2023年12月9日
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14:30 厩橋交差点から250m、左手に
「浅草駒形諏訪神社」があり、そのすぐ先に
バンダイ本社、隣に
「駒形どぜう」があります。店舗前に
「久保田万太郎句碑」があります。
浅草駒形諏訪神社
1221年(承久3)の承久の乱の後、信濃国諏訪郡小日村の神主が、諏訪大社(上社)の分霊を勧請したと伝えられています。
江戸名所図会「浅草駒形諏訪神社」
武奥増補行程記の諏訪神社
バンダイ本社
バンダイの創業は1950年(昭和25)浅草菊屋橋に萬代屋として創業。1961年(昭和36)バンダイへ名称変更しました。昭和時代には誰もが知る数々のおもちゃを発売しています。
たまごっち買いましたね〜
駒形どぜう
1801年(享和元)創業。初代越後屋助七は武蔵国の出身で、18歳の時に江戸に出て奉公した後、浅草駒形にめし屋を開き、
どぜうなべ、どぜう汁を提供し、翌年から浅草寺のご開帳が行われたこともあって、店は大勢の客で繁盛したそうです。
私はドジョウが苦手ですが、現在もお店は人気店のようで、待っている人も多いですね。浅草寺に近づいてくると人が多くなってきました。
久保田万太郎句碑
『神輿まつまの どぜう汁すゝりけり』
久保田万太郎は、1889年(明治22)浅草生まれの小説家、劇作家、俳人でした。俳号は暮雨、のち傘雨と号します。文芸についての才能はかなりのものだったようですが、女性に対してはかなり自由人だったようで、ちょっとアレな人ですね。石碑は1966年(昭和41)建立。
駒形橋西詰交差点に
「駒形堂」があり、境内に
「浅草観音戒殺碑」があります。
浅草寺 駒形堂
浅草寺本尊の聖観音菩薩が隅田川から発見され、最初に祀られたと言われる聖地です。現在、お堂の本尊は馬頭観音です。
浅草観音戒殺碑
聖地であったため、1692年(元禄5)当地を魚鳥殺生禁断の地とする法度が出され、これを記念して翌年に戒殺碑が建立されました。しかし碑は火災で倒壊し、1759年(宝暦9)に堂宇と共に再建されました。関東大震災の後、1927年(昭和2)に土中より発見され、1933年(昭和8)に駒形堂の再建と共に補修されました。
江戸名所図会「駒形堂」
昔、このあたりは船着き場で、渡しや船宿もあり大変な賑わいでした。舟で浅草寺参詣に訪れた人々はこの地に上陸して、駒形堂をお参りして観音堂へ向かっていました。
武奥増補行程記の「駒形堂」
「浅草観音戒殺碑」が半分ほど描かれています。
駒形橋と隅田川
駒形橋は1927年(昭和2)に架橋されました。江戸時代は
「駒形の渡し」で対岸へ渡っていました。
駒形橋西詰交差点は二股になっていますが、左手が日光街道です。左手へ入り、最初の路地を右へ曲がっていくと左手に
「専堂坊屋敷跡之碑」があります。
専堂坊屋敷跡之碑
専堂坊とは、観音像発見に関わった3人のうちの1人で、後に出家して寺を建立した人物です。その寺が浅草寺の起源です。
専堂坊は、浅草神社(三社権現)の一之宮(土師中知)に由来する名称で、代々受け継がれてきました。土師家は、三社権現社の社僧を務めていましたが、1868年(明治元)に政府より発令された神仏分離令により、僧を辞して神職となることを余儀なくされました。
日光街道へ戻り、
雷門へ向かっていきます。雷門前の浅草文化観光センターあたりに
浅草一里塚があったとされますが、塚はもちろんなく、案内板もありませんので、はっきりとはわかりません。日光道中分間延絵図は泪橋あたりからしか描かれていないため、残念ですが参考になりません。
