2024年3月9日
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13:40 泪橋跡を越えて日光街道を引き続き千住宿へ向かい進んでいきます。
180mほど進むと線路で街道が途切れていますが、歩道橋をのぼり、線路を越えていきます。すぐ左手に
「小塚原刑場跡」があり、すぐ先に
「回向院」、回向院の中に
観臓記念碑があり、奥の墓地には小塚原刑場で処刑された人々の墓などがあります。
延命寺の首切り地蔵(小塚原刑場跡)
小塚原刑場は火罪・磔・獄門などの刑罰、無縁の埋葬・供養・刀の試し切り・
腑分け(解剖)などが行われ、また徳川家の馬の埋葬地としても利用されてきましたが、明治初年に廃止されました。
首切地蔵は1741年(寛保元)に造立されました。
大きな
題目碑は、1698年(元禄11)京都三条の商人、
八幡屋谷口氏と法春比丘尼により造立されたものです。
谷口氏は品川の刑場などに100基以上の題目塔を建立しています。
武奥増補行程記の「小塚原」
回向院と観臓記念碑
1667年(寛文7)本所回向院の住職、弟誉義観(ていよぎかん)が、行路病死者の供養のために開いた寺で、往時は
常行堂と称していました。
観臓記念碑
1771年(明和8)蘭学者、杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが小塚原で刑死者の解剖に立ち会った後に、ターヘル・アナトミアを翻訳し
「解体新書」を出版、日本医学史上に大きな功績を残したことを記念して1922年(大正11) 観臓記念碑が建立されました。
カール・ゴッチ墓・相馬大作供養碑
1822年(文政5)に相馬大作と関良助が処刑され、ここへ埋葬されてからは国事犯の埋葬地となりました。
プロレスの神様と言われるカール・ゴッチは、「ジャーマン・スープレックス」を開発した人物でもあり、多くの日本人レスラーを育てたトレーナーとしても知られています。2007年にアメリカで亡くなりました。ほとんどの遺灰は散骨されたらしいですが、残った遺骨がこちらへ納められたそうです。
腕の喜三郎・高橋お伝・鼠小僧
手前から腕の喜三郎、高橋お伝、片岡直次郎、一番奥が鼠小僧でしたが、鼠小僧のお墓は写っていなかったですね。墓碑には「俗名鼠小僧 源達信士」とあります。
腕の喜三郎は、寛文の頃、「野出の喜三郎」と称した
侠客でしたが、あるとき喧嘩で片腕が落ちそうなほど切られ帰宅すると、見苦しいからと子分にノコギリで切らせたそうです。ここから
「腕の喜三郎」と呼ばれたようですね。その後、歌舞伎や講談になったようです。
「明治の毒婦」と呼ばれた
高橋お伝は、強盗殺人を行った人で、この罪で処刑されています。仮名垣魯文の「高橋阿伝夜刃譚」のモデルとなり、またこの衝撃的な事件は多くの脚色された新聞記事が発刊されました。かなり新聞などで叩かれているところから、この時代は強盗殺人という罪は珍しかったのかとも思います。
片岡直次郎は、江戸時代後期の詐欺・ゆすり・たかりを常習とする小悪党でした。これらの罪で捕らえられ、処刑されました。講談、歌舞伎の題材ともなっています。
橋本景岳(左内)墓と碑
江戸で学び、福井へ帰郷すると福井藩の藩政改革の中心人物として活躍しました。1857年(安政4) 江戸に赴いて藩主松平慶永に仕え、14代将軍に一橋慶喜を擁すべく奔走しましたが、将軍継嗣問題に介入したことを理由に1858年(安政5)に斬首されました。
吉田松陰の墓と安政の大獄で処刑された人々の墓
1859年(安政)の
安政の大獄で処刑された吉田松陰。正面の墓碑が松陰のもので、右手が
頼三樹三郎の墓です。墓碑には号である「鴨崖」が刻まれています。
回向院をあとにすぐ先を左へ曲がり、日光街道を離れ、
南千住仲通りを進んでいきます。70m左手に
「豊川稲荷」があり、400mほどで国道4号へ出ます。国道4号を左へ曲がり、常磐線のガード下をくぐり、すぐ先の交差点で左へ曲がっていくと投込寺と呼ばれた
「浄閑寺」があります。
豊川稲荷
由緒などは不明ですが、日光道中延絵図の回向院の中に「稲荷」が描かれているので、この稲荷なのかもしれません・・
