2022年4月2日

「ツール」⇒「作図・ファイル」⇒「アイコンのラベル表示」にチェックを入れると名称が表示されます。 KMLファイルに変換することでgoogle mapへのインポートもできます。

高尾駅前のコインパーキングに車を停め、JR中央線で高尾駅から八王子駅へ向かいます。今日も圏央道は大混雑。毎週末のように事故渋滞・・・到着が大幅に遅れました。

10:30 八王子駅から出発します。甲州街道へ向かうため駅前を北へ進んでいきます。八王子駅から450mほどで甲州街道へでますので、左折して駒木野宿へ向けて進んでいきます。この辺りは八王子十五宿の「横山宿」にあたります。

八王子横山十五宿

八王子宿は『八王子十五宿』『八王子横山十五宿』とも呼ばれ、横山宿・八日市宿を中心に15の宿場が集まった甲州街道最大の宿場でした。問屋は横山宿と八日市宿に各1箇所づつ設けられましたが、それ以前は横山宿と八日市宿の境に1箇所設置されていました。

八王子宿は後北条氏の滅亡後、元八王子から商人を移して設置されましたが、その後18人の関東代官を集住させ、代官頭の大久保長安が統率しました。大久保長安の統率下に八王子千人同心が設けられ、千人同心は八王子や近農村に在住し、関東甲州口の警備に当たりました。

すぐ先、セブンイレブンの角を右折し「大義寺」、その先左折して「妙薬寺」へ寄り道していきます。

TOO001

大義寺

鎌倉時代末期に「大元寺」として創建、戦国時代の10代住職、清満が足利義稙(よしたね)と関係があったため1字もらい「大義寺」と改めたとされます。
西側の通りは古くは「大元寺横町」と呼ばれており、川越道、南は小田原へ通じていました。また南側の道は本郷村、横川村から八王子城へ通じる街道でした。

大義寺の墓地に「榎本星布尼」と「奥津雁江」のお墓があります。

TOO001

榎本星布尼墓

側面に「咲花もちれるも阿字の自在哉 星布」と刻まれています。 1732年(享保17)八王子横山宿の旧家、榎本家の一人娘として生まれました。白井鳥酔に学び系明窓と号し、のち春秋庵白雄に師事、品川鮫洲にいた二世熊沢鳥酔のあとを継いで三世松原庵を受け継ぎ、星布と称しました。松原庵は芭蕉の系譜を継ぐ伊勢派三庵の一つです。1793年(寛政4)尼となり、1814年 (文化11)83歳で亡くなりました。
永福稲荷神社の芭蕉句碑を最初に建立した人です。

TOO001

奥津雁江墓

1842年(天保13)に生まれ、私学校を設立し、多くの子弟を育てました。1881年(明治14)に本町に学校を設立、1885年(明治18)に元横山町に移転、1897年(明治30)の八王子大火で全焼後、1901年(明治34)に大横町に新築し斯文(しぶん)学院と改めました。雁江は1918年(大正7)に亡くなりました。斯文学院は公立の小中学校が整備され1935年(昭和10)頃に廃校になりました。

自然石の墓石には「独笑のわらひの贅(むだ)や石一とつ 残して帰る阿字不生国」の句が刻まれています。「独笑」は雁江の別号です。

TOO001

樽墓

相当お酒が好きだった方のお墓でしょうか。戒名も「酒呑居士」、よっぽど大酒飲みだったのでしょう。
大義寺をでて180m南へ、元横山町の北大通りを左へ150m左手が「妙薬寺」です。妙薬寺には横山塔、山本張六夫妻の墓がありました。

TOO001

妙薬寺

1355年(文和4)清遍律師が薬師堂を建立したのが始まりとされ、その後境内とその周辺が横山党の本拠地となっていたとされます。

TOO001

横山塔

1560年(永禄3)建立、横山氏(小野秀綱)の墓とも言われていますが、供養塔と考えられています。横山氏は武蔵七党の一つで、敏達天皇の後裔、小野篁(たかむら)を祖とする一族。
篁から7代目、小野孝泰は武蔵守として承平・天慶(930〜40)の頃、この地に下向、土着し「横山」姓を名乗りましたが、1213年(建保元)の和田合戦で敗北し絶滅しました。