雷門
相変わらずすごい人、人、人・・・仲見世はとても通り抜けることが難しそうなので、一本右手の路地を進み、伝法院通りから参道へ戻りました。
浅草寺の
本坊「伝法院」を通り過ぎます。伝法院は春のみ公開しているようです。その先右手の緑地に小さなお堂があり、これが
「久米平内堂」です。
久米平内堂
久米平内は剣術に秀でており、多くの人を殺めてきました。その供養のために、浅草寺内の金剛院に住んで禅に打ちこんだといいます。臨終に自らの姿を石に刻ませ、多くの人々に踏んでもらうことにより、犯した罪を償うために、人通りの多い仁王門付近に埋めたと伝えられ、その後、お堂に収められたとされます。
江戸名所図会「久米平内堂」
「踏付け」が「文付け」に転じ、願文をお堂に納めると願い事が叶うとされ、江戸時代中期以降、とくに縁結びの神として信仰を集めたとされます。
参道の正面には
「宝蔵門」、左手に
「五重塔」があります。参詣者が多いですね。
宝蔵門(仁王門)と五重塔
五重塔は942年(天慶5)平公雅によって創建され、その後は幾度も倒壊していますが、その都度再建されてきました。塔内は非公開で、入ることはできません。
江戸名所図会「浅草寺 其三」
徳川家光によって再建された五重塔も1945年(昭和20)の空襲により焼失。1973年(昭和48)本堂右から位置を変えて左側に再建されました。
本堂でお参りし、左手から退出します。
石橋(せっきょう)
1618年(元和4)浅草寺に東照宮が造営した際に参詣のために神橋として造られたもので、現存する都内最古の石橋です。寄進者は徳川家康の娘、振姫の婿、紀伊国和歌山藩主で、広島浅野家藩祖の浅野長晟(あきら)です。
西仏板碑と三尊名号供養塔
「西仏板碑」は建立者の西仏が妻子の後世安楽を祈って建立したものと推測され、造立年代は鎌倉時代から室町時代初期と思われます。1742年(寛保2)暴風雨によって倒れ破損、1814年(文化11)に有志が側柱を建てて支えたといいます。
「三尊名号供養塔」は阿弥陀三尊が刻まれています。1827年(文政10)に江戸屏風坂下(現上野)の鹿島屋弥兵衛が発願して建立されました。
六地蔵石灯籠
建立年は不明ですが、江戸名所図会には『竿石に銘あれども、文字剥落して鮮明ならず 唯久安六月十一日兵衛の九字のみ今猶現然たり』と記されています。
中の写真は網で撮りづらく東京都HPより拝借しました。
江戸名所図会「六地蔵石灯籠」
「雷神門の外、花川戸町の入口角にあり。故に土人此所の河岸をさして六地蔵河岸といへり」とあり、往時は雷門前の道から東の大川(隅田川)近くにありました。大川あたりを
「六地蔵河岸」と呼ばれていたと記されています。
影向堂(ようごうどう)
本堂南東にありましたが、1994年(平成6)に現在地へ再建されました。
三峯社と六角堂
「三峯社」は弁天山にあったようですが、空襲で焼失し現在地へ再建されたものです。
「六角堂」は1618年(元和4)建立とあり、浅草寺では最古のものです。六角堂の本尊は日限地蔵です。
銭塚地蔵堂前を通り駐車場のほうへ向かうと
「九代目市川團十郎像」があります。
銭塚地蔵堂
江戸時代、摂州有馬郡に山口某なる者がいた。ある日その妻が庭先で寛永通宝がたくさん入った壺を掘り当てますが、これに頼っては家が滅びると考え、埋め戻しました。こりにより一家は繁栄したので、壺の上に地蔵尊を祀ったとされます。戦後の1954年(昭和29)に再建されましたが、老朽化のため2019年(令和元)に新築されました。
