2024年4月13日
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栗橋駅裏のコインパーキングへ車を駐車し、東武日光線へ乗車し
「幸手駅」へやってきました。
8:10 幸手駅東口を出発します。駅前には
「東武鉄道日光線開通記念碑」がありました。
東武鉄道日光線開通記念碑
1929年(昭和4) 杉戸駅(現東武動物公園駅)から新鹿沼駅間が開業したため、同時に幸手駅も開業、これを記念して建立された石碑です。
幸手駅東口から駅前の道を東へ100mほど進むと右手に
「一色稲荷神社」があります。
一色稲荷神社(幸手城跡)
幸手駅付近は裏町と呼ばれ、城山または陣屋という地名が伝わっています。かつてこの一帯には古河公方足利氏の家臣、一色氏が拠点とした幸手城があったと言われています。
一色直朝の子、義直は小田原の北条氏没落後は徳川家康に仕えています。現在、遺構は何も残っていませんが、唯一辰巳の方向に祀られている一色稲荷神社は「陣屋稲荷」とも呼ばれ、一色氏の守り神として祀られた氏神と伝えられています。
一色稲荷神社の道路を挟んだ向かいから路地へ入り、丁字路を右へ曲がると
石像のドラえもんがありました。さらにその先、あさよろずの裏側に古い門扉があります。
幸手劇場記念碑
ここに小さな映画館があったようですが、2005年(平成17)閉館したようです。
あさよろず裏門
あさよろず(朝萬)は、1819年(文政2)創業の旅籠屋の系譜を引く旧家で、裏門は当時の遺構とされます。
右へ曲がっていき、駅前の道へでます。さらに東へすすむとすぐに幸手駅入口交差点があり、日光街道へぶつかります。左へ曲がりすぐ右手にあった古い建物が
「小嶋商店」です。
小嶋商店
もとは薪炭や絹糸を商っていたそうです。幸手宿は古い建物はほとんどなくなり、小嶋商店のように趣のある古い建物は目を引きます。ここから先、数件の旧家が見られます。
日光街道とあさよろず
建物は現代的に建て替えられていますが、現在も旅館として営業しています。館内には明治末期の要人の宿札が残っているそうです。
幸手駅入口交差点から200mほど進み、右に曲がり担景寺横町へ入っていくと左手に
「担景寺」があります。
担景寺
創建年は不明ですが、1615年(元和元)に没したと伝えられる順覚が創建したと伝わります。本尊の阿弥陀如来は平安中期の源信(恵信僧都)の作と伝えられます。
日光街道へ戻り100mほど左手に
「永文商店」、その先右手角が
「幸手宿問屋場跡」があります。問屋場跡は公園になっています。
永文商店の横町鉄道
永文商店は酒屋で、重い商品を運ぶため建物横には荷捌き用トロッコレールがあり
「横町鉄道」と呼ばれているようです。建物の側面に
は芭蕉と曽良が描かれています。
幸手宿問屋場跡
問屋周辺には商店・旅籠・茶屋などが軒を連ね賑わった所です。
日光道中分間延絵図「幸手宿」
幸手は古代より奥州へ通じる道筋の古い集落でしたが、1617年(元和3)日光東照宮社殿の竣工を期に幕府がその参拝道として整備した宿駅です。宿内で日光社参の迂回路である
日光御廻り道、さらに外国府間村で
筑波道が分岐し、陸上交通の要衝として大いに栄えました。問屋1軒、本陣1軒、脇本陣は置かれていませんでした。旅籠は天保年間(1831~1845)には27軒でした。
問屋場跡の隣が平井家、街道を挟んだ向かいが竹村家、竹村家の2軒隣が
本陣知久家です。
平井家・竹村家
平井家は、1922年(大正11)の建築で、かつては穀物商・味噌屋だったそうです。屋号は「味噌増」でした。竹村家は、もと石炭を商い、建物は昭和初期の建築とされます。
本陣知久家
知久家は久喜町の開発者でもあり、本陣・問屋を務め、久喜町の名主を務めました。6代目知久文左衛門景信は天明の飢饉で困窮した人々を救済し、権現堂堤の水防見廻役も務めました。
1873年(明治6)知久家の書院で小学校が開設され、また1876年(明治9)には明治天皇東北巡行の際に宿泊されました。現在は鰻屋さんになっています。
本陣のすぐ先右手に
「飯村医院」、その先左手、銀行の前に