浄閑寺
1855年(安政2)の大地震の際、多くの新吉原の遊女が投げ込み同然に葬られましたことから
「投込寺」と呼ばれるようになりました。1743年(寛保3)から1926年(大正15)に至る10冊の過去帳が現存します。
浄閑寺の門をくぐると左手に
「萩原秋巌の墓」があり、本堂の左手に
「遊女若紫の墓」、墓地の入口を入り左手の奥に
「首洗い井戸」、本堂裏手に
「助七、助八の墓」、「三遊亭歌笑塚」、「永井荷風文学碑」、「新吉原総霊塔」があります。
萩原秋巌の墓
書の大家であった萩原秋巌はの通称は祐助のち自然と改めます。巻菱湖に学び、詩は宮沢雲山に学んで幕末から明治にかけて活躍し、幕末三筆の一人とされます。「書法薈粋」、「十体源流」等を著し、
1877年(明治10)、75歳で亡くなっています。
遊女若紫の墓
吉原一の美女と言われた若紫は、本名を勝田信子といい、幼い頃に吉原へ連れてこられ、17歳で遊女になります。年季明けは22歳。多くの身請け話を袖にし、年季明けにはおもいびとと一緒になる予定でした。5日後に年季が開けるという日、他の遊女と心中しようとした男が全く関係のない若紫の喉元を刀で突き刺しました。悲しいお話ですね。
首洗い井戸と助七、助八の墓
父、本庄助太夫の仇である平井権八を討ち果たそうとした
助七と助八の兄弟でしたが、兄、助七は吉原田圃で権八に返り討ちにあってしまいます。弟の助八はこの井戸で兄の首を洗っているところを無残にも権八に襲われて討ち果たされてしまいました。兄弟の霊を慰めようと墓(首塚)が建てられました。
三遊亭歌笑塚
三代歌笑をモデルにした映画「おかしな奴」が封切られた記念にこの碑が建立されました。
永井荷風文学碑
遊女の悲しい生涯に思いを馳せて、作家永井荷風はしばしば浄閑寺を訪れています。
『今の世のわかき人々』に始まる荷風の詩碑は、このような縁でここに建立されたものです。
新吉原総霊塔
多くの遊女が葬られています。身寄りのない遊女は真裸で簀巻にされて、この寺に捨てられ無縁仏になったといいます。葬られた遊女は2万数千人とされます。1793年(寛政5)に塔が建立されましたが、現在の塔は1929年(昭和4)に改修されたものです。
右下には
花又花酔の川柳が刻まれています。
『生まれては苦界、死しては浄閑寺』
浄閑寺をでて国道4号を北へ向けて進んでいきます。300mほど進むと左手に
「円通寺」があります。
円通寺
寺伝によれば、791年(延暦10)坂上田村麻呂によって開かれたと伝えられます。
石造七重塔
1722年(享保7)円通寺中興開山の観月徹禅が伽藍の再興を記念して建立したものです。
彰義隊士の墓
1868年(慶応4)寛永寺に集結した
彰義隊は新政府との激戦の末、上野の山で敗北しました。円通寺の仏磨和尚は官許を得て、寛永寺御用商人三河屋幸三郎とともに遺骸を火葬し、円通寺に合葬しました。
天野君八郎碑・中田正廣之碑
天野君八郎は、上野国甘楽郡の農家の次男として生まれますが、武士を志して江戸へ赴き、彰義隊副頭取となります。
中田正廣之は、上野国磐戸村の名主の次男として生まれ、後に徳川家茂の警護に就き、彰義隊が結成されると頭並に就任しました。
新門辰五郎碑
火消しの長であった新門辰五郎は、徳川慶喜の警護、二条城の警護などにあたっています。徳川家が駿河へ移される際には、辰五郎が江戸中の配下に声をかけ、侠客や町火消が装備を纏って集結し、江戸町火消全組の纏が振り投げられ、数千人の火消らが警護する中、幕府は江戸を後にしました。駿河到着後は駿府の常光寺に住みました。その後、東京へ戻り1875年(明治8)没しました。
上野の黒門
元は寛永寺の八門のうち、表門にあたります。寛永寺の黒門が円通寺に移され、1985年(昭和60)修復工事が行われています。上野戦争では黒門前で激しい攻防が繰り広げられ、無数の弾痕が往時の激戦を今に伝えています。
円通寺をあとに国道4号を180m北上し、右へ曲がると西光寺があります。
西光寺・開山賢誉上人墓
芝増上寺の末寺で、1539年(天文8)に没した
賢誉長公が開いたお寺です。
