2024年3月9日
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10:00 快晴の本日は、浅草神社から歩きはじめます。
浅草神社
浜成と
竹成は隅田川で魚猟中、浅草寺本尊の観音像を網で拾い上げ、
真中知は奉安者と言われています。はじめは
三社大権現といい、1873年(明治6)浅草神社と改称しました。鎮座年は不詳ですが、東照宮は1646年(慶安2)に合祀されました。現在の社殿は1646年(慶安2)徳川家光が再建したものです。
浅草神社の入口左手に
「初代市川猿翁句碑」、その奥に
「こち亀石碑」、さらに奥には
「河竹黙阿弥顕彰碑」、
「花塚」、
「初代中村吉右衛門句碑」、
「初代花柳寿輔句碑」が置かれています。
初代市川猿翁句碑
『翁の文字 まだ身にそはず 衣がえ』
1888年(明治21)浅草千束町に生まれ、父は初代市川猿之助です。兵役を終えたのち1910年(明治43)、22歳で二代目市川猿之助を襲名。孫である団子に三代目猿之助を譲り、自らは「猿翁」を襲名しました。1963年(昭和38)75歳で没しました。
檜前の馬牧
701年(大宝元)大宝律令で厩牧令(きゅうもくれい)が出され、全国に官牧39ヶ所、皇室に馬を供給するため32ヶ所の牧場が設置されました。浅草寺本尊の発見者である檜前浜成・竹成の兄弟の逸話から
「檜前馬牧」は浅草付近であったと推定されています。
こち亀石碑「友情はいつも宝物」
「こちら葛飾区亀有公園前派出所」は1976年(昭和51)に連載が始まり、2016年(平成28)まで連載がなされていました。浅草神社にまつわるお話の一部が描かれています。
河竹黙阿弥顕彰碑・花塚
河竹黙阿弥は、1816年(文化13)日本橋・越前屋に生まれ、江戸末期から明治中期まで活躍した歌舞伎の狂言作者でした。世話物・時代物など350もの作品を生み、特に世話物を得意としました。その作風は「黙阿弥調」として知られています。1893年(明治26)没。
初代中村吉右衛門句碑・初代花柳寿輔句碑
『女房も同じ氏子や 除夜詣』
中村吉右衛門は、1886年(明治19)浅草象潟町に生まれ、幼少期より舞台に立ち大成し、大正・昭和期を代表する歌舞伎俳優でした。高浜虚子に師事して「ホトトギス」の同人となり、三冊の句集を発行しています。句碑は自筆により刻まれています。
『雷は田町をよけて 鳴りわたる』
初代花柳寿輔は1807年(文化4)芝・新明にて生まれ、振り付けの第一人者として知られています。作品は1500を超え、中でも「土蜘」、「茨木」、「戻橋」、「舟辯慶」は不滅の傑作と言われています。1903年(明治36)83歳で没。
拝殿の左手から境内をでて北へ50m進むと
「山東京伝机塚の碑」があります。
山東京伝机塚の碑
浅草や吉原を題材とした戯作を多く著し、また北尾政演の号で浮世絵も多く作成しています。碑は京伝の弟、京山が1817年(文化14)建立。表面に晩年の京伝撰「書案之紀」が刻まれています。
浅草神社境内へ戻り、鳥居の東側に
「粧太夫碑」、「久保田万太郎句碑」、「川口松太郎句碑」などがあります。
粧(よそおい)太夫碑
『ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島かくれゆく船をしぞ思う』
有名な万葉歌人、柿本人麻呂の和歌を蕋雲(ずいうん)女史による万葉仮名で刻んだものです。蕋雲は文化年間、新吉原の半松楼に抱えられた遊女で、源氏名を「粧太夫」いい、号の蕋雲は亀田鵬斎に与えられたというほどの教養ある遊女でした。
久保田万太郎句碑
『竹馬やいろはにほへと ちりぢりに』
川口松太郎句碑
『生きるということむずかしさ 夜寒かな』
1899年(明治32)浅草今戸に生まれ、1935年(昭和10)「鶴八鶴次郎」で直木賞を受賞、1963年(昭和38)には菊池寛賞、1969年(昭和44)吉川英治文学賞などを受賞ています。1985年(昭和60)85歳没。
浅草寺五重塔
二天門