「高浜商事」があります。
飯村医院
代々医・薬種業で、屋号は「大阪屋」、1923年(大正12)の建築です。現在も内科のお医者さんです。
高浜商事
現在も続く肥料商で、1934年(昭和9)の建築です。
高浜商事の次の左手路地に
「日光御廻道」の案内があります。ここを左へ曲がり最初の十字路を左へ入るとすぐに
「幸宮神社」があります。
日光御廻道
将軍社参の際に幸手・栗橋間が
出水で通行できなくなる可能性があるために設定されたもので、現在の鷲宮町域を経て栗橋へ向かう道筋ですが、一度も使用しなかった幻の日光社参道でした。
幸宮神社
古くは八幡香取社と称し、信仰されてきました。明治に入り、琴平社・天神二社・稲荷社を合祀し、1914年(大正3)幸手市の総鎮守となり、名を
幸宮神社と改めました。拝殿には江戸時代の絵師、
宗文により歌舞伎「茨木」のさわりの場面の絵馬一対が奉納されています。
幸宮神社本殿の彫刻
1863年(文久3)再建の本殿には見事な彫刻が全面に施されています。
舞殿の横を通るとアスファルトの道へでることができ、右手に20m戻り左へ入ると
「妙観院」があり、妙観院の西側未舗装路を入っていくと
「雷電神社」があります。
妙観院と砂利道供養塔
創建年代は不詳ですが、300年ほど前とされます。正面に
砂利道供養塔と彫られた石塔は道標のようで、左側面に「〇〇道」と彫られているのですが、かなり劣化が著しく、読み取れません。
雷電神社
幸手で最も古い神社の一つです。田の中に金色の雷神が落ち、これを祀り、田の中の宮、田宮としました。社の裏には瘤(こぶ)神社、疣(いぼ)権現、疱瘡宮と書かれた碑が建てられており、病に悩んだ人々が多かったのだと思われます。
日光御廻道で日光街道へ戻り、街道を80mほど進んだ右手、現在もある呉服屋が「豪商長嶋屋跡」とされます。
豪商長嶋屋跡
江戸時代~明治時代にかけて隆盛を極めた呉服商で、店舗と7つの蔵、向店や分店をもつ幸手宿きっての大商人でした。また100町歩余の農地をもつ大地主でした。
さらに150mほど先の左手に
「聖福寺」の入口があります。参道の右手に
「芭蕉と曽良の句碑」があり、その先参道正面に
「勅使門」があります。
芭蕉と曽良の句碑
「幸手を行けば栗橋の関 蕉」
1693年(元禄6)深川芭蕉庵にて十三夜連句会で、芭蕉は奥州への旅路を思い起こしてこの句を詠んだとされます。
「松杉をはさみ揃ゆる 寺の門 良」
聖福寺の勅使門を詠んだとされる句です。
勅使門「唐破風四脚門」
江戸時代には、日光東照宮に参拝する江戸幕府の徳川将軍や日光例幣使が通るとき以外に門の扉は開けなかったとされます。1741年(寛保元)に建築。1857年(安政4)に再建、さらに昭和初期に屋根が銅板に葺き替えられたとします。
勅使門の奥、右手のほうに
「金子竹香顕彰碑」と
「花塚」があります。
金子竹香顕彰碑(竹香金子明墓碣銘幷序)
幸手に住んでいた江戸時代の儒学者「金子竹香」の墓碑です。この碑は博識な蔵書家、能書家として知られた竹香の死を偲んで近隣有志達によって建立されています。碑文は儒学者で、関宿藩の藩儒も務めた亀田綾瀬の撰文と書によるものです。
花塚
寛政の頃、幸手宿の秋月庵一松が「遠州流生花」を普及させました。その後、日光道中で盛んになり、明治になると遠州流の人々がこの碑を建立したとされます。
聖福寺
創建年は不明ですが、1523年(大永3)に没した大蓮社乗誉岌伝により開山したとされます。1651年(慶安4)幸手宿の7割を焼き尽くした大火で全焼し、その後規模を縮小して再建。
1728年(享保13)、8代将軍
徳川吉宗は65年ぶりに日光社参を実現しました。昼食所として聖福寺があてられ、献立が残っています。昼食の弁当は御煮しめが中心で、ご飯に
砂糖と胡椒が添えられていました。
江戸時代に「胡椒!?」
ちょっとびっくりしましたが、胡椒は754年(天平勝宝6)に鑑真が日本に持ち込んだとされています。正倉院に保管されているそうです。最初は薬という感覚で使用されていたようです。江戸時代には日常的に使う香辛料として挙げられていますが、胡椒がそんなに簡単に手に入るとも思えないのですが、江戸時代の遺構からも発掘されていてびっくりです。
