2021年9月12日
「ツール」⇒「作図・ファイル」⇒「アイコンのラベル表示」にチェックを入れると名称が表示されます。
KMLファイルに変換することでgoogle mapへのインポートもできます。
13:10 吉野宿をあとに関野宿へ向けて進んで行きます。
吉野橋を渡り、国道を140m、右手に旧道が残ります。坂道の旧道を上っていきます。500mほどで再び国道と合流、さらに300m左手に一里塚跡のエノキの大木が残っています。
藤野一里塚跡
ちょうどこのエノキ付近はカーブで国道といっても道幅がとても狭く、歩道は30cmくらいしかありません。ダンプも多いので気をつけて通行しましょう。
名号碑
「甲州街道分間延絵図」にはこのあたりに十王堂がありました。集会所がその跡地かもしれません。
その先70m、甲州街道を離れて右手の路地に入っていきます。交差する道路の下をくぐり、JRの線路にぶつかったら右へ曲がり20m、
藤野中央公民館の裏に案内が建っています。
清袋寺跡
創建の詳細はわかりませんが1540年(天文9)に没した玉翁珠の開山とされますから、その頃と思います。甲州街道分間延絵図南西に描かれ、恐らく先程名号碑があった十王堂は清袋寺持だったと思います。昭和28年に日野山福王寺(相模原市緑区沢井)に移されました。
藤野駅へ向かって50m左手の細い路地を下りていくと駐車場になっています。
宝蔵院跡?
駐車場の一角にお墓やお社があります。資料では街道北側24間(43m)にあると書いてありましたので、恐らくこの場所が
「宝蔵院跡」と思われます。開山等は不明ですが、千木良村善勝寺の末寺でした。
左手の山の斜面に大きなハートマークの手紙が見えます。
緑のラブレター
戦時中に藤田嗣治ら日本を代表する多くの芸術家が疎開した吉野。このような背景から藤野町と県は1986年に芸術を中心としたまちづくり「藤野ふるさと芸術村構想」を提唱、1989年にこの「緑のラブレター」が制作されました。とても大きなもので横は26m、中央高速道路からもよく見えます。
13:50 本日は藤野駅より一旦帰宅します。JRで相模湖まで戻り、車をピックアップして帰宅します。それにしても今日の「晴れ」の天気予報は何だったのか・・・最後はパラッと雨も落ちてきました。見事に外れた天気予報でした。
おまけ
相模湖駅からプレジャーフォレストの「絶叫吊り橋 風天」というアトラクションが山の上によく見えます。下から見ていてもめちゃくちゃ怖い!!よくチャレンジできるな〜
2022年11月19日
8:40 藤野駅前のコインパーキングに車を駐車し、出発します。藤野駅は近隣の山へ登る人も多くコインパーキングは早朝から満車に近いです。
藤野駅前をでて20mほど、左手から旧道へ入って行きます。急坂を下り細い道を60mほど進むと街道の両側に住宅が立ち並ぶようになります。旧道を道なりに600mほど進んでいきます。
家並みが途切れると単管で造られた橋が見えてきます。これを渡ると未舗装の山道になります。
未舗装の山道を抜けると中央線の線路横へでます。甲州街道は線路で一部なくなっていますが、跨線橋で繋がれています。
モズ
高い木の上にあまり見かけない、何か気高く見える鳥がいるな・・と望遠を最大にして写真を撮ってみました。後でよく見てみると「モズのはやにえ」のモズですね。モズは初めて写真に収められました。
「追手風喜太郎顕彰碑」がこのあたりにあるということで、跨線橋を渡らずに直進していきましたが、見つからず・・この日は断念。
後日、近くまで来ましたのでもう一度探索。やっと見つけ出しました!
追手風喜太郎顕彰碑の場所は、跨線橋を渡らずに直進、下り坂のカーブを進み、沢を渡った二股を左手へ。道なりに進みカーブを曲がると左手にあります。
追手風喜太郎顕彰碑
力士追手風喜太郎と横綱、雲龍久吉の顕彰碑です。1971年(昭和46)、佐藤氏によって建立。隣には佐藤家のお墓が並びます。
追手風喜太郎
力士追手風喜太郎は、1799年(寛政11)に関野に生まれ、幼名を「佐藤松太郎」といいました。9歳のとき、叔父の追手小太郎の後を追い、弟子入りをしました。1831年(天保2)春場所より4代目追手風となり、1836年(天保7)には西の大関となり、幕内15年、29場所を務めました。また、後の横綱・雲龍久吉を育てるなど、相撲界に大きな功績を残しています。
跨線橋で中央線を越え、そのまま直進して国道20号へでると目の前に関野宿本陣跡があります。
跨線橋の上から関所や相模川方面を望みます。
関野宿本陣跡
関野宿本陣は1674年(延宝2)に設置され、往時は「奥三保」とも「桂里」とも呼ばれていました。本陣西側が問屋になっていました。
関野宿
関野宿は本陣1軒、脇本陣1軒、農家兼業の旅籠3軒がありました。1888年(明治21)の大火、その後も2度の大火により本陣も宿場の面影も残されていません。
増珠寺の石段の少し手前、左手に小さな石祠があります。
馬つなぎ石?
石祠の左側に穴の空いた石があります。馬つなぎ石ではないかと思われます。
増珠寺の石段左には「追手風小太郎の碑」と「庚申塔」があります。
追手風小太郎の碑
右手側のものが「追手風小太郎の碑」で、「安昌久全信士」と彫られています。力士追手風喜太郎が叔父のために建立したものです。
左手のものは1781年(天明元)建立の「庚申塔」で、左側面には「関野講中」と刻まれています。
増珠寺の石段は現在使用できなくなっていますので、少し戻り坂道を上り、増珠寺境内へ入ります。
増珠寺
創建は明らかではありませんが、開山は1543年(天文3)に没した朝翁音とされます。増珠寺には
追手風喜太郎が五具足、燭台などを寄贈しています。
9:30 関野宿をあとに上野原宿へ向かいます。