2020年12月29日
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11:40 京王線芦花(ろか)公園駅よりスタートします。今日は天気予報では晴れでしたが、薄曇りという感じでちょっと残念ですが出発します。
大橋場の跡・下山地蔵尊
現在は暗渠化されているようですが、橋があったようです。
下山地蔵尊は、地頭名主の下山家が建立し身代わり地蔵尊・出世地蔵尊とも呼ばれました。以前はこの場所に烏山神社の大門があったそうです。
鳥山小学校跡地の碑
表具店前にまだ新しい小さな碑がありました。「第2回移転」とありましたので、鳥山念仏堂で開校した温知学舎がここへ移転し、更にその後また移転した・・・ということでしょうか。
大橋場の跡の路地を左に曲がり、150mほどいくと京王線の踏切、さらに100mほど行くと
烏山念仏堂があります。
烏山念仏堂(薬師堂)
創建年代は不詳ですが、鎌倉時代には存在したと伝えられます。室町時代には、領主吉良成高が泉澤寺を創建、泉澤寺の念仏道場として使用していたと言われます。
釈迦ね槃像・地蔵菩薩像
釈迦涅槃石像は江戸中期正徳の頃と思われ、村中一同による造立。
烏山小学校誕生の地
旧千蔵村で唯一の小学校であった烏山小学校の前身である温知学舎が、1873年(明治6)この念仏堂で誕生したそうです。
烏山念仏堂の石仏
庚申塔は、1689年(元禄2)下山九兵衛らの建立とされますが、どの庚申塔のことでしょうか。
路傍の庚申塔
1689年(元禄2)下山九兵衛らの建立とされます。小さな石仏にはきれいなお花が供えられ、大切にされています。
鳥山神社
創建は不明ですが、境内の手水鉢には1736年(元文元)の銘があります。元は
白山御嶽社でしたが、昭和37年に町内の天神社、神明社、稲荷社を合祀し、鳥山神社と改称しました。扁額は鳥居から降ろされ、横に立てかけられています。
このあたりには
泉澤寺というお寺がありましたが、天文年間(1532〜1555年)に川崎市へ移りましたが、字名としては残っています。
庚申塔と春日神社高橋番神堂撤去記念碑
「高橋一族が伊豆雲見城より当地へ移り住み、守護神として三十番神を勧請、都市計画により本宮へお帰り頂いた記念の碑」というようなことが書かれています。高橋氏は北条氏に仕えていたようです。
天神社跡
京王線千歳鳥山駅西口すぐ前にかつては天神社がありました。その場所には氏子の集会所が残っているということでしたが、京王線の立体交差工事のため集会所もなくなり、更地になっていました。天神様は先程寄ってきた鳥山神社へ合祀されています。
天神橋跡
こちらも暗渠化された玉川上水に架かっていた橋ですね。近くに天神社があったので橋の名前になったのでしょう。
給田の石仏群
お地蔵様が4体並んでいますが、全て首がありません。周辺の路傍から集められたものでしょうか。一番手前の石仏は状態がよく側面の文字が読み取れ、「昭和十八年建立」と彫られています。
給田のあたりは、1980年頃までは樹木が鬱蒼と茂る旧街道だったようですが、現在は全く面影がありません。
新一里塚跡
この一里塚は、旧甲州道中、日本橋を起点とした一里塚ではなく、明治3年に内藤新宿を起点とした一里塚として建てられたものです。
給田観音堂(千手観音堂)
創建年代は不詳ですが、「新編武蔵風土記稿」にもその名が見られ、徳川家息女の庵室だったと言われています。高さ2尺ほどの千手観音を祀っています。
給田観音堂の宝篋印塔
かつて甲州街道沿いにありましたが、ここを通る徳川関係の者は、必ず下馬しなければならず、そのわずらわしさのため、現在地へ移したといわれています。
仙川
三鷹市新川丸池公園にかつて丸池という湧水池がり、大量の水が湧いていたことから千釜と呼ばれており、千釜という言葉が仙川の由来といわれているそうです。また、仙人が住んでいた伝説からとも言われています。
昌翁寺
慶長年間(1596〜1615)現在地に創建、開基は領主・飯高氏の祖、飯高主水貞政です。