西光寺の本尊、阿弥陀如来は
恵心僧都源信の作と伝えられます。病のあるものが笹の枝に刺した白団子を供えて祈願すれば霊験があるとされ
「笹の団子の如来」と呼ばれています。
国道4号へ戻り、260mほどで東からの日光街道と合流します。合流する左手に
「素盞雄神社」があります。
素盞雄神社
修験道の開祖役小角の高弟である黒珍(こくちん)の住居の東方小高い塚上に奇岩があり、これを霊場と崇めていると、795年(延暦14)の夜、奇岩が突如光を放ち二柱の神様が翁に姿を変えて現れたため、黒珍は一祠を建て、創建されたと言われています。
奥の細道矢立初めの碑
1820年(文政3)建立。父文晁の弟子で関屋在の建部巣兆、儒学者で書道家としても名高い亀田鵬斎らが銘文を、文人画壇の重鎮である谷文晃の弟子で大川(:隅田川)の対岸関屋在住の建部巣兆が座像を手がけるなど、千住宿に集う文人達により建てられました。
森昌庵追悼碑
旗本池田家の主治医である森昌庵の死を偲んで1841年(天保12)に建立。江戸名所図会などの挿絵で知られる長谷川雪旦、近隣に居住していた俳人・随筆家の加藤雀庵らも建碑にかかわりました。
お雛様がたくさん飾られていました。
江戸名所図会「飛鳥社・小塚原天王宮」
現在の素盞雄神社が描かれ、弁天様を祀る御手洗池、茶屋なども描かれています。図中の
「瑞光石」のある小さな塚から「小塚原」の地名が起こったとされます。
素盞雄神社の西側から外へ出ると、荒川区の図書館にでます。図書館の前に
「鞘堂」があります。また
3Dアートも図書館前にありました。
橋本左内の旧鞘堂
元は回向院の境内にあったもので、2006年(平成18)境内整備の際に荒川区へ寄贈されることになり、2009年(平成21)復元、保存されました。
芭蕉・曽良と写真を撮ろう!
千住大橋を渡る芭蕉と曽良を3Dアート作品として描かれています。
日光街道へ戻り、千住大橋へ向かって歩いていきますが、橋の一つ手前の路地を左へ入っていくと
熊野神社がありますが、門があり入ることはできません。
熊野神社
1050年(永承5)源義家の勧請により創建したと伝わります。
徳川家康が江戸へ入り、荒川(現隅田川)に初めて架けた橋が「大橋」です。奉行伊奈備前守が普請しますが、架橋工事は困難を極め、熊野神社へ祈願したところ工事は順調に進み完成しました。1594年(文禄3)完成の際、残材で社殿の修理を行い、以後、橋の架替ごとの祈願と社殿修理が慣例となりました。
中に入れないので、逆光の写真しか撮れないです・・・
千住の河岸
江戸時代、千住大橋のたもとの
河岸には秩父から荒川の水運を利用して運ばれてきました。材木を取り扱う家が並んでいました。材木問屋は熊野神社門前に多く、江戸への物資集散の拠点となっていました。熊野神社には材木商が寄進した1845年(弘化2)の手水鉢や常夜灯が残っています。
八紘一宇碑・千住大橋の碑
荒川(現隅田川)のこのあたりは古くは浅瀬で、渡良川、あるいは渡裸川と称された渡し場でした。千住大橋は現在地よりも200mほど上流に架かっていましたが、1784年(天明4)現在地へ移されました。
「八紘一宇」とは天地四方八方の果てにいたるまで、地球上に生存する全ての民族が、一軒の家に住むように仲良く暮らすこと、世界平和の理想を掲げた勅語です。
千住大橋 (大橋板橋)
現在の鋼橋は1927年(昭和2)日本を代表する橋梁技術者、増田淳の設計により架け替えられました。ブレースドリブ、タイアーチ橋で現存する最古のものです。
江戸名所図会「千住川」
千住大橋を渡ると左手に
「奥の細道 矢立初めの地」と名付けられたポケットパークがあります。公園奥から階段を使うと、隅田川沿いの歩道に下りられ、
「御上がり場」があります。
奥の細道 矢立初めの地
「千住と云所にて船をあがれば 前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幼のちまたに離別の泪をそゝく 行春や鳥啼魚の目に泪 是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見送なるべし」と刻まれています。1974年(昭和49)建立。