1649年(慶安2)頃に観音堂の西側、東照宮の随神門と伝えられていました。東照宮は1618年(元和4)に建立されましたが、1631年(寛永8)の火災により浅草寺の諸堂とともに焼失、江戸城内の紅葉山へ移されました。明治初年の神仏分離令により二天像に変わり、名称も二天門となりました。
二天門をでて浅草寺をあとにします。二天門から200mほど進むと左手に花川戸公園があり、
「履物問屋街発祥碑」と
「姥ヶ池跡」があります。
履物問屋街発祥碑
戦前は下駄・草履 などを扱う問屋が多く、 現在は靴・サンダルなどの履物関連の問屋が70軒ほど集まっているといいます。12月には 「花川戸はきだおれ市」が開催されます。
姥ヶ池跡
昔、隅田川に通じていた大池で、1891年(明治24)に埋め立てられました。浅草寺の子院、妙音院所蔵の石枕にまつわる伝説があります。
江戸名所図会「姥ヶ池」
姥ヶ池の伝説
昔、浅茅ケ原の一軒家で、美貌の娘を囮にして旅人に一夜の宿を貸しては、旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がおり、その数は999人とも言われていました。これを見た
浅草観音は若衆に?化し、老婆の家へ宿泊します。老婆はいつもと同じく、天井から吊るした大石を落としますが、下敷きになっていたのは娘でした。老婆は悪行を悔やみ池に身を投げたので、里人は
「姥ケ池」と呼ぶようになりました。
助六歌碑
『助六にゆかりの雲の紫を 弥陀の利剣で 鬼は外なり 団洲』
九世市川団十郎が自作の歌を揮毫したもので、「団洲」は団十郎の雅号です。
助六歌碑は、1879年(明治12)須永彦兵衛(通称棒彦)を顕彰して山谷の
仰願寺に建立しましたが、関東大震災で崩壊し、土中に埋没していたものを後に発見、この地に再造立されました。
歌舞伎十八番の「助六」は1713年(正徳3)よりお家芸として上演されています。助六の実態は不明ですが、足立区の
易行院には
「助六の塚」があります。
国道6号へ合流し、左へ曲がります。200mほどで言問橋西詰交差点となり、日光街道は左前に入っていきますが、早咲きの桜が綺麗だったので、隅田川沿いの山谷堀公園南側を少し歩きました。
戦災により亡くなられた方々の碑
このあたり一帯は1945年(昭和20)3月の東京大空襲により亡くなられた多くの人々を仮埋葬した場所です。戦後に荼毘に付され、東京都慰霊堂へ納骨されています。
サクラとスカイツリー
桜を楽しんだあとは、待乳山本龍院の南側を通り西へ。日光街道を横切り、かつて猿若町と言われたあたりへ入っていきます。2本目の路地を左へ曲がりすぐに
「市村座跡碑」、戻って反対側の路地へ入ると
「守田座跡碑」があります。
市村座跡碑
天保期(1831〜45)、一丁目に中村勘三郎の
中村座、二丁目に市村羽左衛門の
市村座、三丁目に河原崎座(のちの守田座)があり、我が国初の芝居町を形成していました。これが
「猿若三座」と言われています。
守田座跡碑
芝居小屋は、水野越前守の天保改革により日本橋から猿若へ移されました。
来た道を戻り、待乳山聖天へ向かいます。境内へ入る階段左手横に
「池波正太郎生誕地碑」と
「震災供養碑」がありました。
池波正太郎生誕地碑
1923年(大正12)この地で生まれました。この年、関東大震災があり両親とともに浦和に避難し、6歳まで過ごします。小学校を卒業した後は奉公に出ました。チップや小遣い銭を元手に相場で儲けていたようで、このお金で読書、映画、観劇にはげみました。1941年(昭和16年)、太平洋戦争の開戦に伴い、国民勤労訓練所に入所し、旋盤機械工として働きながら雑誌に投稿し、数々の賞を受賞しています。終戦後は東京都の職員となり、仕事の合間に読売新聞演劇文化賞へ投稿し入選。1955年(昭和30)本格的に執筆活動をしていきます。鬼平犯科帳、剣客商売などが代表作ですね。
震災供養碑
関東大震災の犠牲者を慰霊する碑です。現在の碑は1955年(昭和30)の再建です。
トーキー渡来碑
アメリカの発明家で、エレクトロニクス時代の父と呼ばれるリー・デ・フォレスト博士は、1923年(大正12)に
