2024年3月16日

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12:00 千住宿をあとに草加宿へ向けて進んでいきます。水戸佐倉道との追分を越えて最初の路地を左へ曲がると「安養院」があります。

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安養院

昔は元宿(千住元町)にあり、鎌倉時代北条時頼が創建したと伝えられ、西林山長福寺と称しました。1598年(慶長3)兵火で焼失し、その後現在地へ移転・再建され、西林山長福寺安養院と改めました。北条氏の祈願所であったため北条氏政からの書状を所持していましたが、兵火により失ったとされます。山門は、1828年(文政11)の建造です。
本尊は青銅の阿弥陀像ですが、これは4丁目の耕地から掘り出されたもので、この耕地を金物耕地と称するようになったそうです。

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大黒湯の唐破風屋根

大黒湯の建物は1929年(昭和4)に建てられた宮づくり銭湯で「キングオブ銭湯」の愛称で親しまれていました。惜しくも閉店することとなり、2021年(令和3)に大黒湯の顔であった唐破風屋根が安養院に移されました。

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芭蕉句碑

『ゆく春や鳥なき魚の目は泪』

俳人の岡本機柳還暦記念として、岡本機柳の書により1954年(昭和29)に建立されました。機柳は、千住河原町の俳人、為成菖蒲園が師事したことでも知られています。

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安養院のくろまつ

樹齢500年という立派な松です。
日光街道へ戻り70mほど進んだ先に三叉路があり、左へ進むのが日光街道、直進は「下妻街道」です。この三叉路の右手が江戸時代から有名な「名倉医院」です。

下妻街道

脇街道として大原通りとも称され、内匠・花俣・大原に通じています。因みに古い頃の奥州道は千住より大原通りを八条にでて利根川(現中川)沿いに越ケ谷へ出ていたとされます。

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名倉医院

「骨接ぎといえば名倉、名倉といえば骨接ぎ」が代名詞になるほど有名でした。宿泊して治療ができるよう、周囲には金町屋・万屋・成田屋・太原屋・柳屋などの宿屋があり、柳屋以外の宿屋の主人は代々名倉の医師も兼ねていました。

名倉家

秩父の畠山氏の末裔で、享保年中(1716~36)に千住へ移り、1770年(明和7)に名倉直賢が接骨医を開業したと伝わります。1848年(嘉永元)将軍家御成のために創建した母屋や長屋門が現存しています。

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日光道中分間延絵図「千住」

往時、絵図のように荒川はありませんでした。

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荒川と千住新橋

1916年(大正5)に起工し、1930年(昭和5)に荒川放水路(荒川)完成しました。そのため爺が茶屋であった石原家は新堤の下に移されています。
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江戸名所図会「光茶釜」

梅田村との境には「茶屋前石橋」という橋があり、傍らに茶屋があり「爺が茶屋」と呼ばれていました。1536年(天文5)将軍吉宗が鷹狩の途次、店先にあった茶釜を見て、手を触れ自分の姿が映したされたので「名を残す爺が茶屋や照るかがみ」とよみ、翌年この句を託した色紙を爺に渡しました。これが江戸の評判となり、「江戸名所図会」に載せられました。

千住新橋を渡って荒川を越えます。渡りきったらすぐ左へ曲がり400mほど、「善立寺」の西側道路が旧日光街道です。

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善立寺

1591年(天正19)、徳川家康の江戸入府にともない創建されました。とくに松平家との縁が深く、現在も「徳川葵」が寺紋となっています。
善立寺までは旧道が無くなってしまいましたが、善立寺から先はは雰囲気は往時と変わりましたが旧道が残っています。善立寺から北へ200mほど進むと左手に「石不動尊」があり、明王院内にある八彦堂への道標があります。

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石不動尊・八彦尊道の道標

耳を病むものが竹筒に酒を入れて拝み、その酒を耳につけると治るというので信仰され、お礼には竹筒に酒を入れて納めるとされ、堂にはその筒が沢山下げられていたそうですが、現在は見当たりません。 道標には「子育八彦尊道是より二町行」と刻まれています。
石不動尊の路地を左へ入り、「明王院」へ向かいます。約500mほどで明王院へ到着します。

