2022年11月19日
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12:50 上野原宿をあとに鶴川宿に向けて進んでいきます。
変則的な三叉路を一番左へ入ると静かな旧道になります。旧道へ入ってから60mほど右手の民家の庭にコンクリートで蓋のされた井戸と小さな石碑があります。
木食白道加持水井
石碑には1797年(寛政9)の銘があります。
白道上人は江戸時代に諸国行脚をし、千体余りの仏像を彫ったことで知られる「木食行道上人」の弟子でした。木食と共に諸国を修行して歩き、後に鳥沢に定住したようです。井戸を掘る場所を教示するため一心に加持祈祷を捧げ、白道が決めた場所に井戸を堀ると、見事に水がでたそうです。井戸の完成までの間、恵比須大黒を刻み全8戸に贈っています。
さらに100mほど進んだ交差点の右手に「念仏塔」、左手に「大乗妙典廻国供養塔」があります。
念仏塔と大乗妙典廻国供養塔
このあたりには
御仕置場があったといい、処刑された人々を供養するためのものと思われます。念仏塔も大乗妙典廻国供養塔も1827年(文政10)の建立。
この場所は、右は西原・小菅・丹波へ、左は上野原城跡へ向かう辻でした。
武田信玄が乾柿(ほしがき)を奨励し、江戸時代には献上品となるほどの名産品でした。山梨では干柿を「ころ柿」というそうですが、見事な「柿のすだれ」ですね。
馬頭観音
民家の角にちょこんとあり、旅人を見守っています。
念仏塔から200mで民家角の馬頭観音、その先120mでY字路になっている所は右へ。坂を下って行きます。道の右手は水路になっており、キレイな水が流れています。左手に古い石仏と墓碑があります。
甲州道中分間延絵図には「二十三夜堂」が描かれています。このあたりだったのかもしれません。
雰囲気のある道になりますが、わずか50mほどで終わってしまいます。
街道は唐突に歩道橋となってしまいます。国道建設のため山が切られてしまっています。歩道橋を渡り、真っ直ぐ県道30号へ入っていきます。河岸段丘の上をしばらく歩いてきましたが、これより段丘を下りて行きます。
県道を200mほど下っていくと左手に旧道が整備されています。
再び県道へ出ますが、すぐ前の旧道へ入ります。どんどん下っていきます。鶴川沿いにでるとすぐに鶴川橋へ至ります。
鶴川橋と鶴川
江戸時代は仮橋で、冬から春にかけては橋が架けられ、夏冬は徒歩で渡っていましたが、急流のため徒歩では困難が多く、街道の難所のひとつだったといいます。
川越人足は横暴者が多く、「川越をまんまと武士の旅役者」という川柳が残されています。
鶴川宿入口
鶴川橋を渡ると、鶴川宿です。綺麗に整備された休憩所が設置してありました。左手には白山神社があります。
身延参詣甲州道中膝栗毛「鶴川」
この句碑のような石碑はどこなのでしょうか・・・
白山神社の大欅
白山神社の祠と石仏
カーブを曲がり60m、左手に「理法寺入口の石碑」があります。
理法寺入口の石碑
ここを左へ入ると正面に小さなお堂があります。
理法寺
小さな堂に「理法寺」の額が掲げられています。真新しいお堂は最近建立したものでしょう。
1558年(永禄元)密峰和尚の創建と伝えられています。古くからあるお寺ですが、恐らく最近小さく建替えたのでしょう。
理法寺の右手は広場になっており一角にトイレもありました。右の方へ進み、鶴川神社の石段下へ出ます。
石段はかなり狭くて急で怖いですが、上りきると景色はいいです。鳥居に掲げられた扁額には1832年(天保3)の銘があります。
鶴川神社(天王之杜)
1661年(寛文元)創建とされますが、別の資料では文永年間(1264〜75)鎌倉建長寺を開山した大覚禅師が信濃国からの帰途に神祠を造立、「牛頭天王」と称したとも書かれています。本殿は傷まないように囲われておりほとんど見ることはできません。
拝殿の右手に「駒つなぎ石」、「秋葉社」が祀られています。
駒つなぎ石・秋葉神社
この石は往時、小澤家の庭先にあり馬をつなぐ石として利用されてきました。1989年(平成元)ここへ移されました。
秋葉神社は宿場の西端に祀られていたものが移されたものと思われます。
脇本陣付近
鶴川神社参道の前が脇本陣でした。恐らくこのあたりが脇本陣だったと思われます。
1843年(天保14)の記録では本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠8軒、家数59戸の記録が残されています。
脇本陣?
もう1軒の脇本陣は宿の中ほど右手になりますが・・もう2軒ほど手前かも・・
脇本陣の1件は川端家が務め、屋号を「柏屋」といい問屋も兼ねていたという資料がります。脇本陣前が問屋だったようです。左手にポストが設置されていたあたりが問屋だったのかもしれません。
場所は不明ですが、上級旅籠の若松屋は馬宿を兼ねていました。
枡形手前に問屋、本陣が隣り合ってあったようです。
本陣、富田家?
枡形手前のこの立派なお宅が本陣でしょうか・・・?資料によっては、現在「あいらーく町屋」というコミュニティセンターが本陣となっているものもあります。しかしそこが本陣だとすると、甲州街道は細道ではなく、車道となっている道になるはずで、何が本当なのか・・わかりません。
枡形
鶴川宿は1921年(大正10)年の大火でほとんどの建物が焼失してしまったそうですが、今でも落ち着いた古い町並み感が残り、宿場の雰囲気が残っていました。
甲州道中分間延絵図「鶴川宿」
13:30 本陣前にバス停があり、ここから上野原駅までバスで戻りますが、バスの時間は14:26です。1時間近く余ってしまいましたので、鶴川宿入口にあった四阿で休憩してバスを待ちました。上野原駅まではバスで20分ほど。上野原駅からは中央線へ乗り藤野駅で車をピックアップし帰宅しました。