2024年3月16日
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12:00 千住宿をあとに草加宿へ向けて進んでいきます。水戸佐倉道との追分を越えて最初の路地を左へ曲がると「安養院」があります。
大黒湯の唐破風屋根
大黒湯の建物は1929年(昭和4)に建てられた宮づくり銭湯で「キングオブ銭湯」の愛称で親しまれていました。惜しくも閉店することとなり、2021年(令和3)に大黒湯の顔であった唐破風屋根が安養院に移されました。下妻街道
脇街道として大原通りとも称され、内匠・花俣・大原に通じています。因みに古い頃の奥州道は千住より大原通りを八条にでて利根川(現中川)沿いに越ケ谷へ出ていたとされます。名倉家
秩父の畠山氏の末裔で、享保年中(1716~36)に千住へ移り、1770年(明和7)に名倉直賢が接骨医を開業したと伝わります。1848年(嘉永元)将軍家御成のために創建した母屋や長屋門が現存しています。日光道中分間延絵図「千住」
往時、絵図のように荒川はありませんでした。江戸名所図会「光茶釜」
梅田村との境には「茶屋前石橋」という橋があり、傍らに茶屋があり「爺が茶屋」と呼ばれていました。1536年(天文5)将軍吉宗が鷹狩の途次、店先にあった茶釜を見て、手を触れ自分の姿が映したされたので「名を残す爺が茶屋や照るかがみ」とよみ、翌年この句を託した色紙を爺に渡しました。これが江戸の評判となり、「江戸名所図会」に載せられました。 千住新橋を渡って荒川を越えます。渡りきったらすぐ左へ曲がり400mほど、「善立寺」の西側道路が旧日光街道です。梅田村
古くは渕江郷と称され、後に志田義広が一時的にこの地に閑居していたことから、五代常陸介広此が土着、氏を梅田と改めこれが村名となったとされます。 志田義広は源為義の三男で、保元の乱後、常陸国信太郎に落ち延び志田三郎と称しましたが、1181年(養和元)源頼朝に背いて常陸で挙兵、下野国登々呂木の一戦で大敗します。木曽義仲を頼り上京し、各地で頼朝軍と戦っていましたが、1184年(元暦元)伊勢国羽取山で討たれました。明王院
古くから「赤不動」の通称で親しまれてきました。1693年(元禄6)の縁起によれば創建は1178年(治承2)源為義三男の志田義広の開基とされ、近隣の榎戸に祈願所を建立したとあります。その後衰退しますが、梅田氏の一族である頼専坊により中興されたと伝わります。1643年(寛永20)将軍家光の放鷹の際、御膳所になりました。江戸名所図会「明王院」
山門を入り、本堂の奥へ入っていくと「八彦堂」があり、さらに奥に「鐘楼・八幡宮」と続きます。絵図にある「弁天」も現在も存在します。鐘楼・八幡宮
八幡宮は義広より三世常陸介久広の勧請と伝わります。梅田神明宮
慶長年間(1596~1615年)に創建されたと伝えられ、始めは地主神を勧請されましたが、大火により芝神明宮が焼失したのち、神明社として建立され、後に梅田神明宮と称されました。 日光街道へ戻り300mほど進み、左へ入り2つ目の十字路を右へ曲がるとすぐ右手に「佐竹稲荷神社」があります。佐竹稲荷神社(佐竹右京太夫抱屋敷跡)
江戸時代、この辺りには秋田藩士、佐竹氏が所有した抱屋敷(私邸)がありました。佐竹稲荷はその屋敷神として祀られ、神田にあった佐竹氏の上屋敷跡地にも佐竹稲荷神社が祀られています。抱屋敷は1718年(享和3)に八代将軍徳川吉宗から取り壊しを命じられました。社殿は1797年(寛政9)に建立されました。 日光街道へ戻り130mほど進むと右手からの梅田通りと合流し、この三叉路に「東武鉄道旧線路跡」の石碑があります。2024年3月30日
9:30 前回までは電車で来ていましたが、本日は草加駅西側のコインパーキングへ車を駐車し、東武伊勢崎線で梅島駅までやってきました。 日光街道沿いに梅島駅があります。駅を出て草加宿方面へ500mほど進み、梅島三丁目という交差点右手に「大正新道記念碑」がありました。将軍家御成橋・御成道松並木跡
往時は街道の西側に千住堀が流れていて、そこに架かっていたのが「御成橋」、その先には松並木があったようです。日光道中分間延絵図には記載がありません。 御成橋跡の交差点を左へ入り、松の無くなった御成道を進むと「国土安穏寺」があります。国土安穏寺
1410年(応永17)千葉太郎の発願で建立されたと伝わり、元は妙覚院と称されました。開山は1413年(応永20)日通でした。1607年(慶長12)二代将軍秀忠から御朱印地五石を賜り、葵紋使用を許可され、同時に安穏寺と改称しました。 安穏寺西門の前の道を南へ進むと丁字路となりここに高札場と郷蔵があったとされます。島根鷲神社