江戸時代の料理書には
「胡椒飯(こしょうめし)」なるレシピが残っています。これは白米に挽いた胡椒を混ぜ、だし汁をかけたものです。胡椒のお茶漬けのようなものですね。
比丘尼沼
現在は残っていませんが往時、聖福寺の北側(現在の幸手中学校あたり)に比丘尼沼がありました。日光道中分間延絵図を見ると現在の正福寺の参道あたりにあった弁天から流れ出て、聖福寺北側へ流れ沼になっていたようです。この沼に牛に乗った
比丘尼が現れたとする伝説があります。
聖福寺をでて、街道が右へ大きくカーブするところの右手側に
「幸手一里塚跡」があります。正面には
「正福寺」があります。
幸手一里塚跡
明治の初期までは街道の両側に塚がありましたが、現在は碑があるのみです。
正福寺
創建は不明ですが、中興開山秀宥により1511年(永正8)に無量寿院の流派となったと伝えられます。江戸時代、学問の研究や師弟を養成する「常法談林」であり、当時は49寺の末寺がありました。
正福寺の境内には
「日光道中道標」、「義賑窮餓之碑」があります。
日光道中道標
街道右手
「庚申道印」の位置にあった馬頭観音道標が正福寺に移されています。
「日光道中」「右 ごんげん(こ)うじ」と大きく刻まれています。1800年(寛政12)の建立です。「ごんげんこうじ」とは、権現堂村へ通じる小路と思われます。
義賑窮餓之碑
1783年(天明3)浅間山が大噴火したため関東一円に灰が降り、冷害も重なって大飢饉となりました。このとき、幸手の有志21名が金品を出し合って難民の救済にあたりました。この善行が関東郡代伊奈忠尊の知るところとなり、顕彰碑を建立させたとされます。
正福寺をあとに日光街道を70mほど進むと左手に
「石太菓子店」があります。
「塩がま」を購入したいと思います。
石太菓子店
江戸時代の文久年間(1861~1864)初代中村石太郎により創業し、現在も続く老舗菓子店です。
名物塩がまと桜まんじゅう
塩がまの起源は文政年間(1818~1831)に幸手市内国府間で菓子製造を営んでいた、
「大阪屋」の樋口清左衛門氏によって作られたといわれています。もち米・砂糖・塩等材料を用い、型に押し固めて作ります。落雁に近いのですが、落雁のように固くなく、口にいれるとふわ~とした食感で、甘みが強くなくさっぱりした味でした。
今日は、権現堂堤の桜まつりに寄っていくのであとで食べようと、
桜まんじゅうも購入しました。おまんじゅうに桜の塩漬けが添えてあり、甘くてしょっぱいところがいいですね。
すぐに左へカーブし、住宅地の中の日光街道を進んでいきます。270mほど左手の民家の塀に黒御影石の案内板があり、ここが塩がまの起源となった
「大阪屋跡」になります。筋違橋の一つ手前を左へ入り、幸手桜高校の野球場北側にある
「橘守部翁遺跡碑」を目指します。
橘守部翁遺跡碑
橘守部は1781年(天明元)伊勢国に生まれ、17歳で江戸へ出て学問を志し、やがて積極的に国学の道へ入りました。江戸末期の四大国学者の一人、1809年(文化6)から内国府間常照院(現幸手桜高校)に住み、約20年間この地方の教育に携わり、門下生も200名に及んだと言われています。碑は1929年(昭和4)建立。
幸手桜高校からさらに北へ向かうと
「内国府間八幡神社」があります。
内国府間八幡神社
1492年(明應元)創建とあり、2007年(平成19)には不審火で焼失してしまいましたが、直後に再建されたとあります。
内国府間(うちこうま)
当初は幕府領、1783年(天明3)より小田原藩の領地となりますが、のちに再び幕府領となります。家数は文政年間で64軒。街道沿いには家が多いが、他は農地が広がっていました。名主を代々世襲した山田家(もと遠藤氏)は幸手城主一色氏の家臣と伝わり、帰農してこの村を開いたとされます。
日光街道へ戻り栗橋宿へ向けて歩き、右手の小さな「新田神社」のところから右へ入り権現堂堤へ向かいます。
新田神社
権現堂堤には多くの人が訪れていました。駐車場も満車ですね。歩いてきた私達は問題ないですが。