武蔵七党

平安末期から武蔵国に存在した同族的武士団。横山・猪俣・児玉・丹(丹治)・西(西野)・村山・野与を合わせて「武蔵七党」と呼びます。時代や資料により少しずつ変わり、私市(さきいち)・都築を加え「武蔵十党」とする場合や「九党」の場合もあります。

TOO001

山本張六夫妻墓

武田氏家臣、山本張六夫妻の墓といわれています。山本張六は甲斐源氏初代、新羅三郎義光(源義光)の裔で山本勘助の曾孫にあたります。
妙薬寺をあとに八幡八雲神社へ向かいます。八幡八雲神社の境内に「横山神社」があります。

TOO001

八幡八雲神社(八幡之杜)

名馬の産地として知られた「多摩の横山」は平安時代、陽成天皇の御料牧場があり924年(延長2)武蔵守小野隆泰が横山の地へ石清水八幡宮(現八幡八雲神社)を祀り、939年(天慶2)「将門の乱」の翌年に勅使牧(国営牧場)となります。「横山の牧」に武蔵権之守に任ぜられた小野義孝は、姓を横山に改めここへ定住しました。

TOO001

八幡八雲神社

その後、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけては多摩丘陵一帯から相模に勢力を振るい、「武蔵七党」の一つとして名を轟かせ、横山党は武蔵七党の中でも70余りの氏族を含む最大規模の武士団でした。八幡八雲神社は横山氏居館跡で横山党の根拠地であったとされます。

TOO001

横山神社

1213年(建暦3)和田義盛の乱に加担し一族合戦に及びましたが、横山の人々は討死し、所領は没収されてしまいました。1214年(建保2)に横山党の始祖である横山義孝(小野義孝)を祀り、「横山神社」が創建されました。
八幡八雲神社から南へ150mほどで甲州街道へ戻ってきました。この交差点向かいに八王子横山町郵便局があります。

TOO001 現在の八王子横山町郵便局が長田作左衛門邸跡とも紹介されていますが、横山宿本陣も郵便局とされています。甲州道中分間延絵図でも本陣は郵便局あたりで間違いないと思いますが・・・長田作左衛門邸が本陣であったかどうか、様々な資料を見ましたが記載はありません。

TOO001

長田作左衛門邸跡

北条氏照の家臣で八王子城落城後は前田利家に従ったと伝えられています。横山宿を作り市場を発展させた功労者であった長田作左衛門の屋敷があった場所とされています。
八王子横山町郵便が本陣、そのさき50mくらいに問屋、さらに50m先に脇本陣があり横山宿の中心地でしたが、詳しい場所は現在でもよくわかっていないようです。「横山根元記」によると横山宿本陣・脇本陣は佐藤三郎左衛門、川辺又左衛門、八日市宿本陣は新野与五右衛門、脇本陣は山上喜左衛門と記されています。また「新編武蔵風土記稿」ですと横山宿本陣は名主の川口七郎兵衛となっているようです。

郵便局より南へ100mほど進むとポケットパークの片隅に「肥沼信次博士の碑」がありました。

TOO001

肥沼信次博士の碑

1908年(明治41)八王子生まれの医師、肥沼信次博士は第二次大戦直後、旧東ドイツのヴリーツェン市で当時死の病であった発疹チフスの治療にあたり、多くの命を救いましたが、半年の活動の中、自らも感染してしまい37歳で亡くなりました。
甲州街道へ戻り郵便局より160m左手の歩道に「八王子道路元標」があります。

TOO001

八王子道路元標・高札場跡

江戸時代には交差点の中央に高札場がありました。道路元標も交差点の中央あたりにありました。現在あるものはモニュメント的なものです。元々の元標はどこへいったのでしょうか・・・
交差点を過ぎた辺りから「八日市宿」になります。交差点より220m右手の八王子市夢美術館前に「八日市宿跡碑」があります。