梅田村

古くは渕江郷と称され、後に志田義広が一時的にこの地に閑居していたことから、五代常陸介広此が土着、氏を梅田と改めこれが村名となったとされます。 志田義広は源為義の三男で、保元の乱後、常陸国信太郎に落ち延び志田三郎と称しましたが、1181年(養和元)源頼朝に背いて常陸で挙兵、下野国登々呂木の一戦で大敗します。木曽義仲を頼り上京し、各地で頼朝軍と戦っていましたが、1184年(元暦元)伊勢国羽取山で討たれました。

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明王院

古くから「赤不動」の通称で親しまれてきました。1693年(元禄6)の縁起によれば創建は1178年(治承2)源為義三男の志田義広の開基とされ、近隣の榎戸に祈願所を建立したとあります。その後衰退しますが、梅田氏の一族である頼専坊により中興されたと伝わります。1643年(寛永20)将軍家光の放鷹の際、御膳所になりました。

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江戸名所図会「明王院」

山門を入り、本堂の奥へ入っていくと「八彦堂」があり、さらに奥に「鐘楼・八幡宮」と続きます。絵図にある「弁天」も現在も存在します。

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八彦堂

に霊験があると言われています。
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鐘楼・八幡宮

八幡宮は義広より三世常陸介久広の勧請と伝わります。

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小泉寧夫先生之碑

1855年(安政2)に和算家、小泉寧夫(伝蔵)の門人、遊馬繁右衛門が幾何学の問題を掲げた算額が伝わっています。石碑には和算の奥義が記されています。
明王院をあとに、日光街道へは戻らずに北へ向かい、「梅田神明宮」へ寄り道してから日光街道へ戻ります。

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梅田神明宮

慶長年間(1596~1615年)に創建されたと伝えられ、始めは地主神を勧請されましたが、大火により芝神明宮が焼失したのち、神明社として建立され、後に梅田神明宮と称されました。

日光街道へ戻り300mほど進み、左へ入り2つ目の十字路を右へ曲がるとすぐ右手に「佐竹稲荷神社」があります。

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佐竹稲荷神社(佐竹右京太夫抱屋敷跡)

江戸時代、この辺りには秋田藩士、佐竹氏が所有した抱屋敷(私邸)がありました。佐竹稲荷はその屋敷神として祀られ、神田にあった佐竹氏の上屋敷跡地にも佐竹稲荷神社が祀られています。抱屋敷は1718年(享和3)に八代将軍徳川吉宗から取り壊しを命じられました。社殿は1797年(寛政9)に建立されました。

日光街道へ戻り130mほど進むと右手からの梅田通りと合流し、この三叉路に「東武鉄道旧線路跡」の石碑があります。

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左東武鉄道旧線路跡

1899年(明治32)の開通当時、北千住駅から西新井駅は、現在の梅田通りと亀田トレイン通りを通っていました。1923年(大正12)荒川放水路の新設にあたり、現在のルートに変更されています。
14:30 梅島駅に到着しました。次の駅まで結構あるし・・・ということで、本日は早いですが、このあたりで終了にしました。

2024年3月30日

9:30 前回までは電車で来ていましたが、本日は草加駅西側のコインパーキングへ車を駐車し、東武伊勢崎線で梅島駅までやってきました。

日光街道沿いに梅島駅があります。駅を出て草加宿方面へ500mほど進み、梅島三丁目という交差点右手に「大正新道記念碑」がありました。

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大正新道記念碑

詳しいことはわかりませんが、1921年(大正10)に東西に走るこの道が開かれたと思われます。
さらに550mほど進むと左手に2つの安穏寺の題目碑があり、「将軍家御成橋・御成道松並木跡」と書かれた案内柱があります。

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将軍家御成橋・御成道松並木跡

往時は街道の西側に千住堀が流れていて、そこに架かっていたのが「御成橋」、その先には松並木があったようです。日光道中分間延絵図には記載がありません。

御成橋跡の交差点を左へ入り、松の無くなった御成道を進むと「国土安穏寺」があります。

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国土安穏寺

1410年(応永17)千葉太郎の発願で建立されたと伝わり、元は妙覚院と称されました。開山は1413年(応永20)日通でした。1607年(慶長12)二代将軍秀忠から御朱印地五石を賜り、葵紋使用を許可され、同時に安穏寺と改称しました。