トーキー(発声映画)を発明、東洋にも配給権を与えました。日本人技士は技術を習得し、日本にトーキーがもたらされました。1856年(昭和31) 皆川芳造により建立。
待乳山聖天
縁起によれば601年(推古天皇9)創建。堂宇は震災、戦災により焼失し、現在の本堂は1961年(昭和36)に再建されたものです。
大根
大根は体内の毒素を中和して消化を助けるはたらきがあるところから、聖天様の「おはたらき」をあらわすものとして尊ばれ供養に欠かせないものとされています。1月7日には
大根祭りがあり、多くの信者で賑わうといいます。
江戸名所図会「真土山聖天」
かつては小丘で江戸時代には東都随一の眺望の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌などの題材となっていました。
大根を奉納してきま〜す
本堂の左手に銅で作られた宝篋印塔があり、その奥に
「道灌稲荷跡」があります。
銅造宝篋印塔
1781年(天明元)に神田の鋳物師、西村和泉守が制作したものです。西村和泉守は江戸時代から大正時代にかけて11代にわたり鋳物師を務めた家で、本塔の作者は5代西村政平によるものと思われます。
道灌稲荷跡
かつて境内には太田道灌が勧請した「道灌稲荷」が祀られていました。1476年(文明8)太田道灌は鎌倉の詩僧を招き、神田川に船を浮かべて詩歌管弦の宴を開いています。
本堂の裏側には
「糸塚」、「戸田茂睡歌碑」などがあります。
糸塚
1688年(元禄元)十一世杵屋六左衛門が父の供養のために建立したとされます。十世六左衛門と三世勘五郎は長唄三弦の名人と言われた人です。
戸田茂睡歌碑
『哀れとは夕越えて行く人も見よ 待乳の山に残す言の葉』
茂睡は元禄の頃に活躍した歌人で、歌道の革新を唱えました。江戸最古の歌碑と言われていましたが、戦火にあい、拓本をもとに1955年(昭和30)に再建されました。
天狗坂とさくらレール
昔は大木がうっそうと生い茂り、 坂を下りたところに
竹屋の渡しがありました。現在は待乳山へ登るための
桜レールが整備されています。車椅子でも本堂へ上がることができますね。
歌川広重「東都名所真土山之図」
この東都を望む山上から近くは葛飾の村落、遠くは国府台の木々の緑が一望できるとあります。
待乳山(まつちやま)
真土山、真乳山とも書かれました。待乳山は地中より突然隆起して現れた霊山で、その時金龍が天より降りて守護したと伝えられています。江戸時代には東都随一の眺望の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌の題材となっていました。
天狗坂をさくらレールにのって下ってみました。短いですが、なんだか楽しいです。無料で誰でも乗車できます。広い道路を渡ると山谷堀公園内に
「平成中村座発祥の地の碑」があり、その奥に
「竹屋の渡し跡碑」があります。
平成中村座発祥の地の碑
十八世中村勘三郎(当時勘九郎)の抱いてきた夢が「平成中村座」として2000年(平成12)、山谷堀に実現しました。第一回公演は「隅田川続佛 法界坊」でした。
竹屋の渡し跡碑
山谷堀口から向島三囲(みめぐり)神社の前あたりを結んでいました。待乳の渡とも呼ばれました。1928年(昭和3)言問橋の架橋に伴い、渡し船は廃止されました。
スカイツリー
山谷堀
山谷堀公園は、かつて「山谷堀」と呼ばれた水路でしたが、経済成長に伴う水質汚濁と悪臭が問題となり、1976年(昭和51)頃から暗渠化され、上部は公園として整備されました。
山谷堀公園から暗渠化された緑道を西へ歩いてみます。途中、モニュメントとしての
「今戸焼」があります。
今戸橋跡
埋め立てられる前の山谷堀には、下流から今戸橋・聖天橋・吉野橋・正法寺橋・山谷堀橋・紙洗橋・地方新橋・日本堤橋の9つの橋が架けられていましたが、埋め立てに伴い全て取り壊され、わずかに残る護岸や親柱だけが面影を残しています。
江戸名所図会「山谷堀」