TOO001

八日市宿跡碑

2003年(平成15)ビュータワー竣工に合わせて建立された碑です。

八日市宿には本陣、脇本陣、問屋がありました。脇本陣ははっきりわかりませんが、この「八日市宿跡碑」の往還向かいあたりだと思われます。その3軒先あたりが問屋でした。本陣は八幡町交差点南側でした。山上家や新野家が務めたとの資料もありますが、詳しいことはわかっていません。
八日市宿跡碑のすぐ先、ビュータワー西側の路地を右に曲がり極楽寺へ寄り道をしていきます。1つ目の角を左、すぐ先右へ曲がって400mで極楽寺へ到着します。南側の門より境内へ入ると正面に弁天堂、その左手に「長田作左衛門墓・供養塔・塚」があります。極楽寺境内にはほかに初代歌川国直の墓、玉田院の墓、塩野適斎の墓があります。

TOO001

極楽寺・弁天堂

1504年(永正元)滝山城下丹木に創建され、開基は滝山城主大石定重、北条氏照の八王子城移築に伴い、元八王子に移転、落城後の1590年(天正18)現在地へ移転しました。庫裏は多摩市連光寺の旧家を移築したものです。 1945年(昭和20)の空襲で八王子市街地の殆どが焼けましたが、極楽寺だけは戦火を逃れました。

「新編武蔵風土記稿」には境内東に古松があり、「大久保塚」と呼ぶ、とあります。大久保長安の死後、一族が断罪されたときに長安の子を埋葬したと伝えられるそうですが、どこなのかわかりませんでした。

戻ってからよく調べると現在その場所は極楽寺から東へ100m「静教保育園」の中に明治になってから塚の上に建立された「御嶽」と彫られた石碑があり、塚はなくなっているといいます。しかも、保育園内なので見ることもできないそうです。往時は静教保育園も極楽寺の境内だったということですね。

TOO001

長田作左衛門墓・供養塔・塚

作左衛門は1590年(天正18)八王子城落城後、元八王子から現在地へ横山・八日市・八幡の3宿を移し、横山宿の基礎を造った人物です。1617年(元和3)に亡くなっています。 供養塔は1852年(嘉永5)に川辺勘十郎などの発願で建立されたものです。右手の塚も1988年(昭和63)の調査により同時期に造られたものと推定されています。

極楽寺の墓地の門を通りすぐ左手に「初代歌川国直墓」、直進し正面の覆屋に収まっているのが「玉田院墓」、玉田院墓前で右へ回り少し大きめの覆屋におさまるのが「塩野適斎墓」です。

TOO001

初代歌川国直墓

1793年(寛政5)信濃に生まれ、初代歌川豊国の門人で初めは明画(みんが・中国の明)を学びましたが、浮世絵に転じて役者絵や美人画を描き、為永春水の人情本など200冊以上に及ぶ版本の挿絵を手掛けています。1854年(嘉永7)に亡くなっています。

TOO001

玉田院墓

玉田院は武田信玄の六女、松姫の姪で仁科信盛の娘「小督(こごう)」のことで、武田氏滅亡の折13歳で松姫と共に八王子に逃れ、出家して「玉田院」と称し、大義寺西隣りに庵を結び住んでいましたが、1608年(慶長13)、29歳の時に病により亡くなりました。庵を玉田寺としたものの元禄年間に廃寺となり、墓石は1715年(正徳5)に仁科資真(すけざね)が極楽寺に改葬しました。

TOO001

塩野適斎墓

千人同心河西家に生まれ、組頭の塩野家の養子となりました。学問に優れ「桑都(そうと)日記」50巻を著し「新編武蔵国風土記稿」、「新編相模国風土記稿」の編纂にも従事しました。享和年間には蝦夷地の開拓にもあたりました。適斎のほか「笛水」とも号しています。1847年(弘化4)73歳で亡くなりました。本堂右手には「適斎先生之碑」もあります。
西側の山門から出ようと思いましたが、閉じられていましたので、入ってきた門から出て西へ、県道を越えて「宝樹寺」、「聲阿彌稲荷社」、その先交差点の角が「大善寺跡」、さらに450mほどで甲州街道へ合流します。