主水貞政は、今川義元に仕え、駿河国沼津に住んでいましたが1590年(天正18)徳川家康に従い関東入国に随い徳川家旗本として武蔵国仙川村に封ぜられました。74歳になった主水貞政は家督を譲り、寺を創立することを思い立ったということです。
昌翁寺の宝篋印塔と五輪塔
宝篋印塔は正保2年の建立で高さは2.5mほどもある大きなものです。五輪塔も同じく大きなもので、宝永3年建立です。
主水貞政の墓は昌翁寺墓地にあります。
往時の遺構はほとんど残っていない街道沿いの景色ですが、マンションに取り込まれる形で残っている蔵がありました。
仙川一里塚跡
ここは甲州街道と三鷹街道の交差点に小さな石碑があります。塚はなく石碑があるのみです。
キューピー
左手にキューピーの会社が見えてきました。入口の時計塔には可愛らしいキューピーちゃんが回ってます。
滝坂の手前、恐らく仙川二丁目の交差点が
深大寺へ通じていた道だと思います。甲州道中分間延絵図には、
「深大寺へ一里」と記載があります。深大寺は、733年(天平5)建立の古刹です。少し遠いので、このまま甲州街道を進んでいきます。
旅籠川口屋跡
標柱には「滝坂旧道」「馬宿 川口屋」と彫られています。川口家は戦前まで馬方や行商人を相手に旅籠を営んでいました。
滝坂
かつては雨が滝のように流れる急坂で街道の難所の一つだったといいますが、現在はなだらかな坂となっており、面影はありません。
滝坂の地蔵
難所でしたので道中安全のために建立されたものでしょうか。左の地蔵は首がないようです。
庚申塔
滝坂から再び国道20号へ出るとすぐに左手にコンクリートブロックでできた小さな堂があります。大中小の3つの庚申塔が納められています。
金子のイチョウ
大木の下に小さな稲荷神社があります。私有地のため、あまり近くまではいけません。1748年(寛延元)に鹿島平兵衛が京都伏見稲荷より勧請したもので、イチョウもこの時に植えたと伝わり、樹齢250年と推定されています。
金龍寺
境内の案内板によると、1206年(建永元)中国宋より茶の種子を持ち帰り、京都宇治の里に広めた僧として有名な
栄西禅師により開基されたとあります。源義経伝説などもありますが、
『新編武蔵風土記稿』『武蔵名勝図会』では、江戸時代の1644年(正保元)あるいは寛永年間(1624〜44)とされ、開山は
岳応守英とされています。1649年(慶安2)徳川家光より寺領と朱印状を拝領し、朱塗り門が許されました。
金龍寺の瑠璃光薬師如来
金龍寺には、甲州街道に掲げられていた高札や徳川家の位牌が保存されています。
金龍寺のしまりす
駐車場に大きなカゴが設置されています。中を覗くとかわいい
しまりすが!癒やされます〜夜や雨の日はゲージで過ごすのでしょうか・・お寺の中で過ごすのでしょうか。
坂ノ下立場跡
西つつじが丘の交差点近くには「坂ノ下立場」があったと思われますが、なんの痕跡もありません。
今日の日はさようなら歌碑
調布市児童館ホール前にあります。鉄琴になっており、順番に叩くと「今日の日はさようなら」のメロディーになります。♪い〜つまでもたえることなく〜♪この歌は1966年、金子詔一さんにより作詞作曲されました。
厳島神社参道の碑
調布市児童館ホールを出てすぐ右手には路地があり、「鎮守厳島神社参道」の石碑があります。約400m奥に厳島神社があります。甲州道中延絵図では、「弁天之社」となっています。少し遠いので寄らずに崎へ進みます。
妙円地蔵
1805年(文化2)村の人々の浄財により建立されたもので、長い間頭部が欠損していましたが、昭和62年地元の有志によって修復されました。
妙円地蔵のいわれ
妙円は金子村の新助に嫁ぎましたが、
両目を失明してしまいました。その後、
尼となり「寿量妙円」と号しました。妙円は村の人々に念仏を唱え、その浄財で地蔵菩薩を建立しました。妙円は自分の死ぬ日を予告していましたが、1日遅れて1817年(文化14)に亡くなり、そのことを瀧澤馬琴が著した「玄同放言」に紹介したため江戸近郊まで知られていました。この話を聞いた