古代、日本武尊が海岸線に降り立ち、先着する神々を尊び浮島明神として祀られました。1318年(文保2)中興。元禄の頃、八幡社、明神社を合祀し、鷲神社に改めました。社殿は1956年(昭和31)の再建です。
正岡子規がこの地を訪ね、『うぐいすの梅島村に 傘かわく』と詠みました。
三峰神社と長寿山灯籠
石鳥居は1802年(享和2)に千住四丁目の石工、保元助七が建設したことが明らかであり、足立区内では古い遺構として貴重なものです。 島根鷲神社をあとに、日光街道へは戻らずに住宅地の中をジグザグに北西へ向かい、六月集落の「炎天寺」へ向かいます。小林一茶句碑
「蝉なくや六月村の炎天寺」
「やせ蛙負けるな一茶是にあり」
江戸時代後期の俳人小林一茶が寺の周辺をよく散策していたと伝わり、当地で詠んだ句と言われます。六月八幡神社
八幡神社の旗掛の松
古来の言い伝えによると、この地周囲を望む小高い丘に源義家軍が源氏の白旗を立て掛けた松の大木があり、「旗掛の松」と伝承されています。村人達により松の木は植え継がれて今日に至っています。 八幡神社をあとに北へ向かうとすぐ左手に「西光院」があり、さらに北上し丁字路を右へ曲がると「常楽寺」があります。常楽寺の東隣が「萬福寺」になります。西光院
開基は1631年(寛永8)没と伝わる河内与兵衛胤盛とされます。河内氏は1590年(天正18)小田原北条氏の没落後、この地竹塚村に土着し、のちに徳川家に仕えその一族は村の名主を務めていました。院内では公立正矯小学校が開校されていました。河内久蔵
河内久蔵は、竹塚村の名主の他に渕江領四十二村組合の大名主も務めていました。寺子屋も営み、貧しい村民相手に無料で教育を施したとされます。常楽寺
江戸時代初期、河内与兵衛胤盛によって開基されたと伝えられます。境内の庚申塔には1840年(天保11)の銘があります。 常楽寺の墓地には「竹塚東子の墓」があります。萬福寺
1367年(貞治6)と1478年(文明10)銘の板碑を所蔵しています。1794年(寛政6)には盛大な護摩供養が催され、当時この寺が興隆していたことが伺われます。現在の本堂は1961年(昭和36)の再建。竹塚神社
天元年間(978~983)伊勢神宮より分霊しここへ祀られたとされます。1056年(天喜4)源頼義の奥州東征の折、ここへ宿陣をおいたと伝わります。宿営の際に頼義が植えたという松の巨木がありましたが、1849年(嘉永2)の落雷によって枯れてしまいましたが、その一部は社殿の建て替え用材に用いられたといわれています。 竹塚神社をあとに日光街道へ戻り、日光街道を90m進んだ渕江小学校南側路地へ入っていきます。この路地は「流山道」と呼ばれて古道です。100mほど先の右手、マンション前に「旧渕江村役場跡石碑」があり、すぐ先左手に「氷川神社」と「宝積院」があります。氷川神社
元は天神と呼ばれていました。この地には古くから千葉氏の陣屋があり、その後、天神が祀られたと新編武蔵風土記稿に記されています。1868年(明治元)には一時、伊興村氷川神社(渕の宮)に合祀されましたが、のちに元の地に戻り、この時氷川神社に改められました。榛名神社・保木間稲荷
氷川神社の境内社です。田中正造「保木間の誓い」
1890年代に発生した足尾鉱山鉱毒事件は近代史上で特筆される公害事件でした。1898年(明治31)被害住民3000人が鉱毒被害を訴えるため上京しました。衆議院議員であった田中正造は、ここ保木間氷川神社で被害者とあい、鉱毒問題の解決に努力すると演説を行い、被害者住民を帰郷へ導きました。村長、坂田正助と村会議員が上京途中に憲兵や騎馬警官による阻止・排除を受けた被害住民に炊き出しを行って出迎え、被害住民と共に正造の演説を聞いたとされます。 田中正造はその生涯をかけて足尾鉱山鉱毒被害を訴える活動を行い、明治天皇に直訴を行おうとした人物です(未遂)。財産は全て鉱毒反対運動などに使い果たし、死去したときは無一文だったとされます。足尾銅山は1973年(昭和48)に閉山となり、現在も禿山の緑化が続けられています。田中正造が明治天皇に渡そうとした直訴状は2014年(平成26)佐野市を訪れた平成天皇へ伝えられました。直訴未遂から実に113年後のことだそうです。宝積院
境内の天神社は、もと妙味社が祀られていた所で、千葉氏の陣屋跡だといいます。宝積院は、この天神社の別当寺、総持寺末、北当山新宮寺と称しますが、山号は北斗山であろうといわれます。 入口には「新回国八十八箇所第八十四番」の石標があります。 流山道を戻り、日光街道を160m進むと左手に「十三仏堂」があります。法華寺