TOO001

宝樹寺・聲阿彌(せいあみ)稲荷社

宝樹寺は1304年(嘉元2)に遊行二世真教が武蔵国遊行の折、開創されました。

TOO001

大善寺跡

天正年間(1573年〜1592年)北条氏照の開基、牛秀の開山により、滝山城下に創建され、のちに八王子城下に移転、八王子城落城に伴い大横町のこのあたりに移転しました。1969年(昭和44)、八王子市内の大谷に移転し、寺跡は福祉会館になっています。

TOO001

八日市宿本陣跡

八幡町の交差点より少し東にありました。先ほども書いたとおり、横山宿・八幡宿とも本陣や脇本陣の位置ははっきりわかっていません。
八幡町交差点を過ぎるとかつての「八幡宿」、本郷横町の交差点からは八木宿となり、そこから300mで甲州街道と恩方街道(佐野川往還・陣馬街道)の追分となります。その前に甲州街道の南側へ寄り道していきます。 八幡町交差点より南へ向かい350m、中央線の踏切を越えると右手に「笠間稲荷」、その先に「金剛院」があります。

TOO001

笠間稲荷・金剛院

1576年(天正4)、真清によって明王院として開かれ、現在地よりやや南方の丘陵に連なる土手下の地に建てられた不動堂がその草創とされます。1631年(寛永8)現在地に伽藍を設けました。

金剛院の向かいに「念仏院」「時の鐘」「上野天満神社」があります。

TOO001

念仏院・時の鐘

念仏堂は1699年(文禄12)の建立で、1932年(昭和7)に念仏院に改名されました。 時の鐘も同じく1699年(文禄12)、八日市宿の名主・新野与右衛門が発願主となり、千人同心や近郊の人々が費用を出し合って造られました。
神田鍋町の鋳物師、椎名伴豫(予)による鋳造で、「武州多麻郡八王子町時之鐘」と刻まれており、元禄12年の銘があります。昭和の初めまで時を告げていました。

TOO001

上野天満神社

1636年(寛永3)別当金剛院の開山、真清が天満社として創立、1641年(寛永8)奉納の神宝や道真の弥陀経は戦火により焼失、(昭和31)再建されました。
上野天満神社の横を東へ入っていき、130mほどで「法蓮寺」があり、境内に「什長源以寧の墓」があります。

TOO001

什長源以寧の墓

八王子千人同心であった什長源以寧は医業を行う傍ら元八王子に「養老畑」を設置し、庶民の救済費に当てました。子弟を集めて書道を教え門弟は500名にも及ぶといいます。
法蓮寺をでてすぐ先、右手に「本立寺」があり、墓地には「三田村鳶魚墓」、「原胤敦墓」があります。

TOO001

本立寺

1566年(永禄9)滝山に創建されたと伝えられ、千人頭であった原胤従(たねつく)が中興開基となって1596年(慶長元)現在地へ移されました。墓所には原胤従、三田村鳶魚(えんぎょ)の墓があります。

北から南へ貫く中央の通路の右手(西側)にあり、案内板のすぐ後ろあたりに「三田村鳶魚墓」、そのすぐ北側、あまり綺麗に区画割りがされていないような一角に「原胤敦墓」があります。なかなか見つからず、かなり長時間探し回ってしまいました・・・

TOO001

三田村鳶魚墓

1870年(明治3)織物屋の次男として大横町に生まれ、江戸の風俗、文学など幅広い知識を持ち、著書に「日本及び日本人」、「三田村鳶魚全集」全27巻があります。また坪内逍遥らと車人形の研究や保存にも尽力しました。1952年(昭和27)没。