安穏寺西門の前の道を南へ進むと丁字路となりここに高札場と郷蔵があったとされます。

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嶋根村の高札場・郷蔵跡

電柱の影に以前は標柱がありましたが、今は無くなっています。
郷蔵があったとされる丁字路を右へ曲がり、広い中央分離帯のある道路を渡り、そのまま路地を直進し、1つ目の路地を左へ曲がると「来迎寺」があります。

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来迎寺

1195年(建久6)創建。天和年間(1681~84)に尊宥和尚により再建されたと伝わります。1459年(長禄3)の板碑が保存されていますが、非公開です。

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来迎寺の庚申塔

庚申塔4基は、本堂側から1666年(寛文6)、1682年(天和2)、1691年(元禄4)、1713年(正徳3)の年紀があります。
来迎寺から広い中央分離帯のある道路(竹の塚センター通り)へ戻り、左へ曲がるとすぐ右手に樹形の整った大きな松があり、その後ろに「陣屋跡桐田家」があります。

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陣屋跡桐田家

桐田家は嶋根村の旧家で、1849年(嘉永2)12代将軍徳川家慶が行った小金牧の鹿狩りで使用した「勢子旗」が残されています。1727年(享保10)に八代将軍徳川吉宗が小金牧(松戸市小金原)で行った大規模な鹿狩りは有名で、その後も江戸時代に4回行われています。
そのまま北上、安養寺の西側を通過し交差点まで進むと大きなスーパーがあります。ここに大きな長屋門のある赤羽家があったのですが、現在はスーパーになっています。

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赤羽家長屋門

この長屋門は島根村の人々に「金武様」の通称で知られていた牛込家のものでした。その後赤羽家が1939年(昭和14)に屋敷とともに買い受けられましたが、2017年(平成29)頃に取り壊され、スーパーになってしまいましたが、店内に門の扉だけが残され、展示されています。
日光街道へは戻らず、スーパー東側の路地へ入っていき、住宅街を北上していくと「島根鷲神社」があります。

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島根鷲神社

古代、日本武尊が海岸線に降り立ち、先着する神々を尊び浮島明神として祀られました。1318年(文保2)中興。元禄の頃、八幡社、明神社を合祀し、鷲神社に改めました。社殿は1956年(昭和31)の再建です。

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将軍石・島根学問所跡

江戸幕府八代将軍、徳川吉宗がこの地に御成になり、この石に座ったと伝えられています。
享保年間、村医であった吉田順安が寺子屋を初め、「島根学問所」と呼ばれるようになりました。1716(享保6) 八代将軍、徳川吉宗が鷹狩りの途中に学問所に立ち寄った際、感銘を受けて白銀10枚を与えられたと伝えられています。

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富士塚

往時、島根の若者たちは「十三夜行」として島根富士講から出発し、村ではその帰着に合わせて牛車に万燈を仕立て、島根ばやしのお囃子入りで村中の人が出迎えたということです。
正岡子規がこの地を訪ね、『うぐいすの梅島村に 傘かわく』と詠みました。

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島根ばやしの碑・島根歌舞伎記念碑

「島根ばやし」がいつ、どのように発生したかは明らかではありませんが、神田はやしの流れを汲み、200年以上も前から島根町に伝承してきたものです。1852年(嘉永5)島根町生まれの田中峯吉が中興し、島根ばやしの基礎を作ったとされます。島根ばやしは祭礼時に神楽殿で奉納されてきました。
「島根歌舞伎」については、明治・大正・昭和と引き継がれてきましたが、現在は立ち消えてしまっているそうです。

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三峰神社と長寿山灯籠

石鳥居は1802年(享和2)に千住四丁目の石工、保元助七が建設したことが明らかであり、足立区内では古い遺構として貴重なものです。

島根鷲神社をあとに、日光街道へは戻らずに住宅地の中をジグザグに北西へ向かい、六月集落の「炎天寺」へ向かいます。

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炎天寺

1056年(天喜4)源頼義、義家父子が奥州の安倍一族討伐の折、当寺付近で苦戦したところ、京都の石清水八幡宮の方を向いて祈願すると勝利を収めたので八幡社を建立し、その傍に炎天寺を建立したとされます。
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小林一茶句碑