九代目市川團十郎像(暫像)
1919年(大正8)九代目市川團十郎の歌舞伎十八番である「暫」の銅像が建立されましたが、第二次大戦中の金属回収のため撤去されてしまいました。現在設置しているものは、1986年(昭和61)に再建されたものです。
再び銭塚地蔵堂前を通り南の
「新奥山(奥山)」へ向かいます。
新奥山(奥山)
江戸時代、「奥山」と呼ばれたこのあたりは大道芸人や見世物小屋で大いに賑わっていた場所でした。現在は「新奥山」として往時の浅草の賑わいを伝える記念碑が建立されています。
瓜生岩子之像
幕末に福島で生まれた瓜生岩子は、明治時代の社会事業家で、孤児・窮民の救済、授産指導などに尽力した人です。1901年(明治34)に篤志家によって銅像が建立されました。
三匠句碑
『ながむとて 花にもいたし頸の骨 宗因』
『花の雲 鐘は上野か浅草か 芭蕉』
『ゆく水や 何にとどまるのりの味 其角』
江戸時代前期を代表する俳人三匠の句が刻まれています。1809年(文化6)の建立。
「力石・熊遊の碑」の左手壁沿いには4つの石碑があり、一番奥が会田先生算子塚、2番目の亀の上に石碑が乗っているのが「三十六歌人碑」、その隣が五瀬植松碑、一番手前の新しい石碑が「正岡子規句碑」で、
『観音で雨に逢ひけり花盛 子規』と彫られています。
力石・熊遊の碑
これらの石は境内で行われていた「力くらべ大会」で競い、持ち上げられたものです。熊遊の碑は1874年(明治7)熊次郎が持ち上げた百貫(約375kg)ほどの力石で、新門辰五郎らがその記念として建立したものです。
戸田茂睡寿碑
戸田茂睡は1629年(寛永6)渡辺監物忠の六男として駿府城内で生まれ、父の死後伯父の戸田政次の養子になります。岡崎藩本多家に仕えましたが、出家し浅草寺近くに居を構えました。歌学や国学の先駆者となり多くの書物を著しています。茂睡自身が自らの後世を供養した逆襲塚です。
半七塚碑
「半七」は岡本綺堂の代表作「半七捕物帳」の主人公です。1949年(昭和24) 半七を慕う「捕物作家クラブ」(現日本作家クラブ)によって建立されました。碑の裏側には野村胡堂の撰文が刻まれています。
永世の碧碑・曽我廼家五九郎の碑
喜劇王と言われた曾我廼家五九郎は1904年(明治37)、曽我廼家五郎・十郎が創立した日本最初の喜劇の劇団「曾我廼家」に入門し喜劇俳優として知られるようになりました。 碑には彼の好きだった「群盲撫象」の文字と主役で出演した「ノンキナトウサン」の姿が刻まれています。石碑は1963年(昭和38)の建立で、自民党副総裁の大野伴睦揮毫。
喜劇人の碑
1982年(昭和57)、亡くなった浅草の喜劇人を偲び建立されたそうです。
映画弁士塚
1959年(昭和34)建立。弁士とは無声映画の時代、スクリーンの傍らで映画の解説、台詞、情景の説明などを行っていました。トーキーの登場で活動の場を失っていきますが、この塚は弁士が活躍した時代を後世へ伝えています。
石井漠記念碑
創作舞踊で知られる石井漠を記念して、1963年(昭和38)、谷崎潤一郎の揮毫で建立されました。
石井漠
1886年(明治19)秋田三種町下岩川に生まれ、24歳で作曲家を目指して上京します。貧乏生活をしながらも帝国劇場歌劇部、第一期研修生に合格しますが、指導者と考えが合わず帝劇を退団。その後、劇団「新劇場」に参加し、創作舞踊の公演を次々と成功させ、浅草で「東京オペラ座」を旗上げします。1922年(大正11)よりヨーロッパ、アメリカなど海外でも認められます。