順礼の碑
1802年(享和2)長雨のために水位が高まった利根川はついに決壊し、人々は土手の修復にあたっていましたが、激しい濁流に工事を進めることができずに手をこまねいていました。通りかかった
巡礼親子がこれを見かねて自ら
人柱を申し出、流れに身を投じたといいます。するとたちまち洪水は収まり、修復工事が完成したとされます。
これに対し、巡礼親子が工事は無駄だと言ったことに怒った人夫達が親子を川へ投げ込んでしまったという説もあります。どちらが本当の話なのか不明ですが、巡礼親子を供養するため1933年(昭和8)に建立されたものです。
絵は明治、大正の有名な日本画家、結城素明の筆によるものです。
権現堂川用水記念碑
1932年(昭和7)政府の農村救済国費補助土木事業により、翌年に水路と順礼樋管の堰が完成したことを祝し、1933年(昭和8)権現堂川用水路普通水利組合が石碑を建立しました。工事概要と権現堂川用水の来歴が記され、題字は内閣技術工学博士真田秀吉が揮毫しました。
権現堂大噴水
菜の花の向こうに水が!あとで調べたところ、行幸湖にある噴水でした。噴き上げ高は36.6mだそうで、土日のみ行われているそうです。
権現堂桜堤
1576年(天正4)利根川の支流である権現堂川の堤防として築かれ、幸手をはじめ江戸までも洪水から守ったため
「御府内御囲堤」とも呼ばれていました。また、水上交通も盛んで、川沿いの権現堂河岸が栄え、舟による流通は幸手宿の経済も支えました。権現堂川は1927年(昭和2)に廃川となり、調節池になっています。
桜を見るため多くの人が訪れていました。露店もたくさんでています。綺麗な桜と菜の花の絨毯。しばし休憩して先程買った桜まんじゅうや屋台の焼きそば、たこやきを食べました。
権現堂桜堤
1920年(大正9)に行幸堤保存会により桜が植えられましたが、戦時中に伐採され薪として供出されました。1949年(昭和24)再び植栽され、現在の桜堤となりました。
日光道中分間延絵図「権現堂堤」
防水記念碑
江戸時代以来、権現堂川による大洪水の脅威から地域を守り続けてきた権現堂堤の水防活動の歴史を後世の人々に伝えるために建立されました。題字は幸手市出身、政治家・武蔵野銀行初代頭取、遠藤柳作の揮毫で、1933年(昭和8)建立されました。
御幸堤之碑(右側)
権現堂川の新堤建設の経緯が書かれ、合わせて1876年(明治9)明治天皇東北巡幸の際に視察され、「行幸堤」と名付けることを許されたこと、建設費用が下賜されたことなどが刻まれています。1877年(明治10)建立。題字は岩倉具視、撰文は近藤芳樹です。
権現堂桜堤をあとに日光街道へでて、
行幸(みゆき)橋で中川を渡ります。渡りきったところを左へ入っていきます。
旧道へ入っていきます。ようやく静かな旧道になり、農地も増えてきました。560mほど進むとY字路があり、「日光街道道標」があります。
日光街道道標
1775年(安永4)日光街道と筑波道の追分にあたるこの場所に道標が建立されました。
『東 川つま道 まいはやし道 右 つくば道 左 日光道』
つくば道の方へ行くと、権現堂川の対岸元栗橋村との間に渡船が設けられており、「脇渡場」と称したとされます。「川つま」は現在の茨城県猿島郡五霞町川妻、また「まいはやし」は茨城県古河市前林のことで、筑波へ行く道順です。
筑波道との追分から450mほどで左手に
「外国府間雷電神社」があり、境内に
「高外ほ場整備記念碑」があります。また、この外国府間雷電神社門前が
「芭蕉立場」となっていました。
外国府間雷電神社
創建は不明ですが、約300年前から鎮座し、地域に大切にされてきました。日光道中分間延絵図にある
「湯教」は恐らく
「湯殿」と思われ、合祀されているようです。2001年(H13)、不審火により全焼。翌年に再建されました。
高外ほ場整備記念碑
水不足に悩まされていた当地は、1921年(大正10)発電機を設置し、羽生落より取水し用水にあてましたが、地区の半分ほどにしか配水できませんでした。1971年(昭和46)より近代的パイプライン方式が導入され、水不足が解消し、収穫量が最高水準に達しました。