「蝉なくや六月村の炎天寺」

「やせ蛙負けるな一茶是にあり」

江戸時代後期の俳人小林一茶が寺の周辺をよく散策していたと伝わり、当地で詠んだ句と言われます。

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小林一茶像

毎年11月23日「一茶まつり」が行われ、一茶忌法要、奉納蛙相撲などが行われています。
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六月八幡神社

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応神祠碑

亀田鵬斎と綾瀬父子撰文による八幡神社(炎天寺)の沿革が述べられています。 裏面の文は長子綾瀬が再度六月村民の以来を受け、父鵬斎の未完部分を埋めた旨が述べられています。1837年(天保8)、前文から36年目のことです。
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八幡神社の旗掛の松

古来の言い伝えによると、この地周囲を望む小高い丘に源義家軍が源氏の白旗を立て掛けた松の大木があり、「旗掛の松」と伝承されています。村人達により松の木は植え継がれて今日に至っています。

八幡神社をあとに北へ向かうとすぐ左手に「西光院」があり、さらに北上し丁字路を右へ曲がると「常楽寺」があります。常楽寺の東隣が「萬福寺」になります。

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西光院

開基は1631年(寛永8)没と伝わる河内与兵衛胤盛とされます。河内氏は1590年(天正18)小田原北条氏の没落後、この地竹塚村に土着し、のちに徳川家に仕えその一族は村の名主を務めていました。院内では公立正矯小学校が開校されていました。

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大日如来鋳造仏

1699年(元禄12)の鋳造。足立区内最大の鋳造仏で台座には河内家など多くの寄進者の名が刻まれています。

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河内久蔵碑

河内久蔵武胤(1868年・慶応4没)の門人が、1884年(明治17)に建立したもので、篆書の大家、中根半嶺の書です。

河内久蔵

河内久蔵は、竹塚村の名主の他に渕江領四十二村組合の大名主も務めていました。寺子屋も営み、貧しい村民相手に無料で教育を施したとされます。

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庚申塔

足立区の文化財として指定されており、右側の庚申塔が1726年(享保11)建立、左手が1698年(元禄11)の建立です。
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常楽寺

江戸時代初期、河内与兵衛胤盛によって開基されたと伝えられます。境内の庚申塔には1840年(天保11)の銘があります。

常楽寺の墓地には「竹塚東子の墓」があります。

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竹塚東子墓

東子はこの地に生まれ、居住していた文人です。本名は谷古宇四郎左衛門、戯作者であり、俳人でもあり1790年(寛政2)「田舎談義」出版してから1814年(文化11)「御無事忠臣蔵」まで30種の戯作を刊行しています。
墓は正面に「矞雲醍醐居士」その両面に『冬川や瀬ぶみもいらず南無阿弥陀仏』の辞世が書き分けて刻まれています。1815年(文化12)没。

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萬福寺

1367年(貞治6)と1478年(文明10)銘の板碑を所蔵しています。1794年(寛政6)には盛大な護摩供養が催され、当時この寺が興隆していたことが伺われます。現在の本堂は1961年(昭和36)の再建。

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竹嶋小学校の碑

1876年(明治9)公立竹嶋小学校(のちに正矯小学校と改名)が設けられたとされます。 う~ん・・西光院にも「正矯小学校」が開校とあるのですが、どういうことでしょうか?
萬福寺北側の道を通って日光街道へ向かいます。丁字路を左へ曲がると増田橋交差点で日光街道へ戻ってきました。交差点の東側に「増田橋跡 道標」があります。

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増田橋跡 道標

傍らに数件の茶屋があり、竹ノ塚立場と称され旅人の休憩地となっていました。豊臣の残党と言われる増田氏の先祖が板橋だった増田橋を石橋に架けかえました。鷹狩途次の家光がこの石橋に目を留め、架橋者の名を尋ねた上、増田橋と呼ぶように達したと伝えられます。
なお、ここは関東郡代伊奈氏の赤山陣屋に通じる赤山街道の分岐点となっていました。

