2021年10月2日
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早い時間に家を出てきましたが、圏央道が大渋滞・・・途中、相模原ICで下りていくつもの山を越えて大月までようやくたどり着きました。大月駅前のコインパーキングに車を駐車し、大月駅から中央線に乗り、鳥沢駅までやってきました。
旅籠叶屋跡
明治20年代の建築とされる叶屋は往時の面影を残しています。以前は軒下に「甲府商人定宿・世話方」という看板がありましたが、現在は無くなっていました。 さらに100m左手の細い路地を少し入ると福寿神社があります。福寿神社(福寿権現)
甲州道中分間延絵図にも描かれています。地元の人には「権現さん」と呼ばれているそうです。破損した石灯籠には「福寿山乾大権現」と刻まれています。 「甲斐国志」によるとこの辺りは古くは福地郷で福地権現であったのが誤って「福寿権現」と呼ばれるようになったと考えられています。 甲州街道へ戻りすぐ左手に上鳥沢宿問屋跡、その向かいに上鳥沢宿本陣跡があります。上鳥沢宿本陣跡
上鳥沢宿には本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠13軒がありました。本陣前には明治天皇駐蹕地の碑があります。1880年(明治13)明治天皇巡幸の際、本陣井上家で昼食をとられました。諏訪神社(西ノ宮神社)
創建などはわかりませんが、甲州道中分間延絵図にも描かれている神社です。 諏訪神社を過ぎ二股は右へ進み、国道とは一旦お別れします。しばらく進んだ川の手前右手に馬頭観音が祀られています。馬頭観音
国道沿いにある馬頭観音は1661年(寛文元年)、「座守部」と彫られているようです。「座」とは主に商工業者や芸能者による同業者組合のことであるとされ、「守部」は山野・陵墓・関所などを守る人の意だそうです。 この付近は「袴着(はかまぎ)村」、地蔵堂や十王堂があったようですが、現在はないようです。400mほど登れば「瑞光寺」があり、その裏の御嶽神社(御嶽権現)が袴着村の産神でした。 馬頭観音から150mほどでアスファルトの道はなくなりますが、そのまま未舗装の坂道を下ると国道へ出られます。かなり悪路ですが、なんとか下りられます。水路橋
坂を下った正面に重厚なレンガアーチづくりの水路橋がありました。猿橋の八ツ沢発電所へ流れる水のようです。 水路橋のあたりが「滝ノ沢」、現在「宮谷川」となっているあたりです。甲州街道は「昇進坂」を下り、桂川沿いを通り精進場(浅間之宮)を経て国道20号東町バス停あたりまで桂川沿いを通っていたようですが、現在は水路橋あたりから桂川へ下る道がありませんので、国道を300m進みます。石仏群
常夜灯や立派な髭題目碑などが並びますが、以前はお寺があったのでしょうか・・こちらも甲州道中分間延絵図には見当たりません。髭題目碑側面に「宗祖霊跡 日経 殿上円行寺」とありますので、大月市猿橋町殿上の円行寺の祖、日経の開いたお寺あったのでしょうか。 稲荷神社と石仏群前のSUZUKIの大きな看板下を左へ曲がり国道から旧道へ入っていきます。甲斐の猿橋
木曽の桟(かけはし)、周防(すおう、山口)の錦帯橋とともに三奇橋と言われます。 猿橋がいつ架橋されたのかは不明ですが、史実として登場するのは1426年(応永33)武田信玄と足利持氏の合戦、1524年(大永4)武田信虎と上杉憲房との合戦の場となった記録があります。江戸時代には甲州道中の要衝として普請工事にて9回の架替、十数回の修理が行われています。猿橋の伝説
伝説では推古天皇の頃(600年頃)、「百済の人志羅呼、この所に至り猿王の藤蔓をよじ断崖を渡ると見て橋を造る」とあり、名はあるいは「白癬(はくせん)」、「志耆麻呂(しきまろ)」と様々ありますが、この百済から来た志羅呼が土地の人から懇願され、架橋することを決意しますが、流れが早く通常の工法では架橋ができず悩んでいると、猿の群が現れ手をつなぎあい橋を作ると行き来し始めました。この光景を見た志羅呼は両岸から材木をせり出すことで橋を架ける工法を思い付きました。この伝説から橋の名前が「猿橋」となったのです。八ツ沢発電所施設 第1号水路橋
重要文化財に指定されている42.7mの鉄筋コンクリート造、単アーチ橋です。十返舎一九「諸国道中金之草履」 猿橋
猿橋を渡った先にはたくさんの石碑や句碑が点在しています。見外・芭蕉句碑
『甲斐が根や 鬼は紅葉の日和冷へ 見外』
『かれ枝に鴉(からす)とまりけり秋の暮 芭蕉』
小林見外は江戸時代後期から明治時代の俳人で猿橋宿出身、江戸へ出て谷川護物に学びました。1873年(明治6)没。猿橋の考古学者、仁科義比古により1952年(昭和27)に建立されました。厚焼木乃実煎餅
1877年(明治10)創業の駿河屋さんで販売している「厚焼木乃実煎餅」は大月の名物です。山椒が入ったおせんべい、食べてみた感想は・・ほんのり甘いけれどピリリと山椒の味がくる・・う〜ん、率直に言って私には口に合わなかったですね。甲州道中分間延絵図「猿橋宿」
幕領であった猿橋宿には1843年(天保14)の記録では本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠10軒があったとされます。 国道へ出ると右へ曲がっていきますが、正面に猿橋宿本陣がありました。さらに50mほど左手に脇本陣、150mほど右手、恐らく山梨中央銀行の向かいあたりにもう1軒の脇本陣があったと思われますが、その面影は全く残っておらず、また案内板などもありませんのではっきりとした場所は不明です。 13:50 猿橋宿をあとに駒橋宿へ向かいます。