これを記念して1978年(昭和53)に建てられた碑です。
芭蕉立場付近
法蔵寺(廃寺)の門前が立場となっていました。立場付近には1786年(天明6)の洪水によりできた大池・内池、1840年(天保11)の洪水による2つの松山池・裏池があったとされます。
日光道中分間延絵図「外国府間村」
幕府領であった外国府間村は1744年(延享4)、一部を除き一橋家領となっています。家数は文政年間(1818~1831)で49軒。
芭蕉立場からは国道に沿っている旧道を進み、坂を上ると一旦国道の歩道を歩きます。すぐに国道から外れて左手から下り、旧道が始まります。さらに国道と並走する旧道を進んでいくと左手に
「真光寺」があり、すぐ先に小さな
「弁財天」の祠があります。
真光寺
もとは大伽藍の寺院だったとされますが、1943年(昭和18)の落雷によって焼失し、その後再建されたようです。
境内には「開校百年記念 愛敬学校 聲門学校」と彫られた石碑があります。栗橋南小学校の前身として1873年(明治6)、真光寺を仮校舎として愛敬学校が設立され、1875年(明治8)に聲門学校と改称したようです。
弁財天と小右衛門の一里塚跡
創建は不明ですが、日光道中分間延絵図には道路を挟んだ一里塚の反対側に描かれています。昭和初期に移設されたといわれます。
真光寺の西側に
「八幡神社」があります。
八幡神社
創建年、再建年等は不明です。1997年(平成9)境内が、権現堂公園建設予定地となり、1998年(H10)現在地へ社殿を新築しました。
日光街道へ戻り、少し進むと国道の下をくぐるトンネルが右手にあったので、
権現堂川へでてみました。桜が綺麗に咲き誇っていました。
権現堂川の河原
さらに1.3kmほど進むと国道と合流し、国道から離れるように左の旧道へ入るとすぐ右手に
「川通神社」があります。
川通神社
創建は不明ですが、江戸時代には
香取社と呼ばれ、1914年(大正3) 川通神社と改称しました。境内にある
力石は1852年(嘉永5)、58貫目(217.5kg)納主、森田熊太郎とあります。
水準点
境内には水準点が設けられていますが、川通神社の石鳥居には1876年(明治9)頃に几号(ベンチマーク)が刻まれました。当時は神社の鳥居や狛犬の台石など耐久性に優れた既存の構造物に刻印していました。これがその後、現在の水準点に置き換えられたと思われます。
緩いカーブを進んでいくと右手に
「会津見送り稲荷」があります。
会津見送り稲荷
江戸時代、会津藩主の参勤交代による江戸参向に先立ち、藩士が江戸へ書面を届けるため先遣隊として進んでいました。栗橋宿下河原まで来ると出水のために通行できず、困っていると
白髪の老人が現われ、道案内をしてくれたといいます。藩士は無事に江戸へ着き、大事な役目をはたせたといいます。
また、道が通行できず、茶店でお茶をご馳走になっている時に、大事な物を忘れてきたことに気づき、そのために死を決意した際、老人が現われ、藩士に死を思い止らせたという話もあります。後に
老人は狐の化身と分かり、稲荷様として祀ったとされています。
手水鉢
境内には江戸の会津藩邸に務めていた組中により、1785年(天明5)に奉納された手水鉢が残されており、会津藩との由緒を伝えています。
さらに少し進むと国道へ合流しそうになりますが、国道のすぐ脇に旧道があります。旧道を200mほど進むと県道によって直進が通行できなくなりますが、迂回路として左へ曲がり県道の下をくぐり、すぐ右へ曲がると元の旧道の先へ戻ります。その先、道なりへ進み、左へのクランクが枡形です。ここから栗橋宿内へ入ります。もう一度右へ曲がるとすぐ先右手に
「炮烙地蔵」があります。
炮烙地蔵
栗橋宿の関所破りをした者が火あぶりの刑に処せられ、それを憐れんだ村人が1710年(宝永7)供養のために建立した石地蔵です。炮烙地蔵に供えられた線香の灰をイボにつけるとイボが治るとも言われ、「イボ(エボ)地蔵」とも呼ばれていました。
炮烙地蔵