千住大橋際御上がり場
将軍家、日光門主などの人々が利用していました。将軍家が千住近郊の鷹場(小塚原・花又村・竹の塚・草加村など)や小菅御殿への通行などには舟が利用されていました。
ポケットパークの北側の道を西へ入っていくと正面に
「橋戸神社」があります。
橋戸神社
昔、この地の半農半漁の開拓民が稲荷の神を勧請し、1490年(延徳2)の創建とされます。もとは千住河原の景勝地に本殿のみが建立されていたと伝わります。
伊豆長八の鏝絵
拝殿の前扉に鏝絵の名工として名高かった伊豆長八の創作で見事な雄雌の白狐が浮き彫りされており、1863年(文久3) の作品です。伊豆長八の数少ない貴重な遺作です。伊豆長八は1889年(明治22)に75歳で没しました。
16:30 だいぶ遅くなってしまいましたので、本日はここまでとして、京成本線、千住大橋駅から帰宅します。
寄り道が多くてなかなか進みません。でも見たいところが多いのですよね。
2024年3月16日
9:30 本日は京成本線、千住大橋駅からスタートです。千住大橋駅から東へ150mほどで日光街道へでます。国道4号線から1本東の旧道へ入っていきます。すぐ右手に
「千住宿奥の細道プチテラス」と名付けられた小さなスペースがあります。
千住宿奥の細道プチテラス
『行く春や鳥啼き魚の目に泪』
芭蕉句碑が建立されています。
ここから千住宿へ入っていきます。
千住宿
千住町が日光街道の宿場として定められたのは1625年(寛永2)徳川家光の時です。水戸佐倉道へ分岐する初宿であり、日光東照宮への将軍参詣や諸大名の参勤交代を中継する重要な宿場でした。
京成本線のガード下を抜けて、100m左手に
「やっちゃばの地」、すぐ先に
「千住葱問屋」、
「佐可和鯉隠」と続きます。
やっちゃばの地
「やっちゃば」は青果市場のことだそうですが、東京の方言とも書かれていました。最近、イトーヨーカドーの青果売り場にも「やっちゃば」の幟を見かけました。
千住葱問屋
千住葱は白味が長く、甘い高級葱として料亭、レストランにはなくてはならないもので、生産地は越ケ谷、吉川などの専門農家が作付をしています。
佐可和鯉隠
1815年(文化12)問屋場前の諸家飛脚宿中屋の隠居六右衛門「中六」が還暦祝いに千住連の鯉隠が酒合戦を催しました。鯉隠は千住の俳人建部巣兆の門下で絵を描き、多くの文人とも親交がありました。宴席には亀田鵬斎・谷文晁・酒井抱一・市河寛斎・竹塚束子らが招かれています。
高浜虚子が千住に訪れ、青物問屋の主人で為成善太郎(号:菖蒲園)を直弟子として活躍させています。又、虚子の命名による
「やっちゃ場句会」も開かれていました。
75mほどで大通りへでて、道路を渡ると左手に「源長寺」、源長寺の横の歩道に「掃部堤石碑」があります。
掃部堤石碑
1616年(元和2) 石出掃部亮吉胤は鷹狩に訪れた徳川家康にこの地に延長2kmの荒川水除堤(掃部堤)を築くことを願い出たとされます。
掃部宿
千住宿が指定されたのちの1658年(万治元)、千住の堤外川原にある日光道中沿いに家並みができ、千住宿に加宿されました。名の由来は1598年(慶長3)村を拓き、1616年(元和2) 掃部堤を築造した
石出掃部亮吉胤に因みます。掃部宿は、有力商人が集まり繁栄した町でした。俳諧文化、江戸絵画、漢字、医学などの良質な文化を生み出しています。
源長寺
1598年(慶長3)この地に住み、開拓を行った
石出掃部亮吉胤により1610年(慶長15)一族の菩提寺として開かれました。千住大橋架橋等に尽くした郡代伊奈備前守忠次を慕い、その法名に因んでいます。
多坂梅里追悼碑
信濃上田候の譜代家臣でしたが、享保年中に千住宿に寓居し医者をしながら寺子屋を開いていました。1789年(天明元)没。
三遊亭円朝寄進の石燈籠と大山阿降里行者心静法尼墓
石出掃部亮吉胤の墓
吉胤は千葉氏一族で、遠江国石出の出身とされています。のちに下総国千葉を経て1598年(慶長3)には掃部宿へ移住して開拓にあたったとされます。現在の墓石は後年、子孫が建立したものです。
一啓斎路川句碑?