1835年(天保6)住禅院日城によって開山され、元々は回向院とともに小塚原刑場の刑死者の菩提を弔う寺であり、「法華庵」という名称でした。1923年(大正12)、北区赤羽に移転しましたが、陸軍工廠用地となったため、1926年(大正15)現在地に移転しました。 国道4号線の高架下をくぐると左手に小さな「保木間水神宮」があります。保木間水神宮
北面の武士だった小宮某が当地に隠棲、釣りをしている際に出て来た蛇を殺したものの毒により亡くなったことから、村民がこの蛇を祀ったとされます。大蛇を水神として祀るとは珍しいですね。創立年代は不詳です。水神橋・毛長川
毛長川の中央が東京都と埼玉県の県境になっています。水神橋を渡り埼玉県へ入ります。 550mほど進むと右手に「瀬崎浅間神社」が鎮座しています。この奥に「小御嶽神社」があります。瀬崎浅間神社(富士浅間神社)
創建は明らかではないですが、別当の善福寺の寺伝によると、1627年(寛永4)の開基にして、他の場所に祀られていたものを明暦年間(1655~1657)に現在地へ移したと伝えられます。現在の本殿は1842年(天保13)の再建です。フェンスで見えづらいですが、見事な彫刻が施されています。 神社で小休止していると、何やら長い棒を持った初老の男性がやってきて賽銭箱をごそごそしています。泥棒?!じーーーっと見つめているとこちらに気づいたのか、慌てて帰っていきました。眼力で撃退!!その後、賽銭箱を覗くと、どうやら賽銭箱に入れたお賽銭が中まで落ちずに、上部の板に乗っているだけのものがたくさんありました。これを取ろうとしていたようです。木の棒を探してこのお賽銭をしっかり中まで落としておきました。お賽銭はちゃんと下まで入るよう、気をつけましょう!武奥増補行程記の「瀬崎村」
小御嶽神社の北側からすぐ隣の「善福寺」を通って日光街道へ戻ります。善福寺
創建、開山年代は不詳ですが、1750年(寛延3)没の祐舜を中興開山とします。沢尊大和尚の墓には1694年(元禄7)の年紀があるので、それ以前には存在したことがわかります。瀬崎の布晒業
善福寺から日光街道を北上すると右手に大きなお屋敷がありますが、恐らくここが「晝(昼)間家のお屋敷」だと思われます。晝間家は屋号を「新左衛門」といい、草加に徳川家の将軍が鷹狩りに来られた時には、昼食に寄られ、その時の昼食の御品書きの記録が残っているそうです。明治中頃にはゆかたの晒屋を営み、瀬崎には多くの晒し工場が建ち並び、漂白された真っ白いゆかたの生地が天日に広げられていた景色が名物となっていました。火あぶり地蔵尊のお話
千住の掃部宿に母親と一人の娘が住んでいました。娘の父は、かなりの借金を残してこの世を去り、残された母娘二人は、借金を返済するために一生懸命働きましたが、母娘二人の収入では生活していくのが精一杯で、とても借金を返す余裕などありません。 娘は瀬崎村のお大尽の家に奉公に出ることになりました。娘の家の借金もだんだんと少なくなり、幸せな毎日を送っていました。お大尽の家に奉公に出て何年か過ぎたある時、娘の母親が重い病気で倒れた事を知りました。娘は、主人に看病のために、ひまをいただきたいと何度も哀願しましたが、主人は聞きいれてはくれません。その間にも母の病状は悪化し、悩みぬいたあげく、「この家が燃えてしまえば、母の元へ帰ることができる」と考え、お大尽の家に放火をしてしまいました。しかし、火つけの罪は「火あぶりの刑」と定められていましたので、娘はこの地で処刑されてしまいました。村人たちは、この哀れな罪人の霊を慰めるために、講の人々が中心となって、処刑された場所にお堂を建立し、地蔵を安置して供養しました。 草加昔話HPより「草加」の由来
往時、瀬崎から北草加あたりまでは沼沢地でしたが、篠葉村の郷士、大川図書が1606年(慶長11)頃より家康の鷹狩の通路として柳の木や葉などを束ね、縦横に埋め込んで新道を造成しました。この新道を通った家康は草も役に立つものだとして、この地を「草加」と称するよう命じたといいます。 1617年(天和3)二代将軍秀忠が日光参詣の折には、大雨で足軽の内13名が千住と草加の間で風雨により亡くなったとされますが、湿地に落ちたものと思われます。草加宿
正式に宿場となったのは1630年(寛永7)と伝わります。1843年(天保14)の記録によりますと、家数723戸、人口3619人、本陣・脇本陣各1軒、旅籠67軒の大きな宿場でした。