2022年4月16日

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10:10 大月駅を出発します。今日も圏央道は事故渋滞・・・毎週事故ばかり。予定時間を大きく遅れてしまいました。駅前のコインパーキングに駐車して出発します。

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駅前ロータリー、角のフルーツ屋さんを入っていく道が甲州街道です。300mほど進むと国道20号と合流してしまいます。
国道を200m左手に「大月宿脇本陣跡」があり、街道沿いに「明治天皇御召換(おめしかえ)所跡」の石碑があります。

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大月宿脇本陣跡

「明治天皇御召換所跡」は1880年(明治13)の巡幸の際、大月宿脇本陣でお着替えをされたようです。

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往還左手の脇本陣を過ぎてすぐ右手に本陣と問屋、川の手前右手にもう1軒の脇本陣があったようですが、現在ははっきりどの場所かわかりません。富士急行の線路を越えたあたりだと思いますが・・・

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富士山道大月追分

大正12年に再建された津島神社(牛頭天王社)が祀られています。 奥の常夜灯は部分的に新しくなっていますが、甲州道中分間延絵図の街道中央に「秋葉燈篭」と描かれているものかとも思いましたが、1830年(文政13)建立なので、分間延絵図が描かれた後に建立されています。
秋葉燈籠は無くなってしまったようです。常夜灯には「江戸 惣同行」と彫られています。

手前の道標には中央に「南無阿弥陀仏、右 甲州道中、左 富士山道」と彫られています。

豆州相州道

追分から左へ曲がる道は脇往還の「豆州相州道」です。大月宿から南へ向かう道で、桂川沿いを往時政治経済の中心地であった谷村を経て吉田へ至ります。富士登山者はこの道を往来し、「富士街道」とも呼ばれていました。上吉田で鎌倉往還へ結ばれ籠坂峠を越えて、豆州三島宿、相州小田原宿へも通じています。

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追分の道標

道標は3つ並んでいます。中央の道標は1862年(文久2)の建立で、「北口 左甲州道中 登山 右ふじみち」

一番左手のものには1927年(昭和2)の建立で、「右甲州街道 左富士街道」と記されています。
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甲州道中分間延絵図の大月宿

大月宿は、1843年(天保14)の記録では本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠2軒となっています。

大月橋は高欄付きの板橋で1802年(享和2)代官川崎平右衛門により普請が行われています。旧大月橋は現在の橋の北側、JR鉄橋のさらに北側へ架かっていました。現在の大月追分から街道は北へ向かい、段丘を権兵衛坂で下り、大月橋を渡っていました。

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桂川

現在の大月橋は1958年(昭和33)に完成しました。大月橋で桂川を渡ります。桂川はすぐ先で笹子川と合流します。 段丘の下に段丘に張り付いて家が並んでいます。このあたりは岩盤であるといいますが・・私は怖くてこの場所には住めないな・・・
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十返舎一九の「諸国道中金之草履」に描かれた大月橋

「大月の宿はづれの石のかたに橋あり 左のかたは富士山への道なり これより吉田口まで五里あり。富士道はこの大月より谷村へ二里 谷村よりおのまへ一里半 おのまより吉田へ一里半 入口は下吉田といふ。これより富士山入口なり。この大月、猿橋、花崎などより郡内縞といふ絹出る。白郡内は谷村よりさきの田の倉、四日市などいふところよりいづるかよし」

大月橋を渡ると「下花咲宿」内へ入ります。桂川で両宿を隔てていました。橋を渡った先、右手から旧道へ下りる道がありますので、そこから下へ下りると旧大月橋からきた甲州街道と合流し、旧甲州街道を進みます。200mほど進むと再び国道と合流し、国道が甲州街道となっています。 国道と合流して160m左手に「下花咲一里塚跡」があり、芭蕉句碑や多くの石仏が集められています。

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下花咲一里塚跡

塚は道路工事や鉄道工事で破壊されましたが、復元されています。

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芭蕉句碑

『しばらくは花の上なる月夜哉』

1842年(天保13)の建立です。
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一里塚跡の石仏

1843年(天保14)の徳本名号碑、同年の庚申塔、1868年(慶應4)の二十三夜塔、1829年(文政12)の無縁塔、1781年(天明元)の道祖神、その他馬頭観音など20基ほどの石仏が集められています。

往時は一里塚を過ぎたあたりから「下花咲宿」の家並みがはじまりまっていました。道は少し変わっていますが、一里塚から200mくらいの左手に脇本陣、さらに100mほどの左手にもう1軒の脇本陣があったようですが、今となってはどこなのか・・さっぱりわかりません。

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下咲花宿本陣

名主・問屋・本陣を務めた星野家は郡内屈指の豪農で、幕末に建て直された住宅と文庫蔵は重要文化財に指定されています。所蔵の古文書は2万点にも及びます。1880年(明治13)の明治天皇巡行の際には小休され、上段の間は当時のまま残っているといいます。