境内を探してみましたが、他に句碑なるものがなく・・・これなのかな?関屋天満宮の一啓斎路川の句に似ているような・・でも全く読めません。
源長寺前交差点から日光街道を離れて、東へ向かいます。千住仲町公園を過ぎて次の路地を左へ入っていくと右手に
「氷川神社」があり、氷川神社の境内に
「関屋天満宮」があります。
氷川神社
社殿によれば1616年(元和2)遷座と伝えられています。
関屋天満宮と関屋天満宮碑
949年(天暦3)の鎮座で、御神体は菅原道真の自作、百体彫刻内の一体であると伝わり、元関屋の古墳上に祀られていました。はじめは
関屋天神といい、また塚の周囲の葦がみな片葉であったために
「片葉の天神」とも言われていました。
関屋天満宮碑は、1807年(文化4)建立、裏面に
一啓斎路川の門人が建立し、路川書の和歌が刻まれています。両側面には月ごとの梅の姿を詠んだ漢詩も刻まれていますが、作者は不明です。
関屋の里
源義朝が奥州平定後の防御の地として千住に関所を設けたことにより
「関屋」の地名が起きたといわれています。この地は昔、名主庄左エ門の所有地で水田や茅野が広がっていました。関屋天満宮は、度々の出水により1787年(天明7)現在地へ遷座されました。
氷川神社から千住仲町公園の中を通って、日光街道へ戻ります。100mほど進むと左手に
「内田銀蔵博士生家」と書かれた案内板がありました。
内田銀蔵博士生家
1872年(明治5)この地の川魚問屋の老舗「鮒与」の長男として生まれました。幼少の頃から学問好きで、生家を継ぐことなく学問の道に進みました。東京大学の講師となり、我が国最初の日本経済史を講義、29歳で文学博士、翌年にはヨーロッパへ渡り3年半に渡り歴史学、経済学を学び「日本近世史」を著しました。1918年(大正7)欧米各国に出張し、翌年帰国しましたが、間もなく発病し47歳の若さで没しています。現在も「鮒与」が残っています。
150m進むと大通りへ出て、右手に
「千住一里塚跡」、左手に
「千住高札場跡」の石碑があります。道路を渡った先の銀行前には松尾芭蕉の木像が飾ってありました。そのすぐ先の公園前に
「千住宿問屋場跡 貫目改所」があります。
千住一里塚跡・千住高札場跡
千住宿問屋場跡 貫目改所
問屋は1695年(元禄8)に設けられ、人馬の手配をしていました。また、1743年(寛保3)には貫目改所が設けられ、荷物の重量検査のための秤が設けられました。
公園横の道を左手へ入り、突き当りに
「慈眼寺」があり、慈眼寺の中に
「千住町消防組・南北消防組記念碑」があります。
慈眼寺
自伝によれば1314年(正和3)行覚上人が関東巡錫の折に創建、3代将軍、徳川家光の時、弘法大師作の聖観音菩薩像を安置し本尊とし、江戸城北方の祈願所として葵紋の使用を許されたとされます。
1847年(弘化4)東叡山寛永寺の山主(上野の宮様)慈性入道法親王が日光社参の際、宿場本陣に支障があり、当寺が本陣を務めました。以来、六度寛永寺山主の休憩所となりました。
千住町消防組・南北消防組記念碑(戒坊更番所跡)
1719年(享保4)町奉行、大岡越前守忠相の肝煎りで、江戸町火消が生まれ、自治的な「いろは四十八組」が鳶の者によって組織されたのを始めとします。1895年(明治28)からは千住町消防組として活躍、記念碑は1923年(大正12)に建てられ、殉職者を慰霊・顕彰しています。
慈眼寺から日光街道へ戻る際、左手に
「不動院」があります。
不動院
1332年(元弘2)秀天上人の開山とされます。もと吉祥院の末寺で白幡八幡社の別当と伝えられています。