「炮烙」とは豆などを煎るのに使う素焼きの土器のことを指しますが、火あぶりの刑という意味もあります。その年に生まれた子どもの名を炮烙に書いて納めるお祭りが行われています。
炮烙地蔵の先、右手に
「顕正寺」、街道を挟んだ左手に
「浄信寺」があり、浄信寺のすぐ先に
「深廣寺」があります。
顕正寺
開基は常陸の国幡谷の城主、幡谷次郎左衛門尉信勝です。信勝は出家して親鸞聖人の弟子となり、唯信と名を改め、光念寺を建立しましたが、兵火により焼失しました。その後、下総国古河領中田新田村藤の森に聖徳太子作と伝えられる阿弥陀如来木像を安置した堂があったためそこへ移り「顕正寺」と称しました。
16代善了の時、栗橋町の開発者、
池田鴨之介の招請によって1614年(慶長19)寺と阿弥陀如来像と共に現在地へ移しました。
池田鴨之介墓
並木五郎兵衛と共に幕府に願い出て、慶長年間(1596~1614)に下総国栗橋村より村民を引き連れ、後の栗橋宿となる上河辺新田を開墾、1648年(慶安元)に没しました。
池田家は江戸時代、初代鴨之介の子、與四右衛門より名を世襲し、代々栗橋宿の本陣を務めました。
子孫、鴨平は1889年(明治22)に
私立淑徳女学館を設立し、早くから女子教育に力を入れ、その子義郎は旧栗橋町の第三代町長として町政に尽くしました。
日光道中分間延絵図「栗橋宿」
寛政年間の初頭、利根川改修等による道筋の変更に伴い、現在地に宿駅が整備されました。その基礎となったのは後に本陣役を務める
池田氏、及び
並木氏が慶長年中(1596~1614)に伊奈氏の命により元栗橋から入植し開発した上河辺新田であったとされます。
浄信寺
1617年(元和3)、乗誉玄徹によって開山されました。乗誉玄徹は現在の仙台市青葉区にある昌繁寺の住職でしたが、江戸に寺を創建すべく、江戸に向かっていた途中、栗橋宿に留まり「帰命院」を設けました。その後、現在の鴻巣市にある勝願寺の日誉源貞が整備拡充し、
「浄信寺」としました。
梅澤太郎右衛門墓
梅澤氏の祖先は菅原氏であり、その後北条氏の客臣となり塚原と改め、太郎則武と名乗りました。小田原城没落後、相模国梅澤村に住み、姓を梅澤と改め、その子太郎右衛門の時、1600年(慶長5)に栗橋に移住し、開墾に従事しました。
1622年(元和8)2代将軍秀忠の日光東照宮社参の折、暴風雨のため利根川が満水となり将軍の渡る船橋が危なくなりました。太郎右衛門は人夫を率いて水中へ入り、命がけで橋の安全を守りました。将軍は称賛し、貞宗の名刀と軍扇、お墨付を送りました。またこのときに苗字帯刀を許されたとされます。
深廣寺(しんこうじ)
1649年(慶安2)に没した広誉閑栄を開山とし、栗橋宿開発者の一人、並木氏の開基と伝わります。
単信上人は晩年、自らの木像を彫刻し、自分がこの世を去った後にはこの像を上人と思え、と言い残したとされ、現在も単信上人木像が残っています。
六角名号塔
深廣寺2代住職、単信上人が伊豆より大石を船で持ち帰り、1654年(承応3)~1656年(明暦2)の間に供養塔を20基建立しました。その後、1766年(明和3)、9代住職・法信上人が1基を建立したものです。
並木五郎兵衛墓
池田鴨之介と共に下総国栗橋村より村民を引き連れて後の栗橋宿となる上河辺新田を開墾しました。また、深廣寺の開基となり、六角名号塔の建立に協力し、1655年(明暦元)に没しました。
並木家の初代五郎兵衛は幸手城が関宿城の小笠原氏に攻め落とされた時、身を隠していた幸手城主、一色直朝の子、輝季(てるすえ)を当地の「萬屋(並木家)」にて捕まえたという逸話があります。また、後の子孫は名主を務めましたが、あるとき大洪水による飢えから人々を救おうとして、御用米を村民に分け与え、その罰により所払いを受けて小右衛門に移り住んだと言われます。
深廣寺をあとに、日光街道を240m進んだ左手から来る道が
「日光御廻り道」で、先程通ってきた幸手宿とつながっていました。また機会があればこちらも歩いてみたいと思います。日光御廻り道の分岐から少し進むと栗橋駅入口交差点となり、左へ入っていくと
「福寿院」があります。
福寿院