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やせ蛙のマンホール蓋

交差点付近のマンホールには小林一茶の「やせ蛙」のデザインになっています。
増田橋交差点から600mほど日光街道を北上し、右手に銀行がある角を左へ曲がり、竹ノ塚駅方面へ300mほどで「竹塚神社」があります。

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竹塚神社

天元年間(978~983)伊勢神宮より分霊しここへ祀られたとされます。1056年(天喜4)源頼義の奥州東征の折、ここへ宿陣をおいたと伝わります。宿営の際に頼義が植えたという松の巨木がありましたが、1849年(嘉永2)の落雷によって枯れてしまいましたが、その一部は社殿の建て替え用材に用いられたといわれています。

竹塚神社をあとに日光街道へ戻り、日光街道を90m進んだ渕江小学校南側路地へ入っていきます。この路地は「流山道」と呼ばれて古道です。100mほど先の右手、マンション前に「旧渕江村役場跡石碑」があり、すぐ先左手に「氷川神社」「宝積院」があります。

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旧渕江村役場跡石碑

「渕江」という地名は1397年(応永4)頃より文献に現れます。「渕江郷」として現在の足立区の南半分ほどの地域を表していました。明治維新後は一時「渕江」という名は消えますが、1889年(明治22)市制町村制が実施されたことにより、渕江村が発足しました。このときにここに村役場が設置されたと思われます。

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流山道

保木間で日光道中から別れ、南花畑、内匠橋、六木を経て流山へ向かう道です。千葉氏の陣屋があったことから道の成立は戦国時代以前に遡ると考えられます。東進すると花畑大鷲神社、成田山と結び、西へ進むと西新井大師に通じる信仰の道でもあります。
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氷川神社

元は天神と呼ばれていました。この地には古くから千葉氏の陣屋があり、その後、天神が祀られたと新編武蔵風土記稿に記されています。1868年(明治元)には一時、伊興村氷川神社(渕の宮)に合祀されましたが、のちに元の地に戻り、この時氷川神社に改められました。

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榛名神社・保木間稲荷

氷川神社の境内社です。

田中正造「保木間の誓い」

1890年代に発生した足尾鉱山鉱毒事件は近代史上で特筆される公害事件でした。1898年(明治31)被害住民3000人が鉱毒被害を訴えるため上京しました。衆議院議員であった田中正造は、ここ保木間氷川神社で被害者とあい、鉱毒問題の解決に努力すると演説を行い、被害者住民を帰郷へ導きました。村長、坂田正助と村会議員が上京途中に憲兵や騎馬警官による阻止・排除を受けた被害住民に炊き出しを行って出迎え、被害住民と共に正造の演説を聞いたとされます。

田中正造はその生涯をかけて足尾鉱山鉱毒被害を訴える活動を行い、明治天皇に直訴を行おうとした人物です(未遂)。財産は全て鉱毒反対運動などに使い果たし、死去したときは無一文だったとされます。足尾銅山は1973年(昭和48)に閉山となり、現在も禿山の緑化が続けられています。田中正造が明治天皇に渡そうとした直訴状は2014年(平成26)佐野市を訪れた平成天皇へ伝えられました。直訴未遂から実に113年後のことだそうです。

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宝積院

境内の天神社は、もと妙味社が祀られていた所で、千葉氏の陣屋跡だといいます。宝積院は、この天神社の別当寺、総持寺末、北当山新宮寺と称しますが、山号は北斗山であろうといわれます。 入口には「新回国八十八箇所第八十四番」の石標があります。

流山道を戻り、日光街道を160m進むと左手に「十三仏堂」があります。

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十三仏堂(虚空蔵)

建立年代は不詳ですが、旧保木村の三之輪厨子によって守られてきたものです。「新編武蔵風土記稿」には「行基の作った虚空蔵の木像を安置した」と記されています。
日光街道を900mほど進みます。もう東京都のハズレ、もうすぐ埼玉県へ入ります。左手に東京都の公団がありその右手に「法華寺」があります。

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法華寺

1835年(天保6)住禅院日城によって開山され、元々は回向院とともに小塚原刑場の刑死者の菩提を弔う寺であり、「法華庵」という名称でした。1923年(大正12)、北区赤羽に移転しましたが、陸軍工廠用地となったため、1926年(大正15)現在地に移転しました。