TOO001

原胤敦墓

右手が原胤敦、左手が弟の原新介のお墓です。 碑面に「原了潜入道平胤敦墓」とあります。延享4〜文政10年まで千人頭で、1800年(寛政12)蝦夷地御用を命ぜられ、北海道の白糠に千人同心の子弟100人と開拓整備に従事、1804年(文化元)には箱館奉行支配調役となり、手付の者は「地役御雇」として各地へ転属、1810年(文化7)には地誌「新編武蔵風土記稿」の編纂にもあたっています。墓所には苫小牧より送られた灯籠が建っています。
南側の門より本立寺をあとにし、南大通りを西へ340m、旧八王子郷土資料館前に「庚申塔」「設楽能政の墓」がありました。

TOO001

庚申塔

1791年(寛政3)に福田兵蔵が願主となり、千人同心の庚申講中が建立したものです。右側には千人同心32名の名が刻まれ「植田孟縉」の名も見られます。

植田 孟縉(もうしん)

八王子千人同心の頭。1813年(文化10) 千人頭である原胤敦に地誌創作の幕命があり、孟縉は塩野適斎らとともに武蔵国の多摩郡、高麗郡、秩父郡の地誌編纂に従事、「新編武蔵国風土記稿」を完成させます。1823年(文政6)には多摩郡を中心とした地誌「武蔵名勝図会」を著し、「新編相模国風土記稿」の編纂にも関わったとされます。「日光山志」「日光名勝考」「鎌倉名勝図」「浅草寺旧跡考」など多数の著書が残されています。

TOO001

設楽能政の墓

散田(現東浅川)に居住した関東十八代官の一人、設楽能政の墓で1678年(延宝6)の銘があります。 しかし、設楽家一族のお墓は東浅川の興福寺にあるそうですが、能政のものだけどうしてここにあるのでしょうか・・・
さらに、南大通りを西へ370m左手に「信松院」があります。

TOO001

信松院

開基は武田信玄の四女(六女とも)松姫です。松姫は7歳で織田信長の長男信忠と婚約、しかし信玄と家康が戦った際、信長は家康に援軍を送ったため破談となりました。1582年(天正10)武田氏滅亡後、姪達と八王子に逃れ仏門に帰依しこの地に庵を建てました。

松姫のお墓は本堂の西側墓地の中央あたりにあります。

TOO001

松姫墓

1616年(元和2)に没するまで教化に努め、死後松姫の住居であった庵を松姫開基の禅寺としたものが「信松院」です。墓を囲む玉垣は1748年(延享5)千人頭10名が寄進したものです。

TOO001

松姫の銅像

信松院には1715年(正徳5)頃の作という木造松姫座像が安置され、また、松姫百回忌に寄進されたという軍船雛型二艘があるそうです。
信松院前交差点を北へ向かいます。右手の歩道を進み、歩道が2重になっている箇所は内側の下る歩道を行き、中央線の下をくぐり小門公園でトイレすませ、中央線沿いを東へ150m、左へ曲がり50mほど左手に「大久保長安陣屋跡」があります。

TOO001

大久保長安陣屋跡・産千代稲荷

関東十八代官の頭として八王子に赴任した頃の屋敷跡です。家綱・綱吉の時代になると代官の引き上げが行われ、陣屋は農民に払い下げられました。産千代稲荷境内は陣屋の一部です。長安は東海・東山・北陸3道に伝馬制を設け、各地の検地(石見検地)を行い、石見銀山・佐渡金山奉行 (後に伊豆銀山奉行を兼ねる) を勤めた幕府の重臣でした。境内は陣屋の西端の地と想定されています。

陣屋跡からそのまま北へ230mほどで甲州街道へ戻ってきました。

TOO001 八王子は市街地となり大きなビルや近代的なマンションになっていますが、所々に古い建物が残っていました。

甲州街道へ戻り西へ向かい、八幡宿から八木宿を経て650mほどで「恩方街道追分」です。追分の交差点は横断歩道がなく複雑な歩道橋が架かっています。歩道橋へ上り、恩方街道を望みます。