1647年(正保4)に没した俊盛による開山とされます。福寿院には
徳本上人名号碑があります。建立年は上人が亡くなった後の1821年(文政4)に建立されています。
栗橋宿
文政年間(1818~1831)の家数は419軒、天保年間で404軒、人口は1741人と記録されています。
日光街道戻り、栗橋宿の中を150mほど進むと右手に空き地があり、ぽつんと
「栗橋関所址」の石碑があります。
栗橋関所址
利根川を越す房川渡に設置されたことから「房川渡中田関所」と呼ばれていました。関所の位置は石碑の位置より70mほど北の本陣北側にありました。
1624年(寛永元)に置かれ、以後1869年(明治2)の関所廃止まで250年間続きました。
石碑は1924年(大正13)に旧藩士三家・本陣・宿名主の発起で町内と近在の有志により徳川家達の書で旧堤上に建立されましたが、堤防改修工事で度々移動してきました。
さらに進むと右手にかつては池田家が務めた
「本陣跡」がありましたが、スーパー堤防建設のため無くなってしまったようです。
スーパー堤防建設
本陣跡には
「明治大帝駐輦記念碑」があったとされますが、本陣がなくなり、この碑もどこかへいってしまいったようです・・・碑の裏面には「奥羽御巡幸御小休 明治九年六月四日、東北御巡幸御小休 明治十四年八月一日、同御還幸御小休 同年十月十日」とあるそうです。この碑はどこにいってしまったのでしょうか・・・
蔵の残る家
脇本陣は絵図には描かれていませんが、本陣前にあったとされます。現在空地になっているあたりなのでしょうか・・わかりません。
日光道中分間延絵図「利根川」
栗橋宿と中田宿とは合宿として機能を分担していました。一ヶ月の前半15日は中田宿が公用の荷物、栗橋宿が一般の荷物を担当し、後半はこれを交代して行っていました。また、江戸からの荷物は栗橋宿が、日光・東北からの荷物は中田宿が継立をするという原則があったようです。
問屋1軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒と記録されています。本陣・問屋・脇本陣もスーパー堤防建設のためなくなってしまったようです。
本陣跡横から堤防の上に上がり、
「八坂神社」へ向かいます。
八坂神社
創建年は不詳ですが、もともとは元栗橋(猿島郡五霞村)に鎮座していました。慶長年間(1596~1615)に大洪水にあい、当地へ移設しました。さらにスーパー堤防工事のため取り壊され、堤防上に新設されたようです。江戸時代は「天王」と呼ばれ、宿内・近隣・船主からの信仰を集めていたとされます。
祭礼の神輿は、利根川洪水の折に鯉魚と泥亀に囲まれて流れてきたという縁起がありますが、現在使われている神輿は江戸末期に作られたもので、
「関東三大神輿」に数えられています。
利根川橋(房川渡)
武蔵国と下総国との国境をなしていました。
普段は渡しでしたが、将軍の日光社参に際しては仮設の
船橋が架けられました。絵図にある
「鎖小屋」は、この船橋架設に用いる鎖を保管しておく小屋です。房川渡しは大利根橋(現利根川橋)の架設された1924年(大正13)頃まで運行されました。
利根川橋を渡り、中田宿へ向かいますが、本日の日光街道歩きはここまでとして、あとは寄り道をしながら栗橋駅へ向かいます。
まずは八坂神社北側から堤防の上を100mほど歩き、左手に堤防を下る階段があったので、ここを下り道へでました。国土交通省関東地方整備局の裏へ入っていくと、右手に
「明治天皇行幸記念碑」があります。
利根川を渡る鉄橋
1885年(明治18)大宮・蓮田・久喜・栗橋停車場が開設されましたが、利根川を渡る鉄橋が未完成のため、列車は栗橋止まりでした。鉄橋は1886年(明治19)に完成し、当時国内最長の約462mでした。
明治天皇行幸記念碑
利根川を渡る鉄橋が竣工した1886年(明治19)、明治天皇が竣工式に出席され、徒歩で鉄橋を渡り、船からもご覧になりました。記念碑は1931年(昭和6)に建立されました。
そのまま直進し、丁字路を左へ曲がり大きく左へ曲がるカーブのところから右へ入り、すぐまた右へ。ちょうどそのあたりが「関所番士屋敷跡」の一番南側のお宅の裏にあたります。さらに道なりに進むと