国道4号線の高架下をくぐると左手に小さな「保木間水神宮」があります。

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保木間水神宮

北面の武士だった小宮某が当地に隠棲、釣りをしている際に出て来た蛇を殺したものの毒により亡くなったことから、村民がこの蛇を祀ったとされます。大蛇を水神として祀るとは珍しいですね。創立年代は不詳です。

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水神橋・毛長川

毛長川の中央が東京都と埼玉県の県境になっています。水神橋を渡り埼玉県へ入ります。

550mほど進むと右手に「瀬崎浅間神社」が鎮座しています。この奥に「小御嶽神社」があります。

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瀬崎浅間神社(富士浅間神社)

創建は明らかではないですが、別当の善福寺の寺伝によると、1627年(寛永4)の開基にして、他の場所に祀られていたものを明暦年間(1655~1657)に現在地へ移したと伝えられます。現在の本殿は1842年(天保13)の再建です。フェンスで見えづらいですが、見事な彫刻が施されています。

神社で小休止していると、何やら長い棒を持った初老の男性がやってきて賽銭箱をごそごそしています。泥棒?!じーーーっと見つめているとこちらに気づいたのか、慌てて帰っていきました。眼力で撃退!!その後、賽銭箱を覗くと、どうやら賽銭箱に入れたお賽銭が中まで落ちずに、上部の板に乗っているだけのものがたくさんありました。これを取ろうとしていたようです。木の棒を探してこのお賽銭をしっかり中まで落としておきました。お賽銭はちゃんと下まで入るよう、気をつけましょう!

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測量きごう

手洗石に測量きごうがあるそうですが、風化が激しくどこにあるのか全くわかりませんでした。

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小御嶽神社(瀬崎の富士塚)

富士山を信仰する人々で組織された富士講は富士登山を行っていましたが、当時の富士山は女人禁制で、しかも往復に相当の日数を要したため容易に登れる山ではありませんでした。そこで誰もが身軽に登山できるように築かれた富士塚です。この富士塚は1916年(大正5)に竣工しました。
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武奥増補行程記の「瀬崎村」

小御嶽神社の北側からすぐ隣の「善福寺」を通って日光街道へ戻ります。

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善福寺

創建、開山年代は不詳ですが、1750年(寛延3)没の祐舜を中興開山とします。沢尊大和尚の墓には1694年(元禄7)の年紀があるので、それ以前には存在したことがわかります。

瀬崎の布晒業

善福寺から日光街道を北上すると右手に大きなお屋敷がありますが、恐らくここが「晝(昼)間家のお屋敷」だと思われます。晝間家は屋号を「新左衛門」といい、草加に徳川家の将軍が鷹狩りに来られた時には、昼食に寄られ、その時の昼食の御品書きの記録が残っているそうです。明治中頃にはゆかたの晒屋を営み、瀬崎には多くの晒し工場が建ち並び、漂白された真っ白いゆかたの生地が天日に広げられていた景色が名物となっていました。

吉野五丁目交差点右手に「火あぶり地蔵尊」があります。そのすぐ先右手に「草加せんべいの池田屋」があり、おせんべいを購入するために寄りました。

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火あぶり地蔵尊

かつてこの場所には「火あぶり橋」という橋があり、昔の処刑場跡と伝えられています。

火あぶり地蔵尊のお話

千住の掃部宿に母親と一人の娘が住んでいました。娘の父は、かなりの借金を残してこの世を去り、残された母娘二人は、借金を返済するために一生懸命働きましたが、母娘二人の収入では生活していくのが精一杯で、とても借金を返す余裕などありません。 娘は瀬崎村のお大尽の家に奉公に出ることになりました。娘の家の借金もだんだんと少なくなり、幸せな毎日を送っていました。お大尽の家に奉公に出て何年か過ぎたある時、娘の母親が重い病気で倒れた事を知りました。娘は、主人に看病のために、ひまをいただきたいと何度も哀願しましたが、主人は聞きいれてはくれません。その間にも母の病状は悪化し、悩みぬいたあげく、「この家が燃えてしまえば、母の元へ帰ることができる」と考え、お大尽の家に放火をしてしまいました。しかし、火つけの罪は「火あぶりの刑」と定められていましたので、娘はこの地で処刑されてしまいました。村人たちは、この哀れな罪人の霊を慰めるために、講の人々が中心となって、処刑された場所にお堂を建立し、地蔵を安置して供養しました。

