2024年6月8日
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今回は車を小淵沢駅前に駐車し、駅前のタクシー乗り場からタクシーに乗り込み、前回のゴールとした下教来石の諏訪神社へ向かいます。3000円くらいはかかったかな・・
7:30 下教来石の諏訪神社からスタートします。すぐさき左手に
「明治天皇御田植御通覧之跡碑」があり、さらに100mほど進むと右手に石仏があります。
明治天皇御田植御通覧之跡碑
1880年(明治13)明治天皇巡幸の際にこのあたりから右手、谷間の水田で田植えをしている人々をご覧になりました。石碑は1939年(昭和14)建立されました。
題目碑
右側の題目碑は身延六九世の書で、1861年(文久元)の建立。
釜無川河岸段丘の水田
明治天皇がご覧になった景色はこんな感じだったのでしょうか。
上教来石
550mほど進むと左手に「御膳水跡」の案内板があります。
御膳水跡
1880年(明治13)明治天皇巡幸の際にこの細入沢の湧水をお飲みになり、褒めたとされます。
260mほどで国道20号へぶつかります。国道を少し戻り道路の反対側に移り山側へ入っていくと
「教慶寺」があります。
教慶寺
鎌倉の建長寺の開祖でもある
蘭渓禅師が下教来石に
「来福寺」を開山したことにより、上教来石には
「教慶寺」を開山しました。これにより上下教来石に臨済宗の寺院が建立しました。1674年(元禄元)清泰寺格山和尚によって曹洞宗へ改められています。
さらに本堂の南側、小さな川沿いを奥へ入っていくと「八幡神社」があります。
八幡神社
1445年(文安2)創建。甲州道中分間延絵図では
「八幡宮之社」と記されています。武田・徳川両氏の崇敬厚く、家康入国の際に参詣し1603年(慶長8)には寄進がありました。末社として稲荷神社など4社があります。
社の前に「熊のふん」と思われるものがあり、びっくりして早々に甲州街道へ戻りました。すぐ先左手に
「教慶寺の地蔵菩薩」をはじめ多くの石仏が並んでいます。かつてはここが入口だったのかもしれません。
教慶寺の地蔵菩薩
石仏群からすぐ右手の旧道へ入っていきます。
上教来石
旧道へ入り500m、左手の路地へ入り国道沿いに
「山口素堂誕生の地碑」があります。
山口素堂誕生の地碑
石碑には『目には青葉山ほととぎすはつ松魚(かつを)』と山口素堂の有名な一句が彫られています。
山口素堂
1642年(寛永19)この地で生まれますが、幼少期に家族とともに甲府魚町へ移住し、酒造業を営んでいました。酒造業は弟へ譲り、20歳頃に江戸へ出て儒学者林春斎の門を叩き、漢学を修めました。また京では和歌を北村季吟に学び、茶道・書道なども学んでいます。
1675年(延宝3) 深川芭蕉庵に近い江戸上野不忍池に隠居し、芭蕉と交友し俳句の道へ入りました。1696年(元禄9) 甲府代官櫻井政能に濁川治水工事を依頼され、山口堤と呼ばれる堤防を完成させたという多才な人物でした。
甲州街道へ戻り、上教来石の中心部を250mほど進むと右手には
「山口関所跡」、左手には
「西番所跡」と彫られた石碑があります。
山口関所跡
信州口を見張った国境の口留番所がありました。「上下女御改、男子手形いらず」とされ、男子は手形がいらず、女子のみ改められました。
1546年(天文10)の武田信玄の伊那侵攻の際、設けられたという伝承があります。1836年(天保7)甲州騒動時に開門したことからその責任を取り、名取慶助は若尾に改姓したということもありました。番所は1871年(明治4)廃藩によって廃止されました。
西番所跡
山口関所跡碑の反対側にある石碑です。関所・・・番所・・同じことを指していると思いますが、甲州道中分間延絵図では
「山口口留番所」となっています。
水田が広がる景色
水田の中を700mほど進むと国道20号へでます。新しい
「新国界橋」があります。
新国界橋と釜無川
国界橋は
甲斐国と信濃国の国境になっていました。江戸時代の橋は、現在の国道20号線に架かる新国界橋より300mほど上流にあります。
国道を越えて真っ直ぐ進みます。最初は道なのか・・工事現場なのか・・こわごわ進みましたが、すぐに静かな山道のようになります、300mほど進むと、恐らく往時と同じ場所に
「国界橋」が架かっています。
国界橋と釜無川第一発電所取水堰
獣避けフェンス
橋を渡ると獣避けフェンスがありました。ここを越えられないと困ります。電気が通っていると怖いので、タオルで手を防御してこわごわ開けて通り抜けました。