「関所番士屋敷跡」の案内板があります。
関所番士屋敷跡
1624年(寛永元)栗橋関所番士の住まいとして、江戸幕府が設けたものです。維新期最後の番士は加藤・足立・島田・富田の四家でした。また番士の墓は常薫寺・深廣寺にあるそうです。現在、南側の2軒がしっかり残り、1軒は半分ほどが道路に取られ、一番北側は全てが道路と法面になってしまったようです。
「関所番士屋敷跡」の案内板の東側に
「香取神社」、さらにその奥に
「経蔵院」があります。
香取神社
創建等は不明ですが、日光道中分間延絵図にも記載があります。
経蔵院
貞観年間(859年~877年)、慈覚大師円仁によって開山され、最勝玉院とも呼ばれる台密修練の道場でした。保元の頃、願行坊宥俊阿闍梨が下河辺の荘司であった行平という人が再興しました。
静御前の伝説が伝わっています。静御前が義経の死を知ると、そのショックで病気になり亡くなったと伝えられます。経蔵院は静御前の持仏だった地蔵菩薩像を本尊として迎え入れ、彼女の菩提を弔うことになった、と伝わりますが実際の造立年代は江戸時代と言われます。この仏像は、
漆乾製(和紙と漆)の立像で、日本で三体だけという貴重なものだそうです。
かなりの古刹ですが、なぜか日光道中分間延絵図には見当たりません。
「関所番士屋敷跡」の案内板まで戻り、関所番士屋敷跡のお宅前を通り、
「宝治戸池」方面へ進みます。
宝治戸池(ほうじといけ)
1742年(寛保2)に発生した利根川旧流路の一つである浅間川の氾濫により形成された池であり、かつてはもっと広い池でしたが、埋め立てなどにより小さくなってしまいました。日光道中分間延絵図には「大池」として描かれています。
栗橋駅へ向かって歩き、駅の80mほど手前に
「高柳寺跡」があります。標柱には
「光了寺跡」となっています。
高柳寺跡
静御前は、磯の禅師の一人娘として1168年(仁安3)に生まれたとされ、
白拍子と呼ばれる美しい舞姫に成長しました。干ばつが3年続いたため、
後鳥羽上皇が1182年(寿永元)京都神泉苑に舞姫100名を選び、
「雨乞いの舞」を命ぜられました。最後に静が舞うと激しく雨が降り出し、3日3晩降り続いたといいます。後鳥羽上皇は褒美に「蝦蟇龍(がまりゅう)」の錦の舞衣を贈り、この衣は現在、中田町へ移り高柳寺から
光了寺と称したお寺に保存されています。
義経記「源頼朝の前で舞う静御前」
義経の寵愛を受けた静が初めて義経と出会ったのもその頃のことです。その後、義経は兄頼朝の不興を被り、藤原氏を頼り奥州平泉へ向かうことになります。
静も義経を追い、平泉へ向かいましたが途中の下総国下辺見付近で「義経討死」の報を聞き、仏門へ入り、義経の菩提を弔うため再び京都へ戻ろうとしました。
しかし、長旅の疲れからか病気となり、1189年(文治5)この地で死去したと伝えられています。
静御前の墓
侍女、琴柱(ことじ)がこの地にあった
高柳寺に遺骸を葬りましたが、墓の印がないのを憐れみ、1803年(享和3)関東郡代中川飛騨守忠英が「静女之墳」の墓碑を建立したものとされます。左手の石堂に入っているものが往時のもので、正面にあるものはレプリカです。墓碑の後ろのレリーフには静御前の歌が刻んであります。
『吉野山みねのしら雪ふみわけて 入りにしひとのあとぞ恋しき』
『静やしづしづのおだまき くり返し 昔をいまになすよしもがな』
閑窓瑣談の静御前
「閑窓瑣談」(かんそうさだん)は、1841年(天保12)
為永春水によって記された随筆集です。各地に残る様々な伝承が取り上げられています。
浮世絵師・歌川国直が挿絵を書いています。
静女塚碑
義経を追ってこの地で亡くなった静御前の話が刻まれています。
坐泉歌碑
『舞ふ蝶の 果てや夢みる 塚のかげ』
1806年(文化3)村人が建立したものです。奈良坐泉は伊坂村出身の俳人のようですが、あまり詳しいことはわかりませんでした。
栗橋駅
15:20 栗橋駅裏に駐車した車にもどり、本日は終了です。お花見もできて楽しい街道歩きの一日でした。