無縁塔(台座に大塚屋・楼閣の名)
千住宿の旅籠屋や楼閣によって1860年(万延元)建立されました。台座に大塚屋や楼閣の名があり、飯盛女を供養したものです。
六字名号碑(右側に芸州)
右側面に「芸州」と大きく刻まれています。明治維新の際に千住口から戊辰戦争に従軍した芸州藩の軍人、従属者のうち、千住近在から参加した者の戦死者を供養したものです。
包丁塚
川魚料理人達が、魚類の冥福を祈るために建立したものです。川魚問屋があった千住宿らしい塚です。
不動院をでて、日光街道方向へ進み1つ目の角を左へ曲がると日の前に「千住町役場跡」と彫られた石碑があります。
千住町役場跡石碑
1996年(平成8)中央本町に新庁舎が建設されたため、千住町役場の役目が終わりました。
日光街道へ戻ります。180mほど進み、右へ曲がり大きなビルの前が
「森鴎外旧居・橘井堂森医院跡」です。
千住宿
江戸時代には戸数2370戸、人口9956人、本陣・脇本陣、各1軒、旅籠55軒でした。
「新編武蔵風土記稿」によると『左右に旅亭商家軒を並べ、旅人絶えることなくもっとも賑へり 享保の頃より毎朝市をたて五穀野菜、あるいは川魚などをひさぐ』とあります。
森鴎外旧居・橘井堂森医院跡
1879年(明治12)森鴎外(林太郎)の医者であった父は南足立郡医となり、千住に転居し後に「橘井堂(きっせいどう)医院」を開業しました。この頃大学生であった鴎外は下宿していましたが、大学を卒業した1881年(明治14)千住へ住み、医師として父とともに従事しました。「鴎外」という号は隅田川の白髭橋付近にあった「鴎の渡しの外」という意味で、林太郎が住んでいた千住を意味しているそうです。
日光街道へ戻り、60mほど進み右手へ入っていきます。突き当りに
「金蔵寺」があります。
金蔵寺へ入って左手にあるのが
「飯盛女供養塔」、右隣が
「天保飢饉無縁塔」です。
飯盛女供養塔、 天保飢饉無縁塔
飯盛女供養塔は、千住宿の遊女の供養塔で、亡くなった遊女の戒名が刻まれています。往時は55軒の旅籠があり、そのうち飯盛女をおく宿は36軒ありました。
天保飢饉無縁塔は、1837年(天保8)に起こった大飢饉の餓死者の供養塔で、千住二丁目の名主、永野長右衛門が世話人となり、1840年(天保11)に建立したものです。碑文によれば「・・・・飢えて下民に食なし・・・この地に死せる者828人、370人を金蔵寺に葬り・・・消えゆく露のやどりに、あだし名の何忘草何忘草」と結んでいます。
金蔵寺は1335年(建武2)の創建です。
一旦、日光街道へ戻り今度は左手へ入っていき、突き当りに
「勝専寺」があります。
勝専寺
「赤門寺」という通称で親しまれ、寺伝では1260年(文応元)八王子の戦で討死した甘粕太郎忠綱の三男で、父の菩提を弔うために出家した勝蓮社専阿上人により開山、新井政勝を開基として創建しました。はじめは常行院と称しました。
徳川家の鷹狩のための
御膳所が造営され、秀忠、家光、家綱らの利用がありましたが、1680年(延宝8)に取り壊されました。
時の鐘
開基の新井政勝の父は源頼朝の家人でしたが、1201年(建仁2)所領を捨て、千住に蟄居していましたが、この時隅田川より千手観音をすくいあげ、勝専寺に納めました。これが「千住」の地名の起こりとも伝わります。
勝専寺をあとに日光街道へ戻ります。140mほどで大きな通りを越えて左手が
「千住宿秋葉市郎兵衛本陣跡」となります。
千住宿秋葉市郎兵衛本陣跡