TOO001

恩方街道追分

恩方街道(案下橋・甲州裏街道・甲州脇往還)との追分です。正面が「恩方街道」、左手が「甲州街道」です。 恩方街道は、久保宿、島ノ坊宿を過ぎると案内川沿いに下恩方村、上恩方村を経て甲州上野原宿で再び甲州街道に合流します。
恩方街道側へ歩道橋をおりるとすぐ先に「千人同心屋敷跡碑」があります。

TOO001

千人同心屋敷跡碑

武田氏滅亡後の1582年(天正10)に国境警備隊だった家臣達は八王子城下へ移り住み徳川家に仕え、「八王子千人同心」の核となりました。10名の組頭の下にそれぞれ100名の平同心を配し、平同心は八王子周辺に居住し身分は武士でしたが百姓生活をしていました。創設期は関ヶ原、大坂夏の陣にも出陣しました。1652年(慶安5)から幕末までは日光東照宮の警備が主な任務でした。この周辺の千人町は千人頭や幹部同心に与えられた広大な屋敷がありました。石碑は(昭和35)八王子市によって建立されたものです。
追分交差点まで戻り、追分交番前を右手に行くと歩道に「追分の道標」があります。

TOO001

追分の道標

「高尾山道 江戸 清八」と彫られています。 1811年(文化8)江戸の足袋職人、清八が高尾山に銅製五重塔を奉納した記念に江戸から高尾山までの甲州街道の3つの追分(新宿・八王子・高尾山麓小名路)に建立した道標です。 昭和20年の空襲により4つに破壊され、1片は不明となっています。現在あるのは平成15年に再建されたレプリカで、新宿の道標は行方不明、小名路の道標は八王子市郷土資料館に保管されているそうです。
ビル群の中を130m右手に「了法寺」、その先50m左手に入るとすぐに「興岳寺」があります。

TOO001

了法寺

1489年(延徳元)啓運日澄上人が隠居する寺として開山されたとされ、1490年(延徳2)元八王子に改めて開山、1590年(天正18)現在地へ移転したそうです。 写真からもわかるように現在は、「萌え寺」として知られています。

TOO001

興岳寺

1592年(文禄元)千人同心の頭、石坂弥次右衛門森信により創建されました。石坂弥次右衛門義礼の顕彰碑は本堂左手に、お墓は本堂と反対の道を挟んだ向かいの墓地内、中央通路の右手奥の方にあります。大きな石仏が並ぶ一角です。
TOO001

石坂弥次右衛門義礼の顕彰碑と墓

義礼は幕末の戊辰戦争の際、日光勤番の責任者でしたが、日光東照宮を官軍に明け渡し戦火から守りましたが、戦わずして日光を引き渡したため一部の千人同心の怒りを買い切腹しました。 しかし今日、日光東照宮が完全な形で残っているのは彼の決断のおかげなのです。

甲州街道へ戻り350mほど進むと右手に「馬場横丁の碑」があり、その路地へ入っていきます。

TOO001

馬場横丁の碑

江戸時代に千人隊拝領の馬場が宗格院の北側、現在の八王子市立第五小学校前の通りにあったので、ここから宗格院までの道を馬場横丁と呼ばれていました。石碑は1992年(平成4)千人町二丁目町会により建立されました。
馬場横丁を300mほど進むと左手に「宗格院」があります。 宗格院は1593年(文禄2)開基は山本忠房、開山は元武田家家臣、山本土佐忠玄の子、价州良天和尚により「宗格庵」として開きましたが、東浅川町の興福寺6世永雲により良价山宗格院と改められました。八王子千人同心ゆかりの寺で、境内には大きな「千人隊事跡碑」「松本斗機蔵墓」「石見堤」があります。