                             草加昔話HPより

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草加せんべいの池田屋

現在地の日光街道を挟んで反対側に「おうめだんご」という屋号で、茶店を営んでいました。初代相澤岩吉の日記によると1865年(慶応元) に「せんべいを主とした商いに移行する」と記されています。こしひかりやあきたこまちなどお米の種類で色々あるんですね。どちらも購入してみました。1枚50円前後とリーズナブルでしっかりしたお米の甘みと香ばしい醤油の味が癖になる美味しいおせんべいでした。

「草加」の由来

往時、瀬崎から北草加あたりまでは沼沢地でしたが、篠葉村の郷士、大川図書が1606年(慶長11)頃より家康の鷹狩の通路として柳の木や葉などを束ね、縦横に埋め込んで新道を造成しました。この新道を通った家康は草も役に立つものだとして、この地を「草加」と称するよう命じたといいます。 1617年(天和3)二代将軍秀忠が日光参詣の折には、大雨で足軽の内13名が千住と草加の間で風雨により亡くなったとされますが、湿地に落ちたものと思われます。

池田屋から200mほどの石関医院のあたりに「草加一里塚」があったようですが、現在看板すらありません。さらに300mほどのY字路から左手の旧道へ入っていきます。大きな「今標草加宿」の石柱が目印です。旧道へ入り、130mほど右手の路地が「魚屋(千代)河岸」へ向かう古道です。河岸は現在の手代橋付近とされています。

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魚屋(千代)河岸へ

慶長年間から大正にかけて、手代町の魚屋(ゆうや)河岸は、江戸と草加を結ぶ経済の接点として重要な役割を果たしました。綾瀬川を往来する回船により草加では米をはじめとして、大麦、大豆、なす、うりなどの農作物を江戸へ送り、江戸からは肥料や生活に役立つ日用雑貨品がもたらせられました。
草加市役所の立派で近代的な建物の南隅にちょこんと残っているのが「浅古家の地蔵堂」です。また市役所は浅古家の敷地を購入して建築されたものです。市役所の先には重厚な「浅古家の土蔵造屋敷」が残されています。

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浅古家の地蔵堂

言い伝えでは、浅古家わきを流れていた堀が増水したときに上流から流されてきた地蔵を、浅古家先祖が救い祭ったところ、子宝に恵まれたといい、「子育て地蔵」とも言われています。

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浅古家の土蔵造屋敷

街道筋に多いうなぎの寝床状の土地のため、街道に面している幅は少ないですが、奥に長いかなり広大なお屋敷です。
すぐ先右手が「回向院」、草加市役所(北)交差点に「草加神社の標柱」があります。草加神社までは600mほどあります。

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回向院

『浄土宗寺院由緒書』『岩付浄国寺志』によれば、1630年(寛永7)円秋の開山とあり、『新編武蔵風土記稿』『武蔵国郡村誌』によれば、江戸時代前期に村人の源右衛門の開基で1701年(元禄14)寂の専誉順広の開山とあります。また寺伝では、1653年(承応2)の創建とあり、創建についてはこの三説があります。

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草加神社の標柱

天正年間頃(1573~1585年)に創建されたとされ、草加の総鎮守です。
さらに170mほど進んだ右手銀行前に「葛西道道標」があります。

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葛西道道標

ここが葛西道との追分となっていたようで、道標があります。日光道中分間延絵図に記載がありませんので詳しくはわかりませんが、東京都の葛西へ通じていた道のようです。
狭い路地を右へ曲がり葛西道を通り「三峰神社」へ向かいます。

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三峰神社

日光道中分間延絵図に記載がなく、創建年代も由緒も不詳です。

草加宿

正式に宿場となったのは1630年(寛永7)と伝わります。1843年(天保14)の記録によりますと、家数723戸、人口3619人、本陣・脇本陣各1軒、旅籠67軒の大きな宿場でした。

日光街道へ戻るとすぐ先左手が「草加駅」です。

14:10 駐車場まで戻ってきましたので、本日はここまでにします。