわっとしていてお酒のいい香りがしてとっても美味しいです。途中の休憩で食べ、残りは持ち帰りましたが、日持ちしないので冷凍しおくといいそうですが、やはり酒の香りが弱くなっていましたので、その日に食べるのがいいですね。
上野原宿
上野原宿は河岸段丘上にあり、古くは武蔵七党の一つである横山党出身の古郡氏の支配下にあり、戦国時代には武田氏に属す加藤氏が領主でした。織物の中心地として多くの商家が軒を連ね、市が立ち活気ある宿場でしたが、
現在は往時の面影は全くなくなっています。
右手にあるホテルルートイン上野原が
「脇本陣若松屋跡」になります。その75mほど先の右手、「本町一丁目」バス停のところの細道を入ると
本陣門が残されています。
脇本陣若松屋跡
上野原脇本陣は細田家が務め、和宮降下の際には荷物運び一行から下賜された葵紋の入った金屏風と刀置きが保管されていたそうです。
上野原宿 本陣跡
上野原宿には本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠20軒、問屋場2箇所があったと資料にはありますが、絵図からは本陣2軒、脇本陣4軒、問屋2軒が描かれています。
本陣加藤家は、領主である加藤家の一類とされる名門でした。建物は大正年間に火災で焼失しましたが、重厚な門が往時を彷彿させます。
明治天皇行在所
1880年(明治13)の明治天皇山梨巡幸においては上野原宿 本陣が行在所となりました。本陣をでた後、明治天皇は境川橋付近で休憩され、そこに聖蹟碑が建立されます。しかし相模ダム工事により水没するため、現在本陣の庭に移されているそうです。しかし・・・外からは見えませんでした。
甲州道中分間延絵図から推定すると、もう1軒の本陣は「明誠高校入口」交差点付近、北側に脇本陣と高野本陣と書かれ、その向かいに脇本陣と問屋が並んで描かれています。
本陣の先、「本町」交差点を右へ曲がります。この保福寺へ通じる道を
「金仏横丁」といいます。
保福寺の鋳物地蔵が名の由来です。金仏横丁を200mほど進むと左手に「上野原小学校」があり、校庭の南側に大きなケヤキが目を引きます。校庭に入ることはできませんが、門の前からでもよく見えます。
上野原の大ケヤキ
樹齢800年以上といわれ、国の天然記念物に指定されています。この場所は、元御嶽神社の境内だったそうで、御神木だったと思われます。
その先月見ケ池の前にある大きな碑は「耕地整理記念碑」でした。月見ケ池の奥には「江の島神社」が祀られており、そのすぐ先が「保福寺」です。
耕地整理記念碑
鶴川から1911年(明治44)、延長8.7kmの「上野原用水」が整備されたことで農地も整備されたのでしょう。
月見ケ池
1931年(昭和6)に整備されました。上野原用水から導入した水を溜め末端の農地まで配水しています。2010年(平成22)に農林水産省のため池百選に選定されました。
江の島神社
「月見が池」完成時に町の安泰を祈願して弁財天社(江ノ島神社)が祀られ、毎年7月に灯篭流しや花火大会など盛大に祭礼が行われているそうです。
保福寺「月見寺」
保福寺は別名「月見寺」と呼ばれ、中里介山の「大菩薩峠」に登場します。中里氏は保福寺に投宿し「無名の巻」を執筆したといわれています。山門右手の「月見寺」石碑の文字は中里氏の真筆とされます。
山門の右手に鋳物の地蔵と芭蕉句碑があります。
鋳物の地蔵
江戸時代を代表する鋳物師西村和泉守が1758年 (宝暦8)年に製作したものです。右肩に「天下泰平 国家安全 災難消滅」と刻まれています。この地蔵が先程通ってきた「金仏横丁」の由来となった鋳物地蔵です。
山門の扁額の安寧山の文字は、討ち入り後の赤穂四十七士を山内に招き入れた高輪泉岳寺の永承天老師の揮毫です。
芭蕉句碑
『父母のしきりにこひし雉子の聲』
1917年(大正6)獅子門(各務支考の一派)第9世佐藤児楽によって建立されたものです。
保福寺本堂と鐘楼
1558年(永禄元)、領主
加藤丹波守景忠が創建。深向院4世日州宗運が開山。「応安」の銘がある雲版は山梨県内最古のものです。
保福寺山門を入り左手にある五輪塔が「加藤丹後守景忠公供養塔」です。
加藤丹後守景忠供養塔
加藤丹後守景忠は武田信玄の重臣で上野原城主でしたが、1582年(天正10)に武田氏は滅亡し、加藤景忠もその1ケ月後に現在の西多摩郡瑞穂町箱根ヶ崎で討ち死にしました。
甲州街道へ戻ります。「本町」交差点の南側の道は
「富士見横丁」と書かれていました。
富士見横丁
この横丁からは富士山が見えたそうですが・・今日は見えないですね。大正末期から昭和初期には「上野座」という芝居小屋があり、芝居や歌謡ショーが催されていたことから「芝居横丁」とも呼ばれていたそうです。
富士見横丁のすぐ先の左手には立派な商家がありました。土壁に
鏝文字の看板には「三井屋」とあります。かっこいいですね〜
12:50 正面に歩道橋があり、この変則的な三叉路を一番左へ。静かな旧道へ入り、上野原宿をあとに鶴川宿に向けて進んでいきます。