TOO001

千人隊事跡碑(千人隊顕彰碑)・河西祐助知節顕彰之碑

千人同心の成り立ちと活躍について記してある石碑だと思われます。

河西祐助

1800年(寛政12)防衛と開拓のため千人同心100名が蝦夷地に入りました。組頭原胤敦は50名を連れて白糠(しらぬか)へ、弟原新介は50名を連れて勇武津に入ります。河西祐助は原隊とは別に、幕吏の見習いとして妻子を連れて勇払会所に入りました。しかし、苛酷な自然環境、食料にも事欠き、原野の開拓はままならず4年で終了しますが、その間に死亡したもの32名、病にかかり帰郷する者も多数でたとされます。河西祐助の妻、梅も亡くなり「蝦夷地開拓移住隊士の墓」に手厚く葬られています。 「河西祐助の碑」は八王子千人同心旧交会が河西祐助没後200年を祈念して建立した石碑です。

松本斗機蔵の墓は宗格院奥の墓地、中央あたりにあります。

TOO001

松本斗機蔵墓

斗機蔵(胤親)は千人同心組頭で、塩野適斎、昌平黌(しょうへいこう)に学び、江川英龍、渡辺崋山と交わり海外事情に精通し、1837年(天保8)水戸藩主、徳川斉昭に上書を献じ日本の開港を主張しました。海防の充実と開国の方策を幕府と水戸藩に献策した「献斤微衷(けんきんびちゅう)」を著しています。1842年(天保12)には見識を買われて浦賀奉行に抜擢されましたが病のため任地に就くことなく、同年没しました。
墓地には他に千人同心組頭山本家・河西家・栗沢家の墓もあるそうです。「石見堤」は宗格院庫裏北側にあります。

TOO001

石見堤

浅川の度重なる氾濫に憂慮した八王子総奉行、大久保長安が慶長年間(1596〜1615)に築きました。石垣堤で上流は千人町、日吉町、元本郷町に、下流は新町の甲州街道沿いに及んでいましたが、現在は宗格院北西、建物裏に60mのみ残されています。
花壇の縁にしか見えません・・・これが堤防の一部でしょうか・・

宗格院から甲州街道へ戻り再び国道20号を西へ向かい進んでいきます。馬場横丁の碑から660m、長房団地入口交差点を右へ、この交差点辺りから旧散田村です。この交差点は往時、枡形になっており突き当りには「地蔵堂」がありましたが、今は道路となっています。このあたりの往還沿いも「千人同心屋敷」でした。 国道と別れて右へ曲がりすぐ次の交差点を左へ曲がりますが、その角に「高尾山道標」があります。

TOO001

高尾山道標

1913年(大正2)に建立された道標と1981年(昭和56)再建された1927年(昭和2)の新道建設時の甲州街道を描いた石標が建っています。
350mほど進むと再び国道20号と合流した左手に「長安寺」があります。

TOO001

長安寺

地蔵は1750年(寛延3)、1776年(安永5)と刻まれています。境内にあった稲荷は横山橋の袂に移されています。本尊は准胝観音であり、秩父三十四ヶ所の内の観音を移したと言われています。
長安寺から200mほど「並木町」交差点から南へ伸びる道が中山道分間延絵図にある「居村道五丁余」と書かれている道だと思われ、往還左手の交番前には道標が2基ありました。

TOO001

妙経寺道標・万葉歌碑道標

妙経寺は元々、現在の千葉県にありましたが、1935年(昭和10)に散田村へ移り、戦前まではこの付近にありました。1945年(昭和20)の空襲で焼け、八王子市寺町に再興されています。道標はその時からのものなのか、記念に建立したものなのかは不明です。
「万葉歌碑入口」と彫られている道標は、万葉歌碑がある万葉公園への道標のようです。

散田一里塚

中山道分間延絵図を見ると「居村道五丁余」から散田一里塚、地蔵堂、閻魔堂、正覚院、浅間之宮と続いています。全てなくなっていますが、散田一里塚は現在の交番から少し先にあったようです。はっきりとした場所はわかりません。往時はエノキの木立があったといいます。

交番から140mほど左手の八王子市横山事務所が浅間之宮跡とされます。

TOO001

浅間之宮跡と富士塚

甲州道中分間延絵図にある「浅間之宮」だったといわれます。市の天然記念物であるオオツクバネガシの大木があります。聞いたことのない樹木ですが、ツクバネガシとアカガシの雑種とされ、高尾山で発見され、1920年に牧野富太郎によって命名されたそうです。
800mほど進み「多摩丘陵入口」交差点を左へ入っていくと「東浅川駅跡」があります。

