2021年10月2日
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15:00 駒橋宿をでるとすぐに国道20号線に合流します。国道20号へ入るとすぐ右手に旅籠屋造りの旧家と土蔵がありました。
三嶋神社
昔、大松山に大木の古松があり、これを3段に切り神像三体を造りました。上段で造った像を田野倉村の三島明神に祀ったので「先ノ宮」と呼び、中段を大月・駒橋の間の三島明神に祀り「中ノ宮」とし、末段を殿上村の三島明神に祀り「下ノ宮」といい、三社ともに大松山と称するようになったとされます。 大月の三嶋神社御神体はこの中段の神像だとされます。大欅の記念碑
境内にはかつて4本の大けやきがあり、大月の地名の由来は、この大けやきをけやきの古名である「槻(つき)」から「大槻」と呼んだことによると言われています。この大欅は四本木と称され、富士登山道者の人々に親しまれていたとされます。欅は安政5年、万延元年、明治7年、最後の1本が昭和30年に枯死し、その跡地に記念碑が建立されています。 さらに奥にある光照寺へ向かうため大月市立図書館方面へでます。図書館角に石仏群がありました。図書館右手をさらに奥へ入っていくと「光照寺」があります。石仏群
光照寺
創建などは不明ですが、先程通ってきた駒橋村の下駒橋から移転したものと思われます。「甲州道中分間延絵図」には駒橋に描かれています。境内には「菊花石」と移設された「子育閻魔」があります。子育閻魔
昔、駒橋と殿上の境の桑畑の中にぽつんと閻魔堂がありました。この閻魔様は奥秋加賀守が鎌倉圓応寺から運慶が造ったという閻魔様を迎え、堂を建てて祀ったものといいます。
ある夏、母親が赤ん坊をおぶって桑の葉を摘んでいると突然の激しい雨、母親は赤ん坊を閻魔堂へ寝かしつけ、再び桑の葉を摘みようやく摘み終えて閻魔堂へ戻ると赤ん坊が見当たりません。どこを探しても見当たらず、ふと閻魔様を見ると口に赤ん坊のおぶい紐が引っかかっており、母親は泣きながら村へ帰り、閻魔様に食われてしまったと村人に話しました。それ以来「人食い閻魔」と呼ばれ、村人に恐れられました。
それから長い年月が経ち、若い武士が村へやってきて「閻魔堂で赤ん坊を無くした女性に会いたい。母上なのです。閻魔堂で泣いていた私を通りかかった甲府勤番の武士が子がない自分達夫婦のために閻魔様が授けてくださった、と私を江戸へ連れ立派に育ててくださった」と。若い武士は実の母とめぐりあい、江戸へ連れ帰り共に幸せに暮らしました。それ以来、「子育て閻魔」と皆に慕われ信仰されるようになったといいます。
国道139号へ出て甲州街道へ戻ります。岩殿山が正面に見えてきました。