国道20号線の下蔦木の交差点へでます。国道を100mほどで右手から旧道へ入ります。登り坂になっていますが、この坂道は
「堂坂」と呼ばれていました。右手に
「千見寺家住居跡地」と彫られた石碑と
「敬冠院」があり、敬冠院の奥に
「日蓮上人の高座石」があります。敬冠院の門前には多くの石仏があり、道の向かいには
「三つ辻柳」があります。
千見寺家住居跡地
「ちけんじ」と読むようです。ここに住居があったようですが、どのようなお宅なのかわかりません。
敬冠院
敬冠院は真福寺の日誘が「日蓮上人の高座石」の傍らに建立したお堂が始まりで、真福寺支配下に置かれました。日蓮を祀る祖師堂で、日蓮の像を安置しています。
敬冠院の奥には綺麗なトイレがあり、開放されていました。トイレの少ないルートになりますので、有り難いですね。
日蓮上人の高座石
1274年(文永11)佐渡流罪を解かれた日蓮上人は、佐渡から鎌倉へ帰りましたが、その後甲斐国河内の豪族波木井氏の庇護を受けて身延に草庵をつくることになりました。その合間に逸見路から武川筋の村々を教化にまわり、下蔦木に立ち寄りました。当時村には悪病が流行していたので、日蓮は石上に座り3日間説法をしました。真福寺住職はこの折に改宗し、日誘と名を改め開山しました。
敬冠院前の石仏群
甲州道中分間延絵図では、敬冠院の場所に「馬頭観音」が描かれています。石仏群の中に馬頭観音も多くありましたので、絵図に描かれていた馬頭観音でしょう。
三つ辻柳
「川路下りよか逸見路にしよか いっそ蔦屋に泊まろうか ささ泊まろうか ここが思案の三つ辻柳」
蔦木小唄に歌われた「三つ辻柳」。しだれ柳の古木が甲州街道にありました。往時の景観を偲び、堂坂に2009年(平成21)に植栽されました。
郷蔵?
「郷」と書かれているので、「郷蔵」だと思います。建物前にある石は、馬つなぎ石でしょうか。
甲州道中分間延絵図「下蔦木村」
堂坂
趣のある住宅も残っています。左手には「小池牧場」と書いてありますが、今は牛さんがいないみたいですね。
右手に小さな文字馬頭観音があり、そのすぐ先祠の中に道標があります。
逸見道道標
「はらぢみち」「韮崎まで無宿」
甲州街道と逸見道(原路道・鎌倉街道)の分岐にある道標です。現在は100mほど廃道になっていますが、わずかに道の形態が残っています。20m先に現在の分岐点があります。この古い道標は石の上部が欠け、また文字の判読が難しい状況です。
古道「逸見路(へみじ)」「原路道」
2つの道は小淵沢町滝の前まで一緒で、そこから分かれて逸見路は(高根町方面)へ通行し、原路道は七里岩の上部を台ケ原・韮崎方面へ通行していました。釜無川が氾濫し、橋が流出したときには逸見道を迂回していました。
さらに堂坂を上ると正面に
「真福寺」があり、甲州街道は真福寺を巻くように左手へ曲がっていきます。
真福寺
延暦年中(782~806)坂田田村麻呂が東夷征伐の折に創建したといわれています。1844年(天保15)火災で焼失し、1853年(嘉永6)再建されています。
鐘楼門をくぐり、左手に
芭蕉句碑があり、さらに本堂左手、七面宮奥にも
はせをの句碑がありました。
芭蕉句碑
『御命講あふらのやふな酒五升』
1893年(明治26)芭蕉二百回忌に、小池伊兵衛蘿城により建立。
『露おちて松の葉かるきあしたかな』
1893年(明治26)芭蕉200回忌に建立。
真福寺をあとに田園の中を蔦木宿へ向けて進んでいきます。右手田畑の一角に石仏が集められている場所があり、その中に「応安の古碑」が残されています。その先丁字路となっている左手にも庚申塔群があります。
応安の古碑
応安の古碑は「子乃神」と彫られた石碑の後ろの小さな四角い石です。銘に北朝の1372年(応安5)があり、石碑の刻文としては諏訪郡で一番古いもので、周囲には五輪塔や宝篋印塔の破片があります。この古碑は宝篋印塔の一部と考えられています。
庚申塔群
一番奥の石碑には「駿馬崎血號碑」と彫られています。日露戦争の軍馬碑で、1905年(明治38)に建立されました。
右手にも大きな石碑が2つありましたが、どういった石碑なのかはわかりませんでした。
さらに300mほどで蔦木宿内へ入ります。蔦木宿という案内板があります。左手には宿場に悪いものが入らないよう道祖神が祀られ、その先すぐ右手に「蔦木宿枡形碑」があります。
道祖神
宿場の入口を守るように立派な道祖神が祀られています。
