2022年10月29日
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11:30 韮崎宿をあとに台ケ原宿へむかいます。雲岸寺から甲州街道へ戻り80m左手に「小林一三生家跡」の石碑があります。
小林一三生家跡
小林一三は、1873年(明治6)この地で生まれました。慶應義塾卒業後、三井銀行を経て箕面有馬電気軌道(現、阪急宝塚線・箕面線)を創業。1920年(大正9)年には神戸線が開通し、社名も阪神急行電鉄と改め、1929年(昭和4)には阪急百貨店を開業、宝塚大劇場の建設、東宝映画株式会社創立など数々の事業を立ち上げ、また月賦で住宅を購入する住宅ローンを考案するなどアイデアマンであったとされます。
その先、韮崎市役所へ向かうため左へ曲がって行きます。韮崎市役所前には「武田信義公像」が設置されています。
武田信義公像
1128年(大治3)源清光の次男として誕生、武田八幡宮で元服し、「武田」という姓を名乗り、これが名門武家・武田氏の始まりとなりました。源平合戦でも活躍しました。1184年(元暦元)源頼朝は、甲斐源氏が障害になると考え、信義の息子である一条忠頼を殺害。信義は失意の中で死去したとされます。
大河ドラマ「鎌倉殿」で八嶋智人さんが演じられていた役ですね。
韮崎市役所から甲州街道へ戻り、今は県道となっている街道を400mほど進むと左手に馬頭観音がありました。
馬頭観音
甲州道中分間延絵図にはこのあたりの高札場の横に「馬頭観音」が描かれています。この馬頭観音のことでしょうか・・・
馬頭観音のすぐ先はY字路になっており、左手が甲州街道、右手が県道17号で
「原路(青坂)」と呼ばれていた道です。
原路(青坂)
韮崎から北は急流である
釜無川沿いを進むため、しばしば洪水により寸断されることがありました。この原路が予備の道となり、七里岩の上を通り、韮崎―渋沢―小淵沢―蔦木を結んでいます。甲州道中分間延絵図には描かれていないようです。
そのすぐ先、右手の民家前に小さな「行人塚」と呼ばれる祠があり、さらにそのすぐ先、国道へでる手前に2つの石仏が並んでいます。
行人塚
正面に「行人正人」と書かれています。詳しい資料はありませんが、行人塚は供養塚に属するものと行者が生きたまま埋葬され即身成仏した塚の2種類がありますので、どちらの意味合いの塚であったのかはわかりません。
水神宮
石祠には「九頭竜大権現」とあり、1857年(安政4)建立。隣の水神宮碑は1910年(明治43)に建立されています。この辺りは1898年(明治31)の水害で釜無川が決壊した辺りです。
国道へ合流して130m、右手の水路に「十六石」の石碑があります。
十六石
武田信玄が治水に力を入れたのは有名な話ですが、1543年(天文12)頃、年々荒れる釜無川の水害から河原部村(現韮崎町)を守るため、今の一ツ谷に治水工事を行いました。
その堤防の根固めに並べ据えた巨大な石が十六石で、その後徳川時代になって今の上宿から下宿まで人家が次第に集まり、韮崎は宿場町として栄えるようになったとされます。
十六石から450m、右手の「一ツ谷公民館」の庭に石仏が並び、さらに120m右手の民家前に秋葉大権現の小さな祠と常夜灯があります。
石仏群と秋葉大権現・常夜灯
七里岩
約20万年前の八ヶ岳の山崩れによって生じた南北約25km、東西約18kmにも及ぶ韮崎市と北杜市にまたがる広大な台地です。景勝地として古くから親しまれてきました。
右手、生コン工場の事務所のような建物の東側に幅1mほどの砂利道があり、そこから右へ入って行くと九頭龍社の石祠があります。
九頭龍社
祖母石集落は釜無川の氾濫による被害を受けることが多く、文化年間(1804〜18)この地に戸隠神社の祭神九頭龍権現を分霊し祀られました。中央の石祠に「三社祭之 文化二年」とあります。左端の「水神宮」碑は1906年(明治39)の建立です。
すぐ先は国道と別れ、右手の旧道へ入っていきます。その分かれ道に「水難供養塔」があります。
水難供養塔
1959年(昭和34)に襲った台風七号による水害で亡くなった人々を供養する石碑です。
七里岩
右手に七里岩を見ながら進んでいくと、始めは新興住宅地ですがさらに進んでいくと古い集落へ入ってきます。祖母石集落です。祖母石集落へ入るとすぐ左手になまこ壁の旧家があり、その向かいに小さな石標があります。
道標?
「向右〇〇」下のほうは字が読めませんが、道標でしょうか・・?