江戸時代は待乳山でお参りし、天狗坂を下っていくと隅田川と山谷堀の合流する地点にある今戸橋へ出ました。今戸橋界隈は茶屋や船宿が立ち並んでいました。
今戸焼
伝承では、天正年間(1573〜91)に千葉氏の家臣が今戸辺りで焼物を始めたとか、徳川家康入府後、三河の陶工が今戸へ移って来たとも言われます。現在は1軒のみが残り、伝統を伝える「口入れ狐」や「招き猫」などの人形が制作されています。
江戸名所図会「今戸焼」
日光街道へは戻らず、今戸橋跡から北へ向かい二股を左へ。この二股のところにあるお店は、今戸焼が唯一残っているお店です。左手に
「慶養寺」があり、100mほど進んだ左手に今戸神社があります。
慶養寺
1625年(寛永2)浅草蔵前に創建、その後現在地へ移転したとされます。いつ移転したのかは不明ですが、江戸名所図会には現在地に描かれていますので、それ以前と思われます。
今戸神社
1063年(康平6)源頼義、義家父子が勅令により奥州の安太夫安倍貞任、宗任を討伐の折、今戸の地へ至り、石清水八幡を勧請し、今戸八幡宮と称しました。千葉胤直が自分の城に勧請した白山比盗_社を1937年(昭和12)合祀し、今戸神社と改称されました。
江戸名所図会「今戸八幡宮」
今戸焼発祥地碑・沖田総司終焉之地の碑
沖田総司は、1868年(慶応4)「鳥羽・伏見の戦い」に向かう途中で労咳が発症し倒れたため江戸へ向かい、当地に居住していた御典医、松本良順の治療の甲斐もなく、当地にて没したと伝えられています。
招き猫〜〜〜〜!!
良縁を招くということで、招き猫がたくさんいるみたいですね。
根付
お守りや根付なども招き猫で可愛いものがたくさんありましたので、一つ購入しました!かわいいでしょ♪
12:00 今戸神社をあとにさらに北上していきます。200mほど進み、信号のある交差点を右へ曲がりさらに100mで、
称福寺があります。西側が墓地になっており、墓地の入口を入ると正面に
「亀田鵬斎」のお墓があり、その右手のほうに
「柴田是真」のお墓があります。
称福寺
1629年(寛永6)了智によって開山され、小石川に創建されました。その後、1642年(寛永19)に現在地に移転しました。明治初期の材木商・丸山氏の邸宅を移築した御殿があり、明治天皇が習志野行幸の途中に立ち寄った建物でしたが、関東大震災で焼失してしまいました。
亀田鵬斎墓
著名な儒学者であった亀田鵬斎は1752年(宝暦2)神田に生まれ、折衷学を井上金峨に学び、萩生徂徠の古文辞学を退け、朱子学を批判したために「寛政異学の禁」(松平定信が行った学問の統制、朱子学を正とし、それ以外の学問を異とした)では、異端の筆頭とされました。1826年(文政9)75歳で没しました。
柴田是真墓
幕末から明治にかけて活躍した絵師・蒔絵師です。創作活動だけではなく、漆技術の普及・発展を目的とした「日本漆工会」を創設し、「竜池会」(日本美術協会前身)や「東洋絵画会」の設立に尽力し、1891年(明治24)85歳で没しました。
称福寺をあとに西へ200mほど進み、右へ曲がりますと小さな
熱田神社があります。
熱田神社 大太刀「陰陽丸」
かつては元鳥越(現鳥越1丁目)にありましたが、1645年(正保2)現在地に浅草新鳥越町が成立したため、間もなく移転し、町の北端に位置していましたが、関東大震災の区画整理により1927年(昭和2)現在地へ再び移転ました。
大太刀「陰陽丸」は、1847年(弘化4)江戸小石川の刀工、川井久幸が制作し、熱田神社に奉納しました。
江戸名所図会「熱田明神社」
熱田神社のすぐ北を左へ曲がり、80mほどで日光街道へ戻ります。長い寄り道でした。日光街道を北へ200m進み、路地を左へ曲がるとすぐに
「春慶院」があります。春慶院の西側路地を北へ曲がると
「東禅寺」があります。
春慶院
江戸時代前期、伊勢屋太兵衛が娘を供養するために創建しました。境内には吉原遊女の高尾太夫の墓があります。高尾太夫とは、吉原遊郭の名跡であり源氏名で、11名いたとされます。こちらにあるのは2代目とされていますが、他にも二代目高尾太夫の墓と言われるものが多くあり、伝説も様々あります。