蔦木宿枡形
枡形は南北に作られていますが、1991年(平成3)に道路改良が行われ、往時とは少し位置が違っています。石碑の位置で直角に曲がっていました。
街道は枡形を左へ曲がり、国道20号になりますが、枡形で曲がらず、直進して
「三光寺」へ寄っていきます。
三光寺
蔦木村はもと甲斐の領地であり、1395年(応永2)
武田信重が僧となり、父信満の菩提を弔うため
満願寺を建立。1574年(天正2)門鶴が慶長年間(1596~1615)場所を移し、
禅長寺と改称しました。門鎖の代になり再び移築され、
三光寺と改めましたが、1681年(元和元)堂宇が焼失し廃絶してしまいました。1689年(元禄2)高島藩主の諏訪因幡守頼水が再興の開基となり、現在地へ移し再建されました。
三光寺からは水路脇を通り、
「十五社大明神」へ向かいます。
十五社大明神
創建年は不明ですが、1237年(建久元)の「祝詞段」に「蔦木二十五所」と見られる古社です。
十五社遷宮之碑・開道碑
遷宮碑がありました。甲州道中分間延絵図の位置ではなく移動しているようですので、この時に建立された碑と思われます。なお、絵図では道を隔てた東側に
「十五社神主久保田河内」の住宅が描かれています。
甲州道中分間延絵図「蔦木宿」
キセキレイ
十五社大明神の鳥居をくぐり、街道へでるとすぐ右手が本陣跡で、「本陣大阪屋表門」があります。
蔦木宿本陣大阪屋表門
本陣表門は1864年(元治元)の火災後の建築と考えられ、本陣門として1905年(明治38)平出家が譲り受け、同家の正門としていましたが、1990年(平成2)家屋取り壊しに際して町の歴史民俗資料館へ保存され、1992年(平成4)本陣跡地に復元されました。
本陣跡碑・明治大帝駐輦跡
有賀本陣母屋は1846年(弘化3)の建築で、書院造りの上段の間をもつ広大な屋敷でした。1907年(明治40)に南原山に移築され、子爵渡辺千秋の別荘(分水荘)として活用されていましたが、老朽化したため1975年(昭和50)年に取り壊されました。跡地は「ふじみ分水の森」となり、公園として利用されています。
与謝野晶子歌碑
『本陣の このわが友と いにしえの 蔦木の宿を 歩む夕暮れ』
本陣跡に与謝野晶子の歌碑があります。本陣家と親交のあった与謝野晶子は、度々この地を訪れていたそうです。
蔦木宿
1604年(慶長9)頃、完成した江戸から甲府までの甲州街道を延長し、4.5年後に中山道の下諏訪宿に繋げた際に「蔦木宿」が設けられたため、居平や夏焼の集落から移転してきました。1733年(享保18)の記録では、家数24軒。1843年(天保14)の記録では人口508人、家数105軒、本陣1軒、旅籠15軒がありました。問屋は2軒あり、15日交代で人馬を継立てていました。
蔦木宿内をさらに進んでいくと、右手消防団建物前に
「与謝野晶子歌碑」と
「水道跡」があります。
水道跡
明治天皇巡幸の折に使用された御前水は、七里ケ岩からの湧水でした。他2箇所の湧水を利用して1906年(明治39)頃、蔦木宿の街道筋に16箇所の水道施設を作り、飲料水として1951年(昭和26)頃まで使用されてきました。当時の施設の石が保存されていたので、1997年(平成9)に復元されたそうですが、水は出ていません。
与謝野晶子歌碑
『白じらと並木のもとの石の樋が 秋の水吐く蔦木宿かな』
90mほど進んだ右手、1本奥の道沿いに
「明治天皇御前水碑」があります。
明治天皇御前水碑
屋根がかけられた井戸の横に石碑があります。さらに道路を挟んだ反対側には八ヶ岳からの綺麗な伏流水がこんこんと湧いています。
蔦木宿鹿島屋
屋号の看板が掲げられていました。
枡形碑・石仏群
再び西の
「枡形碑」があり、ここを左へ曲がっていきます。すぐまた右へ曲がると石仏群があります。絵図の「神明」の名残の石仏と思われます。その先右手に
道祖神祠があり、左手少し奥にも庚申塔や地蔵などの石仏があり、右手には
「川除古木」が4本残されています。
道祖神・石仏群
川除古木
釜無川の氾濫による水害から蔦木宿を守るために「信玄堤」が作られました。信玄堤を守るために植えられた川除木の名残の古木で、現存しているものはキササゲ、ケヤキ、各1本、サイカチ2本です。1898年(明治31)の大水の時はこの大木を切り倒して集落内に向かおうとする大水の向きを変え、集落を水害から守ったと言われています。
10:20 蔦木宿をあとに金沢宿へ向けて進んでいきます。