祖母石集落
旧街道の面影が残る町並みでした。
集落の中央辺り、右手に茅葺門があります。
茅葺門
武田家家臣団の1人であった宮方家のお屋敷なのだそうですが、詳しくはわかりません。
その先、右手「祖母石公民館」の向かい、左手が神明宮です。
神明宮
祖母石、西岩下の鎮守で昔は宇神田にありましたが、1724年(享保9)に現在地に遷座したと伝えられます。秋葉常夜灯は1769年(明和6)の建立。
神明宮から150mほど先の右手、畑の前に「赤地蔵」と呼ばれる石仏があります。
祖母石の赤地蔵
1721年(享保6)に建立された名号碑は、赤色に塗られているため地元では「赤地蔵」と呼ばれています。
赤地蔵から200mほど進んだところで、本日の甲州街道歩きは終了し、
「新府城跡」へ寄り道していきます。路地を右へ曲がり、城前寺の前を通りその先左右へ別れている道を右手へ進み、七里岩を上っていきます。
城前寺
1613年(慶長18)創建。開山は韮崎蔵前院三世長益和尚で、寺名の通り始めは新府城前の台地上にありましたが、後に現在地へ移転しました。
右へ曲がってから80mほどのところ、地理院地図だとこの砂防堤のあたりからジグザグに上っていく道がありましたが、現在はこの砂防堤が造られたため、道がなくなってしまったようです。
隨分上ってきたようで、時折見える景色が良いです。その先、トンネルをくぐるとすぐに左へ上っていく道へ入っていきます。周囲は草や木しかなく、山道の冒険のようで楽しいです。
しばらく進むと二股の道へでるので、ここを左手へ入るとすぐ左に新府城への上り口があり、ここを入っていきます。100mほど上ると新府城「三日月堀」へ至ります。
三日月堀
三日月堀とは、館の大手門を三日月状に丸く覆うような形をした堀で、内側に土塁をともなう馬出を備えた敵から館を守る防御施設です。
三日月堀に沿って右手側へ進むと「馬出」、そのすぐ上に「大手門跡」がありました。
新府城 大手門跡
城の正面に位置する門のことで、元は敵を追い詰める「追手」と書き、 籠城の際、大手門に敵を寄せ付けて戦闘を集中させるための場所とされています。現在は左右の土塁だけが残されています。
大手門跡からは左回りに本丸を目指し、西三の丸跡を経て二の丸跡へ向かいます。
二の丸跡
曲輪があったと思われる平地が残っているのみです。
新府城本丸跡
新府城は1582年(天正10)織田軍の侵略を前に武田勝頼自ら火を放ち東方郡内領岩殿城を目指して落ち延びていき、武田家滅亡という歴史を伝える悲劇の城跡です。
正式には「新府中韮崎城」といい、1581年(天正9)武田勝頼が織田信長の甲斐攻略に備え、七里岩の上に真田昌幸に命じて築かせた平山城です。昼夜工事が行われ、わずか8ヶ月で竣工したといわれます。
大塚・小塚
勝頼公霊社の左右に
長篠役陣没将の墓として大塚と小塚があり、大塚には武田兵庫頭信実、原隼人佐昌胤、内藤修理亮昌豊、高坂又八郎助宣、土屋右衛門尉昌次、甘利郷左衛門信康、横田十郎兵衛康景の墓標が建てられ、小塚には馬場美濃守信房、山県三郎兵衛昌景、高坂源五郎昌澄、真田源太左衛門信綱、真田兵部丞昌輝、小山田五郎兵衛昌輝、五味貞氏の墓標が建てられています。
武田勝頼公霊社
武田氏滅亡後、貞享・元禄の頃(1684〜1704)石祠を建立し勝頼の霊を納め「勝頼神社」と称し、地元民は「お新府さん」と呼び親しまれてきました。
長篠陣没者慰霊の碑
大塚・小塚と同じく、こちらも長篠役陣没将の慰霊碑と思われます。
本丸からの景色
周囲は樹木に覆われあまり景色が望める場所はありませんが、北側のみ少し開けた場所がありました。
新府藤武神社
1806年(文化3)の拝殿改築の棟札によると、
藤井庄と
武田庄とを前後に見下す場所にあるので「藤武神社」というそうです。築城の際、稲荷郭に鎮守として祀りましたが落城とともに焼失しました。後に徳川家康が平岩七之助に命じて再建されたといいます。
「新府藤武神社」から新府駅方面へ下り、新府城をでます。
余りにも石段が急勾配なので、左手にある「乙女坂」を下っていきました。新府城をでると赤い大きな「新府藤武神社」の鳥居があります。
七里岩ラインへでるとそのまま道路を突き抜け、新府城の堀だったと思われる未舗装の細道を真っ直ぐ進み、再びアスファルトの道へでます。この道は
「青坂(原路)」と呼ばれた道です。
正面に「稲荷大明神」と書かれた石鳥居があります。
原路(青坂)
韮崎から北の甲州街道は急流である釜無川沿いを進むため、しばしば洪水により寸断されることがありました。この原路が予備の道となり、七里岩の上を通り、韮崎―渋沢―小淵沢―蔦木を結んでいます。
鳥居をくぐり向こう側の道へ出るとあとは一本道で「新府駅」へ到着できたのですが、鳥居の向こうは大工事が行われており、道がなくなっていました。
仕方ないので、青坂を300mほど東南、韮崎方面へ向かい、左へ曲がり新府駅に向かいます。
石仏群
新府駅前にあった石仏群です。石祠や双体道祖神、丸形道祖神などが並んでいます。
新府駅
15:00 新府駅到着。甲府駅へ向かいますが、なんだか電車に乗っている人が異常に多い・・なんでだろ〜
甲府駅へ到着すると、駅でパンフレットを配っており、どうやら今日は
「信玄公祭り」というものが開催されるようです。せっかくですので、見学して帰宅しました。
信玄公まつり・武者行列
初めてだったのでよくわからず、甲府城のあたりで見ていたのですが・・なんだかしょぼい・・もう帰ろうかと、駅の方へ向かうと、駅前はとんでもない大イベントとなっていました。
信玄公まつり
甲府駅前で見学しないといけないようでした!
駅前の
「武者行列」はなかなか見ごたえがありました!