渡辺崋山は、この地を訪ね「金子村妙円常念仏遺趾真景」と題した挿絵を描いています。妙円の墓所は深大寺にあるそうです。
地蔵菩薩像
柴崎駅入口交差点右手に少し欠けた地蔵菩薩像が佇んでいます。
馬橋(まばし)
野川を渡ります。今は橋が1つですが、以前は用水などもあり、3本の橋が架かっていました。その1つが
小橋と呼ばれ、街道北側に馬頭観音がありました。現在は布田駅近くの
常性寺に移されている
「小橋の馬頭観音」です。
布田五ケ宿『国領宿』
馬橋を渡ると布田五ケ宿、最初の宿場
「国領宿」に入ります。
布田五ケ宿は、上石原宿・下石原宿・上布田宿・下布田宿・国領宿の5宿の合宿です。
問屋業務も1ヶ月のうち1〜6日が上石原宿、7〜12日が下石原宿、13〜18日が上布田宿、19〜24日が下布田宿、25〜晦日は国領宿が務めました。
国領宿には問屋は1軒あり、継立はしていましたが、本陣・脇本陣もなく、旅籠が1軒あったのみとされます。当時の旅人は一日に40kmほど歩けたというので、布田五ケ宿は通過し府中宿まで足を伸ばしていたためひっそりとした宿場でした。
昇福稲荷
大正14年に勧請しました。国領駅周辺の人々の地主神として祀られているそうです。毎年2月には初午祭が行われています。
国領の庚申塔
天然理心流原田(谷戸)道場跡
天然理心流三代近藤周助の弟子、原田忠司は近藤勇の兄弟子です。国領宿名主谷戸市兵衛に見込まれ、谷戸家の分家を継ぎ、ここに道場を開きました。近藤勇の剣の道はこの道場から始まったと言われます。原田忠司の墓は常性寺にあります。
圓福寺
創建年代は不明ですが、鎌倉切通、
北条泰時の舎弟開壽丸が開山となり創建、
武田信玄が中興したと伝えられます。後に多摩川沿いに移転し、1624年(寛永元)現在地へ移転したとされます。
圓福寺のすぐ先を右に曲がり「国領神社」へ向かいます。
國領神社
國領神社(第六天社)と神明社(八雲神明社・杉森神明社)の二社が合祀されています。國領神社は第六天社と称し、古代は多摩川のほとりにありましたが、甲州街道が整備された江戸時代初期の頃、常性寺が甲州街道沿いに移設されたと同時に八雲台小学校裏の都営住宅付近に移動しました。
神明社も、古代多摩川のほとり杉森にありました。杉森神明社とも呼ばれ、また八雲台の地にあった頃は八雲神明社とも呼ばれていました。神明社も甲州街道が整備され常性寺が甲州街道沿いに移設されたと同時に現在地へ移転しました。
昭和38年國領神社と神明社とを合祀、國領神社は現在地へ移り、社名を國領神社と総称しました。
千年藤
樹齢400〜500年と言われ、以前はケヤキに絡まり甲州街道(国道20)まで伸びていたそうです。
藤の開花期は4月から5月、
ゴールデンウイークが見頃のところが多い印象です。満開のときに来たいですね。
常性寺
鎌倉時代の創建と言われます。元は多摩川沿いにありましたが、慶長年間(1596〜1615)に現在地に移りました。その後、江戸時代に祐仙法印が上総国成田山新勝寺より成田不動尊を勧請し、中興したと言われます。以来、「調布不動尊」とも称されます。
「新編武蔵風土記稿」では、「常照寺」と記されています。
常性寺の地蔵堂
甲州街道側の入口を入り、左手が不動堂、奥に薬師堂(本堂)、右手に地蔵堂、地蔵堂手前右側に「小橋の馬頭観音」が安置されています。薬師堂(本堂)のご本尊、薬師如来像は鎌倉時代に造立されたものです。
小橋の馬頭観音
小橋(馬橋)の北側に1824年(文政7)に建立された馬頭観音がありましたが、街道の拡幅工事のため常性寺へ移されました。
「馬持中」「八王子島買」の名が刻まれています。島買いは、縞買いのことで生産者から織物を購入し商店へ売るなどしていました。馬持中は、馬で輸送する人々です。当時の商品の江戸への輸送が活発であったことが伺えます。
16:00 京王線布田駅がすぐ近くなので、今日はここまでとします。布田駅から帰宅します。