東禅寺
1624年(寛永元)、哲州和尚によって開山されました。正面には大きな銅造の地蔵菩薩があります。
江戸六地蔵は深川の地蔵坊正元が病気平癒に感謝して発願し、多くの人々の浄財を集め、江戸市中六ケ所に勧請し、神田鍋町の鋳物師太田駿河守正義によって鋳造されました。品川寺に次いで1710年(宝永7)に造立しました。
木村安兵衛・文女夫妻座像
木村安兵衛はあんパンを考案した木村屋(現木村屋總本店)の前進である「文英堂」創業者です。1874年(明治7)次男英三郎と共に研究・開発され日本人の口に合う酒種あんぱんを発明しました。
東禅寺の正面から東へ入っていくと、日光街道へ戻る少し手前の細い路地を左手へ入り突き当りに
「駿馬塚」があります。
駿馬塚
平安時代の康平年間(1058〜1064)源義家が陸奥へ向かう際、この地で愛馬「青海原」が絶命し、これを葬った場所と伝えられています。
江戸名所図会「駿馬塚」
現在は1895年(明治28)造立の石碑や塔の一部を残すのみですが、1836年(天保7)の江戸名所図会には土饅頭型の塚や「駿場塚」と刻まれた石碑があったようです。
日光街道へ戻り、300mほど進み右へ曲がるとすぐ左手に
「宝珠稲荷神社」があります。さらにその先、160mほどで
「玉姫稲荷神社」があります。
宝珠稲荷神社
創建年不詳ですが、古書によると1589年(天正17)浅草町において初めて「観音市」が開かれ、その際に寶珠稲荷神社が鎮座したともあるようです。その後は数回移転し、1682年(天和2)現在地へ落ち着きました。
いなりや
樹木に飲み込まれた建物にびっくり。旅館のようですがもう廃業しているのかと思っていましたが、営業しているのですね。びっくりです。
玉姫稲荷神社
760年(天平宝字4)に創建とあり、享保年間に出版された「江戸砂子」によると新田義貞が北条高時を追討すべく、鎌倉に進撃(鎌倉の戦い)する際に、ここで戦勝祈願したと記されています。
江戸名所図会「玉姫稲荷神社」
1945年(昭和20)の東京大空襲で社殿は焼失、現在の社殿は1953年(昭和28)の再建です。
もうしばらく寄り道して行きます。玉姫稲荷神社からさらに東へ200m、突き当りを右へ。50m先を左へ曲がり60m先を左へ曲がるとすぐに大きな
「お化け地蔵」があります。
お化け地蔵
「お化け地蔵」という名は、かつて大きな笠をかぶりその笠が向きをかえたから、あるいは高さ3mの並外れて大きいからなどいくつかの伝承があります。1721年(享保6)建立され、関東大震災で2つに折れましたが補修し、頭部も取り替えられています。常夜灯は1790年(寛政2)に建立。
このあたりは室町時代以来、禅宗の名刹
総泉寺の境内地でした。門前一帯を浅茅ケ原と呼ばれました。
総泉寺は1929年(昭和4)板橋区へ移転しました。
「お化け地蔵」前の道を北へ170m進み、路地を左へ入ると
平賀源内のお墓があります。頑丈な扉が設置されていますが施錠はされておらず、自由に入ることができます。
総泉寺跡の平賀源内墓
平賀源内は、1728年(享保13)讃岐国志度浦(現香川県志度町)の高松藩士の三男に生まれました。本草学、医学、儒学、絵画を学び、物産開発に尽力しました。物産会の主催、鉱山開発、陶器製造、毛織物製造などを行い、エレキテル(摩擦起電機)を復元制作、火浣布(石綿の耐火布)を発明しました。
総泉寺跡の平賀源内墓
平賀源内は風来山人、福内鬼外などの号をもち、「風流志道軒伝」などの
滑稽本や浄瑠璃「神霊知渡」などの作品を残しています。
1779年(安永8)に殺傷事件を起こし、小伝馬町の牢内で病死し、総泉寺に葬られました。後方にあるのは従僕の福助のお墓です。総泉寺が移転したため、墓のみが残されました。
平賀源内墓から北へ向かい、大通りを右へ曲がり、200mほどの隅田川に架かる
「白鬚橋」手前の右手に
「対鴎荘跡」の石碑があります。道路を挟んだ向かいには
石浜城址公園があります。
対鴎荘跡