晩年は失明や甲状腺炎、甲状腺癌などを患いながらも活動を続け、1962年(昭和37)、75歳で亡くなりました。
浅草観光事業功労者碑・浅草観光纉緒の碑
浅草の繁栄に貢献をした事業者や人々の業績を讃えて建立されたもののようです。
福地桜痴紀功碑
新聞記者、劇作家、作家として知られます。1913年(大正2)に石碑が仕上がり天女池に設置するはずでしたが、叶わず1919年(大正8)に浅草公園に建立されました。揮毫は山縣有明です。
福地桜痴(福地源一郎)
1841年(天保12)長崎の医師、福地苟庵の下に生まれ、1862年(文久2)幕府の使節に従い英仏二国に赴きました。明治維新の後は小説・劇作家として演劇界で活躍、東京日日新聞(毎日新聞前身)に移り、社説の創設などの業績を上げ、東京日日新聞の社長に就任しました。浅草の演劇・映画の街としての開発に尽力し、1906年(明治39)66歳で亡くなっています。
瀧沢世古碑
1845年(弘化2) 門人が建立。江戸時代の書家、瀧沢世古の碑とされますが、詳しいことはわかりません。
高橋石斎碑
尾張名古屋潘の撃剣師範でしたが、勤めを辞して江戸にでて文学に専心しました。とりわけ書家としての名をあげました。石碑は1879年(明治12)建立されました。
本堂前を通り、久米平内堂南側を通り弁天堂へ向かいます。弁天堂は小さな小高い丘になっていますが、その斜面に
「都々逸塚」、「添田唖蝉坊碑・添田知道筆塚」、「弁天堂扇塚」、「松尾芭蕉句碑」が建ち並んでいます。
弁天堂と時の鐘
鐘は1692年(元禄5)5代将軍綱吉が改鋳、江戸時代は
「時の鐘」として使用され、芭蕉の俳句
「花の雲 鐘は上野か浅草か」で有名です。
弁天堂や鐘楼は1945年(昭和20)の東京大空襲で焼け落ちましたが、鐘は無事でした。鐘楼は1950年(昭和25)、弁天堂は1983年(昭和58)に再建されています。
江戸名所図会「浅草寺 其二」
左上に弁天堂と時の鐘が描かれています。
都々逸塚
明治百年を記念して1967年(昭和42)に建立されました。亀屋忠兵衛と刻まれています。亀屋忠兵衛は都々逸作家で、1962年(昭和37)に『都々逸下町 亀屋忠兵衛情歌集』を出版しています。
添田唖蝉坊碑
添田唖蝉坊は明治・大正期に活躍した演歌師の草分けで、知道はその息子になります。当時の演歌は、今日の演歌とはかけ離れたメッセージ・ソングであり、歌詞には政治や社会への痛烈な批判や諷刺がこめられていました。こうした歌をストリートで披露し民衆の心を掴みました。碑」は1955年(昭和30)建立、台座には「らっぱ節」が刻まれています。
唖蝉坊碑の横には白御影石の
「添田知道筆塚」があります。
知道は唖蝉坊の息子で、「東京節」でデビューし大ヒットとなり、「復興節」「ストトン節」と次々とヒット作が作られました。筆塚は1982年(昭和57)の建立です。
弁天堂扇塚
花柳徳太郎顕彰碑です。花柳徳太郎は日本舞踊四流派の一つ花柳流(分家)の創始者です。二代花柳徳太郎により1964年(昭和39)に建立されました。
松尾芭蕉句碑
『くわんをのん いらか見やりつ 花の雲 はせを』
1796年(寛政8)芭蕉103回忌に建立され、元は本堂北側、銭塚不動の近くにありましたが、戦後に現在地へ移転しました。佐脇嵩雪が描いた芭蕉の座像が線刻してありましたが、判然としません。
おだんごやさん
最近はカラフルでキレイなお団子があるのですね!美味しそう!
16:00 あちこち寄り道が多く、千住宿には到着しません。それどころか半分くらいしか進みませんでしたが、楽しく歩けました。浅草駅から帰宅します。