本陣建物右手に「瓔珞みがくの碑」というものがありました。

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瓔珞みがくの碑

「瓔珞みがく」は北海道大学の「櫻星会」によって作られた歌で、北海道大学の植物園に1920年(大正9)に歌碑が建立されています。この碑はその1/2スケールで同じものが作られました。作詞は「置塩竒」とありましたが、碑には「星野竒」となっています。星野家の方なのでしょう。

下花咲宿

村の西端、供養橋の東に花折という地があり、昔桜の大木があり枝葉が四方に広がり、花の頃は往来の旅人が木陰に休憩し枝を折ってかざしたので「花折」と呼び、花咲の地名もここから起こったと伝わります。 また、笹子川と桂川に挟まれた端(はな)の崎にあることにもよるとされます。 1843年(天保14)の記録では本陣、脇本陣ともに1軒、旅籠は22軒、問屋1軒。上花咲宿との合宿のため、下花咲宿は月の下旬、上花咲宿は月の上旬を継立てしていました。

下咲花宿本陣のすぐ先右手に「稲村神社」があります。

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稲村神社

甲州道中分間延絵図では「稲邑山四所大明神之杜」と書かれています。 創建は807年(大同2)と伝えられ、献額にも記されるといいますが、災害にて現存していません。最古のものは安永から天明(1772〜1790)にかけて本殿を造営したとの記録があります。甲斐国志には上下花咲村産神なり、とあります。

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稲村神社

拝殿は新しく改修されており、拝殿後ろの本殿はすごいカバーがされており古い建築を残すための処置が施されています。神社裏はすぐ笹子川になっています。
稲村神社のすぐ先、往還左手に十王堂高札場がありこれを過ぎると「上花咲宿」へ入っていました。現在は十王堂もなくなり、大月ICが建設され往時の面影は全くありません。

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甲州道中分間延絵図「上花咲宿」

上花咲宿は西方寺へ向かう道の少し前から町並みが始まり、西方寺へ向かう道の向かいには薬師堂語安寺、天神などあったようですが、全てなくなりました。脇本陣2軒、本陣井上家の場所も特定できません。旅籠は13軒あったとされます。上花咲宿との合宿のため、下花咲宿は月の下旬、上花咲宿は月の上旬を継立てしていました。

唯一、甲州道中分間延絵図に描かれていて現在も存在している「西方寺」へ向かいます。右手の西方寺橋で笹子川を渡ります。

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UFO?

左手の丘の上にUFOのような建物があります。なんだろ〜よくよく見ると「NEC」と書いてあります。NECの工場みたいです。一見、工場という感じではなく、近未来的でした。
甲州街道より350m、中央自動車道へ張り付くように西方寺があります。

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西方寺

はじめ禅宗寺院で廃寺となっていたものを1601年(慶長6)に再建し、西涼寺開山深誉を招請して開山されました。また郡内の薄原村の廃寺の寺号を引いて「西方」となったと伝わります。

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西方寺薬師堂

祀られている薬師如来像は悟安寺にあったものだそうで、恐らく悟安寺が廃寺となるときに西方寺へ移されたのでしょう。
甲州道中分間延絵図では「語安寺」とあり、側に「薬師堂」も描かれていますので、その薬師堂の薬師如来が祀られていると思います。語安寺は1597年(慶長2)創立、浄誉正順の開山とされますが、廃寺となったいきさつはわかりません。

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西方寺開山墓

本堂裏にいくつか墓碑があるなかの一番右手になります。墓碑には「当寺開山深誉上人」と刻まれています。
TOO001 西方寺から鐘撞堂跡(花咲城跡)へ寄り道していきます。西方寺の裏から中央自動車道の下に入り、トンネルを抜けて反対側へでます。

TOO001 細い道のカーブを曲がり50mほど北東へ進むと左手から山へ上る細道があり、つづら折りの坂道を上っていきます。

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鐘撞堂跡(花咲城跡)

「甲斐国志」には戦国期に合図の鐘を撞いた跡であろうとしています。堀や土塁が残っているとのことですが、どこがそれにあたるのか・・よくわかりません。郭と言われるのは諏訪神社がある場所でしょうか。
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諏訪神社

鐘撞堂跡には現在、諏訪神社が祀ってあります。2020年改修したとあります。弁財塔は文久3年の銘と井上真治建立の銘があります。水鉢は明治17年とありました。

甲州街道へ戻り西に向かって進んでいきます。本陣も脇本陣も何もかも変わってしまった上花咲宿。西方寺橋から280m、右手脇道の奥に大きな「二十三夜塔」があります。

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二十三夜塔

甲州道中分間延絵図からすると、恐らくこの二十三夜塔がある道が甲州街道ではないかと思いますが、道がつながっていないので、国道を進みます。二十三夜塔の向かいあたりに高札場があったと思われます。
12:00 花咲宿をあとに次の初狩宿へ向かいます。大月付近は往時の面影もなく、また案内板や案内柱なども全く無く、行政が宿場や街道についてほとんど関心がないことがわかりました。