隅田川畔の橋場一帯は、風光明媚な地であり、かつては有名人の屋敷が軒を連ねていたとされます。対鴎荘は明治時代の政治家、三条実美の別荘でした。1928年(昭和3) 白鬚橋架橋工事に伴い、多摩市連光寺に移築されています。
白鬚橋・橋場の渡し跡
対岸の墨田区寺島とを結んでいた渡し場で、「白鬚の渡し」とも言われていました。古くは「隅田川の渡し」と呼ばれ「伊勢物語」の在原業平が渡河した渡しであるとしています。1914年(大正3)に白鬚木橋が架けられるまで多くの人々により利用されました。
石浜城址公園
石浜城は室町時代の中頃、武蔵千葉氏の居城となり、戦乱の世に百年余続いた城で、天正年間(1573〜1591)、城主、千葉胤村(北条氏繁三男)を最後に後北条氏滅亡ののち、廃城となったと思われます。石浜城の位置には諸説ありますが、石浜神社付近が有力視されています。
石浜城址公園の北側から
石浜神社への参道が始まります。
石浜神社
724年(神亀元)の創建と伝わる古社で、源頼朝、千葉氏、宇都宮氏らの崇敬を受けていたとされます。江戸時代の「夏越しの祓(はらい)」はその壮麗さにおいて名高く、1838年(天保9)刊行の「東都歳時記」の挿絵に夏の風物詩として紹介されています。
江戸名所図会「石浜神明宮」
真先神社
現在は石浜神社の境内社として祀られている「真先神社」は、天文年間(1532〜1554)
石浜城主、千葉守胤によって祀られたと伝えられます。もと隅田川沿岸にあり、その門前は景勝地として知られていました。また、奥宮の狐穴から出現する「お出狐」は、対岸の三囲稲荷の狐と並んで有名であったとされます。江戸中期から参詣する人が多くなり、1757年(宝暦7)頃には
吉原豆腐で作った田楽を売る甲子屋、川口屋などの茶屋が立ち並び大いに繁盛しました。
拝殿の一段下の西側に
「亀田鵬斎の詩碑」、「都鳥歌碑」が並んでいます。東側には
「富士遙拝所」があります。
亀田鵬斎の詩碑
碑面には、江戸は下町の名物儒学者亀田鵬斎73歳のときに作られた、隅田川の詩2首が刻まれています。石浜城や頼朝、道灌の歴史のあとを切々と偲ぶ名詩です。
先ほど寄ってきた称福寺境内に墓地がありました。
都鳥歌碑
一番左手の四角い石が「都鳥歌碑」です。
『名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと』
業平が墨田(橋場)の渡しにて京都では見慣れぬ鳥を見かけ、渡守に問いかけたところ、「都鳥です」と答えました。そこで「都という名を負っているならば、さあ尋ねよう。都鳥よ。私の恋慕う人は無事過ごしているのだろうか」と望郷の念を込めて詠みました。都鳥は「ゆりかもめ」のことで、東京都の鳥に指定されています。
建立は1805年(文化2)です。
富士遙拝所
石浜神社は古くから富士眺望の名所でした。1758年(宝暦8)に富士塚が築かれましたが、現在の富士塚は1988年(昭和63)の隅田川スーパー堤防建設の際に新造されたものです。
石浜神社をあとに石浜城址公園前の大通りを西へ800mほど進み、ようやく日光街道へ戻ります。日光街道との交差点が「泪橋交差点」です。
泪橋
思川は農業用水として使われていた音無川(石神井川用水)の支流で、源頼朝がこの川で馬を洗ったことから、古くは駒洗川と呼ばれました。泪橋は思川と日光街道が交差する所に架かっていましたが、思川が暗渠化されたため、石橋だった泪橋も無くなってしまいました。
小塚原の御仕置場に赴く囚人たちが涙を流しながら渡ったとも、囚人の知人が今生の別れを惜しんで涙を流したからとも言われます。
江戸名所図会「思河橋場渡」
往時、ここから先は家もない寂しい野道が小塚原まで続いていました。泪橋交差点から日光街道を80mほど進むと左手に提灯店がありました。
泪橋大嶋屋提灯店
「大嶋屋」のルーツは、江戸時代の宝暦年間(1751年〜1762年)に遡りますが、本家は空襲により提灯屋としては途絶えたとされます。暖簾分けで東京には10店舗あるそうです。泪橋のお店は1913年(大正2)に創業しました。
13:40 泪橋跡を越えて日光街道を引き続き千住宿へ向かい進んでいきます。