TOO001

東浅川駅跡

かつて皇室専用の停車場があった場所です。1990年(平成2)過激派の放火によって焼失してしまいました。
甲州街道へ戻ると「武蔵野墓地参道碑」があり、1kmほど上っていくと皇室の墓地である武蔵野陵へ至ります。

TOO001

武蔵野陵墓地参道碑

ちょうど桜が満開の季節、すぐ近くの南浅川沿いは桜の名所としても知られていますので、少し寄り道していきます。「多摩丘陵入口」交差点から北へ入り、南浅川へでました。
TOO001

浅川(南浅川)

桜は満開でした。多くの人が桜を楽しんでいました。

浅川は案下川、小仏川を主要な水源として東流し、最終的には多摩川へ合流します。往時は玉川と並ぶ鮎の名産地として知られていました。 せっかくなので、南浅川橋から陵東橋まで桜並木を歩き、陵東橋を渡り対岸を戻って一周し、さらに陵南公園を通りぬけ古道橋を渡り南浅川沿いを東へ戻り、原宿ふれあい広場の中央から甲州街道へ伸びる細い路地で街道へ戻ってきました。甲州街道は「多摩御料西」交差点より左へ入り国道から旧道となりますが、旧道へ入って170mくらいのところで合流します。

この路地を出たあたり、山王社へ入るところに高札があり、その手前には地蔵堂、少し先にも地蔵堂がありましたが、現在山王社以外は無くなっています。街道を突き抜けて「山王社」、そのまま国道へ向かう右手の「原宿会館」に石仏群があります。

TOO001

山王社・石仏群

山王社の勧請棟札によれば1700年(元禄13)、願主原宿村町田武兵衛、雙木左衛門と記されています。御神体は石に彫られた猿とされます。

原宿会館の石仏はもともとどこにあったのかは不明です。無くなってしまった地蔵堂などにあったものでしょうか・・・

甲州街道へ戻り、駒木野へ向かって進んでいきます。

TOO001

旧家と旧道

往時の面影は殆どありませんが素敵な旧家がありました。山王社から400mほどで県道により甲州街道は分断されますが、横断歩道を渡った先は旧道として残され、整備されています。

国道20号と合流すると「熊野神社」があり、境内には「相生の木」があります。

TOO001

熊野神社

創建年は不詳ですが、諸国行脚の老夫婦が祀ったとの伝承があるほか、応安年間の頃(1368)に片倉城主、毛利師親が創建したとも言われています。1573年(天正元)北条氏照が再建したといいます。

TOO001

相生(あいおい)の木

この木は樫と欅の根元が一緒になって成長した相生の木でしたので、いつしか「縁結びの木」と呼ばれるようになりました。この木の根元に自分の名前と思いを寄せる人の名前を書いた小石二つを置くと、願いが叶うと言われています。
根元をよく見ると名前が書かれた小石が置いてありましたね。願いが叶うといいですね!

TOO001

お杓文字様(おしゃもじさま)

中央線の南側に杉木立があり、ぢぢいの森、ばばあの森、またの名をお杓文字様と呼ばれたそうです。祠に奉納されているしゃもじを使って飯を盛ると風邪が治ったという言い伝えがあり、大正のころまではよくお参りしていたといいますが、京王線の拡張工事によって熊野神社の境内に移されたとされます。 一番奥がお杓文字様です。
17:20 熊野神社をあとにし、国道20号を300mほどで高尾駅です。高尾駅前のコインパーキングまで戻り本日の街道歩きは終了です。

八王子は大都会でした。中山道分間延絵図を見ると往時も街道筋にはびっしりと家が描かれ、どこまでも家並みが続き、途切れることがほとんどありません。そこは今も昔も変わらないところでしょうか。満開の桜も堪能して楽しい一日でした。