案内板の北側一体が本陣でした。また、この路地には「千住見番跡」がありました。千住宿には遊女を置いている旅籠が50軒ありましたが、明治に禁止されると千住芸子組合が成立し、その見番がこのあたりに置かれ、路地は「見番横丁」と呼ばれていました。
右手の路地へ入った場所に
「中田屋」がありました。1876年(明治9)明治天皇東北巡幸のさい、皇后陛下一行と送別の宴が千住最大の旅籠であった中田屋の別館で行われました。現在は何も残っておりません。
本陣から170mほどの路地を左へ入っていき、突き当りが
「千住本氷川神社」です。
千住本氷川神社
1307年(徳治2)千葉氏により牛田に
西光院と共に
氷川神社として創建されました。江戸時代初期、現在地に地主が土地を奉納し分社が建てられました。1910年(明治43)には荒川放水路建設のため牛田氷川神社が合祀され、さらに1970年(昭和45)に社殿を新築したため、旧社殿は末社として保存されています。
ラジオ体操発祥之地
1952年(昭和27)足立区内で初めてラジオ体操が行われたのが千住本氷川神社でした。碑は1985年(昭和60)に建てられました。
千住本氷川神社から日光街道へ戻り、90mほどの千住ほんちょう公園に
「高札場跡」があります。
高札場跡
高札場跡が千住ほんちょう公園の入口になっています。
さらに宿場内を120mほど進み、横山家住宅手前を右へ入っていきます。突き当りに
「長円寺」があります。長円寺入口左手に
「めやみ地蔵堂」があります。
長円寺
1744年(延享元)の縁起によると、1627年(寛永4)に出羽湯殿山の行者、雲海がここに庵を結ぶとあり、後に賢俊が開山したとされます。境内に乳泉石という石があり、これを削って乳房にあてると乳がでると信じられ、往時は参詣者で賑わっていたといいます。
めやみ地蔵堂
堂の両側には、千住絵馬が納められています。吉田屋の絵馬が奉納されていると聞きます。
日光街道へ戻ると
「紙問屋松屋・横山家住宅」、向かいに
「千住絵馬屋・吉田家」があります。そのすぐ先に槍かけだんごで有名な
「かどや」があります。
紙問屋松屋・横山家住宅
横山家は江戸時代から続く富裕な商家で、伝馬を担当していました。屋号は「松屋」で、今で言う再生紙を取り扱う地漉紙問屋でした。現在の母屋は江戸時代後期ので、1936年(昭和11)には改修が行われています。土間に掲げられた「地漉紙問屋」の木看板は山岡鉄舟の筆だとされます。
往時は外蔵2棟、内藏、紙藏、米藏の5つの藏がありました。現在残るのは外藏1棟のみです。
千住絵馬屋・吉田家
江戸中期より代々絵馬をはじめ、地口行灯や凧などを描いてきた際物問屋で、代々「東斎」と名乗っています。
千住絵馬は経木絵馬ともいい、経木に胡粉を塗りその上に泥絵具で図柄を画いたものが特徴だそうです。
地口とは江戸時代に流行したダジャレの一種で、ことわざや芝居の台詞、格言等を似た音に置き換えたものです。
かどや
水戸光圀が水戸から江戸への道中で、近くの清亮寺の木に槍を立て掛けて休憩したことから「槍かけだんご」と呼ばれるようになったようです。「かどや」は1948年(昭和23)創業で、趣のあった古い建物は残念ながら取り壊され、現在は新しい店舗となっています。
槍かけだんご
休憩時に食べました。柔らかくて美味しい!!何よりみたらしはちゃんと焼いてあるので、香ばしいのがいいですね〜。もっといっぱい買えばよかったな。
かどやから60mほど、右手から
「水戸佐倉道」が始まります。その追分に
「旧水戸佐倉道石標」があります。
旧水戸佐倉道石標
「水戸佐倉道」は千住より新宿(葛飾区)・松戸・小金に通じています。
12:00 このまま次の草加宿へ向かって進んでいきます。